泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

セント・ラースロー師団【後編】
Szent László Division

 「セント・ラースロー師団」の本隊がバラトン湖北岸で戦っていたころ、パーパPápa地区に残留した訓練部隊も西へ向かっており、別の戦いが行われていました。師団の残存部隊がムール川の防衛線に辿り着いたころにはハンガリーの領土はソ連軍に蹂躙されていましたが、それでも師団はスロベニア北部のドイツ本土併合地域である「ウンター(下)スタイアーマルクUntersteiermark」地方にあって、兵員、武器、弾薬などの全てが不足する中で様々な残存部隊をかき集めて再建されようとしていました。

セント・ラースロー師団【中編】

14.ラーバRába川~シャールバールSárvá地区の防衛戦
 3月24日、パーパPápa地区南方のTapolcafö地区にソ連軍が達し、パーパ地区に残留していた「第2降下猟兵大隊」、「空軍ライフル連隊第2大隊」は3月25日の夜にパーパを出発し、ラーバRába川沿いのヴァーグVág方面を目指し、その後はイヴァーンIvánを経由してソンバトヘイSzombathely方面へと向かいました。
 パーパの街を戦火から守るため「セント・ラースロー師団」とパーパ市長との間では無血開城が話し合われており、少数のドイツ軍が抵抗した程度で3月26日にはソ連軍の第9親衛軍と第6親衛戦車軍の一部がパーパ~デベツセルDevecser地区を占領しました。

 「第2降下猟兵大隊」はほとんどが実戦経験のない新兵のため一路オーストリアの国境を目指して後退し、4月3日にオーストリア国境に到達した頃には弾薬の不足、退却の繰り返しで疲弊して士気は低下していました。
 大隊はソンバトヘイSzombathely西方のブクスBucsu村~セントペテルファSzentpéterfa村の広い範囲で国境を越えましたが、その際にはこのまま戦闘を継続して西側連合軍に降伏するか、平服に着替えて民間人に紛れ込むか決断が求められ、主に家族持ちの兵士が平服に着替えて帰還を希望し、一部は森に隠れて「パルチザン」になることを選び、絶望のあまり何人かの自殺者も出ましたが大隊には約600名が残り、重火器中隊は後衛としてソ連軍に備えましたが結局戦闘は起こりませんでした。

 一方Juhász大尉の「空軍ライフル連隊第2大隊」は遅滞戦闘を行いながらラーバRába川の防衛線まで後退しました。ラーバ川防衛線の後方には「ズザンナZsuzsanna陣地」が構築されましたが、陣地は部分的に建設されたのみで未完成であまり役には立ちませんでした。
 それでも約35kmの「ズザンナ陣地」には4個戦闘団(兵力は各400~500名で対戦車砲×8~10門、3.7cm対戦車砲×2門、迫撃砲×6門装備)が配備されたほか、まだ戦闘力のあるハンガリー軍部隊はラーバ川~マルツァMarcal川の防衛線に配備され、特に東部のパーパ~ジュールGyőr地区はブラスチラバBratislava~ウィーンWien方面への進撃路にあたるため、モラビア地区から移動してきたハンガリー第1山岳旅団もアールパーシュÁrpás~ラバセチェニRábacsécsény地区の約10kmの防衛線に布陣しました。
 さらにハンガリー第2戦車師団の第3歩兵連隊、ヴィトニェードVitnyéd地区の突撃砲兵、ジェール・ザバデジGyőr-szabadhegy(現ジェールGyőrの南部)地区の野戦砲兵訓練・配備センターの警戒部隊、ネイNay中佐のSS連隊「ネイ」の一部もラーバ川の防衛線に布陣しました。
 ハンガリー軍守備隊は3月26日朝からソ連軍第4親衛軍の部隊と戦闘に入り、第1山岳旅団の一部はマルツァMarcal川の防衛線でソ連戦車13両を近接戦闘で撃破し、特にラバセントミハイRábaszentmihály地区では激戦が展開されました。
 しかし、ソ連軍の圧倒的な攻撃により大小の抵抗拠点は次々と攻略され、ソ連軍第23戦車軍団は残存戦闘車両わずか32両となりながらも3月28日にラーバ川を渡河し、その日のうちに第1親衛機械化旅団はラーバ川から約13km西方のチョルナCsornaを占領しました。

 シャールバールSárvárの空軍司令部ではソンバトヘイ地区防衛のためにラーバ川西部の防衛線に死に物狂いで兵力を送りこんでおり、空軍飛行学校新兵訓練連隊や航空部隊も陸戦部隊として投入されました。
 しかしその実態は稚拙な作戦・指揮と劣悪な訓練・装備でまともな戦力とは期待できませんでしたが、ともかくこれらの部隊は形式上「空軍ライフル連隊」の補充部隊として「セント・ラースロー師団」に配属されることになっていました。
 シェプラキ・ジェンシュSzéplaki Jenő空軍中尉の場合、病院から退院するとすぐに16~17歳の飛行学校生徒を率いてラーバ川の橋を守る任務を与えられました。戦線が崩壊した際に部隊は夜の闇に紛れて運よく森に退避することができ、シェプラキ中尉はその後ツェルトベクZeltweg~クラーゲンフルトKlagenfurt地区でイギリス軍に降伏しました。
 イメクス・ヨージェフImecs József空軍中尉は3月1日に「メッサーシュミットBf109」の訓練を修了し、「第101(Puma)防空戦闘機師団」に配属予定でしたが、出頭前に空軍ライフル中隊の指揮官への転属命令を受け、ラーバ川防衛線に派遣されました。中隊は武器もないまま約4kmの戦線を担当しましたが、中尉は10日後にタポルツァTapolca地区への転属命令を受けとり、後任の大尉に中隊を引き継いだためその後中隊の運命はわかりません。

 「第2近距離偵察飛行隊」もそんな急造陸戦部隊の一つで、飛行隊は装備機材を「メッサーシュミットBf109」に改編中でしたが、肝心の飛行機が到着しませんでした。このため、飛行隊はパイロット、整備士、写真技士、機銃整備係に教官パイロットも加わり陸戦部隊として改編され、ソンバトヘイ東方約15kmのヴァートVát村の訓練飛行場防衛に派遣されました。
 飛行隊はジュベール・エドウィンJoubert Edwin空軍大尉の指揮の下、兵力は約60名で軽火器しかありませんでしたが、飛行機から降ろした機関銃8門の他に将校3名は機関短銃を装備しており、地上戦訓練は一切受けていないものの事実上は火力の強力な小部隊でした。
 第2近距離偵察飛行隊は3月25日にソンバトヘイを出発しヴァート村に向かいましたが飛行場はすでにソ連軍に占領されており、ここで8cm対戦車砲を装備した「セント・ラースロー師団」残余(おそらく空軍ライフル連隊第2大隊の残余)と合流し、ヴァート村の入口で防衛線を構築しました。
 真夜中から迫撃砲の集中砲撃が始まり、夜明けまでに数名が戦死し多数の負傷者がでた外機関銃は5門が破壊され、負傷者の後送はできたものの一晩で兵力の半数以上が失われました。その後のソ連軍の攻撃により飛行隊はばらばらとなり、包囲を避けるためにこの場はなんとか後退できましたが、飛行隊の残余は4月上旬にオーストリア国境まで後退したところで解散したようです。
 ヴァート村の訓練飛行場は草地の滑走路を持つグライダーや練習機用の飛行場で、3月28日の時点で地上要員84名が駐屯していましたが、飛行機はあっても燃料がありませんでした。ソ連軍の攻撃は午前中に始まり、地上要員たちは歩兵戦闘に不慣れながらも奮戦して最初の攻撃を撃退しました。
 しかし2時間後に再開された攻撃により守備隊は全員射殺され、飛行場は占領されました。戦死者は2日間収容が許可されませんでしたが、その後ヴァート村の住民により埋葬されました。

 空軍の新兵訓練連隊はケーセグKőszeg~ソンバトヘイ~シャールバールSárvár~ケルメンドKörmend地区の橋頭堡の防衛戦に動員されましたが、3月29日にソンバトヘイが陥落するとドイツ第1山岳猟兵師団に半ば強制的に編入されてオーストリアの国境に向けて撤退しました。4月1日にケルメンド西方のピンカミンスゼントPinkamindszent地区で国境を越えた際に連隊は解隊され、兵員は様々なドイツ軍部隊に分割されました。

15.降下猟兵のパルチザン活動
 3月28日、バジBazsi地区からザラシャントZalaszántó地区に向けて南下するソ連軍に対してドイツ軍の第3騎兵師団/第31騎兵連隊が防衛線を展開し、一度はソ連軍の攻撃を撃退しましたが、その後の攻撃で撤退したため、「第1降下猟兵連隊」のタッソニーTassonyi少佐の戦闘団は取り残されて乱戦となりました。
 3月28日/29日の夜、「第1降下猟兵連隊」指揮官タッソニー・エドメルTassonyi Edömér少佐と「第1降下猟兵大隊」指揮官ウグロン・イシュトヴァーンUgron István大尉を含む降下猟兵28名(将校2名/下将校5名/兵士21名)はかねてから計画していた「パルチザン活動」を実行に移し、部隊から離脱してバジ村の南の森でソ連軍の前線を通過すると、すでにソ連軍戦線の遥か後方となったパーパPápa地区南東のバコニーBakony山地を目指しました。
 3月中旬、降下猟兵連隊がパーパ地区での再編中からタッソニー少佐は「パルチザン活動」を考え始めたようで、『パーパで最後まで抵抗せよと命令されたら、包囲後にパーパをあきらめ、東方に突破してソ連軍に一泡吹かせよう』と大隊指揮官たちと話し合っており、降下猟兵部隊が警戒部隊としてバコニー山地に派遣された際には武器・弾薬の集積所が設置されました。

 タッソニー少佐のグループはバジ村の南の森でソ連軍の前線を通過後、4日間でウジャUzsa~ニイラーディNyirádの森~タリアンドログドTaliándörögd~カブ・ヘギKab-Hegy山地~ウルクートÚrkút~アイカAjka地区を踏破し、バコニー山地のウゴドUgod村~バコニベルBakonybél村の間の森に到着することができました。グループはこの森に4月9日まで滞在し、その後平服に着替えると全員が民間人に紛れ込んで帰宅しました。
 タッソニー少佐はその後ブダペストへの偵察旅行を行い4月12日にブダペストでソ連軍のパトロールに逮捕されましたが、勲章(勲記のこと?)を所持していたためパルチザンではなく軍人として扱われ、捕虜収容所に収容されました。
 その後収容所を脱走して西側に逃亡し、途中で数名の捕虜仲間が殺害されながらもルーマニア~ハンガリーを経て1945年8月にオーストリアにたどり着き、イタリア~ブラジル~ドミニカを経て1950年にカナダに移住しました。

 3月28日、ザラシャント地区で戦車に支援された約1個連隊のソ連軍部隊に包囲された降下猟兵大隊は、一旦は包囲を突破しましたが約4km西方のヴィンドルニャラクVindornyalak地区で再び包囲され、28日/29日の夜に包囲を突破するまでに降下猟兵の60%が激しい戦闘で戦死しました。
 撤退した降下猟兵大隊では「パルチザン活動」の噂がすぐに広まり、第1降下猟兵中隊と第3降下猟兵中隊を中心とする降下猟兵の一部が大隊を離脱して「パルチザン活動」に参加しようとしました。彼らは平服を手に入れ、そのほとんどが何とか帰宅できましたが、一部は捕虜となりました。

16.理不尽な命令
 1945年3月31日1100時、第6軍司令官のヘルマン・バルクHermann Balck大将は驚きの命令を発令しました。

『1.1945年3月30日、「セント・ラースロー師団」は完全にソ連軍に寝返り、ドイツ軍に対する敵対行為を開始した。この恐るべき裏切り行為に対して第6軍は次のような対応措置の採用を余儀なくされた。
a. 全てのハンガリー軍部隊は直ちに武装解除される。全ての武器と弾薬はドイツ国防軍と帝国国防長官に引き渡されなければならない。
b. ハンガリー軍の自動車はすべてドイツ国防軍に引き渡される。武器と物資の集積場所はハンガリー第1軍に配属されたドイツ第6軍連絡将校(D.V.St.6.)と第6軍後方地域司令部(AOK. 6. Korück)との合意により決定される。
c. ハンガリー軍の馬車は部隊に残される。
2.家族を含む第6軍戦区にいるすべての部隊は、西約40kmに位置する定住地域まで徒歩で移動しなければならない。
主要道路を移動に使用することは禁止される。定住地域と移動ルートは第18軍管区からハンガリー第1軍司令部に派遣されたドイツ第6軍連絡将校(D.V.St.6.)と第18軍管区司令官代理(Stellv. V. Kpr. XVIII. A. K.)が協議すること。』


 ハンガリー人嫌いで知られるバルク大将は「裏切り行為」の情報の真偽を確認することなく、モスクワ放送の欺瞞的プロパガンダ放送を信じてしまったようで、国を守るために最後まで戦う覚悟のハンガリー軍部隊に対して武装解除という理不尽な報復措置を命じました。

 この「極悪非道」な命令によりハンガリー軍の武装解除と自動車を接収しただけでなく、避難する民間人を40km西方に再定住させるために幹線道路を使用しないことも取り決めており、避難民の移動にも深刻な影響を及ぼしました。
 バルク大将は回想録の中で、南方軍集団司令官オットー・ヴェーラーOtto Wöhler大将から命令を出すよう指示を受けたと書いており、このことはバルク大将の命令が南方軍集団司令部により承認された事実によって裏付けされています。
 しかし、この命令はドイツ第2戦車軍、第6SS戦車軍、第8軍には適用されませんでした。また4月の時点でバルク大将の第6軍の指揮下にハンガリー軍部隊は配属されていませんでしたが、オーストリア領内に後退してきたハンガリー軍部隊を手当たり次第に武装解除することには熱心でした。

 4月1日にオーストリアの国境を越えたプラッシー・ギジュズPlaóy Győző中尉の「第2降下猟兵大隊」は4月初めに先遣隊の宿舎が夜間に急襲されてピストルと手榴弾を残して武装解除され、その後グラーツGraz方面に送られました。大隊の本隊と後衛部隊は武装解除を拒否して戦闘態勢をとると、ドイツ軍部隊は武装解除をあきらめて撤退したためグラーツで先遣隊と合流できました。
 「第2降下猟兵大隊」はその後グラーツから南下し、トベルバートTobelbad~ヴィルドンWildon~ライブニッツLeibnitz~シュトラスStraß~シェンティリSentilj(現スロベニア)~ヴィデムWidem(現スロベニア)のルートで行軍し、4月後半にムール川の防衛線に辿り着き「第1降下猟兵大隊」と合流することができました。
 この状況に最も不快感を示したのは第2戦車軍司令官のマクシミリアン・デ・アンジェリスMaximilian de Angelis砲兵大将で、「裏切り者」のはずの「セント・ラースロー師団」ほかのハンガリー軍部隊の働きによって第2戦車軍は南西方面の防衛線を安定化できていました。
 デ・アンジェリス大将は後退してきたハンガリー軍5個師団(第20歩兵師団、第25歩兵師団、第7野戦補充師団、第8第戦補充師団、セント・ラースロー師団)を友軍部隊として丁重に扱いました。

 このような状況から、この命令の影響はハンガリー軍部隊よりもむしろ避難する民間人の集団に対する略奪や財産の没収という形で現れました。ハンガリー人避難民への暴力に最も熱心に取り組んだのは地元の党指導者、親衛隊と国民突撃隊、そしてヒトラーユーゲント達でした。
 「セント・ラースロー師団」の将校の家族たちもムールMura川を渡って避難中にこのような略奪や暴力の対象になりました。ムール川南岸の「ウンターステイヤーマルクUntersteiermark」地方はバルク大将の第6軍戦区ではなく、デ・アンジェリス大将の第2戦車軍戦区でしたが、ドイツ軍部隊は武器の捜索の名目で荷馬車を捜索し、親衛隊と党指導者は越権行為でありながら喜んで命令を実行しました。
 デ・アンジェリス大将はバルク大将の命令によって引き起こされる無意味な暴力行為を排除しようとしましたが、この努力も地元党指導者を通じた命令でなければならず、ゆっくりとしか実現しませんでした。

 バルク大将の命令を最も熱心に実行したのはグラーツ地区の第18軍管区司令官代理ジュリアス・リンゲルJulius Ringel山岳兵大将指揮下のドイツ軍部隊でした。このため残虐行為、嫌がらせ、難民への略奪などから難民グループの強制収容に至るまで、ほとんどの行為がオーストリアのシュタイアーマルクSteiermark地方で起きていました。
 バラトン湖での防衛戦の敗北の責任をドイツ軍ではなくハンガリー軍の「裏切り者」に押し付けようとしたのは明らかですが、実質3個大隊の「セント・ラースロー師団」が防衛戦の結果に決定的な影響を与えた可能性があるというのは、まったくばかげた話でした。

 4月13日、ベレグフィ・カーロイBeregfy Károly大佐は、ヘルマン・バルク大将の命令について、命令を実行した補充軍の司令官でもある親衛隊全国指導者ヒムラーに宛てて抗議の書簡を送り、結局国防軍最高司令部OKWは代表団を通じてベレグフィ大佐に謝罪しましたが、バルク大将だけは沈黙していました。師団司令部にはこの顛末が遅ればせながら知らされました。

17.ムールMura川の防衛戦
 「セント・ラースロー師団」が1945年4月初めにムールMura川沿いの防衛線にたどり着いた時にはハンガリー領のほとんどはソ連軍に占領されていました。4月3日の時点で師団の兵力は1,500~1,600名で、そのうち空軍ライフル兵600名、擲弾兵100名ほどであり、戦闘部隊の不足は後方部隊や砲のない砲兵で穴埋めするほかなく、ドイツ軍からはハンガリー製兵器の弾薬補給がないため弾薬はほとんどありませんでした。
 「第1降下猟兵大隊」の残余は4月1日にセントペテルフェルデSzentpéterfölde地区で戦闘団予備として待機しましたが、その後4月4日にムール川を越えてムラコズMuraköz地方(ハンガリーへの併合地域で現クロアチア領)に入り、さらに西側のヴェルンゼーWernsee地区(現スロベニア/ヴェルジェイVeržej)に移動しましたが、到着時には1個中隊の120名ほどの兵力しかありませんでした。

 4月3日午後、ソ連軍は装甲車両に支援されてヴェルンゼーWernsee(現ヴェルジェイVeržej)地区の北1kmの地点で突撃艇10~15隻でムール川の渡河を試みましたが、降下猟兵が反撃して阻止しました。ドイツ軍第118猟兵師団は夜のうちに反撃を計画し、師団からも降下猟兵の2個小隊、第20歩兵師団の軽騎兵小隊が強行偵察を行いました。
 4月4日早朝、土砂降りの中で出発した偵察部隊はムール川から約50mの地点で激しい迫撃砲と対戦車砲の砲撃を受けて撤退し、降下猟兵は11名が戦死し24名が負傷する手ひどい損害を被りました。

 師団の深刻な兵力不足を補うため、3月末までに大損害を被っていたハンガリー「第20歩兵師団」、「第7野戦補充師団」、「第8野戦補充師団」が解隊され、各師団の残余は補充兵として「セント・ラースロー師団」に編入されました。「第7野戦補充師団」には保安連隊「ムラヴィデクMuravidék」が、「第8野戦補充師団」には警察や国家憲兵隊からなる保安警戒連隊「バコニーBakony」と保安連隊「ドラヴァDráva」が配属されており、これら警察系部隊残余も師団に編入されました。

 Károly Bessenyi少佐の国家憲兵大隊「カポシュバールkaposvár」はドイツ軍第1山岳師団に配属されてマルカリMarcali地区にありましたが、ナジカニジャNagykanizsaの北東を経て後退し、ルッテンベルクLuttenberg(現スロベニア/Ivanci)地区に到着して3月末から4月初旬にかけて「セント・ラースロー師団」に配属されました。
 またナジ・アラダールNagy Aladár憲兵隊中佐の国家憲兵部隊はクロアチア北部の併合地域であるムラコズMuraköz地方に駐屯していた3個大隊からなる臨時連隊の残余で、この部隊も師団に編入されましたが部隊の詳細はわかりません。【補足-6】

 1945年4月5日、第2戦車軍の戦区変更により第1騎兵軍団はオーストリア国境沿いの「インペリアルImperial陣地」へと移動し、「セント・ラースロー師団」はムール川の防衛線で第22山岳軍団に転属となりました。第1騎兵軍団からの転出にあたりハルテネック騎兵大将は4月5日付けの軍団命令で感謝の意を表し「セント・ラースロー師団」の傑出した戦功を称えました。

 『本日「セント・ラースロー師団」は軍団の指揮下から離れた。ここ最近の試練に満ちた時期に、師団はしばしば非常に困難な状況においても祖国のために断固とした男らしい態度で立ち向かった。師団が私のリーダーシップに寄せてくれた信頼、友情に感謝し、今後の武運、軍旗と武器に栄光のあらんことを。 ハルテネクHarteneck』

 この命令は第1騎兵軍団の各部隊にも伝達され、セント・ラースロー師団への称賛は軍団の日常命令でも発表されました。これはバルク大将の例の命令への反論でもあると思われます。

 ルトカイRuttkay大尉による4月5日付けの報告書によると、師団兵力は将校62名/砲兵以外の兵1,029名で、部隊は過去5日間で160kmを戦闘しながら行軍し、最終日の平均行軍距離は65kmでした。


セント・ラースロー師団(1945年4月5日現在)

・第1降下猟兵大隊第1中隊:Kovács Ferenc大尉、将校7名/兵113名
・第1擲弾兵大隊第1中隊:Pálfi Sándor大尉、将校8名/兵165名
・第1空軍ライフル大隊第3中隊:Pályi György大尉、将校26名/兵430名
・工兵大隊:Mersits András大尉、将校16名/兵270名
・第20歩兵師団の軽騎兵1個中隊:Erödy-Harrach大尉、将校1名/兵31名
・偵察部隊の残余:兵10名
・戦車猟兵大隊及び偵察部隊の残余:兵20名
・通信大隊:Baráth András中佐
・国家憲兵大隊「カポシュバールkaposvár」:Károly Bessenyi少佐
・第1迫撃砲大隊第2中隊:将校4名/兵100名
・第11高射砲大隊:高射機関砲×15門
・第1セーケイszékely砲兵大隊(編成中):M18 8cm野砲×4門


 4月5日、師団右翼のムラフュレドMurafüred(現スロベニア/ギビナGibina)~ラッカニッツァRáckanizsa(現スロベニア/ラスクリジイェRazkrižje)地区には工兵大隊に対戦車砲2門が増強されて布陣し、空軍ライフル大隊は師団戦区中央のマウトドルフMauthdorf(現スロベニア/モタMota)地区に第366RAD大隊第3中隊と交代して布陣しました。
 師団左翼のkrapping(現スロベニア/クラピエKrapje)~ヴェルンゼーWernsee(現スロベニア/ヴェルジェイVeržej)~ムラヘリMurahely(現スロベニア/ドクレジョヴィエDokležovje)地区には擲弾兵大隊が布陣しました。
 師団司令部はルッテンベルクLuttenberg(現スロベニア/リュトメルLjutomer)地区に置かれ、ムール川の北岸にはソ連軍戦車も現れましたが、活動は低調で防衛線は静かでした。

 ムール川の防衛線には「マルギットMargit陣地」などに配備されていた「要塞大隊」も三々五々到着しており、「セント・ラースロー師団」に編入されて順次再編成されました。
 ゴール・ジェルジGoór György中佐の「第216要塞機関銃大隊」はドイツ軍第71歩兵師団に配属されていましたが、防衛戦で師団は壊滅し大隊も包囲されて200~300名がブルガリア軍に降伏するなど大損害を被りながらも突破に成功しました。
 途中ハンガリー軍の残存兵力がペッタウPettau(現スロベニア/プトゥイPtuj)地区に集結しているとの噂を聞いてレンダヴァLendva(現スロベニア/レンダヴァLendava)方面に向かい、ムラゼルダヘリMuraszerdahely(現クロアチア/ムスコ・スレディシュチMursko Središće)地区でムール川を渡り、4月3日にムール川の防衛線に到着しました。
 大隊の残存兵力は約300名で軽機関銃24挺、迫撃砲16門を装備しており、指揮官のゴール中佐とは旧知の仲であったシュギ少将は非常に喜び、この大隊は当分の間師団予備としてマイヤーホーファーMeierhofel村に布陣しました。

 「第212要塞大隊」の残余はZegle大尉に率いられ将校7名/兵144名、軽機関銃×13挺、小銃×53挺、荷馬車×20両、馬×42頭で大隊本部がないまま到着し、「第216要塞大隊」に編入されました。後日、大隊本部のみがペッタウ(現スロベニア/プトゥイ)地区から到着しました。
 「第216要塞機関銃大隊」は「ゴールGoór部隊」とも呼ばれ、この兵員の一部から「第216機関銃大隊」が兵力320名、機関銃×12挺、迫撃砲×12門で新編成され、「セント・ラースロー師団」に配属されました。

 「ゴール部隊」にはその後も第214要塞大隊と第217要塞機関銃大隊の残余も統合され、最終的には1個大隊半の増強大隊規模となりました。「第214要塞大隊」は4月6日に大隊副官が指揮して大隊本部のスタッフと補給段列のみでムール川防衛線に到着しました。
 一方、チェゴール・ヤーノシュCzegle János大尉の「第217要塞機関銃大隊」の残余は約200名で4月はじめに到着しましたが、補給将校や輸送段列はありませんでした。大隊はケストヘイKeszthely防衛戦でソ連軍の攻撃を2回にわたり撃退し、チェゴール大尉と部下数名はドイツ軍から2級鉄十字章を授与されており、大隊残余4月7日にZwen地区で独立中隊に改編され、その後「ゴール部隊」に編入されました。

 「第215要塞機関銃大隊」はSzörényi中佐を指揮官として兵力320名、小銃200挺、モーゼル機関銃12挺(1丁あたり弾薬200発)、迫撃砲12門(弾薬合計82発)を持って4月初めに到着しました。大隊は「ゴール部隊」と統合してSzörényi中佐を指揮官として連隊規模まで拡大する再建計画が進められました。【補足-7】

 師団砲兵についても到着する部隊を編入するとともに、第2戦車軍司令部に砲兵部隊の兵員、兵器、弾薬の不足を訴えました。

・第2セーケイszékely砲兵大隊:4月5日に到着。大隊本部、1個砲兵中隊(8cm砲×4門)、2個歩兵中隊(砲なし)、砲弾300発
・第1中迫撃砲大隊第2中隊:迫撃砲×4門、砲弾64発
・第6砲兵大隊第1中榴弾砲中隊:中榴弾砲×3門、弾薬なし
・第11高射砲大隊:高射機関砲×15門、1門に付き弾薬100発

 師団砲兵指揮官の努力により第1中迫撃砲大隊、第6砲兵大隊第1中榴弾砲中隊の残りの部隊、第37砲兵大隊がヴォグリショフゼンVogrischofzen(現スロベニア/ヴォグリチェフツィVogričevci)地区に集められました。
 第11高射砲大隊は第1中迫撃砲大隊の本隊と第37砲兵大隊の補給部隊から荷馬車×12両と馬具×12組の支給を受け、第6砲兵大隊で不足している砲員についても歩兵任務から解放して補充されました。

18.師団の再建
 1945年4月12日時点の戦闘序列によると、「セント・ラースロー師団」はドイツ本国への併合地域である「ウンター(下)シュタイアーマルクUntersteiermark」地方(現スロベニア北部)でムール川の防衛線に布陣しており、4月5日付けでマールブルク・アン・デア・ドラウMarburg an der Drau(現スロベニア/マリボルMaribor)地区のドイツ軍第2戦車軍/第22山岳軍団に配属されていました。


第2戦車軍(1945年4月12日現在)

第1(I)騎兵軍団
  第10降下猟兵師団(編成中)
  第117猟兵師団
  第3騎兵師団
  第14SS機甲擲弾兵師団(ウクライナ第1)
  第44歩兵師団
  第23戦車師団
第22(XXII)山岳軍団
  第9SS戦車師団「ホーヘンシュタウフェン」師団戦闘団
  第16SS機甲擲弾兵師団RFSS師団戦闘団
  セント・ラースロー師団
  第118猟兵師団
第68(LXVIII)軍団
  第13SS山岳師団「ハンジャール」
  第4騎兵師団
  第297歩兵師団
  第71歩兵師団
軍予備
  ハンガリー第20歩兵師団
  Laengenfelder師団


セント・ラースロー師団(1945年4月13日現在)

・降下猟兵大隊:将校3名/兵67名 (4月4日時点よりも将校4名/兵46名減少!)
  軽機関銃×6挺、対戦車重砲× 1門
・空軍ライフル大隊:将校18名/兵395名
  軽機関銃×35挺、重機関銃×15挺、8cm迫撃砲×4門、5cm擲弾発射機×1挺、2cm高射機関砲×1門、重対戦車砲×1 門
・ゴールGoór部隊:将校39名/兵472名、軽機関銃×38挺、8cm迫撃砲×9門
・擲弾兵大隊:将校11名/兵178名
  軽機関銃×14挺、重機関銃×5挺、8cm迫撃砲×4門、重対戦車砲× 4 門
・警察大隊:将校7名/兵239名
  軽機関銃×13挺、重機関銃×8挺、8cm迫撃砲×6門、5cm擲弾発射機×2挺、ハンガリー製軽機関銃×15挺
・工兵大隊:将校14名/兵140名、重機関銃×3挺、8cm迫撃砲×4門
・第16工兵中隊:将校3名/兵128名
  軽機関銃×6門、ハンガリー製重機関銃×2挺、8cm迫撃砲×2門
・エルジErody部隊(第20師団軽騎兵中隊):将校7名/兵58名、軽機関銃×3門
・通信部隊:将校16名/兵198名、軽機関銃×11挺
・第2セーケイszékely砲兵大隊:将校30名/兵362名
  重機関銃×6挺、8cm迫撃砲×4門、12cm迫撃砲×5門、105cm野砲×3門
・第11高射砲大隊第2中隊:将校16名/兵194名
  軽機関銃×4挺、4cm高射機関砲×10門


 師団の兵力は将校157名/兵2,431名で、軽機関銃×130挺、重機関銃×64挺(ハンガリー製×17挺含む)、8cm迫撃砲×33門、5cm擲弾発射機×3門、17cm擲弾発射機×8門、2cm高射機関砲×1門、4cm高射機関砲×10門、重対戦車砲×6門、10.5cm野砲×3門となっていました。

 ヘンキー=ヘニヒHenkey-Hőnig少佐の第20突撃砲大隊は4月12日にレンティLenti地区で国境を越えましたが、燃料不足のために突撃砲、対戦車砲、牽引車両をドイツ軍部隊に引き渡すことを余儀なくされ、兵員のみが師団に合流しました。
 少佐はすぐに大隊の再建に取り組み、とりあえずオートバイ偵察中隊とコルタイKoltay中尉により輸送段列が編成され、その後「第20突撃大隊」が再編成されました。


第20突撃大隊

指揮官:ヘンキー=ヘニヒHenkey-Hőnig少佐

大隊本部:ハンガリー製機関短銃SMG×4挺、ハンガリー製ライフル×8挺、ハンガリー製軽機関銃×2挺、シュタイヤー無線車×1両、クルップ車×1両、マロスMaros車×1両、オートバイ×2両

第20オートバイ偵察突撃小隊:ドイツ製機関短銃SMG×8挺、突撃銃Sturmgewehr×1挺、ドイツ製軽機関銃×9挺、サイドカー×9両、38M Botond×1両

第20突撃砲中隊:セント・ラースロー師団の戦車猟兵大隊残余から
対戦車砲×3門、ドイツ製軽機関銃×3挺、フォルクスワーゲン×1両、シュタイヤー無線車×1両、シュタイヤートラクター×3両、マロスMaros弾薬車×3両、オートバイ×2両

突撃中隊:指揮官シマクSimák中尉、兵力120名、ドイツ製兵器とパンツァーファウスト装備、荷馬車×25両を配備予定

修理班:各種トラック、燃料タンク車、オートバイなど自動車12両装備


 突撃大隊には4月18日までに十数両の各種自動車の追加配備が計画されましたが、燃料不足のため機動力は制限され、戦闘が陣地に接近したときのみ投入される予定でした。

 「第2降下猟兵大隊」は3月25日にパーパを出発後、4月3日に国境を越えてオーストリアのグラーツGrazに向かいましたが、その後南下して4月15日にムール川防衛線のヴェルンゼーwernsee(現スロベニア/ヴェルジェイVeržej)地区に到着し、「第1降下猟兵大隊」と合流しました。オーストリアで武装解除された先遣隊も武器不足の中ながらもここで再武装され、大隊はヴェルンゼー地区の東の防衛線に配置されました。
 再編された「第1降下猟兵大隊」と「第20突撃大隊」により「突撃連隊」が編成されましたが、シュギ師団長は「降下猟兵」の名前に拘りがあり「第1降下猟兵連隊」の名前は公式には変更されなかったようです。

 4月上旬にはラーバ川の防衛戦で大損害を被った「空軍ライフル連隊第2大隊」と「空軍ライフル予備連隊」の残余も到着し、「空軍ライフル連隊第1大隊」に合流して「空軍ライフル大隊」として再編されました。5月上旬に「擲弾兵大隊」の残余と統合されて「擲弾兵(猟兵)連隊」として再編成され、空軍ライフル予備連隊の大隊長のエレニ・アルパドErényi Árpád大佐が指揮を執りました。

 4月15日、シナイ・エルンSzinay Ernő大尉の「ドラヴァDráva大隊」が兵力700名、MG42機関銃×40挺、迫撃砲×16門の完全武装で到着し、強力な戦力として師団に加わりました。「ドラヴァ大隊」は第8野戦補充師団に配属されていた保安連隊「ドラヴァ」の残余から編成され、師団への合流により「ゴール部隊」の連隊への拡大計画は一気に具体化しました。
 「ゴール部隊」には「第215要塞機関銃大隊」と「第219要塞砲兵大隊」の残余も編入して「要塞大隊」に改編・改称されるとともに、「ドラヴァ大隊」と合わせて兵力700名の2個大隊による「要塞連隊」が編成され、ゴール・ジェルジGoór György中佐が指揮を執りました。
 その他に4月12日には騎馬警官17名と徒歩警官12名の部隊も師団に合流するなど様々な小部隊が編入され、師団は少しずつ戦力を取り戻していました。


セント・ラースロー師団(1945年4月)

師団司令部
  師団長:シュギ・ゾルターンSzügyi Zoltán少将
  参謀長:ルトカイ・イェンRuttkay Jenő大尉

第1降下猟兵(突撃)連隊:コヴァチ・フェレンツKovács Ferenc大尉
  第1降下猟兵大隊:第1、第2降下猟兵大隊を統合
  第2重装備大隊:第20突撃大隊より
擲弾兵(猟兵)連隊:エレニ・アルパドErényi Árpád大佐
  空軍ライフル大隊の残余
  擲弾兵大隊の残余
要塞連隊: ゴール・ジェルジGoór György中佐
  第1(要塞)大隊:チェゴール・ヤーノシュCzegle János大尉(ゴール部隊より)
  第2(ドラヴァ)大隊:シナイ・エルンSzinay Ernő大尉

第216機関銃大隊
国家憲兵大隊「カポシュバールkaposvár」: Bessenyi Károly少佐
騎馬警官中隊:ソレニSörényi大尉

第1中迫撃砲大隊
第6砲兵大隊
第9砲兵大隊
第76砲兵大隊
第1セーケイszékely砲兵大隊
第11高射砲大隊:高射機関砲×15門

戦闘工兵大隊「セント・ラースロー」
機甲偵察大隊「セント・ラースロー」
通信大隊「セント・ラースロー」

第20突撃砲大隊(在クラインツェル)
戦車駆逐大隊(在クラインツェル)
降下猟兵訓練大隊(在ザンクト・マルティン)
師団補給部隊本部


第22(XXII)山岳軍団(1945年4月30日現在)

セント・ラースロー師団
第297歩兵師団


第22(XXII)山岳軍団(1945年5月7日現在)

セント・ラースロー師団
第297歩兵師団


 「セント・ラースロー師団」の担当戦区となったムール川南岸にはすでに陣地が築かれており、工兵大隊が『重火器用の陣地を構築するだけで快適だった』とする記述がある一方で、4月中旬以降に降下猟兵達の入った陣地は『湿地帯で散兵豪はシラミの巣となっていた』とか『悪天候が続き、兵器を濡らさないためには兵士の方がずぶ濡れになった』との記述もあり、天候や季節の影響もあったようです。

19.最後の戦い
 4月25日にベルリンは完全に包囲されて4月30日にヒトラー総統が自殺し、5月2日にはついにベルリンは陥落しました。イタリア北部では5月4日にC軍集団が降伏し、総統の後継者に指名されたデーニッツ海軍元帥は5月7日に無条件降伏しました。
 5月6日、第2戦車軍はまとまってオーストリアの英軍占領地帯を目指して後退を開始し、「セント・ラースロー師団」は右翼から順にムール川の防衛線を離れ、師団の部隊で最も強力な「ドラヴァ大隊」が後衛を勤めました。
 5月7日~9日の撤退の間、地元のパルチザングループのスロベニア人、クロアチア人、オーストリア人グループ、さらに元第25歩兵師団のハンガリー人パルチザングループも師団の武装解除により武器を手に入れようと接触してきましたが、師団が完全武装のまま秩序正しく撤退するのを見て諦めるしかありませんでした。
 1945年5月8日、戦争終結の知らせが届くと師団の目標は英軍占領地域に辿り着くこととなり、オーストリアのドイチュランツベルクDeutschlandsberg地区を目指して行軍が始まりましたが険しい山道は撤退するドイツ軍で渋滞しており、いたるところにドイツ兵の投棄した装備品や兵器が散乱していました。師団長は武器の回収を指示しドイツ製の最新兵器が選り取り見取りで、特に機関短銃や突撃銃が人気の兵器として回収されました。

 5月10日、休戦協定の発効により武器使用が禁止されたにもかかわらずソ連軍の追跡は続いており、この時点で師団の兵力は約11,000名でドイッチェランズベルグ地区に到着しましたが、英軍への降伏を確実にするにはコアアルペKoralpe山地の峠道を越えて西側連合軍の占領地域に達する必要があり、この山越えでもあと一歩でソ連軍に追いつかれて拘束される部隊が相次ぎ、まだ休むことはできませんでした。
 ドイッチェランズベルグでは休戦協定を順守したチェゴールCzegle大尉の「要塞大隊」、第84砲兵大隊、第11高射砲大隊第2中隊などが武装解除され、グラーツの捕虜収容所に送られました。
 擲弾兵大隊第2中隊はコアアルペKoralpe山地の峠近くでソ連軍に発砲され、拾い集めた自動火器と豊富な弾薬による強力な火力で反撃しれ峠を越えることができました!。
 一方ですでに「戦争は終わった」と考えて部隊を離れて東に向かい、ハンガリーに帰国しようとしたグールプもありましたが、すぐにソ連軍に捕らえられて捕虜収容所に送られました。

 ドイツ軍のハンガリー人部隊である第2ハンガリー陸軍師団「Goergey 」のランツィ・イシュトヴァーンLánczi István大尉の率いる将校19名/兵26名の小部隊が戦争の最後の瞬間に師団砲兵指揮官の指揮下に加わり、砲のない砲兵を集めて「ランツィ部隊」と呼ばれました。この師団はドイツ軍の6番目のハンガリー人師団として1944年10月に計画され、1945年3月から編成が開始されたばかりで、ほとんど実態はありませんでした。
 師団のほとんどの部隊がコアアルペKoralpe山地を越えて英軍に降伏し、降下猟兵部隊もプライテネックPreitenegg地区で英軍に降伏できました。英軍に降伏した部隊はグッタリングGuttaring地区に収容されて武装解除されましたが、将校はピストルの携行が許可されました。
 老人と子供ばかりで丸腰で敗走するドイツ軍とくらべ、新兵と中年の応召兵がほとんどとはいえドイツ製の最新兵器を装備し、部隊としてまとまって行軍する「セント・ラースロー師団」が英軍から「精鋭部隊」と見えたのは仕方ないかもしれませんが、師団の実態は消耗した降下猟兵、陸軍と空軍の補充部隊、国家憲兵などの警察系部隊の寄せ集めでした。
 英軍はチトーパルチザンの過激な越境活動を警戒しており、師団は治安維持のために一時的に武装することが許可され、オーストリア中南部各地の英軍管轄下の収容所で警備任務に従事し、その軍律を高く評価されました。1945年10月1日に武装解除された後はドイツとオーストリアの捕虜収容所に送られ、ソ連軍に引き渡されなかったのは幸運でした。
 英軍に降伏できたことで多くのハンガリー人兵士が生き残り、彼らの多くがカナダ、アメリカ又は西側諸国に移住しましたが、少数は帰国を希望してハンガリーに戻りました。イギリス軍地域に達するまでにわずか数時間の差でソ連軍に捕らえられた者たちは収容所に送られて何年もの強制労働に従事させられました。
 師団長のシュギ・ゾルターンSzügyi Zoltán少将は西側への亡命もできたはずですがハンガリーへの帰国を選び、1948年2月23日に人民法院により10年の刑を宣告されましたが、1949年11月28日の人民法院によって無期懲役を宣告されました。1956年の革命の際に釈放されましたが再び投獄され、1957年秋に「恩赦」により釈放されました。

 国家存亡の時期に編成された「セント・ラースロー師団」は、1944年12月のイペリ川とガラム(フロン)川の戦い、1945年3月のバラトン湖北岸からムール川への後退戦で二度にわたり壊滅的な大損害を被りました。師団はドイツ軍の思惑に翻弄されながらも、ハンガリー全土がソ連軍に蹂躙された後もムール川の防衛線であらゆる残存兵力をかき集めて再建され、最後はオーストリアで英軍に降伏できたことで多くのハンガリー人兵士が生き残り、師団首脳陣が検討していた西側への『別のアプローチ』が実現することになりました。


第1降下猟兵大隊

セント・ラースロー師団【前編】

セント・ラースロー師団【中編】


ハンガリーの地名・人名表記について(2025.1.10)
・地名表記は当時ハンガリー領であった場所はできるだけ「ハンガリー語カタカナ表記+現地語表記(現○○国/カタカナ表記+現地語表記」の例により表記
・ハンガリー人の人名はハンガリー語表記のとおり氏・名の順で「カタカナ表記+現地語表記」の例により表記
・章の初出の地名、人名は「カタカナ表記+現地語表記」で表記し、2回目以降はカタカナのみ表記
・カタカナ表記はグーグル翻訳に頼っていますので、正確なものではありません。


【師団の配属先推移】
1944年10月12日~12月19日 ハンガリー第3軍予備
1944年12月19日~1945年3月15日 第6軍/第72戦車軍団
1945年3月15日~3月19日 第2戦車軍/第22山岳軍団
1945年3月19日~4月12日 第6軍/ハンガリー第2軍団
  1945年3月22日~3月24日 第4SS戦車軍団
  1945年3月24日~4月12日 第1騎兵軍団
1945年4月12日~5月8日 第2戦車軍/第22山岳軍団


【補足-6】
保安連隊


 1944年10月15日にサラシ政権が誕生するとすべての国家憲兵と警察部隊は新たに任命された国家憲兵・警察監察官の下で戦闘部隊として統合されました。ソ連軍のハンガリー本土への進出が進むと、バラトン湖南部の「マルギットMargit陣地」強化のため、多くの国家憲兵隊と警察部隊が送られました。これらは「治安部隊karhatalmi」と呼ばれ、あらゆる人的資源がかき集められて陸軍部隊や野戦部隊の予備兵力となりました。

・保安連隊「ムラヴィデクMuravidék」:陸軍の補充部隊による4個大隊から編成されており、古いフランス製小銃で武装して「第7野戦補充師団」に編入されました。

・保安警戒連隊「バコニーBakony」:1944年12月21日、第2戦車軍の後方地域で保安大隊「ソンバトヘイSzombathely」を含む4個大隊から保安連隊「バコニーBakony」として編成され、マルツァ・サーンドールMartsa Sándor大佐が指揮しました。
 1945年1月24日に保安警戒連隊「バコニーBakony」と改編・改称され、1945年3月9日から「第8野戦補充師団」に編入され同時にマルツァ大佐が師団長に就任しました。この時点で連隊の兵力は約2,800名でしたが、3月31日までの戦闘で約2,200名となっていました。

・保安連隊「ドラヴァDráva」:1944年秋にバラトン湖南西部のナジカニジャNagykanizsa~レンティLenti地区で警察官や国家憲兵大隊の3個大隊から編成され、第3大隊には補充訓練大隊「ソンバトヘイSzombathely」が編入されました。連隊はペーチュPécs地区の第4軍管区司令部の指揮下にあり、ハンガリー南西部のドラヴァ川とムール川沿いの地域で鉄道の警備や治安任務に従事しましたが、後に「第8野戦補充師団」に編入され、師団の解隊後に連隊の残余は「ドラヴァ大隊」として「セント・ラースロー師団」に編入されました。

【戻る】


【補足-7】
ハンガリー要塞大隊

Erőd Zászlólj

 セーケイSzékler地方に駐屯していたハンガリー国境防衛中隊は、1944年9月7日のドイツ第6軍による北トランシルバニア地方から撤退と同時に撤退し、この中隊群から1945年1月に、4個要塞大隊、4個要塞機関銃大隊、2個要塞砲兵大隊の10個大隊が再編成されました。
 この要塞大隊はもっぱら陣地防御用の部隊で、敵が突破した場合でも陣地に踏みとどまり、前線背後で敵の足止めを行い突破の拡大を阻止することが期待されており、通常は新兵が配属され主にドイツ製兵器や鹵獲兵器が配備されました。
 これらの大隊の兵力は平均して400~500名でしたが、部隊によっては1,000名の大隊もあり、要塞大隊は小銃の他に通常は機関銃×24挺、迫撃砲×16門を、要塞砲兵大隊はソ連製の76.2mm砲×36門を装備していたとされますが、これも大隊ごとにかなり差があったようです。

第211要塞大隊:詳細不明
第212要塞大隊:指揮官Zegle大尉
第213要塞大隊:詳細不明
第214要塞大隊:詳細不明
第215要塞機関銃大隊:指揮官Szörényi中佐
第216要塞機関銃大隊:指揮官Goór György中佐
第217要塞機関銃大隊:指揮官Czegle János大尉
第218要塞機関銃大隊:3個ライフル中隊、1個重装備中隊
  小銃×360挺、機関銃×12挺、迫撃砲×54門、機関短銃(SMG)×130挺を装備
第219要塞砲兵大隊:詳細不明
第220要塞砲兵大隊:3個砲兵中隊
  機関銃×14挺、ソ連製対戦車砲×10門を装備

【戻る】


2025.1.10 新規作成

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