中央軍集団の後ろの方<中編>
1942年春になるとソ連軍の『ルジェフの突出部からのモスクワ再攻撃』の予想に反してドイツ軍の主攻勢は南方軍集団戦区で南部ロシアからコーカサス地方へと向けられ、どちらかと言うと副次的な戦線となった中央軍集団戦区は1942年5月時点で次のような兵力となり、1943年3月にルジェフの突出部からの撤退する「水牛作戦」が実施されるまで大きな動きはありませんでした。
・第9軍
・第3戦車軍
・第4軍
・第2戦車軍
1941年の急進撃による占領地の拡大と1941/42年の冬季戦での損害により、占領地域での治安部隊の不足が明らかとなり、中央軍集団の後方地域でも長期化する占領任務に対応するため、治安維持部隊の増勢が進められました。このため1942年の春から夏にかけての時期は、陸軍の保安部隊及び警察部隊にとっての大きな転換点となりました。
11.中央軍集団保安部隊及び占領軍司令官
中央軍集団の後方占領地域を管轄する「中央軍集団占領軍司令部」(Befehlshaber Heeresgebiet Mitte)は1942年3月15日付けで「中央軍集団保安部隊及び占領軍司令官」(Kommandierender General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heeresgebiet Mitte)へと改称され、1942年4月1日付けで軍集団後方地域の国防軍と警察への指揮系統に加えて軍政部門の「第VII部」が追加され、従来は保安師団の管轄下にあった「占領地司令部」、「捕虜移送キャンプ」、「臨時野戦警察」が「中央軍集団保安部隊及び占領軍司令官」の指揮下に移管されました。
また、中央軍集団に配属された軍に変化はなく、「軍後方地域司令部」(Korück)についても大きな変化はありませんでした。
・第582軍後方地域司令部(Korück 582)=第9軍後方地域
・第590軍後方地域司令部(Korück 590)=第3戦車軍後方地域
・第559軍後方地域司令部(Korück 559)=第4軍後方地域
・第532軍後方地域司令部(Korück 532)=第2戦車軍後方地域
1942年7月頃の時点で軍後方地域と中央軍集団の後方地域には次のような部隊が配属されていました。
・第221保安師団
・第286保安師団
・第201保安師団
・第203保安師団
・第707歩兵師団
・第638(フランス)歩兵連隊
・第2警察連隊
・第8警察連隊
・第13警察連隊
・第14警察連隊
・第221保安師団は第4軍後方地域の「第559軍後方地域司令部」や第2軍後方地域の「第580軍後方地域司令部」に配属されていましたが、1942年2月には第2軍とともに一時的に南方軍集団に移転し、4月には中央軍集団後方地域に復帰しました。
・第286保安師団も第4軍後方地域の「第559軍後方地域司令部」や中央軍集団後方地域の中央軍集団占領軍司令部に配属されてオルシャ地区で活動し、1942年4月の時点で一部の部隊が第4軍第43軍団に配属されていました。
・第403保安師団は1942年春に配属された増強歩兵連隊と保安師団の入れかえが行われた後、1942年7月にB軍集団後方地域に移動しました。
12.保安師団の拡大
1941/42年の冬季戦では中央軍集団の後方地域に配属された保安師団も前線での防衛戦に投入され大きな損害を被りました。このため保安師団の増強が計画された模様で、1941年末~42年の初めに2個予備旅団司令部をもとに2個保安旅団が新編成され、中央軍集団後方地域に派遣されました。
第201保安師団と第203保安師団はこの2個保安旅団から1942年6月に改編された保安師団で、引き続き中央軍集団後方地域で活動しました。
・第201保安旅団
・第203保安旅団
第201保安旅団
1942年2月5日に総督府に駐屯していた「第201予備旅団司令部」をもとにベラルーシで編成され、第601保安連隊本部と第610保安連隊本部の2個連隊を基幹としました。1942年3月10日の時点で8個郷土防衛大隊が配属されていましたが、それまでの保安師団のような警察大隊、警戒大隊や軍政司令部などは配属されていなかったようです。
1942年3月15日、第403保安師団の 第406(増強)歩兵連隊が第213砲兵連隊第3大隊とともに旅団に配属され、入れ替わりに第610保安連隊が第403保安師団に転属となりました。また同時に第403保安師団からは第466補給大隊も転属して師団管理部隊の基幹となったようで、1942年6月1日に「第201保安師団」へと改編・改称されました。
第201保安師団(1942年6月)
師団司令部
第406(増強)歩兵連隊(3個大隊)
第213砲兵連隊第3大隊(3個中隊):各中隊は105mmleFH/18×4門
第601保安連隊(3個大隊)
第201(ロシア)騎兵中隊
第201(自動車化)通信中隊
第203保安旅団
1941年12月24日に「第203予備旅団司令部」からベラルーシで編成され、第603、第608、第613予備歩兵連隊本部と第34、第27郷土防衛連隊本部の合計5個連隊を配属されていました。これらの歩兵連隊には順次郷土防衛大隊が配属されましたが、実際の配属状況ははっきりとしません。また第203保安旅団もそれまでの保安師団のような警察大隊、警戒大隊や軍政司令部は配属されていなかったようです。
旅団は1942年6月1日付で「第608保安連隊」、「第613保安連隊」の2個保安連隊と「第507砲兵大隊」を基幹とする「第203保安師団」へと改編・改称されました。
第203保安師団(1942年6月)
師団司令部
第608保安連隊(3個大隊)
第613保安連隊(3個大隊)
第507砲兵大隊(3個中隊)
第203(東部)中隊
第203(東部)騎兵中隊
第203(東部)砲兵中隊
第203通信中隊
保安師団や保安旅団に配属された郷土防衛連隊(Landesschützen Regiment)には3個~4個の郷土防衛大隊(Landesschützen Bataillon)が必要により交代制で配属されていました。「郷土防衛大隊」は中年(35歳~45歳)の予備役兵(Landwehr)や45歳以上の郷土兵(Landsturm)、回復期の負傷兵などで構成されており、訓練も装備も貧弱で兵器はフランス、ベルギー、オランダ、チェコスロヴァキア製などの捕獲兵器を装備することも珍しくありませんでした。
「郷土防衛大隊」の編成中隊数も様々で、通常は3個~5個中隊ですが捕虜収容所警備大隊は6個中隊、鉄道警備大隊では8個中隊の例もありました。
1942年6月以降、東部戦線に派遣されたこれらの郷土防衛連隊は「保安連隊」(Sicherungs Regiment)へと改編され、同時に配属される郷土防衛大隊も「保安大隊」へと改称されて配属部隊は固定化されるようになりました。
保安師団に配属されていた増強歩兵連隊は1941/42年の冬季戦で防衛戦に投入され、大損害後に解隊されたり通常の歩兵連隊に改編されたりしました。
このため1942年夏頃には保安師団は2個~3個保安連隊(郷土防衛連隊)、1個砲兵大隊、1個警察大隊、1個東部騎兵中隊、1個東部砲兵中隊が配属される編成へと変化してゆきましたが、配備状況は師団により濃淡がありました。
13.警察連隊の拡大
1941年6月、ロシアでのバルバロッサ作戦開始に備えて後方地域での治安維持部隊として4個警察連隊が編成され、北方、中央、南方の各軍集団の後方地域に配属されました。各警察連隊は3個警察大隊から編成され、1941年7月の時点で連隊本部には2個対戦車砲小隊、2個警察装甲車小隊、1個通信中隊及び1個TeNo (Technische Nothilfe=緊急技術援助隊)中隊が配属されていました。
<バルバロッサ作戦>
・警察連隊「ノルト」Polizei Regiment "Nord":北方軍集団
・警察連隊「ミッテ」Polizei Regiment “Mitte”:中央軍集団
・警察連隊「ジュート」(Polizei Regiment "Süd"):南方軍集団
・特別編成警察連隊(Polizei Regiment z.b.V.):南方軍集団
4個警察連隊の警察大隊と個別の警察大隊は広い占領地に分散して独立運用されており、必要により警察部隊や陸軍部隊の戦闘団に配属されて作戦に投入されました。
中央軍集団後方地域のモギリョフでは7月7日付けで既存の2個警察大隊と1個ウクライナ人シューマ大隊により警察連隊「中央ロシア第2」が編成されましたが、この連隊は警察連隊の再編によりわずか数日しか存在しませんでした。
1941年/42年の冬季戦、パルチザン掃討作戦または前線での防衛戦でも、より強力な戦闘部隊が常に求められており、1942年7月付けの通達により既存の警察大隊と予備警察大隊を統合して既存の12個警察連隊は28個警察連隊に再編・拡大されました。
・第1警察連隊:北方軍集団、HSSPF「北部ロシア」、オーバークライン地方に分散
・第2警察連隊:中央軍集団
・第3警察連隊:オランダ
・第4警察連隊:フランス
・第5警察連隊:セルビア
・第6警察連隊:南方軍集団
・第7警察連隊:第6軍管区→ノルウェー
・第8警察連隊:中央軍集団の保安師団に分散
・第9警察連隊:北方軍集団
・第10警察連隊:南方軍集団
・第11警察連隊:HSSPF「南部ロシア及びウクライナ」
・第12警察連隊:オランダ
・第13警察連隊:中央軍集団
・第14警察連隊:中央軍集団、HSSPF「中央ロシア」
・第15警察連隊:HSSPF「南部ロシア及びウクライナ」
・第16警察連隊:ラトビア
・第17警察連隊:HSSPF「オストラント及び北部ロシア」
・第18警察山岳猟兵連隊:スロベニア
・第19警察連隊:スロベニア
・第20警察連隊:ベーメン・メーレン保護領
・第21警察連隊:ベーメン・メーレン保護領
・第22警察連隊:総督府
・第23警察連隊:総督府
・第24警察連隊:総督府
・第25警察連隊:総督府
・第26警察連隊:ノルウェー
・第27警察連隊:ノルウェー
・第28警察連隊:編成中止→1942年11月再編成
警察連隊の標準編成(1942年)
連隊本部:22名
自動車化通信中隊:57名
オートバイ中隊:124名
工兵中隊:35名
第1警察大隊(各大隊は700名):第1中隊~第4中隊
第2警察大隊(各大隊は700名):第5中隊~第8中隊
第3警察大隊(各大隊は700名):第9中隊~第12中隊
第13(歩兵砲)中隊:163名
第14(対戦車砲)中隊:82名
第15(装甲車)中隊:194名
修理工場中隊:13名
しかし、警察部隊向けの装備もご多分に漏れず慢性的に不足しており、歩兵砲(砲兵)中隊、対戦車砲(戦車猟兵)中隊及び装甲車中隊は全連隊に配属できるまでの部隊が編成できず、大部分の連隊には装甲車中隊は配属されない一方で、別の連隊には2個中隊が重点的に配属さた外、独立部隊として運用されることもありました。
また各警察連隊は1943年2月24日からは名称のみが一斉に「SS警察連隊」(SS Polizei Regiment)と改称されました。
14.ロシア人民解放軍(RONA)
1941年10月頃ブリヤンスク南方のロコティ村に誕生した小さな自治区と自警団は拡大を続け、1942年1月8日に創設者であるウォスコボイニクはパルチザンの待ち伏せにより死亡しましたが、補佐役であったブロニスラフ・カミンスキーが後を継ぎ、自治区の経営は混乱なく行われました。
1942年7月までにロコティ周辺の8つの郡の行政運営をドイツ軍から委託されて「大ロシア自治区ロコティ」と改称され、この地域には多数のロシア人が集まり170万人もの住民がいたと言われます。
ロコティの自警団も兵力を拡大し旅団規模の兵力となり「ロシア人民解放軍(RONA)」と改称され、カミンスキーはドイツ軍人ではないものの旅団長(准将)に任命され、「RONA旅団」又は「カミンスキー旅団」とも呼ばれました。
1942年7月5日~9日、北部ロシアのブリヤンスク(Bryansk)~ロスラヴリ(Roslavl)地区での「Vogelsang作戦」はロシア人民解放軍(RONA)が参加した最初の大規模作戦となりました。中央軍集団の後方地域を脅かすパルチザン部隊に対して第2戦車軍から1個戦車連隊と2個歩兵連隊が投入され、パルチザンが活動する森林地帯を包囲して村落を破壊したが住民は退避させました。
ドイツ軍の損害は死者58名、負傷者138名で、パルチザン部隊は死者1,193名、負傷者1,400名、捕虜498名の損害を被り、治安部隊は2,249名を逮捕し、12,531名を追放したとしましたがこの戦果は誇張しており、パルチザン部隊はドイツ軍が去ると再び活動を再開しました。
1942年9月の時点でロシア人民解放軍(RONA)の兵力は約6,000名、戦車8両(KV I及びT-34)、装甲車×5両(BT-5及びBA-20)を装備していました。夏の間に「大ロシア自治区ロコティ」の支配地域はさらに拡大し、支配下の村落では新兵の募集が行われてRONAの兵力は拡大しましたが、部隊ごとの戦力には大きなバラツキもできました。
新兵たちは必ずしも反共や親独の政治的信念を持っていたわけではありませんでしたが、兵士の脱走はまだ大きな問題とは考えられていませんでした。
1942年12月末の時点でロシア人民解放軍(RONA)は13個大隊(各大隊は定員約900名)へと拡大途上にあり、野砲と対戦車砲合計42門を装備したほか、装甲車×15両も利用可能でしたが、燃料とスペアパーツの不足により稼働状況は低かったようです。
1943年1月~2月に第2戦車軍の後方地域であるロシアのドミトロフスク(Dmitrovsk)~ミハイロフカMikhailovka地区で実施された「Eisbär I~III作戦」では第2戦車軍の後方部隊とともにRONAの大隊が作戦地域北部での警戒任務に従事しました。
この作戦によりパルチザン部隊はブリヤンスク南方地域から完全に駆逐され、第2戦車軍の後方地域はより安全なものとなり「大ロシア自治区ロコティ」の支配地域は拡大の一途をたどりました。
1942/43年冬のソ連軍の反撃により、「大ロシア自治区ロコティ」の支配地域は一部が戦闘地域となったため縮小し、約80,000名の住民や避難民が残された支配地域に流入しました。ソ連軍の前進は自治区の住民とRONAの兵士に大きな恐怖と混乱を巻き起こし、一部ではパルチザン側に寝返る兵士も出始めていました。
1943年3月22日、第2戦車軍司令部では軍後方地域まで突破したソ連軍の残存部隊とパルチザンに対する掃討作戦は立案され、次のような部隊が集結しました。
第442特別編成師団司令部
第251歩兵師団
第707歩兵師団
Kaellner集団
駆逐戦隊Huzel
SS戦闘団「ツェヘンダー」(SS Kampfgruppe“Zehender”)
Rübsam司令部
ロシア人民解放軍(RONA)
ハンガリー第102軽師団
第532軍後方地域司令部のデスナ(Desna)駐留治安部隊
第20軍団の治安部隊
この作戦ではナヴリャ(Navlya)の南~Seredyna-Budaの北~Gremyach地区の森林地帯でパルチザン部隊を包囲し、デスナ(Desna)川地域に追い込んで殲滅する計画で掃討作戦は約4週間にわたり展開されましたが、約20,000名の兵力を集結したにも関わらず、壊滅に追い込むことはできませんでした。
15.特別戦隊「グラウコップ」またはロシア国民軍
1941年、亡命ロシア人でドイツ国防軍やナチス党にコネを持つセルゲイ.N.イワノフ(Sergej N. Iwanow)はロシア人亡命者による「ロシア国民軍」設立のアイデアを持ち込み、このアイデアはドイツ国防軍の将軍と将校グループから支持をえました。
1941/42年の冬、イワノフは亡命ロシア人グループから協力者を募り、亡命ロシア人貴族やロシア人神父を味方に引き入れました。1942年3月、イワノフは中央軍集団のフォン・クルーゲ元帥と面会し、ソ連軍の捕虜から「ロシア国民軍」を結成する許可と中央軍集団後方地域であるボリソフ、スモレンスク、ロスラヴリ、ビャズマの捕虜収容所から義勇兵を募集する許可を得ました。この活動には国防軍情報部も興味を示し、部隊をドイツ軍戦線後方でのパルチザン掃討だけでなく、中隊・小隊規模の小グループをソ連軍戦線の後方に潜入させることも想定していました。
1942年3月、国防軍情報部の「第203防諜大隊」のロシア人義勇兵がオルシャ(Orsha)近郊、オシノフカ(Osinovka)の北約6kmのオシントルフ (Osintorf) 村に移動して本部が開設され、イワノフが責任者に任命されるとともに元赤軍将校の「K.G.クロミアディ大佐」(Konstantin Grigorjewitsch Kromiadi)が司令官として、「I.K.サハロフ大佐」(Igor Konstantinowitsch Sacharow) が副官として本部スタッフに加わりました。
この部隊は国防軍情報部の指揮下にあり、お目付け役としてブルクハルト(Burchard)中尉他20名のドイツ兵も駐屯していました。部隊はドイツ軍側では第203防諜大隊のほか、「特別戦隊グラウコップ」(Sonderverband ‘Graukopf’)、「グラウコップ旅団」(Graukopf Brigade)又は「特別編成ロシア大隊」(Russische Bataillon z.b.V.)とも呼ばれ、イワノフ側のロシア人義勇兵は「ロシア国民軍」(Rosskia Natisionalnaya Naraduaya Armiya=RNNA)と自称していました。
セルゲイ.N.イワノフは亡命ロシア人国家社会主義運動の活動家であり、「全ロシアファシスト党ドイツ支部長」の肩書も持ち、部隊名の「グラウコップ」(Graukopf)とはイワノフの白髪頭に由来する呼び名で、イワノフ自身のコードネームでもありました。
部隊の兵力は1942年3月時点で150名となり、4月には最初の大隊である東部戦闘大隊「ドニエプル」(Ost Kanpf Bataillon ”Dnieper”)が編成され、5月には400名の兵力となりました。イワノフはさらに「ロシア国民軍」の魅力を高めるためには「赤軍の有名で尊敬される指揮官」が必要と考え、5月には前年10月にヴィヤズマの包囲戦で捕虜となったルーキン中将に打診したものの拒否されてしまいました。
・ソ連軍の最貧前線「片足の闘将」ルーキン中将のTogetter/Posfieまとめリンク
1942年5月、イワノフは発疹チフスの治療のためにベルリンに戻りましたが、同じころS.バレン伯爵がオルシャ南方のシュクロフ(Schklou)市の軍政司令官に任命され、この地域は「ロシア国民軍」のための自治区に指定されました。また部隊の拡大に伴いオシントロフ村には「モスクワ」、「ウラル」、「キエフ」という名前の兵舎が設置され、ロシア国民軍は拡大を続けました。
1942年5月24日、中央軍集団の第4軍戦区では「Hannover (ハノーバー)II作戦」が開始され、スモレンスク~ヴャジマ戦区ではソ連軍突出部への反撃作戦で「特別戦隊グラウコップ」の350名の分遣隊が初めて作戦に投入され、敵後方への潜入作戦が実施されました。
この分遣隊は5月23日から包囲されたソ連軍とパルチザン部隊に潜入し、敵の通信装置の奪取や破壊、反ソ連宣伝工作、にせ命令の流布により敵を混乱させ、最終目標はベロフ将軍の第1親衛騎兵軍団司令部であり、ソ連軍の士官候補生の儀式用制服を着用した指揮官に率いられた部隊は、識別のため首には赤い布を巻いていました。
侵入作戦は順調に進み、部隊は戦うことなくパルチザン部隊を欺き、待ち伏せに誘い込んで分遣隊を壊滅させ、通信装置を破壊し、指揮官と政治委員を抹殺し、反スターリン宣伝を行いましたが司令部の襲撃は失敗しました。
注意深い準備にも関わらずドイツ製のたばこの吸い殻やドイツ軍ブーツの足跡によって正体が露見し戦闘により70名が戦死し、6月26日までにドイツ軍戦線に帰還したのは100~120名でした。作戦の間に80~100名の隊員がソ連側に寝返った可能性がありましたが、その代わりに約500名のソ連兵が投降しソ連軍の後方で大混乱を引き起こしました。
1942年の夏まで、部隊は国防軍情報部の後援の下で偵察や妨害活動を継続し、同時に後方でのパルチザン掃討作戦にも参加しており、6月初めにスモレンスク地区で実施された「Adler (アドラー)作戦」では、参加した分遣隊が他のパルチザン掃討部隊とともに約30個所の村を焼き討ちしました。また8月16日~17日の「Grif (グライフ)作戦」では、パルチザンとの戦闘の際に現地の住民を「人間の盾」として駆り立てたほか、オルシャ~ボリソフ地区では鉄道線路沿いの建物が警備強化のために焼き払われました。
「特別戦隊グラウコップ」では4月に東部戦闘大隊「ドニエプル」が編成されたのに続き、6月には東部戦闘大隊「ベレジナ」、7月には東部戦闘大隊「ドナ」、東部戦闘大隊「プリピャチ」、東部戦闘大隊「ボルガ」の5個大隊の編成が順次開始され、8月中旬の時点では3個大隊を中心に兵力は約1,500名となりました。
・東部戦闘大隊「ドニエプル」(Ost Kanpf Bataillon ”Dnieper”)
・東部戦闘大隊「ベレジナ」(Ost Kanpf Bataillon ”Beresina”)
・東部戦闘大隊「ドナ」(Ost Kanpf Bataillon ”Duna”)
・東部戦闘大隊「プリピャチ」(Ost Kanpf Bataillon ”Pripiet”)
・東部戦闘大隊「ボルガ」(Ost Kanpf Bataillon ”Wolga”)
1942年の夏の終わり、「特別戦隊グラウコップ」こと「ロシア国民軍」の司令官はK.G.クロミアディ大佐から元赤軍大佐のウラジミール・ボヤルスキー大佐へと交代しましたが、ドイツ軍側では「特別戦隊グラウコップ」を失敗と評価しており、ドイツ側の意に沿わないロシア人メンバーはこの時期に排除された様です。
「ロシア国民軍」の各大隊は再編・改称され、東部戦闘大隊「ベレジナ」が第601東部大隊「ベレジナ」となったのをはじめ、第603東部大隊「ドナ」、第604東部大隊「プリピャチ」、第605東部大隊「ボルガ」が9月30日までに改編・改称されました。
ところが第601東部大隊「ベレジナ」で事件が起こりました。大隊の本部中隊と2個中隊は第203保安師団に配属されてバブルイスク東南東90kmのリュバニ(Ljybani)地区に駐屯していましたが、9月18日に第2中隊で反乱が起こり、第707野戦警察分遣隊のドイツ人警察官3名と治安部隊のロシア人義勇兵2名が殺害され、3名を負傷させて脱走しました。
この反乱では中隊の67名が脱走し、軽機関銃×3挺、迫撃砲×2門を持ってパルチザン側に寝返りました。この事件によって第601東部大隊「ベレジナ」は再編を迫られたと思われ、第602東部大隊「ドニエプル」とともに再編の完了は10月5日にずれ込んでしまったようです。
1942年10月末、「ロシア国民軍」の兵力は3,500名に達しましたが、今までのソ連軍の制服をドイツ軍の制服に変更し大隊は再編成することとなりました。しかしこの命令は兵員の反発を招くこととなり、シュクロフに駐屯するSS師団の一部がオシントロフ村を包囲して武装解除を迫る事態となりました。翌日には「ロシア国民軍」司令部が説得に努めたものの、夜の間に約300名が武器を持ったまま脱走しパルチザン側に寝返りました。
1942年11月1日、「ロシア国民軍」司令部は解隊され、各大隊はドイツ軍治安部隊の管轄下に移管されるとともに、「特別戦隊グラウコップ」は「特別戦隊ミッテ」(Sonderverband ‘Mitte’)へと改称されました。
11月8日、中央軍集団管轄下に東部義勇兵部隊の受け皿として「第700特別編成東部部隊司令部」(Kommandeur der Osttruppen z.b.V. 700)が設立され、「特別戦隊ミッテ」の5個大隊は11月15日付けでこの司令部に配属され、11月20日付けで司令部は「第700特別編成連隊」と改称されました。また配属の際には元の大隊は解隊され、第633~第637東部大隊として再編・改称されました。
第700特別編成連隊
第700特別編成東部部隊司令部
第633東部大隊
第634東部大隊
第635東部大隊
第636東部大隊
第637東部大隊
この間にも各大隊はパルチザン掃討作戦に投入されており、11月14日には2個大隊がパルチザン拠点の村を攻撃し、迫撃砲と機関銃で支援された部隊がパルチザン部隊司令官K.S.Zaslonovの殺害に成功しているので、まったく役立たずでもなかったのですが、部隊の反乱や脱走は常態化しており、11月の間に砲兵部隊115名を含む約600名がパルチザン側に寝返り、そのため「信頼できない」と選別された600名も武装解除されました。
12月初め、「第700特別編成連隊」の5個大隊は約4,000名の兵力でしたが、定員に対しての充足率は大幅に不足していました。
1942年12月16日、中央軍集団主席作戦参謀のヘニング・フォン・トレスコ大佐の仲介で中央軍集団司令官のフォン・クルーゲ元帥が個人的に部隊を視察しましたが、元帥はロシア人義勇兵をあくまでもドイツ軍の補助兵力と考えており、大隊の分散配属とドイツ軍の制服着用が指示され、ロシア人義勇兵がまとまって戦う機会は失われました。
1942/43年の冬、元ロシア国民軍の各大隊は新指揮官F.R.リルとA.L.ベズトニーの下で引き続きパルチザン掃討作戦に繰り返し参加しました。1943年1月7日~14日の「Franz (フランツ)作戦」では、第23警察連隊第1大隊も参加してボブルイスク北西55kmのGrodsjanka地区で行われた掃討作戦でパルチザン1,143名、パルチザン容疑者882名を殺害、約1,000名を強制労働に徴用し、牛2,000頭が押収されました。
1943年2月、第700特別編成連隊は本部と主要部隊はベレジノに駐屯していましたが、またもや分遣隊の一つがパルチザンに寝返る事件が発生し、リルは責任を追及されて解任され強制収容所に送られました。それでも3月には「Vesna作戦」、5月~6月には「Cottbus (コットブス)作戦」などのパルチザン掃討作戦に投入されています。
1943年11月、第700特別編成東部部隊司令部と第633、第634、第635、第636東部大隊はフランスに送られましたが、第637東部大隊だけはフランスには送られず、後に東プロイセンで第3戦車軍に配属されました。また兵員の一部は他の東部大隊に補充要員として再配分された他、一部はウラソフ将軍の「ロシア解放軍」にも編入されたようです。
「ロシア国民軍」は1942年5月にイワノフが離脱して以降、政治的な明確な指導者を失い、「ロシア解放軍」のウラソフ将軍のようなカリスマ的指導者にも恵まれませんでした。ドイツ側にしても最高司令部の無理解によりただのプロパガンダであったにしても「ロシア国民による自治政府樹立」という餌を与えることさえできず、ドイツ軍の傭兵化したために義勇兵の士気が急速に低下して脱走を繰り返す結果となり、最後は東部大隊としてばらばらに配属されやがて消耗してゆきました。
16.SS野戦募兵所「ボブルイスク」
SS野戦募兵所「ボブルイスク」(SS Feldrekruten Depot “Bobruisk”)は1942年2月15日に武装SSの義勇兵募集・訓練部隊としてボブルイスク に設立され、練兵場は旧ソ連軍の兵舎を利用しており「森林キャンプ」とも呼ばれました。
1943年5月の時点では警察部隊の訓練を予定しましたが7月からは武装SSに移管され、ブレスラウからSS擲弾兵訓練・補充大隊「オスト」の新兵898名とドイツ本国とルーマニア出身の志願兵が到着し、7月31日時点で士官11名、下士官102名、兵2,007名となりました。
訓練部隊として4個大隊が設立され、「第1補充訓練大隊」は第1中隊~第4中隊、「第2補充訓練大隊」は第5中隊~第8中隊、「第3補充訓練大隊」は第9中隊~第12中隊により編成され、同時に「第4補充訓練大隊」も編成されましたがこの大隊の中隊は情報がありません。
各大隊は訓練が進むと戦線後方での保安任務にも従事しており、パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ第1~第3補充訓練大隊は1943年9月15日付けでSS第1〜第3猟兵大隊へと改称されました。
・第1補充訓練大隊
第1中隊~第4中隊の4個中隊により構成され、1942年6月30日から開始された「Maikäfen作戦」に第2補充訓練大隊とともに参加して始めての実戦を経験しました。その後も大隊は第286保安師団などに配属されて1943年の前半まで引き続きパルチザン掃討作戦で実戦経験を積み、1943年4月15日付けで「SS第1猟兵大隊」と改称されました。
・第2補充訓練大隊
第5中隊~第8中隊の4個中隊により編成され、1942年6月30日から開始されたパルチザン掃討作戦、「Maikäfen作戦」に第1補充訓練大隊とともに作戦の一部に参加して始めての実戦を経験しました。第2大隊も1943年の初めまでパルチザン掃討作戦で実戦経験を積み、1943年4月15日付けで「SS第2猟兵大隊」と改称されました。
・第3補充訓練大隊
第9中隊~第12中隊の4個中隊により編成され、1942年8月17日~8月29日の「Greif作戦」では第1及び第2補充訓練大隊とともに参加しました。パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ大隊は1943年4月15日付けで「SS第3猟兵大隊」と改称されました。
・第4補充訓練大隊
大隊の編成内容は不明ですが「第3補充訓練大隊」が1943年4月15日付けで「SS第3猟兵大隊」と改称された際には「第4補充訓練大隊」から補充要員が編入され、同日付けで武装SS労働大隊「中央ロシア」(Arbeits Abteilung der Waffen SS Russland Mitte)に改編・改称され、1945年2月10日に解隊されました。
戦闘任務には不適と選別された兵が集められ、練兵場での建設作業などに従事した「労働部隊」がこの第4大隊ではないかと思われます。
1943年9月15日、SS野戦募兵所「バブルイスク」はSS補充司令部「中央ロシア」(SS Nachschub Kommendantur Russland Mitte)の管轄下となり、SS練兵場「Moorlager」に併設されたSS野戦募兵所「Moorlager」の運用が開始されると、SS野戦募兵所「バブルイスク」は規模を縮小したようです。
SS第1~第3猟兵大隊は1943年10月~11月頃にBereza-KartuskaのSS練兵場「Moorlager」に送られ、ブレスラウから移動してきたSS擲弾兵訓練・補充大隊「オスト」と統合運用されてパルチザン掃討作戦に投入されました。また1943年秋に武装SSにより「SS第500降下猟兵大隊」が設立され際には、多くの志願兵が降下猟兵に転属しました。
SS第1猟兵大隊は1944年2月8日に「SS第501猟兵大隊」と改称しましたが、6月までの戦闘により大損害を被り6月14日付けで正式に解散しました。SS第2猟兵大隊は1944年4月15日に「SS第500猟兵大隊」と改称され、春から夏にかけて第9軍後方地域でパルチザン掃討作戦に従事しました。
SS第3猟兵大隊は1944年6月14日に新しい「SS第501猟兵大隊」として再編・改称され、SS第500猟兵大隊とともに戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されて後退戦に投入され、8月~9月にかけてはワルシャワ蜂起の鎮圧部隊として悪営高いSS連隊「ディルレヴァンガー」の戦闘団に配属されました。
1944年10月、両大隊は前線より引き上げられて西プロイセンのブルス(Bruss)地区で解隊され、残余の兵員は「SS第35装甲擲弾兵補充訓練大隊」に編入されました。
17.ビテブスクの門
1941年/42年の冬季戦では北方軍集団と中央軍集団の接合点であるウスヴャートイ(Usvyaty)~ヴェリジ(Velizh)地区の約40kmの地区にソ連側から「ビテブスクの門」(Віцебскія вароты)または「スラジの門」(Суражскія вароты)と呼ばれる地域がありました。
1941年12月、ソ連軍はモスクワ防衛線の南北で大反撃に転じ、北方軍集団と中央軍集団戦区ではソ連軍「北西方面軍」と「カリーニン方面軍」がドイツ軍戦線を蹴散らし、「北西方面軍」はデミヤンスク~ホルム~ヴェリキエ・ルーキ地区へと進撃しドイツ軍守備隊は各地で包囲・孤立しました。
1942年1月20日の夜、ソ連軍第4突撃軍の第54狙撃兵旅団がウスヴャートイ(Usvyaty)の町を占領し、7月に第47海兵師団に交代するまでこの町を保持し、「ビテブスクの門」の北側の拠点を確保しました。
南側では1月29日に第4突撃軍の第360歩兵師団第48狙撃兵旅団がヴェリジ(Velizh)地区西部を占領し、第249歩兵師団第51狙撃兵旅団はヴェリジ地区を通過して南西約25kmのスラジェ(Surazh)地区へと進撃し、第249歩兵師団はさらに南西に進撃してビテブスク(Vitsyebsk)郊外に達しましたが、兵力はわずか1,400名に減少していました。
1942年2月、ドイツ軍中央軍集団の第3戦車軍戦区ではフランスから急遽輸送された第59軍団の第205歩兵師団と第330歩兵師団が反撃に投入され、ビテブスク郊外に達したものの兵力の減少したソ連軍第249歩兵師団を撃退してソ連軍部隊をヴェリジ地区北東部へと追い返して戦線は安定し、「ビテブスクの門」の南側が形成されました。
ドイツ軍の事情としては
1)1941年夏~秋の戦闘と1941/42年の冬季戦による兵力不足
2)中央軍集団ではヴャジマ地区とルジェフ地区の突出部の長い連絡線の維持が必要
3)北方軍集団ではデミヤンスク地区とホルム地区の包囲陣への救援を優先
4)北方軍集団と中央軍集団は深い森林や沼地での戦闘は望まず、重要拠点のビテブスク地区への唯一の道路はドイツ軍が確保しているため、攻撃があっても「対処可能」と考えており、実際に1942年2月のソ連軍第249歩兵師団の撤退以降攻撃はなかった
このことから『ソ連軍の大規模な攻勢は夏季の間はない』と考えられており、40kmもの前線が手薄なまま放置されました。
この地域では空白の前線に地元のパルチザン部隊が浸透し、ドイツ軍の小さな守備隊を壊滅させて一帯の村落を制圧しましたが、深い森林と湖沼地帯の中には細い林道しかないため16~17ヶ所の村落を解放してパルチザン支配地域が形成されてもソ連軍司令部もドイツ軍同様にまだこの地域の重要性に気付いていませんでした。
1942年3月頃、地元パルチザン組織がソ連軍の全体戦略内に統合されるとようやくこの地区の重要性が認識され、ドイツ軍の後方地域にパルチザン部隊を送りこみ攪乱作戦を展開するための輸送及び兵站計画が立案されました。
「ビテブスクの門」の南側では1942年4月8日に5個パルチザン小隊を統合して300名規模の「第1ベラルーシパルチザン旅団」が編成され、旅団はその後1,500名~2,000名に増強されました。北側は1942年5月にメホフスキーパルチザン分遣隊から「第2ベラルーシパルチザン旅団」が編成され、旅団はその後司令部や後方部隊を含めて745名に拡大され、騎兵偵察部隊も配属されました。
1942年4月からパルチザンの活動は急速に拡大し、門を通って通過して指揮官や兵士、専門技術者、教官や指導者、印刷技術者、医療従事者などの要員約20,000名が送りこまれ、大量の武器・弾薬、爆発物、印刷機、新聞や宣伝ビラなどの印刷物もベラルーシに流入しました。
またベラルーシからはパルチザン支配地域で徴兵された赤軍兵士2万~2万5千名、避難民20万名、穀物1,600トン、ジャガイモなど1万トン、その他の食料、家畜、馬2,500頭がソ連領内に運び込まれました。
一方ドイツ軍の第59軍団は5月から中央軍集団直轄となり引続きビテブスク地域に駐屯しましたが、4月15日時点で次のような編成で、相変わらず兵力不足でした。
第59軍団(1942年4月15日現在)
第330歩兵師団
第205歩兵師団
第328歩兵師団第547(増強)歩兵連隊
Schröder集団:第323歩兵連隊第3大隊、第705警戒大隊
都市司令部「ビテブスク」(Standortkommandantur Witebsk)
1942年8月中旬にデビカ(Debica)のハイデラガー(Heidelager)練兵場で編成中のSS騎兵師団から2個戦闘団が編成されて第9軍戦区に送られ、第330歩兵師団戦区でパルチザン掃討作戦に投入されました。
・SS戦闘団「ロンバルド」(SS-Kampfgruppe "Lombard")
第1SS騎兵連隊
SS獣医中隊
・SS戦闘団「ツェヘンダー」(SS-Kampfgruppe "Zehender")
第2SS騎兵連隊
SS(自転車化)偵察大隊
SS砲兵連隊第1大隊
1942年9月18日~9月21日、スモレンスク北部のヤルーツェヴォ(Jarzewo)西方の森林地帯と沼地でのパルチザン掃討作戦「Spätlese作戦」はこの2個SS戦闘団による実施され、作戦後はデメチ(Demechi)地区の第23軍団と第59軍団の接続部にあたる第197歩兵師団と第330歩兵師団の前線に配置されました。
また10月中旬にはデビカからSS騎兵師団本隊もデベチ地区に移動し、戦闘団に分割されてパルチザン掃討作戦に投入されました。
1942年9月25日夜、ドイツ軍第59軍団は「ビテブスクの門」を閉鎖するために大規模な作戦を実施し、ビテブスク(Vitebsk)~スラジ(Surazh)~クラースレヴィチ(Kraslevichi)の三方向から攻撃を開始しました。9月27/28日夜までにドイツ軍は主要な村を占領し、その夜のうちにヴェリーキエ・ルーキ(Velikie Luki)~ウスヴャートィ(Usvyaty)間の道路を制圧し、シェルシュニ(Shershni)方面に進撃しました。
翌9月28日にはカルペンキノ(Karpenkino)~シュミリ(Shmyri)~シェルシュニ(Shershni)の各村を占領して周辺の村落も焼き払い、「ビテブスクの門」は閉鎖されましたが、北側のウスヴャートイ地区ではソ連軍第47歩兵師団第334狙撃兵連隊が9月30日まで持ちこたえていました。
作戦後の1942年10月の時点で第59軍団には次のような部隊が配属されていました。
第59軍団(1942年10月)
第330歩兵師団
第205歩兵師団
第328歩兵師団第547(増強)歩兵連隊
第83歩兵師団の一部
Gruppe “Haseloff”:SS騎兵師団の戦闘団
第579保安大隊
SS騎兵師団
18.1942年春以降のパルチザン掃討作戦
1942年の春から夏にかけての時期は、後方地域での保安部隊増強とともに、パルチザン掃討作戦の手法でも大きな変化が起こりました。1942年3月~4月に実施された「Bamberg(バンベルグ)作戦」はこれ以降のパルチザン掃討作戦の標準となる「皆殺し作戦」の戦術と手順を含んでおり、以後の数年間にわたってドイツ軍占領地の各地で行われる「パルチザン掃討作戦」の原型となりました。
また1942年2月~9月の間に「ビテブスクの門」を通じてパルチザン側に供給された大量の人員と物資によりベラルーシでのパルチザン活動は一気に拡大し、後方地域の鉄道が攻撃対象となりドイツ軍の補給計画へも大きな影響が出始め、これに対して大規模なパルチザン掃討作戦が繰り返されました。
・Bamberg(バンベルグ)作戦
1942年3月26日~4月6日、ベラルーシのバブルイスク(Bobruysk)南西地域でのパルチザン掃討作戦で、当初立案された作戦計画はこの地域に駐屯する「第203保安旅団」によって立案されたもので
a)主要なパルチザン部隊の壊滅
b)地域の治安回復
c)穀物と家畜の収集
を作戦目的としており、大規模な航空支援が必須と見込まれたほか、当初の計画ではパルチザン容疑者と無関係な農民を区別して、パルチザンとその協力者のみを処刑することを要求する、どちらかと言えば「正攻法」な作戦となっていました。
しかしこの作戦計画はミンスクから派遣された「第707歩兵師団」のGustav Freiherr von Mauchenheim genannt Bechtolsheim少将によって大きく変更されました。春の雪解けによる泥濘で効果的な作戦行動が事実上不可能な森林地帯での捜索は行わず、むしろパルチザン活動拠点となる農村に兵力が集中され、「ユダヤ人やその他の望ましくない男・女・子供のパルチザン協力者の粛清」が一層厳しく厳命されました。
新しい作戦計画では参加部隊のうち「第707歩兵師団」と「第203保安旅団」は北部地区を担当し、「スロヴァキア第102歩兵連隊」と「第315警察大隊」は南部地区を担当し、作戦計画は四段階に分かれていました。
・第一段階(3月26日~28日):部隊は作戦地域に進出し、作戦地域の直径25~30kmの地域を封鎖
・第二段階(3月31日まで):外周地域からの締め付け
・第三段階(4月初めまで):包囲攻撃による掃討
・第四段階(4月3日~6日):中心部から外側への追撃・掃討作戦で、作戦地域内の村や農地の破壊とパルチザン協力者の殺害
作戦地域内では20ヶ所の村々が破壊され、住民は「パルチザン協力者」として老若男女問わず全員殺害され、ドイツ軍側の報告では約3,500名がパルチザン協力者として殺害さえました。一方パルチザン側の推計では約5,000名が殺害されたとされ、周辺地域では作戦の準備段階で少なくとも約1,000名が殺害されたとされ、大部分は地元の農民とユダヤ人でした。
ドイツ軍側の損害は戦死7名、負傷8名にすぎず一方的な虐殺であったことがわかります。パルチザン部隊から押収された武器は47挺の小銃とサブマシンガンのみで、肝心のパルチザン部隊は1,200名~2,000名が包囲から脱出しました。
「バンベルグ作戦」の結果は中央軍集団司令部にも報告され、パルチザン部隊の多くが包囲から脱出した事実や、パルチザン協力者の多くが実際は関係性の薄い住民であったと百も承知のうえで、それでも約3,500名のパルチザンを殺害したとの報告で第707歩兵師団は高く評価され、この結果は陸軍総司令部(OKH)経由でヒトラー総統自身にも報告されました。
作戦参加兵力:
第707歩兵師団
第203保安師団
スロヴァキア軍保安師団第102歩兵連隊
第315警察大隊
・作戦名不明の作戦
1942年4月2日~5月12日、モギリョフ~バブルイスクにかけての地区でのパルチザン掃討作戦。高級SS及び警察指導者「中央ロシア」のフォン・デム・バッハ-ツェレウスキー警察大将は直属のパルチザン掃討作戦の責任者としてクルト・フォン・ゴットベルクSS少将及び警察少将を任命して実施された初めてのパルチザン掃討作戦で、おそらく戦闘団「フォン・ゴットベルク」による最初期の掃討作戦と思われます。
作戦参加兵力:
第32警察大隊
第307警察大隊
第308警察大隊
・Maikäfen作戦
1942年6月30日~、第221保安師団によるベラルーシのボブルイスク(Bobruisk)~モギリョフ(Mogilev)街道の北側でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第221保安師団
SS野戦募兵所「ボブルイスク」の第1及び第2補充訓練大隊
・Vogelsang作戦
1942年7月5日~9日、北部ロシアのブリヤンスク(Bryansk)~ロスラヴリ(Roslavl)地区でのパルチザン掃討作戦で、中央軍集団の後方連絡路を脅かすパルチザン部隊に対して第2戦車軍から1個戦車連隊と2個歩兵連隊が投入され、「ロシア人民解放軍」(RONA)が参加した最初の大規模作戦となった。ドイツ軍はパルチザンが活動している森林地帯を包囲し、包囲陣内の村落を破壊したが住民は退避させた。
ドイツ軍の損害は死者58名、負傷者138名で、パルチザン部隊は死者1,193名、負傷者1,400名、捕虜498名の損害を被り、治安部隊は2,249名を逮捕し、12,531名を追放したとしたがこの戦果は誇張されたもので、パルチザン部隊は撤退に成功したためドイツ軍が去ると再び活動を再開した。
作戦参加兵力:
1個戦車連隊
2個歩兵連隊
ロシア人民解放軍(RONA)
・Greif(グライフ)作戦
1942年8月17日~8月29日、ベラルーシのオルシャ(Orsha)~ビテブスク(Vitebsk)地区の街道を確保するためのパルチザン掃討作戦。特別戦隊「グラウコップ」は8月17日にパルチザン部隊を攻撃した際に住民を「人間の盾」として利用しました。
この作戦ではパルチザン部隊指揮官のBlochinを殺害したほか、幹部を捕虜としてパルチザン部隊に大きな損害を与え、パルチザン796名を殺害、599名を捕虜とし、小銃×5丁、対戦車砲×7門、対空砲×3門、稼働戦車×2両、機関銃×17丁、迫撃砲×6門を鹵獲しドイツ側の戦死者は26名でした。第638(フランス)増強歩兵連隊第1大隊は2個警察連隊と連携して498名を殺害し戦車×1両、野砲×1門、対空砲×3門、地雷や爆発物を発見しましたが、大隊は14名の死傷者を出しました。
ソ連側の統計によると老人、女性、子供約900名が殺害され、数か所の村落が焼き払われ、910名の住民が労働者としてドイツ本国に送られました。
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊
第14SS警察連隊
特別戦隊「グラウコップ」
第286保安師団
SS野戦募兵所「ボブルイスク」の第1~第3補充訓練大隊
第59軍団の2個歩兵大隊
第638(フランス)増強歩兵連隊第1大隊
・Sumpffieber(マラリア熱)作戦
1942年8月21日~9月22日、ベラルーシのミンスク~バラノヴィッチ地区でのパルチザン掃討作戦。作戦は9月7日までのミンスク地区と9月7日~9月22日のバラノヴィッチ地区の二段階で実施されました。この作戦は高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」の管轄下で実施され、フリードリヒ・イェッケルン(Friedrich Jeckeln)SS大将及び警察大将が指揮しました。
この作戦により49ヶ所のパルチザンキャンプと陣地が破壊され、戦闘でパルチザン389名を殺害し、パルチザン容疑者1,274名とユダヤ人8,350名が処刑され、1,217名が収容所に送られ、重機関銃×3挺、軽機関銃×2挺、通信機1台、様々な種類の地雷及び手榴弾、馬62頭が押収されましたが、作戦自体は失敗とみなされました。
また9月22日~10月2日の間にバラノヴィチのユダヤ人ゲットーが破壊され、約6,000~8,350名が殺害されました。イェッケルン(Friedrich Jeckeln)SS大将及び警察大将はSS及び警察指導者「ミンスク」(SSPF Minsk)も兼任していましたが、この職は1942年10月に「成果の欠如」を理由に解任されました。
作戦参加兵力:
【Gruppe “Binz”】
第23SS警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第15(ラトビア)シューマ大隊
第18(ラトビア)シューマ大隊
第26(ラトビア)シューマ大隊
第256(エストニア)シューマ大隊
【Gruppe “Barkholt”】
第24SS警察連隊第1大隊(第83警察大隊)
リトアニア及びラトビアシューマ大隊
【Kampfgruppe “Schröder”】
第7地方防護警察小隊
第11地方防護警察小隊
第12地方防護警察小隊
第13地方防護警察小隊
第21地方防護警察小隊
第11通信中隊
<その他>
第1SS(自動車化)歩兵旅団
自動車化警察1個小隊
第33警察通信中隊
第24(ラトビア)シューマ大隊
第266(ラトビア)シューマ大隊
特別部隊「アラージ」(Sonderkommando Arajs)の1個中隊
・Hrom作戦
1942年8月23日~8月25日、ベラルーシのマズルイ(Mazyr)の南南西約55kmのスコロドノエ(Skarodnae)地区でのパルチザン掃討作戦で、約300名のパルチザン部隊が集結していると見られていました。ドイツ側は地元のウクライナ人民兵8名と民間人2名が死亡したのみで、パルチザン16名が死亡、容疑者2名が射殺されました。
作戦参加兵力:
スロヴァキア保安師団第101歩兵連隊第1大隊
第1中隊
迫撃砲小隊
重機関銃小隊
スロヴァキア保安師団第31砲兵連隊第3大隊の1個小隊(歩兵として)
スロヴァキア保安師団第102歩兵連隊の一部
スロヴァキア保安師団偵察グループの装甲車
リトアニア小隊×2個小隊
ラトビア中隊
ドイツ騎馬警察部隊の一部
・Karlsbad (カールスバート)作戦
1942年10月11日~10月23日、ベラルーシのベレジノBeresino北方~Chervino街道でのパルチザン掃討作戦。作戦地域内には兵力約6000名の強力なパルチザン部隊がいると見積もられていました。作戦の主力は第1SS(自動車化)歩兵旅団で、SS特別大隊「ディルレヴァンガー」、第13及び第14警察連隊の一部、第255(リトアニア)シューマ大隊、第638(フランス)擲弾兵連隊第1大隊、及び第600コサック大隊により強化されました。
1942年10月23日まで行われた作戦は結果的に失敗で、ドイツ側の損害は戦死24名、負傷者65名に対してパルチザンと容疑者1,051名が射殺され数か所の村落が焼き払われ家畜が挑発されましたが、これは作戦中に戦闘がほとんど行われなかった証拠であり、実態は住民の集団虐殺でした。
作戦参加兵力:
第13警察連隊
第14警察連隊
第1SS(自動車化)歩兵旅団
SS第8歩兵連隊
SS第10歩兵連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第225(リトアニア)シューマ大隊
第638(フランス)擲弾兵連隊第1大隊
第600コサック大隊
・Hamburg (ハンブルグ)作戦
1942年12月10日~12月20日、ベラルーシのスロニム(Slonim)地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではスロニムのゲットー撤去作戦も同時に行われ、ゲットー内のユダヤ人500名が殺害されたほか、パルチザン1,676名、容疑者1,501名、ユダヤ人2,158名、ジプシー30名の5,865名(資料によっては5,874名)が殺害されました。
この作戦によりパルチザン部隊はスロニム(Slonim)地区から南に脱出したため、12月22日~25日には「Altona (アルトナ)作戦」が実施されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe “von Gottberg”
第2警察連隊
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第24警察大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第115(ウクライナ)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊
・Altona (アルトナ)作戦
1942年12月22日~12月25日、ベラルーシのスロニム(Slonim)地区南方でのパルチザン掃討作戦。「ハンブルグ(Hamburg)作戦」でパルチザン部隊はスロニム(Slonim)地区から南に脱出したため追撃作戦として実施されました。この作戦によりパルチザン97名、容疑者785名、ユダヤ人126名、ジプシー24名が殺害されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe “von Gottberg”
第2警察連隊
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊)
第24警察大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第115(ウクライナ)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊
※おそらく戦闘団「フォン・ゴットベルク」が引き続き作戦に投入されたが、詳細資料なし。
中央軍集団の後ろの方<中編>は占領地の急拡大と1941/42年の冬季戦での損害に対応した治安部隊の増勢、激烈化するパルチザン掃討作戦のひな型となった「Bamberg(バンベルグ)作戦」の実施、「中央軍集団占領軍司令部」の改組による占領体制の強化など、大きな転換点となった1942年春~年末までの時期について書きました。
そしてパルチザン掃討作戦の参加部隊にはあれとか、これとか、お馴染みの部隊が登場するようになりました。<後編>は1943年春~1944年7月の中央軍集団の崩壊と治安部隊の断末魔・・・となりますが、予定は未定?
・独ソ開戦から1942年春頃までを書いた「中央軍集団の後ろの方<前編>」はこちら
・民政地区として統治された「白ロシア行政区」について書いた「中央軍集団のもっと後ろの方」はこちら
・保安師団について書いた「中央軍集団の後ろの方<中央軍集団の保安師団>」はこちら
2025.11.27 新規作成