せっかく撮ったが誰だか分からない…
エルミタージュ美術館の事実上の創設者はエカテリーナ2世(エカテリーナ大帝とも。ドイツ名ゾフィー・アウグスタ・フリデリーケ、1729.5.2−1796.11.6)である。ロマノフ王朝絶頂期に君臨したロシアで最も有名で、ピョートル大帝とともに最も後世の評価が分かれる女帝である。
現在のエルミタージュ美術館は、もとはといえば皇帝一家のための政治の中枢と官邸を兼ねている宮殿だった。宮殿は「冬の宮殿(冬宮)」と呼ばれる豪華絢爛、贅をつくして建てられたものが最初で、冬宮はスモールヌィ修道院を建てさせたエリザヴェータ女帝の命令で建設された。
このドアから入るすべての者の守るべき規則。
これをどう読むか? 立派な啓蒙思想を礎にした規則があるエルミタージュではあるが、そのエルミタージュの本来の意図だけは反映するように、博物館に皇帝の親しい人物しか入れなかった事実だけは変らない。ヴォルテールやディドロとも親交が厚く、ジャン・ジャック・ルソーの書物も読み、フランスの啓蒙思想に明るかった読書家エカテリーナ2世に対する後世の評価が分かれるところである。(ロシア固有の風土と、エカテリーナ2世の理想とは根本的なところで相容れないという見方から、議論にならんという意見も聞こえてきそうだが……)
美術館に対するありがちな浅見を書いてみたが、館内ではいろいろたのしめたと思う。(私のカメラで撮った館内の画像は、光の加減でボンヤリとしか写っていないものが多いことをご了承くださいませ。)
さて、見学した館内ことについて書こう。
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有名なエルミタージュ所蔵の絵画を紹介した、すぐれた画集は日本でも見ることはできる。しかし秘匿の絵画に関しては、画集はあるにしろ気軽に予習することは、なかなか難しいと思う。だから、たしかに色使いや人物の表情が印象に残った作品でも、どこかポッカリ穴が空いたようなものに異質なものを詰め込んだ感じになって、私は、はっきりいって、どうにもならない歴史のしがらみについて毒づきたくなってしまった。
私達の歴史の相は、ひたすら彼等の歩調の尺度にかかっている。そして、狂気にでも追いたてられたように歴史の幅を踏みこえてしまった彼等の足取りに、いまなお私達の一切がかかっている。そうです。いまなお、一切の精神史がそこにかかっているのです!
才能さえあれば、作品を見た印象からすばらしい文体でもって作品のことを書きたいものであるが、はっきりいってそんなことは凡人には無理である。となれば、一般のほとんどの観光客には、ただ珍しいコレクションを観た≠ニいう感懐しか残らないのではないか。帰国後、私は画集を図書館から借りて見てみたが、作品から罪悪といったようなものが醸し出ているようで、どうもスッキリしない。
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クレブスのコレクションの後はパビリオンの間に向かった。上の写真に写っているのがパビリオンの間である。
パビリオンの間は、上にふれた増築された建物の一つである小エルミタージュ(1769年完成)と呼ばれる建物にある。(エルミタージュ美術館を構成する建物については、『エルミタージュ美術館』(日本放送出版協会,1989)や、『エルミタージュ 波乱と変動の歴史』(勉誠出版)p244〜245などに外観図とともに載っているので、そちらを参照されたい) |
ダルキースとレディ・アンナ・カーク』(1632年以降) |
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レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインの作品が展示されている部屋は常に混雑している。写真に撮ったのは左の『聖家族』(1645)と下の二枚、右の『老女の肖像』(1654)は前回の旅行時に撮影したものである。
名画といわれる作品は世界中の美術館や個人に散り散りに蔵められている場合が少なくないが、レンブラントの絵画もその例に漏れないのではないかと思う。(クリスティアン・テュンペル著『レンブラント』(中央公論社,1994)の図版など参照) エルミタージュ美術館のレンブラント作品は、『ダナエ』、『学者の肖像』(1631)、『アブラハムとイサク』(1634/35)、『葡萄作りのたとえ』(1637)、『バールティエン・マルテンス・ドーメル』(1640頃)、『ダヴィデとヨナタン』(1642)、『赤い服を着た老人』(1654/54)、『イェレミアス・デ・デッケル』(1666)、『放蕩息子の帰宅』(1668/69頃)などが展示されていて、所蔵作品は多いほうではないだろうか。 列挙した作品の中で私の心を打ったのは、『放蕩息子の帰宅』だった。たしかに世界的に有名な絵画であるが、絵の中で父親と弟をどこか虚ろ気に見つめているように思える兄の視線を、実際どのように捉えていいものか。例え話のなかのどの瞬間なのか厳密には分からないが、兄のそれは父と弟に対する愛情の視線ではなく、気持ちここにあらずのような瞬間を捉えていて、生真面目に財を成した者であれ、肉親の愛情を勝ち得ない場合があるといった、一種の諦観を見事に描き出した気がしている。この後に父は感極まりつつ、たしなめるように兄に向かって「子よ、お前ならいつも私と共にいるではないか。だから、私のもの一切は、お前のものだ。しかし、今は祝宴をあげ、喜ばずにはおれないではないか、このお前の弟は死んでいたのに生き返った、失われていたのに、見つかったのだよ」(ルカによる福音書,第15章)と、言うのだろうか…。 右の『老女の肖像』はモスクワのトレチャコフ美術館にレーピンの筆による摸写があって、トレチャコフ美術館のレーピンの間にいたとき、どうしてレンブラントがレーピンの間にあるのか、一瞬戸惑ったような不思議な感覚に陥ったものだ。レーピンの描く肖像画は、レンブラントに学ぶところがあったし、事実現在でもロシアのレンブラントといわれるのは納得がいく。 |
左は『フローラに扮したサスキア』(1634)、右は『口髭のある若い男』(1634)、ともにレンブラントの筆による作品である。
日本で開催されていたレンブラント展にも可能な限り足を運んでいるぐらい、私はレンブラントの絵が好きだ。 中でも『フローラに扮したサスキア』はとても気に入っている。 フローラとは古代ローマにおける花の女神で、同時に若さや享楽や女性の妊娠をも司っていたことから、『サスキア』はレンブラントの作品の中でも最も幸福感に満ち溢れている絵のように思うからかもしれない。レンブラントは最初の妻サスキアと過ごしている頃が、何事においても絶頂期だったのかもと思う。 レンブラントの画法などの細かいことについては、私にはとても書けない。でも本当にレンブラントの絵は観るたびに驚愕する。どうしてこんな絵が描けるのだろうと。 |
左はピエール=ナルシス・ゲラン『イリスとモルフェウス』(1811)、右はアントワーヌ=ジャン・グロ『アルコレ橋上のボナパルト』(1796)である。写真自体にピントが合わなかったので、小さい画像にしてしまっているが、本当は大きい絵画である。
ロシアにもフランス絵画を愛好した人物がいて、ゲランの絵はユスーポフ公という人がコレクションに加えた。ちなみにユスーポフ公は、有名なナポレオンのお抱え画家ダヴィッドにも注文を出し、『サッフォーとファオン』という少しゾッとする?ような絵もコレクションに加えた。その『サッフォーとファオン』もエルミタージュに展示されている。 『アルコレ橋上のボナパルト』はエルミタージュにもあるが、フランスのヴェルサイユ宮美術館にもある。 |
クロード・ロラン(クロード・ジュレ)の『アポロンとクマエの巫女のいるバイアの港』(1646)も、私のお気に入り作品である(画像は前回の旅行の分)。ドストエフスキーはロランの『アキスとガラテア』に黄金時代の夢を見出しているが、私はこの『アポロンとクマエの巫女のいるバイアの港』にもいえているのではないかなどと思ったりしている。ドストエフスキーも黄金時代に郷愁を感じていたが、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスも同じようなことを夢想している。
「その昔の、あの幸せな時代、あれらの幸福な世紀に、古人が黄金時代という名をつけたのは、なにもあの時代に、われわれのこの鉄の時代において高い評価を得ている黄金が労せずして手に入ったからというわけではない。そうではなくて、あの時代に生きていた人びとが《君のもの》、《わたしのもの》という二つの言葉を知らなかったからなのじゃ。あの聖なる時代にあっては、あらゆるものが共有でき、日々の糧を得るにしても、枝もたわわな大樹に手を伸ばし、それがふんだんに提供してくれる甘く熟した果実をもぎ取るだけでよかった。清らかな泉と川のせせらぎが、澄んだおいしい飲料水を人びとに、ありあまるほどたっぷりと与えていた。岩の割れ目や木々の虚穴(うろあな)では、かいがいしくて賢い蜜蜂たちが自分たちの共同体を造営し、その心楽しい労働の濃密な成果を、なんら代償を要求することなく、あらゆる人々の手に差し出していた。さらに巨大なコルク樫は、持ち前の好意を見せつける以外にはなんらの意図もなく、幅広のしなやかで軽い樹皮をみずから脱ぎすて、人びとがそれでもって、むき出しの棒杭(ぼうぐい)によって支えられた家の屋根をふくための用に供したが、その家とてただただ雨露をしのぐばかりのものであったのだ。このように、当時はすべてが平和であり、すべてが友愛と調和からなっていた。……」
ドストエフスキーやセルバンテスの影響があるのは否めないが、クロード・ロランの絵を観ると、後世の人間が勝手に覚える有史以前の人間世界への夢想のような、どこか永久に過ぎ去ってしまったものを懐かしむような気分になるのである。
バイアは、ナポリ湾に面したローマの帝国の保養地で、だれよりも長寿な巫女の故郷であるクマエの港と信じられていたために、有名であった。クロードは、主題をオウィディウスから取っている。それによれば、アポロンはクマエの娘に恋をして、彼女の贈り物を約束する。娘は一握りの砂を示して、その砂の数ほど多くの年月の間生きられる命を要求するが、それとともに永遠の若さを求めるのを忘れてしまったのである。奇妙なことに、このフランス人の画家は、寄せ集めの古代の廃墟を書き加えている。それは物語の理屈には反するが、画家が生んだ光輝く架空の世界で、預言が確実に実現されることを示している。 また谷川渥著『廃墟の美学』(集英社新書)では、
付帯的とはいえ、しかし廃墟は決定的な役割を演じる。なぜなら、廃墟の表象は、それを眺める者の意識を古代へと、過去へと、あの古代的理想郷としてのアルカディアへと差し向けるからである。それを、廃墟の喚起力といってもいいし、指向性といってもいい。モンス・デジデリオの作品が、いかなる意味においても過去への指向性をもたなかったのと、それは対照的である。そしてモンス・デジデリオの絵画が、動態としての廃墟画の典型であるならば、クロード・ロランの絵画は静態としての廃墟画の典型である。クロード・ロランの作品は、過去の、理想的古代のアウラを身にまとおうとする。
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