Государственный Эрмитаж

エカテリーナ2世なのか??
せっかく撮ったが誰だか分からない…

 エルミタージュ美術館の事実上の創設者はエカテリーナ2世(エカテリーナ大帝とも。ドイツ名ゾフィー・アウグスタ・フリデリーケ、1729.5.2−1796.11.6)である。ロマノフ王朝絶頂期に君臨したロシアで最も有名で、ピョートル大帝とともに最も後世の評価が分かれる女帝である。

 現在のエルミタージュ美術館は、もとはといえば皇帝一家のための政治の中枢と官邸を兼ねている宮殿だった。宮殿は「冬の宮殿(冬宮)」と呼ばれる豪華絢爛、贅をつくして建てられたものが最初で、冬宮はスモールヌィ修道院を建てさせたエリザヴェータ女帝の命令で建設された。
 では、エルミタージュ美術館のエルミタージュ≠ニは何なのか? その答えはヨーロッパに端を発するエルミタージュ≠フ伝統に求めることができる。
 ルネサンス期のイタリアの君主たちは引き込んだ離宮のような場での祈りにより、神への敬虔さを示そうとしていて、その場は自分の心を休める憩いの場でもあったそうである。そういった離宮はスペインに引き継がれ、17世紀後半、それがフランスに移ると離宮は単に公的儀式から逃れる場(趣味)に変わっていった。
 そんなフランスの君主の趣味を見て感動したピョートル大帝は、その趣味をロシアに持ち込んだ。大帝は隠遁の場を、公的儀式から逃れるだけでなく家族や親しい仲間らと楽しむための趣向を凝らした場(それをエルミタージュという)を愛するようになった。大帝が没したあと、冬宮を建てたエリザヴェータ女帝も、エカテリーナ2世もこのエルミタージュ趣味を好み、特にエカテリーナ2世は冬宮につながるエルミタージュ≠フ建物を増築させて、親しい人間と楽しむ場をつくりだした。それがエルミタージュ美術館のはしりである。
 エカテリーナ2世はヨーロッパのみならず、世界各地の芸術作品や貴金属、フランスの啓蒙思想書を集めだした。絵画に対する審美眼を担った一人に、青銅の騎士像を制作したファルコネの存在があったりし、ファルコネはディドロと相談したりして、購入するコレクションを女帝に勧めたりしている。またディドロも女帝の美術コレクションの購入の実質的な助言者として、直接的に関わった。
 1790年の時点で、エカテリーナ2世は「絵画のほか、わたしのエルミタージュ博物館には、四室に充満する三八、〇〇〇点の図書と版画、二室の大画廊にあふれる一〇、〇〇〇点の装飾宝石および、一〇、〇〇〇点の素描や博物資料がある」と書いている。それらを展示したり身内らと楽しんだりするエルミタージュ≠フ建物はどんどん増築された。さらにエカテリーナ2世は戯曲にも関心を抱き劇場まで建てたりして、最初に冬宮につなぐ形で建てられた趣向を凝らしたエルミタージュ≠フ建物はどんどん拡張してゆく。建物の拡張は女帝の死後も続けられた。
 エルミタージュはフランス語で隠れ家≠意味するらしく、エカテリーナ2世はその入口に以下のような注意書きを貼っていた。

 このドアから入るすべての者の守るべき規則。
一.身分肩書は、刀剣ならびに帽子とともにドアの外側に置いてくること。
二.野心もドアの外で放棄すること。
三.快活はよいが、いずれの器物も破壊、破損し、あるいはこれに齧りつかないこと。
四.良識により立ち居振舞うべし。
五.他人が頭痛を起こすほどの高声でしゃべらないように。
六.腹立ちまぎれ、あるいは血気にはやった議論は避けること。
七.ためいきやあくびは御法度。
八.他人の提案する楽しみを妨害しないこと。
九.食べるのは好きなだけ、ただ、飲むのは適度に、助けを借りて退出するべからず。
十.公衆のなかで洗濯はしないこと、私的な商売は戸外に出てからすること。
 上記に違反する者は、男・女にかかわりなく、二名の証人の前で冷たい水をコップ一杯飲み、『テレマヒーダ』の一頁を声に出して読むべし。一晩に三つの規則に違反した者は、『テレマヒーダ』の六行を暗唱すること。第十の規則に反した者は、今後の出入りを禁ずる。
  *「テレマヒーダ」はフェヌロン著『テレマックの冒険』

 これをどう読むか? 立派な啓蒙思想を礎にした規則があるエルミタージュではあるが、そのエルミタージュの本来の意図だけは反映するように、博物館に皇帝の親しい人物しか入れなかった事実だけは変らない。ヴォルテールやディドロとも親交が厚く、ジャン・ジャック・ルソーの書物も読み、フランスの啓蒙思想に明るかった読書家エカテリーナ2世に対する後世の評価が分かれるところである。(ロシア固有の風土と、エカテリーナ2世の理想とは根本的なところで相容れないという見方から、議論にならんという意見も聞こえてきそうだが……)
 時代を経て、冬宮を含む建物はエルミタージュ美術館(博物館)となり、今や一般人も入ることができるが、今でも美術館はペテルブルグの建都や始皇帝の墓や阿房宮の性質をもっていて、訪れる人間を圧倒しつづけるのは事実である。

 美術館に対するありがちな浅見を書いてみたが、館内ではいろいろたのしめたと思う。(私のカメラで撮った館内の画像は、光の加減でボンヤリとしか写っていないものが多いことをご了承くださいませ。)

 さて、見学した館内ことについて書こう。
 ヨルダンの階段のあとに向かったのは、元帥の間とか、『ドン・キホーテ(前篇)』でサンチョがケット(毛布)上げを食らっている場面を細かく描いてあった巨大カーペットが展示してある廊下だった。まさかエルミタージュで『ドン・キホーテ』の名場面の一つを目にするとは思いもしなかったので、ここだけは小説について思いを馳せることができた。
 次に向かったのは、実業家オットー・クレブス、ベルンハルト・ケーラー、ゲルステンベルク/シャリフのコレクションの部屋で、旧ソ連軍が第二次大戦中にベルリンから運び込み、最近まで陰徳していたいわく付きコレクションである。このコレクションは政治的な理由と、絵画自体の作者と年代の特定に時間がかかり、公開されたのは1995年と最近のことなのだ。事情が事情なので74点の秘匿コレクションを載せた画集は、はっきりいって高価だし、現地を訪れても撮影は禁止というのは残念な限りだ。よって、私は画家の名前とわかり易いタイトル3点ぐらいしかメモするぐらいしかできなかった。ルノワール『若い女の帽子』『庭にて』、セザンヌ『Jas de Bouffan,the pool』『サント=ヴィクトワール山』、ピサロ、マネ、モネ、ドガ、ゴッホといった具合である。

パビリオンの間
 有名なエルミタージュ所蔵の絵画を紹介した、すぐれた画集は日本でも見ることはできる。しかし秘匿の絵画に関しては、画集はあるにしろ気軽に予習することは、なかなか難しいと思う。だから、たしかに色使いや人物の表情が印象に残った作品でも、どこかポッカリ穴が空いたようなものに異質なものを詰め込んだ感じになって、私は、はっきりいって、どうにもならない歴史のしがらみについて毒づきたくなってしまった。

私達の歴史の相は、ひたすら彼等の歩調の尺度にかかっている。そして、狂気にでも追いたてられたように歴史の幅を踏みこえてしまった彼等の足取りに、いまなお私達の一切がかかっている。そうです。いまなお、一切の精神史がそこにかかっているのです!

『死霊』第3章

 才能さえあれば、作品を見た印象からすばらしい文体でもって作品のことを書きたいものであるが、はっきりいってそんなことは凡人には無理である。となれば、一般のほとんどの観光客には、ただ珍しいコレクションを観た≠ニいう感懐しか残らないのではないか。帰国後、私は画集を図書館から借りて見てみたが、作品から罪悪といったようなものが醸し出ているようで、どうもスッキリしない。
 ちなみにエルミタージュ所蔵の第二次大戦の問題にひっかかる未だ公開されていない美術品・工芸品は膨大なものがあり、その作品のなかのごく一部が、74点のコレクションなのだ。

 クレブスのコレクションの後はパビリオンの間に向かった。上の写真に写っているのがパビリオンの間である。
 パビリオンの間は、上にふれた増築された建物の一つである小エルミタージュ(1769年完成)と呼ばれる建物にある。(エルミタージュ美術館を構成する建物については、『エルミタージュ美術館』(日本放送出版協会,1989)や、『エルミタージュ 波乱と変動の歴史』(勉誠出版)p244〜245などに外観図とともに載っているので、そちらを参照されたい)
ベルナルディーノ・ルイーニ『聖カタリナ』(1527/31)
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 館内の絵画は大まかに時代と国別に部屋を隔てられて展示されている。大抵の旅行ガイドブックに館内図は載っているが、私は館内図を忘れてきてしまった。
 とはいってもガイドさんについていけば何とかなるもので、ロシア皇帝が集めたイタリア絵画、オランダ絵画、フランス絵画、スペイン絵画の有名どころは観ることはできる。フラ・アンジェリコ『聖ドミニクスと聖トマス・アクィナスを伴う聖母子』『聖母子と天使』、フラ・フィリッポ・リッピ『聖アウグスティヌスの幻視』、フィリッピーノ・リッピ『幼児キリストの礼拝』、レオナルド『ブノワの聖母』『リッタの聖母』、ラファエロ、ボッティチェリ、ティツィアーノ『悔悛するマグダラのマリヤ』『聖セバスティアヌス』『ダナエ』、ティントレット『洗礼者聖ヨハネの誕生』、プッサン『タンクレディとエルミニア』、ヴァン・ダイク『自画像』『モートン伯爵夫人アンナ・ダルキースとレディ・アンナ・カーク』、レンブラント、ヤン・ステン『病人と医者』、ルーベンス『バッカス』『大地と水の結合』、フランス・スネイデルス『魚の露店』、エル・グレコ『使徒ペテロと使徒パウロ』など、よく知られている高名な画家や作品ばかりである。
 しかし私には国別年代別の展示方法で鑑賞するのは性に合わないようだ。ただでさえ密度の濃い作品なのに、その濃厚作品が隣同士に、時に有名画家と別の有名画家が隣同士に展示されていたりするので、かえって意識が散漫になって印象に残らないのである。
 それでも私が楽しみにしていたのが、(ぼやけてしまってるが)上のルイーニの『聖カタリナ』であった。彼女は聖人伝説のうちでも恐るべき才女で、その履歴・活動に対しては「あんたは偉い」という感想しか出てこない。彼女は七学芸(文法、修辞、弁証法、算術、幾何、天文、数学)を修め、若くして学識、雄弁、毅然たる態度、純潔、聖品に抜きん出、神の使命を自覚しあらゆる人間を説き伏せ、キリストに対して貞淑を守ったことで天から指輪を贈られ、投獄・拷問されても平気の平蔵であげく殉教し、その聖遺体から病めるすべての人たちを癒す霊験あらたかな香油がたえず流れ出て、ご遺体のかけらでもいただきたいと熱心に聖女に仕えた修道士に指の一部を与えるなどの伝説に彩られている。
 要するに彼女は信仰に学問と貞淑が付いているような才女な聖人なので、洒落の通じない勤勉な教師・論士というイメージがある。しかし、上のルイーニの描く本を読んでいる聖カテリナは母性的な色合いが前面にでている(表現が難しいところだが、少なくとも絵の彼女は少しぐらいの洒落なら受け流してくれそうではないか)ので、見る側としても警戒心を持つことなく少しほっとするのだ。正直、あなたの言うことなら聞く耳をもちましょうと思わせるものがあった。
ヴァン・ダイク 『モートン伯爵夫人アンナ・
ダルキースとレディ・アンナ・カーク』(1632年以降)
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『聖家族』
『老女の肖像』
 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインの作品が展示されている部屋は常に混雑している。写真に撮ったのは左の『聖家族』(1645)と下の二枚、右の『老女の肖像』(1654)は前回の旅行時に撮影したものである。
 名画といわれる作品は世界中の美術館や個人に散り散りに蔵められている場合が少なくないが、レンブラントの絵画もその例に漏れないのではないかと思う。(クリスティアン・テュンペル著『レンブラント』(中央公論社,1994)の図版など参照)
 エルミタージュ美術館のレンブラント作品は、『ダナエ』、『学者の肖像』(1631)、『アブラハムとイサク』(1634/35)、『葡萄作りのたとえ』(1637)、『バールティエン・マルテンス・ドーメル』(1640頃)、『ダヴィデとヨナタン』(1642)、『赤い服を着た老人』(1654/54)、『イェレミアス・デ・デッケル』(1666)、『放蕩息子の帰宅』(1668/69頃)などが展示されていて、所蔵作品は多いほうではないだろうか。
 列挙した作品の中で私の心を打ったのは、『放蕩息子の帰宅』だった。たしかに世界的に有名な絵画であるが、絵の中で父親と弟をどこか虚ろ気に見つめているように思える兄の視線を、実際どのように捉えていいものか。例え話のなかのどの瞬間なのか厳密には分からないが、兄のそれは父と弟に対する愛情の視線ではなく、気持ちここにあらずのような瞬間を捉えていて、生真面目に財を成した者であれ、肉親の愛情を勝ち得ない場合があるといった、一種の諦観を見事に描き出した気がしている。この後に父は感極まりつつ、たしなめるように兄に向かって「子よ、お前ならいつも私と共にいるではないか。だから、私のもの一切は、お前のものだ。しかし、今は祝宴をあげ、喜ばずにはおれないではないか、このお前の弟は死んでいたのに生き返った、失われていたのに、見つかったのだよ」(ルカによる福音書,第15章)と、言うのだろうか…。

 右の『老女の肖像』はモスクワのトレチャコフ美術館にレーピンの筆による摸写があって、トレチャコフ美術館のレーピンの間にいたとき、どうしてレンブラントがレーピンの間にあるのか、一瞬戸惑ったような不思議な感覚に陥ったものだ。レーピンの描く肖像画は、レンブラントに学ぶところがあったし、事実現在でもロシアのレンブラントといわれるのは納得がいく。

 左は『フローラに扮したサスキア』(1634)、右は『口髭のある若い男』(1634)、ともにレンブラントの筆による作品である。
 日本で開催されていたレンブラント展にも可能な限り足を運んでいるぐらい、私はレンブラントの絵が好きだ。
 中でも『フローラに扮したサスキア』はとても気に入っている。 フローラとは古代ローマにおける花の女神で、同時に若さや享楽や女性の妊娠をも司っていたことから、『サスキア』はレンブラントの作品の中でも最も幸福感に満ち溢れている絵のように思うからかもしれない。レンブラントは最初の妻サスキアと過ごしている頃が、何事においても絶頂期だったのかもと思う。
 レンブラントの画法などの細かいことについては、私にはとても書けない。でも本当にレンブラントの絵は観るたびに驚愕する。どうしてこんな絵が描けるのだろうと。
 左はピエール=ナルシス・ゲラン『イリスとモルフェウス』(1811)、右はアントワーヌ=ジャン・グロ『アルコレ橋上のボナパルト』(1796)である。写真自体にピントが合わなかったので、小さい画像にしてしまっているが、本当は大きい絵画である。
 ロシアにもフランス絵画を愛好した人物がいて、ゲランの絵はユスーポフ公という人がコレクションに加えた。ちなみにユスーポフ公は、有名なナポレオンのお抱え画家ダヴィッドにも注文を出し、『サッフォーとファオン』という少しゾッとする?ような絵もコレクションに加えた。その『サッフォーとファオン』もエルミタージュに展示されている。
 『アルコレ橋上のボナパルト』はエルミタージュにもあるが、フランスのヴェルサイユ宮美術館にもある。
 クロード・ロラン(クロード・ジュレ)の『アポロンとクマエの巫女のいるバイアの港』(1646)も、私のお気に入り作品である(画像は前回の旅行の分)。ドストエフスキーはロランの『アキスとガラテア』に黄金時代の夢を見出しているが、私はこの『アポロンとクマエの巫女のいるバイアの港』にもいえているのではないかなどと思ったりしている。ドストエフスキーも黄金時代に郷愁を感じていたが、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスも同じようなことを夢想している。

「その昔の、あの幸せな時代、あれらの幸福な世紀に、古人が黄金時代という名をつけたのは、なにもあの時代に、われわれのこの鉄の時代において高い評価を得ている黄金が労せずして手に入ったからというわけではない。そうではなくて、あの時代に生きていた人びとが《君のもの》、《わたしのもの》という二つの言葉を知らなかったからなのじゃ。あの聖なる時代にあっては、あらゆるものが共有でき、日々の糧を得るにしても、枝もたわわな大樹に手を伸ばし、それがふんだんに提供してくれる甘く熟した果実をもぎ取るだけでよかった。清らかな泉と川のせせらぎが、澄んだおいしい飲料水を人びとに、ありあまるほどたっぷりと与えていた。岩の割れ目や木々の虚穴(うろあな)では、かいがいしくて賢い蜜蜂たちが自分たちの共同体を造営し、その心楽しい労働の濃密な成果を、なんら代償を要求することなく、あらゆる人々の手に差し出していた。さらに巨大なコルク樫は、持ち前の好意を見せつける以外にはなんらの意図もなく、幅広のしなやかで軽い樹皮をみずから脱ぎすて、人びとがそれでもって、むき出しの棒杭(ぼうぐい)によって支えられた家の屋根をふくための用に供したが、その家とてただただ雨露をしのぐばかりのものであったのだ。このように、当時はすべてが平和であり、すべてが友愛と調和からなっていた。……」

『ドン・キホーテ』前篇

 ドストエフスキーやセルバンテスの影響があるのは否めないが、クロード・ロランの絵を観ると、後世の人間が勝手に覚える有史以前の人間世界への夢想のような、どこか永久に過ぎ去ってしまったものを懐かしむような気分になるのである。
 ちなみに『エルミタージュ美術館の絵画』(中央公論社)の著者コリン・アイスラーは作品について以下のように記している。

バイアは、ナポリ湾に面したローマの帝国の保養地で、だれよりも長寿な巫女の故郷であるクマエの港と信じられていたために、有名であった。クロードは、主題をオウィディウスから取っている。それによれば、アポロンはクマエの娘に恋をして、彼女の贈り物を約束する。娘は一握りの砂を示して、その砂の数ほど多くの年月の間生きられる命を要求するが、それとともに永遠の若さを求めるのを忘れてしまったのである。奇妙なことに、このフランス人の画家は、寄せ集めの古代の廃墟を書き加えている。それは物語の理屈には反するが、画家が生んだ光輝く架空の世界で、預言が確実に実現されることを示している。

 また谷川渥著『廃墟の美学』(集英社新書)では、

 付帯的とはいえ、しかし廃墟は決定的な役割を演じる。なぜなら、廃墟の表象は、それを眺める者の意識を古代へと、過去へと、あの古代的理想郷としてのアルカディアへと差し向けるからである。それを、廃墟の喚起力といってもいいし、指向性といってもいい。モンス・デジデリオの作品が、いかなる意味においても過去への指向性をもたなかったのと、それは対照的である。そしてモンス・デジデリオの絵画が、動態としての廃墟画の典型であるならば、クロード・ロランの絵画は静態としての廃墟画の典型である。クロード・ロランの作品は、過去の、理想的古代のアウラを身にまとおうとする。
 そして、そのアウラは、なによりも彼の印象派的といっても過言ではない光の感受性によって支えられている。クロード特有の雰囲気とは、言葉を換えれば、光にみちた静謐な空間ということであり、そこでは大気や水面や樹々や葉叢や、そして古代の廃墟が、色彩の微妙な諧調をかなでている。登場人物たちは、ギリシア・ローマ神話や聖書から採られているが、彼らがいかなる物語を構成するかは、ほとんど関係がない。彼らは、ただアルカディア的詩情にみちた理想的空間を現出させるために、束の間そこに呼び出されたにすぎないように見える。
〜略〜
……クロード・ロランは、なによりも黄金時代の神話やアルカディア的詩情を喚起する「理想的風景」を提供した。


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