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『罪と罰』の舞台であるストリャールヌイ横町とコクーシキン橋 |
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「ねえ、ナースチェンカ、あなたは知らないかもしれないけれど、ペテルブルグにはかなり奇妙な一画があるんですよ。その片隅には、このペテルブルグのすべての人びとを照らすあの太陽が顔を出すことがないみたいで、そこに顔をのぞかせるものといったら、この片隅のためにわざわざ注文したみたいなまるで新しい別の何かなんですよ。それはあらゆるものをある独特な光で照らしだすんです。その片隅では、ねえナースチェンカぼくたちのまわりの生活とは似ても似つかない、まるっきり別の生活が営まれているんです。それはわが国のこのきわめて容易ならぬ時代のものではなくて、まるでどこか遠い遠い未知の国の生活みたいなんです。その生活といったら、実に純粋に幻想的で、きわめて理想主義的なものと(残念ですが、ナースチェンカ!)、あまりパッとしない散文的で月並みなもの(信じられぬほど俗悪とは言いませんが)とがまじりあったものなんですね」 |
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詩人の家というものは、彼が生きているときからすでに、文字通りの一軒の家ではなくなっている。そこで行われていることは、部分的にはもはやその詩人に属してはおらず、すでに万人の所有するものとなっているように感じられる。また、しばしば、それは一人の人間の家ではないように感じられるが、しばしばとは、詩人がもはやそのもっとも内的な魂にほかならぬものとなる度毎にという意味である。それは、赤道や極のように、地球上の観念上の諸地点と言うべきものであり、さまざまな神秘な流れが出会う場所である。しかしながら、この魂が時として活動するのは、ひとりの人間としてである。そのことで、この人間はおそらく或る程度聖化されている。彼は、このような神的存在に仕え、この存在が好む聖なる動物たちを育て、その顕現を容易にする香を撒くことにその生を捧げた一種の司祭である。彼の家は半ば教会であり半ば司祭館である。今、この人間は死に、もはや、かつて彼のなかにあった神的なものから解き放たれえたものしか残ってはいない。或る突然の変身によって、この家は、それが美術館に改修されるまえにおいてさえ、すでに美術館になっていたのだ。もはや、ベッドやかまどをどうするかという問題しか残っていないだろう。かつては時として神となりすべての人びとのために生きていた人物が、今はもはや神にほかならぬ存在となり、もはや自分自身のためではなく他の人びとのために存在している。彼のなかのいかなるものも、もはや存在していないなんらかの自我を呼び返すことは出来ないだろう。個人的な自己という柵のなかで、かつて彼は、他の人びとと同じようなひとりの人間だったわけだが、その柵は崩れ落ちた。家具など持ち去るがよい。もはや必要なのは、彼がしばしば到り着くあの内的な魂に支えられ、あらゆる人びとに語りかける絵だけなのである。
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朝、完全に寝不足だと思ったが、ここは無理しなければと思い体を起こした。ドストエフスキーの小説、デビュー作『貧しき人びと』、『分身』、『白夜』、『地下室の手記』そして『罪と罰』や『未成年』の舞台であるセンナヤ広場周縁には絶対行かなければならないという思いが強かった。
さて、まずこのページに紹介する『罪と罰』の舞台の写真とその場所の表記について、お断りしておかなければならないことがあります。
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『罪と罰』の舞台には、地下鉄を利用するとアクセスしやすく、2号線と4号線の乗換えが出来るセンナヤ・プローシャチ駅(サドーヴァヤ駅)で下車すればいい。駅から地上に出れば、そこがドストエフスキーやゴーゴリの小説の舞台であるセンナヤ広場なのだ。
また、歩いていくならネフスキー大通りから、フォンタンカ運河やグリバエードフ運河沿いをゆっくり歩いて行くのもいいし、イサク広場からヴォズネセンスキー大通りを南に約1.2km歩いてセンナヤ広場近辺に足を踏み入れるのもいい。時間と地図と通り名と方向さえどうにかなれば、ゆっくり歩いて行ってみたいものだ。 |
見出しに『罪と罰』(Преступление и Наказание)を持ってきといてなんだが、このショットには『未成年』の場面がふさわしい。
わたしはセンナヤ広場まで来ると、馬橇を捨てた。すこし歩いてみたくてたまらなくなったのである。疲労も、深い酔いも、わたしは感じなかった。ただ快い生気が全身にみなぎり、力が充ちあふれてきて、どんな障害にも立ち向ってゆこうとする異常なまでの勇気がわいてきて、無数の痛快な考えが頭の中で渦巻いていた。
ちなみにここに出てくるオブウホフスキー大通りは現モスクワ大通りのことで、↑の写真では中央の十字の街灯から奥に伸びている通りが、そのオブウホフスキー大通りである。 |
右の表示には、センナヤ広場11とある。持って行った地図には、1844年作家デビュー前のドストエフスキーが翻訳したバルザックの『ウジェニー・グランデ』が印刷された印刷所の所在地とあった。翻訳出版にあたって、ドストエフスキーはイニシャルを用いた。 |
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ふいにソーニャの言葉が思いだされた。『十字路へ行って、みなにお辞儀をして、大地に接吻なさい。あなたは大地にたいしても罪を犯したのです。それから世界じゅうに聞こえるように言いなさい、私は人殺しです! と』この言葉を思いだしたとたん、彼の全身はがたがたとふるえだした。この間からずっと、とりわけこの数時間にはげしく、彼を抑えつけてきた出口のない哀傷と不安があまりにも大きかったせいだろうか、彼はこの新しい、なんの欠けるところもなく充実した感覚の可能性に、文字どおり身をゆだねた。その感覚は、ふいに、発作のように、彼を襲った。心の底に、ひとつの火花のように燃え立つと見るまに、それは火のように燃えあがって、彼の全身をとらえた。彼の内部のいっさいが一時にやわらげられ、涙が目にあふれてきた。立っていたそのままの姿勢で、いきなり彼は大地に倒れ伏した……。
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写真の中央に工事中を示す青い仕切りが見えるが、その通りがサドーヴァヤ通り。 | |
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七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮どき、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした。
そこで、おれは洋傘をひろげて、二人の婦人のあとをつけてゆくことにした。二人はゴロホワヤ通りをぬけ、メシチャンスカヤ通りへまがり、そこからストリャルナヤへでて、コクーシキン橋へむかったところで一軒の大きな家の前で立ちどまった。「この家なら知っているぞ」と、おれは口のなかでつぶやいた。
この辺りは本当にサンクト・ペテルブルグの裏町という感じで、今はどうか分からないが、19世紀には酒場が多く、売春婦らも多くたむろしていたという。 |
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ラスコーリニコフはすぐその足で、ソーニャが住んでいる掘割沿いの家に向かった。緑色の壁をした、三階建ての、古い建物である。
…… それは、広くはあったが、おそろしく天井の低い部屋だった。(〜略〜)ソーニャの部屋は、どことなく物置じみて、ひどくいびつな方形をしていたが、そのせいか、なにか片輪な印象を与えた。窓の三つある、掘割に面した壁が部屋をななめに区切っている感じで、一方の隅は極端に鋭角になり、とぼしい明りでははっきりと見定められぬくらい、ひどく奥まった感じだったが、もう一方の隅は、ぎゃくにぶざまなほど間のびしていた。
建物の壁は緑色ではなかったものの、その形や外貌からしてまさにソーニャの家という感じだ。
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ドストエフスキーにとっては転機になった(尤も賭博狂になり借金にあえいでいた頃でもあったが)時期に、住居を何度か変えた通りである。作家が居たころはマーラヤ・メンチャンスカヤ通りという名前だった。
通り奥に見える緑の木の左の茶色の建物が、1861年11月〜1863年8月までドストエフスキーが住んだとされる家。 中央の黄色い建物もドストエフスキーが住んだ家(現カズナチェイスカヤ通り七番地)で、1864年8月〜1867年1月まで賃借で住んだ。当時の番地でいえば、メーラヤ・メシチャンスカヤ通りとストリャルヌイ横町の角、七−十四番地。作家の兄ミハイルが亡くなったあとに入居した建物でもあれば、1866年2月13日に弟アンドレイの妻に送った手紙に、『罪と罰』と同じ住所を書いている建物でもある。だから一応この建物も「ラスコーリニコフの家」といってもいいのかもしれない。 左方に映っているピンクの建物は、1864年4月にドストエフスキーが住んだ家。↓も同じ建物の写真。 |
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この建物は、作家の最初の妻マリヤ・ドミートリエヴナがモスクワで亡くなった後に、ペテルブルグにやって来て住んだ建物である。メシチャンスカヤ通りとストリャルヌイ横町の角(現カズナチェイスカヤ通り九番地)。
ドストエフスキーが住んだ家の所在地は、ドストエフスカヤの晩年の家(ドストエフスキー記念博物館)も含めて、ものの見事に通りや十字路の角に立つ建物ばかりである。作家は好んで通りの角の建物に住んだことが改めて分かった。 |
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