泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

セント・ラースロー師団【前編】
Szent László Division

 洋の東西を問わず戦で負けが込んでくると勇ましい部隊名が付けられがちですが、それはハンガリー王国軍でも例外ではありませんでした。1944年10月に編成が開始され、中世にハンガリーの版図拡大を果たし、聖人にも列せられた『ラースローI世』の名を冠した「セント・ラースロー師団」も末期に登場したそんな部隊の一つです。資料を見ると「精鋭」とか「エリート」の文字とともに語られる「セント・ラースロー師団」ですが、実際はどうだったのでしょうか?

1.師団の創設

 「セント・ラースロー師団」は1944年10月12日に編成が開始され、師団の中核となったのは「第1降下猟兵大隊」を連隊規模に拡大した「第1降下猟兵連隊」であり、他に「擲弾兵連隊」と「空軍ライフル連隊」の2個歩兵連隊が新編成され、師団長には第1降下猟兵大隊を指揮したシュギ・ゾルターン(Szügyi Zoltán)大佐が任命されるとともに10月20日付けで少将に昇進しました。
 「セント・ラースロー師団」は一般的には精鋭師団のイメージで語られますが、降下猟兵連隊以外は陸軍と空軍の残存部隊や学徒兵、それに警察部隊の寄せ集めであり第3軍予備として部隊編成と練成に努めていましたが、12月19日付けで第8軍/第72軍団に配属され、戦闘準備の整った部隊から順次戦線に投入されました。


セント・ラースロー師団(1944年10月現在)
Szent László Division

師団司令部
第1降下猟兵連隊(László Pokorny少将)
  第1降下猟兵大隊
  第2降下猟兵大隊
  降下猟兵訓練大隊(在パーパ)
擲弾兵連隊(Stefán Valér中佐)
  第1大隊
  第2大隊:国家憲兵大隊より(Békássy Mikló大尉)
空軍ライフル連隊(István Heinrich中佐)
  第1大隊
  第2大隊
第1砲兵大隊(第1迫撃砲大隊)
第6砲兵大隊
第9砲兵大隊
第76砲兵大隊
第1ロケット砲大隊
第20突撃砲大隊
戦闘工兵大隊「セント・ラースロー」(第53工兵大隊)
機甲偵察大隊「セント・ラースロー」(László Nyéki-Takáts大尉)
戦車猟兵大隊「セント・ラースロー」
通信大隊「セント・ラースロー」
師団補給部隊本部


・擲弾兵連隊
 10月18日に編成が発令され、Stefán Valér中佐が指揮しました。連隊の基幹要員は第201独立戦車大隊の要員が充てられる予定でしたが、大隊はドナウ川沿いのDunaföldvár橋頭堡での防衛戦に投入されたため実現しませんでした。このためシュギ大佐は10月15日の矢十字党によるクーデター(ドイツ軍名称:ミッキーマウス作戦)の際にドイツ軍に拘束された王宮警護隊をセント・ラースロー師団に志願させることを条件に釈放させるよう交渉し、ドイツ軍もこの提案を承認して王宮警護隊は全員「志願」し、連隊の基幹要員が確保されました。
 兵員については10月21日に参謀総長命令により10月24日までにの供出が命令され、第5予備師団から2,000名、第5地区司令部(Baja及びBátaszék)地区から4,000名が徴兵されました。このため兵員の25%はバシュカ地方出身の38歳~48歳のハンガリー人応召兵で、残りは18歳~19歳の新兵でした。
 第2大隊については10月下旬にBékássy Mikló大尉を指揮官として新編成された国家憲兵大隊が編入されました。ハンガリー国家憲兵隊は1881年に創設され、武装警察隊ともいえる準軍事組織で内務省が管轄して主として地方都市と市町村の治安維持を担いました。1944年秋には警察組織と統合され、本土防衛のため多くの国家憲兵隊と警察部隊が送られました。これらは「治安部隊」(karhatalmi)と呼ばれており、陸軍部隊や野戦部隊の予備兵力はもちろんのこと、国家憲兵隊と警察部隊からもあらゆる人的資源がかき集められました。

・空軍ライフル連隊
 1944年10月末に編成され、歩兵出身でノビ・サド(Novi Sad)の飛行学校元校長のIstván Heinrich中佐が指揮しました。兵員は主にセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvár)の空軍特別訓練連隊、武器・爆弾訓練部隊、Nádasdladányの写真・気象通信部隊、ノビ・サド(Novi Sad)の整備学校生徒(73名)、各飛行場の地上要員からの志願兵で構成されました。連隊は2個大隊(各4個中隊)からなり、それぞれPályi György大尉とFreyer Frigyes中尉が指揮をとり、各大隊は約800名、連隊は約2,000名の兵力となりました。
 将校と下士官の大半は東部戦線での戦闘と叙勲経験のある古兵が充てられましたが、小隊長には1944年11月15日に飛行学校を卒業して最後の任官式を行った新任中尉や少尉が充てられ、歩兵戦闘でいきなり30名~40名の指揮官となりました。歩兵戦闘訓練のためには、パーパ(Pápa)地区の降下猟兵部隊から分遣隊が派遣されましたが、地上戦の経験不足は勇気と犠牲的精神だけでは補うことはできませんでした。連隊の編成と訓練はPolgárdiで開始されましたが、ソ連軍の接近に伴いKenyeri地区とMesteri地区へと鉄道輸送されました。

・第20突撃砲大隊
 1944年9月に「第6突撃砲訓練大隊」から編成され、10月12日付けで「セント・ラースロー師団」に配属されました。当初はズーリーニII(Zrinyi II)とおそらく15両のヘッツァーを装備したと思われますが、Tiszafüred橋頭堡の戦闘で戦力を完全に消耗しており、配属の時点で休養と再編成が必要でした。
 大隊はその後補充としてヘッツァーを受け取り、12月19日に再び戦闘準備を完了したと言われますが、実はそうでもなかったようです。12月20日の時点でKővágóörs地区には大隊の25両のヘッツァーがありましたが、乗員の訓練はエステルゴム練兵場で行われており、輸送車両の不足で移動できない状態で師団の戦力とはなりませんでした。

2.第1降下猟兵連隊
 第1降下猟兵連隊は既存の「第1降下猟兵大隊」と新編成の「第2降下猟兵大隊」により構成され、連隊の指揮はLászló Pokorny少将が執り師団戦力の中核となりました。「第1降下猟兵大隊」はドイツ軍と矢十字党によるクーデター(ドイツ軍呼称:ミッキーマウス作戦)が起こったまさに当日の10月15日にカルパチア地方の前線からブダペストへと帰還しており、これはドイツ軍の動きを警戒したホルティー提督が護衛部隊として呼び戻したとの説もありますが、真相はわかりません。
 大隊は10月23日からブダペスト南東郊外のソロクシャール(Soroksár)地区とドゥナハラスティ(Dunaharaszti)地区の防衛線に配置されました。ソロクシャール地区に対するソ連軍の攻撃は11月2日に開始されましたが、攻撃はわずか10分ほどで撃退されました。翌11月3日の夜、降下猟兵110名が機関銃とニムロッド対空戦車に支援されて反撃を実施し、ソ連軍は負傷者と装備品の大半を残して逃走しました。11月4日、ソ連軍は歩兵と戦車により攻撃してきましたが、ハンガリー軍守備隊は戦車を通過させた後に歩兵を挟み撃ちにして立ち往生させ、孤立した戦車は包囲して撃破しまいした。
 このような状況は大隊指揮官のPokorny少佐を大胆にしすぎてしまったようで、11月8日には大隊予備のわずか38名の降下猟兵によるTaksony村への攻撃が実施されました。砲兵の支援はなく、わずかにニムロッド対空戦車の支援のみ!攻撃は少佐が榴散弾の破片で重傷を負った時点で中止され、降下猟兵は戦死10名、負傷者17名の損害をだして元の陣地に戻り、Taksony村奪還はなりませんでした。
 この戦闘はハンガリー降下猟兵がブダペスト防衛戦のソロクシャール地区とドゥナハラスティ地区で行った最後の攻撃となりました。11月12日、「第1降下猟兵大隊」は戦線から引き揚げられ、休養と再編成が行われましたが、大隊は10日間の防衛戦で40%の死傷者を出す損害を被っていました。
 11月13日、ソ連軍が機甲擲弾兵師団「フェルト・ヘルン・ハレ」の前線を突破し、「第1降下猟兵大隊」はブダペスト東側のIsaszeg村に急行しました。到着してみるとそこはトウモロコシ畑が広がる「クソッたれ」な場所でしたが、幸運なことに砲兵中隊の馬車を見かけた程度で他にソ連軍の気配はなく、霧のためにソ連軍から遮蔽されていたため大隊はドイツ軍観測班が陣取る高台に大急ぎで塹壕を掘ることができました。
 しかし、降下猟兵は常に狙撃され、正確に調停された迫撃砲や戦車砲のために日中の移動は不可能な状態で、戦場は近代的な戦争というよりも両軍の強力な砲兵の存在と共にまるで第一次大戦のような様相でした。11月23日、「第1降下猟兵大隊」は10日間の絶望的な戦いの後前線から引き揚げられ、大隊はやっとパーパ(Pápa)地区に帰還できましたが、ブタペスト防衛戦の間に戦死、負傷、行方不明により兵力の50%にあたる損害を被っていました。

 「第2降下猟兵大隊」の設立は1944年10月17日に発令され、新設大隊の兵員の大部分は徴兵されたばかりの17~18歳の新兵でしたが、「第1降下猟兵大隊」のベテランが基幹要員となり、これに機関銃、迫撃砲、無線機の訓練ができる専門職の兵員が他部隊から加わりました。新大隊の新兵はレベンテ運動(Leventeszervezetek)でパラシュート降下訓練を経験したものが選抜されており、降下訓練は1回だけに短縮される代わりに野戦戦闘訓練が重視されました。
 若い降下猟兵は基礎訓練の後、11月1日に最初で唯一のパラシュート降下を行いました。約1,000名の大規模な降下は一日中続き、1名が事故により死亡しましたが、新兵たちの士気は衰えませんでした。続いて実弾射撃訓練、強行軍、武器整備などのほか大規模な地上戦訓練が行われました。第2降下猟兵大隊の新編成により念願の「第1降下猟兵連隊」編成が実現し兵力は約1,400名となっていましたが、これは第2大隊と連隊本部、連隊の重装備中隊の合計ではないかと思われます。
 「第2降下猟兵大隊」は11月28日に動員され、12月1日にはブダペスト南側のチェペル(Csepel)地区の防衛陣地に入りました。チェペル島の北端にあたるこの陣地はよく準備されており、地雷原や鉄条網のほかに電気柵も設置され、さらに前線背後には大規模な砲兵部隊も集結しており120門の大砲が降下猟兵を支援しました。これは実戦経験のない大隊にとっていわば「ならし運転」期間でもあり、完備した陣地のおかげで12月6日のソ連軍の攻撃は簡単に撃退されました。
 「第2降下猟兵大隊」は12月12日にこの陣地を離れ、13日にはトラックと徴用された路線バスによりプダペスト北郊のフォート(Fót)地区へと移動しました。この地区は機甲擲弾兵師団「フェルト・ヘルン・ハレ」の担当戦区で、11月13日から「第1降下猟兵大隊」が布陣したIsaszeg村の北西約10kmの地区でしたが、12月12日のソ連軍の攻撃により地区の2/3がソ連軍に占領され、街の北北東にある288高地(Fóti Somlyó)に配置されたハンガリー警察突撃大隊が撃退され、フォート(Fót)~モジョロード(Mogyoród)間の道路が遮断される危機にありました。
 「第2降下猟兵大隊」の兵力は移動の時点で1,350名となっており、正午には第6中隊が先遣隊として到着し、フォートの南にあるカロリ城(Károlyi-kastély)で戦況説明を受けました。フォート地区の2/3を占領したソ連軍の攻撃はさらにラーコシュパロタ(Rakospalota)地区~ウーイペシュト地区に向かうと思われ、そうなれば首都の北部にある工業地帯が深刻な脅威に晒されることとなり、さらにブダペスト中心部への進撃も可能となる恐れがありました。このため反撃によりフォート地区全域を奪還し、ソ連軍を北北東の288高地(Fóti Somlyó)の背後に押し戻すことを意図していましたが、反撃に投入できる兵力は次のような部隊であり、あてにできるのは「第2降下猟兵大隊」のみといえるのが実態でした。


・ハンガリー第1降下猟兵連隊第2大隊
・消耗した2個機甲工兵中隊(兵力28名と42名)
・火炎放射車両(Sdkfz251/16):おそらく上記工兵中隊の装備車両
・ティーガーIIとパンターの混成戦車中隊
・損傷した突撃砲
・ドイツ軍砲兵4門(15㎝重榴弾砲又は8.8㎝高射砲)


 第6中隊の偵察班がFóti Somlyóの丘を偵察すると、丘の上の陣地には退却した警察部隊の装備が散乱したままになっており、モジョロード(Mogyoród)へ向かう道路の北側にあるこの丘は防衛陣地として絶対に再占領が必要でした。第6中隊による攻撃は緑の信号弾を合図に開始され比較的短時間の戦闘で占領できましたが、ソ連軍迫撃砲弾による損害は大きく中隊は10~15%の損害を被っていました。
 フォート(Fót)地区への攻撃は12月13日の日没後、17 30時頃から第4中隊、第5中隊、機関銃中隊、重装備中隊により「機甲擲弾兵師団FHH」の部隊と協力して開始しされました。第4中隊と第5中隊は中央部を前進し、FHHの部隊は町の西部と東部で前進しました。攻撃は順調に進み当初の目標では14日朝0600時までに到達することとなっていた町の北西部の鉄道線路へは13日の2200時には到達することができ、新しい防衛線が構築されました。日没後の攻撃はソ連軍にとって奇襲となり、町を攻撃した各中隊の損害は4~5%に留まり、攻撃は成功しました。
 しかしこの勝利も長続きはせず、翌12月14日にはソ連軍第25親衛狙撃兵師団の部隊はドウナケシ(Dunakeszi)中心部のAlag地区に突入し、その後の激しい市街戦によって機甲擲弾兵師団FHHの装甲車両が撃退はしたものの、攻撃により守備隊は大きな損害を被りました。一方東側のモジョロード(Mogyoród)地区ではソ連軍第141狙撃兵師団は9両の戦闘車両の支援を受けた攻撃により町が占領されました。ドイツ・ハンガリー軍部隊は2回の反撃を行ったものの、町を奪還するまでの戦力は残されておらず、モジョロード(Mogyoród)南西1㎞の地点に新しい防衛線が構築されましたが、これはフォート(Fót)南東の位置となり、前日に「第2降下猟兵大隊」の第6中隊が奪還した288高地(Fóti Somlyó)の陣地の側面を脅かされる位置となっていました。「機甲擲弾兵師団FHH」は2両のタイガーII、一握りのパンター戦車とIV号戦車/70など合計12両を投入してモジョロード(Mogyoród)の西側600mの道路上でソ連軍戦車9両と交戦しました。ドイツ軍戦車がソ連軍戦車4両を撃破し、5両目は第6中隊の降下猟兵がパンツァーファウスト又はパンツァーシュレックにより撃破し、ソ連軍の攻撃を当面阻止することに成功しました。
 フォート(Fót)地区への北側からの攻撃は続き、ソ連軍は再三町への突入に成功しましたがそのたびにドイツ軍が撃退しました。東側のモジョロード(Mogyoród)が占領されたためソ連砲兵、戦車砲、多連装ロケット砲の攻撃はフォート(Fót)地区の「第2降下猟兵大隊」を苦しめることとなり、このため大隊は街と288高地(Fóti Somlyó)の陣地を放棄し、南側のモジョロード川沿いの新防衛線へと後退しました。「第2降下猟兵大隊」はこのあとドナウ川屈曲部北側のイペリ(Ipoly)川の防衛線へと移動し、12月20日には大隊の先遣隊がイペリ川東岸のLetkés地区でハンガリー第2戦車師団戦区に配属され、早速反撃に投入されました。

 「第2降下猟兵大隊」がプダペスト防衛線で戦っていたころ、「第1降下猟兵大隊」はパーパ(Pápa)地区で予備役兵、志願兵、回復兵などにより再編成が進められましたが、それもつかの間で大隊はバラトン湖南西のケストヘイ(Keszthely)地区へと再び出動しました。
 大隊はケストヘイ(Keszthely)地区からさらに南東約17㎞のケテリ(Kéthely)村に到着すると、12月6日にドイツ軍の自走砲と共に攻撃を開始し最小限の損害でソ連軍を撃退しました。翌日の夜明けにもソ連軍の小規模な攻撃を撃退すると、さらに戦略的に重要な郊外のフンヤディの城館(Hunyadi-castle)へと進撃し、88名の損害を被りながらも夕方までに占領し、以後12月18日まで城館へのソ連軍の攻撃を撃退し続けました。
 12月18日、ソ連軍は総攻撃を開始しフンヤディの城館を奪取するため砲撃と火炎放射器で猛攻を加え、最後は白兵戦が展開されましたが、その日の終わりまで降下猟兵は城館を守り通しました。降下猟兵は間もなく撤退命令を受け取ってフンヤディの城館から撤退し、その後12月23日に大隊は前線を離れてパーパ(Pápa)地区へと帰還しました。

3.イペリ川橋頭堡の防衛戦
 1944年12月14日、イペリ川沿いのサヒ(Šahy)地区へのソ連軍第6親衛戦車軍による攻撃は守備隊のSS突撃旅団「ディルレヴァンガー」の2個大隊を蹴散らし、12月20日までに北西約20kmのレビツェ(Leve/Levice)とガラム川東岸のGaramszentgyörgy(現Jur nad Hronom)に達しました。これによりイペリ川とガラム川防衛線の第6軍左翼には深さ約20kmに及ぶ裂け目ができてしまいました。
 このためドイツ軍司令部は12月18日に第8戦車師団を中心として第3戦車師団及び第6戦車師団の戦車部隊以外の大隊群を第57戦車軍団にまとめ、サヒ(Šahy)地区で第8軍右翼と連絡を回復してソ連軍の突破口を塞ぐため、サヒ(Šahy)地区への反撃作戦に投入しました。反撃は12月21日から開始されましたが、ソ連軍はガラム川沿いに南下してイペリ川防衛線のドイツ・ハンガリー軍部隊の包囲殲滅を狙っており、北からは新たに第6親衛戦車軍が援軍として投入されました。
 第72軍団はイペリ川東岸でソ連軍の攻撃に対して防衛戦を展開しており、軍団戦区左翼では第8戦車師団の戦闘団「Amsel」(増強された第43戦車猟兵大隊)がNagybörzsönyをソ連軍第6親衛空挺師団から奪還し、Nagybörzsönyから北東5kmのPerőcsényでも別の部隊がソ連軍に反撃し、さらに北東10kmのBernecebarátiを奪還しました。イペリ川西岸のIpolyszalka(現Salka)でも渡河してきたソ連軍部隊を撃退し、西岸の幹線道路を確保しました。

 12月19日付けで第6軍に配属された「セント・ラースロー師団」は駐屯地のパーパ(Pápa)地区から第72軍団戦区に移動を開始し、12月20日に師団の先遣隊として第1降下猟兵連隊第2大隊がLetkés地区に到着し、第5中隊、第6中隊の1個小隊、重装備中隊及び大隊の機関銃中隊が直ちに攻撃に投入されLetkés地区の東側の丘を奪還しました。降下猟兵が東岸のLetkésを確保したため西岸のIpolyszalkaではソ連軍先遣部隊が包囲され、戦死者約90名捕虜180名と多数の戦利品を残して壊滅しました。その日のうちに師団司令部と空軍ライフル連隊の先遣部隊として第1大隊も到着し、直ちにLetkés地区橋頭堡で第2降下猟兵大隊の増援に投入され、後続の第2大隊はIpolyszalka地区に集結ました。
 計画では「擲弾兵連隊」は到着後はLeľod(現Leľa)地区とBajta(現Bajtava)地区に集結し、第57戦車軍団による反撃に合わせてLetkés地区の東側で橋頭堡を東側に拡大する予定でした。しかし連隊の到着は大幅に遅延しており、ジェール(Győr)~コマーロム(Komárom)間を移動中に一時的に所在不明となるという想定外の事態となり、連絡将校や偵察機までが送り出されました。


「セント・ラースロー師団」の移動状況(1944年12月20日)
・第1降下猟兵連隊第1大隊:Balatonszentgyörgy地区(バラトン湖南側)
・第1降下猟兵連隊第2大隊:Letkés地区(ハンガリー第2戦車師団に配属)
・空軍歩兵連隊第1大隊:Letkés地区
・空軍歩兵連隊第2大隊:Salka(Ipolyszalka)地区
・擲弾兵連隊:おそらくジェール(Győr)~コマーロム(Komárom)間を移動中
・偵察大隊:移動中であり12月24日に到着予定
・第1迫撃砲大隊:セーケシュフェヘールバール(Székesfehérvár)地区(12㎝迫撃砲×16門)
・第76軽砲兵大隊:Tahitótfalu地区(馬匹牽引10.5cm野戦榴弾砲×12門)
・第9砲兵大隊:ブダペストのチェペル(Csepel)地区(馬匹牽引8㎝野砲×12門)
・第20突撃砲大隊:ヘッツァー×25両がKővágóörs地区にあるが、乗員の訓練はエステルゴム練兵場で行われており輸送車両の不足により移動はできなかった。
・戦車猟兵大隊:擲弾兵連隊のトラックに牽引されて移動中(7.5㎝対戦車砲×6門)
・第53工兵大隊:ブダペストから鉄道輸送中


 軍団戦区右翼ではハンガリー「第2戦車師団」残余がイペリ川東岸のSzob地区とMárianosztra地区で激戦を展開しており、第3自動車化歩兵連隊のAltorja大尉の指揮する戦闘団がソ連軍の西進を阻止しました。戦闘団の兵力は12月19日の時点で第5自動車化歩兵大隊残余、Dozsö大尉指揮の第2偵察大隊残余とニムロッド対空戦車×3両、7.5cm対戦車砲×2門であり、これが第2戦車師団に残された全てでした(!)。【補足-1】
 12月21日朝の報告ではTurán-75戦車×1両、Turán-40戦車×2両を保有が報告されていますが、実際に可動状態であったかはわかりません。またドイツ側の記録ではIV号戦車×2両とパンター戦車×2両が戦闘可能と報告されています。


戦闘団「Altorjay」(1944年12月21日)
指揮官:第3自動車化歩兵連隊のAltorjay Jenö大佐
第5自動車化歩兵大隊(110名)
第2偵察大隊(40名)
ドイツ軍/戦闘団「Zirke」(70名)
ドイツ軍/機関銃大隊「Sachsen」(200名)
ドイツ軍/第751工兵大隊(130名)


 このため、「セント・ラースロー師団」は第2戦車師団司令部と師団残余、担当戦区のハンガリー軍及びドイツ軍部隊を含めて統一運用されることとなり、師団司令部はGaramkövesd (現Kamenica nad Hronom)に開設されました。
 第8戦車師団の第59機甲偵察大隊(兵力152名)は当初「第2戦車師団」に配属され、ハンガリー軍降下猟兵と協力してソ連軍第6親衛空挺師団の大隊規模な部隊をIpolytölgyesから撃退し、Széppatakpusztaを奪還して第57戦車軍団後方の連絡道路を回復し、午後にも道路沿いで激戦を展開したが、統一運用に伴い「セント・ラースロー師団」に配属替えとなりました。
 12月21日午後、空軍ライフル連隊はLetkés地区へのソ連軍の攻撃を撃退し、1730時には逆襲によりLiliompuszta地区を奪還し、さらに南東のIpolydamásd地区に迫りました。第72軍団に新しく配属された第3戦車師団の第3機甲偵察大隊第2中隊は第2降下猟兵大隊とともにソ連軍を撃退し、Letkés~Ipolytölgyes~Ganádmajor(現Istvánmajor)の道路は確保されました。
 「擲弾兵連隊」以外の部隊の到着も遅れており、第2梯団として到着した空軍ライフル連隊第2大隊のうちで21日1000時までに到着できたのは2個中隊のみで、大隊の残りはSárkeresztúr地区でまだトラック輸送待ちの状態でした。
 第72軍団の計画では「セント・ラースロー師団」は到着次第、イペリ川東岸のSzob橋頭堡を保持するため、Letkés地区とNagybörzsöny地区からBörzöny山地を越えて攻撃を行う予定でした。しかし部隊の到着は遅れさらに補給部隊の欠如、師団砲兵、第20突撃砲大隊、第53工兵大隊がまだ師団に合流できていない状況ではこのような作戦は「絵に描いた餅」でした。

 21日2200時に軍団戦線左翼のGaramsalló(現Šalov)地区がソ連軍に占領され、司令部は突撃砲2両に支援された少数の歩兵部隊を送り出すとともに、イペリ川の橋には爆破準備が指示され、後方地区の補給部隊には警報が発せられました。21日/22日の夜、ソ連軍第6親衛戦車軍の部隊はガラム川の橋を占領するためにHontfüzesgyarmat(現Hontianska Vrbica)地区から約80両の戦闘車両により攻撃を開始し、Kisgyarmat(現Sikenička)地区へと達しました。
 軍団戦区右翼では12月22日夜明けまでにSzob地区守備隊がソ連軍の夜襲により西岸へと退却しましたが、空軍ライフル連隊がLetkés橋頭堡から反撃してIpolydamásd地区まで達しました。中央のLetkés橋頭堡と左翼のIpolytölgyes地区でもソ連軍の攻撃がありましたが撃退に成功しました。
 22日朝の報告によると「セント・ラースロー師団」には次のような部隊が配属されており、その後遅れていた擲弾兵連隊が到着したほか、偵察大隊の一部と戦車猟兵大隊の1個中隊(自走対戦車砲×6両)も到着してLetkés橋頭堡に配備されました。


セント・ラースロー師団(1944年12月22日)
第1降下猟兵連隊第2大隊(318名)
空軍ライフル連隊(1,600名)
ドイツ軍/第59機甲工兵大隊
第2砲兵大隊:10.5cm軽榴弾砲×9門(牽引)
第6砲兵大隊:10.5cm軽榴弾砲×9門(牽引)


擲弾兵連隊
第1擲弾兵大隊(1個工兵小隊(80名)含む)
  第1中隊(173名)
  第2中隊(103名)
  第3中隊(80名)
  重装備中隊(51名)
第2擲弾兵大隊
  第4中隊(170名)
  第5中隊(50名)
  第6中隊(72名)
  重装備中隊(150名)


 「セント・ラースロー師団」は「第2戦車師団」との統合部隊を二つの戦闘団に分割し、戦闘団「Altorjay」は右翼のHelemba(現Chľaba)地区に、戦闘団「Heinrich」は中央部のLetkés橋頭堡とイペリ川東岸地区に投入されました。


戦闘団「Altorjay」
指揮官:第3自動車化歩兵連隊のAltorjay Jenö大佐
第5自動車化歩兵大隊
第2偵察大隊
擲弾兵連隊の増強第2大隊(セント・ラースロー師団)
ドイツ軍/戦闘団「Zirke」
ドイツ軍/機関銃大隊「Sachsen」
ドイツ軍/第357工兵大隊の中隊規模の部隊
ドイツ軍/第751工兵大隊の一部

戦闘団「Heinrich」
指揮官:Heinrich István大佐
空軍ライフル連隊(1,600名)
第1降下猟兵連隊第2大隊(318名)
第2戦車師団の一部
第52高射砲大隊


 予備兵力の不足に悩む第72軍団司令部はエステルゴム練兵場でヘッツアーにより訓練中のハンガリー軍突撃砲大隊「Bernolák」に目を付け、できるだけ早くガラム川防衛線のKéménd(現Kamenín)地区に送り出すよう命令しましたが、戦闘準備が整わないとしてこの日は1台も出発はしませんでした。【補足-2】

 12月22日/23日の夜、イペリ川西岸のHelemba(現Chľaba)がソ連軍に占領され、空軍ライフル連隊第2大隊が反撃して町を奪還しましたが、23日夕方にはソ連軍の小部隊が再びイペリ川を渡ってHelembaへと侵入し、東岸のIpolydamásdも占領されてソ連軍のイペリ川西岸への本格的な攻撃が始まりました。一方っ戦区中央部のLetkés橋頭堡東側では同じ夜に空軍ライフル連隊第1大隊が包囲され、突破には成功したものの大損害を被り兵力は35%にまで減少しました。
 12月23日の午前中、ガラム川東岸ではZalabaへと急進してきたソ連軍戦車旅団に対してドイツ軍の戦闘団「Schepprlmann」が前進を阻止し、ガラム川西岸のKéménd(現Kamenín)、Bény(現Bíňa)、Csata(現Čata)の各渡河地点には警報が発令され警戒が強化されました。
 第72軍団は「セント・ラースロー師団」が防衛戦で発揮した「不屈の戦闘精神」を高く評価されたものの、同時に大きな損害を被って師団の戦闘力はみるみる低下し、到着の遅れていた空軍ライフル連隊と擲弾兵連隊の一部や偵察大隊の騎兵中隊などが師団に合流、夕方までに突撃砲大隊「Bernolák」の2個中隊も師団に配属され、Ipolyszalka地区とBajta(現Bajtava)地区に送られましたが焼け石に水でした。空軍ライフル連隊は士気だけは高いものの地上戦の指揮には不慣れであり、第2戦車師団司令部からSándor Derestoy大尉がHeinrich大佐のアドバイザーとして戦闘団に派遣され、てこ入れが行われました。


セント・ラースロー師団(1944年12月23日)
第1降下猟兵連隊第2大隊(160名)
空軍ライフル連隊第1大隊(400名)
空軍ライフル連隊第2大隊(500名)
擲弾兵連隊第1大隊(600名)
擲弾兵連隊第2大隊(500名)
偵察大隊(200名)

第5自動車化歩兵大隊(130名)
第2偵察大隊(45名)
ドイツ軍/機関銃大隊「Sachsen」(130名)
ドイツ軍/第751工兵大隊(130名)
7.5cm対戦車砲×8門が戦闘可能


4.イペリ川橋頭堡からの撤退
 12月24日、戦区中央のLetkés橋頭堡ではソ連軍の激しい攻撃が続き、橋頭堡南側のLiliompuszta地区を守る重装備中隊は指揮官のLászlóvitéz Csörqey中尉が戦死する激戦となり、攻撃側のソ連軍第27親衛戦車旅団もまた、この戦闘で5両のT34戦車を失い第1大隊指揮官のA.M.Pinchuk少佐が戦死し、第3大隊と機関短銃中隊の指揮官も負傷して部隊を離れるという損害を被っていました。
 空軍ライフル連隊第1大隊はこの日までに将校の80%と下士官・兵の70%を失う大損害を被り、Letkés橋頭堡は縮小され深夜までに橋頭堡からの撤退を余儀なくされ、ドイツ軍第357工兵大隊の工兵がイペリ川の道路橋を爆破し、撤退した空軍ライフル連隊はBajta(現Bajtava)へと後退し師団の予備部隊となりました。
 戦区左翼のIpolytolgyes橋頭堡もソ連軍の手に落ち、守備隊のドイツ軍第59機甲工兵大隊の兵力は24名まで低下しましたが、イペリ川西岸に撤退後もIpolykiskeszi(現Malé Kosihy)地区とGanádimill地区でなおも戦線を維持していました。

 12月25日、戦区右翼のHelemba地区ではなおも激戦が続き、ソ連軍は北側の204高地を占領しましたが、それ以外の攻撃は全て撃退されました。戦区中央のIpolyszalka地区の対岸ではソ連軍が破壊された橋のたもとに集結して渡河準備をしており、第2降下猟兵大隊の防衛線には偵察大隊の2個中隊と第53工兵大隊第1中隊が増援として加わりました。ドイツ軍はIpolyszalka側でも橋を爆破しようとしましたが1回目は失敗し、25日の深夜に第53工兵大隊による爆破は成功しました。また第53工兵大隊第2中隊はイペリ川東岸に取り残されたドイツ軍第751工兵大隊の140名の救出も命じられており、大忙しの一日となりました。
 ソ連軍第6親衛戦車軍は12月25日0900時頃からガラム川の東岸沿いに南下を再開し、ドイツ軍第57戦車軍団の後方だけでなく、第72軍団の左側面が脅かされましたが「セント・ラースロー師団」の空軍ライフル連隊の一部を北向きに再配置し、ドイツ軍駆逐戦車3両を支援に送るしか選択肢はありませんでした。

 12月26日、戦区右翼のHelemba地区では前夜にイペリ川を渡河したソ連軍第27親衛戦車旅団が西へと突出し、Leléd(現Leľa)とBajta(現Bajtava)を結ぶ道路沿いで師団の最後の予備兵力である空軍ライフル連隊の残余により何とか阻止されました。
 戦区左翼のガラム川沿いではソ連軍第21親衛戦車旅団は戦車14両と随伴歩兵を持って夜間に20kmを突進し、26日朝にはKéménd(現Kamenín)地区の交差点に到着しました。
 12月26日未明にドナウ川南岸ではソ連軍第18戦車軍団と第4親衛狙撃兵師団によりエステルゴム橋頭堡への攻撃を開始されました。守備隊はわずか111名の歩兵であり、そのうち63名はドイツ軍第93機甲擲弾兵連隊第2大隊の2個中隊でした。ハンガリー軍のヘッツァー8両とドイツ軍の8.8cm高射砲3門も配置されましたが、他にドイツ軍重高射砲もドナウ川の対岸から橋頭堡を援護しました。このヘッツァー8両は12月24日に当初Dorog地区に派遣された突撃砲大隊「Bernorák」の一部の第24突撃砲大隊第1中隊ではないかと考えられます。ドイツ軍の報告によるとハンガリー人搭乗員は実戦経験がなく、ハンガリー軍のヘッツァーは一発も撃つことなくドナウ川の対岸に撤退したため、戦況悪化の原因となったと非難しています。
 前日の夜にDorogを占領したソ連軍第18戦車軍団第181戦車旅団はエステルゴムへと進撃し、Kenyérmező地区では第20突撃砲大隊の一部が抵抗したものの、0100時には装甲車両がエステルゴム練兵場に投入し、突撃砲3両と戦車1両を撃破しました。
 181戦車旅団は第32自動車化狙撃兵旅団、第363重自走砲連隊と協力して0600時に北東、東、南の三方向から攻撃を開始し、0750時にはドナウ川のMária Valéria橋がドイツ軍により爆破され、0920時に第181戦車旅団はエステルゴムの南側を占領し、1100時にはエステルゴムは約5時間の戦闘の後陥落しました。

 サヒ(Šahy)地区で12月21日から開始された第57戦車軍団による攻撃は12月25日までには完全に行き詰まり、ガラム川東岸で逆に包囲される危機に陥りました。軍団はガラム川とイペリ川の間で南下するソ連軍第6親衛戦車軍を阻止し、北向きの防衛線を再構築するためVámosmikola地区から南西方向への攻撃を発起しました。第57戦車軍団の戦闘団による攻撃はGarampáld(現Pavlová)の北で道路を遮断することに成功し、ソ連軍第21親衛戦車旅団の後方を一時的に遮断しましたが、1400時には救援部隊がGarampáldを占領しました。
 Garampáld地区南側では空軍ライフル連隊の一部とKéméndの守備隊により防衛線が構築され、Kéménd(現Kamenín)地区には突撃砲大隊「Bernolák」のヘッツァーと第357歩兵師団のIV号突撃砲が配置され、ハンガリー軍第2戦車師団の生き残りであるIV号戦車×5両もNána経由で駆けつけ、これらの部隊も戦術的に「セント・ラースロー師団」に編入されました。
 第57戦車軍団は反撃と同時にガラム川の方向へと撤退を始めましたが、予定した撤退路にはすでにソ連軍が進出しており、ここでも「セント・ラースロー師団」の粘り強い戦いにより撤退路が確保されました。

 12月27日、戦区右翼のBajta(現Bajtava)地区が日の出とともにソ連軍に占領され、Garamkövesd(現Kamenica nad Hronom)は一晩中ソ連軍の波状攻撃に晒されました。左翼のKéménd(現Kamenín)地区のガラム川東岸で空軍ライフル連隊の一部による反撃はたちまちソ連軍の大部隊に遭遇し、ソ連軍はKéméndの橋を目指して強引に攻撃しましたが、この攻撃は守備隊により阻止されました。
 第57戦車軍団のガラム川西岸への撤退を援護するため、Kéménd(現Kamenín)とGaramkövesd(現Kamenica nad Hronom)の中間地点のKicsind(現Malá nad Hronom)地区に8トン軍用橋が新たに架橋され、この橋を含めてガラム川に残された2か所の渡河地点を守るためにドイツ軍の高射砲部隊が配置され、Kéménd地区の突撃砲大隊「Bernolák」のヘッツァーもGaramkövesd橋頭堡へと移動しました。「セント・ラースロー師団」には橋頭堡を守るべき歩兵の予備兵力は残っていなかったため、ドナウ川北岸を警戒していた歩兵部隊が引き抜かれて橋頭堡の防衛に投入されました。
 新設のKicsind橋頭堡には第53工兵大隊第1中隊がハンガリー軍第2戦車師団のIV号戦車×5両と共に送られましたが、擲弾兵連隊第2大隊は橋頭堡東側の防衛戦でついに力尽きて壊滅し、これにより第2降下猟兵大隊の一部と偵察大隊の一部がBajta(現Bajtava)地区で包囲されました。
 ガラム川東岸に残る「セント・ラースロー師団」の残余は日暮れと共にGaramkövesd橋頭堡への撤退を余儀なくされ、空軍ライフル連隊第1大隊は午前中にKicsind橋頭堡に向けて北西方向に突破を図りましたがこの攻撃はソ連軍に粉砕され、生き残りは方向を変えて何とかGaramkövesd橋頭堡に辿り着き、一部はガラム川を泳いで渡りました。
 この日の午後、Kicsind橋頭堡を目指していた第2降下猟兵大隊と擲弾兵連隊の残余約200名も氷の流れるガラム川を泳いで渡りました。Kicsind橋頭堡の軍用橋では第53工兵大隊の指揮官であるErno Koppányi大佐がソ連軍に占領されないよう橋を爆破する命令をうけていましたが、ガラム川東岸にはまだ多くのドイツ・ハンガリー軍が取り残されていたため爆破は延期を繰り返し、結局爆破はこの日の深夜まで延期されました。
 「セント・ラースロー師団」の残存兵力はこれまでの戦闘でひどく消耗しており、偵察大隊(30%)、擲弾兵連隊(5%)、空軍ライフル連隊(15%)、第53工兵大隊(25%)の合計で約500名の歩兵しか残っておらず事実上壊滅しましたが、この自己犠牲的戦闘により第57戦車軍団の多くが後退に成功したと言えます。

 12月27日未明の時点で「第6戦車師団」はまだガラム川東岸にあり、Kicsind橋頭堡を目指して攻撃計画を準備しましたが、軍用橋の爆破予定の通報を受けるとGaramkövesd橋頭堡に向けての攻撃に変更されました。師団は0230時から二つの攻撃グループに分かれて移動を開始し、東側のグループはIpolybél(現Bielovce)~Ipolyszalka(現Salka)の道路を移動しましたがソ連軍の抵抗は思いの外弱く、0700時にはGaramkövesd橋頭堡に到着できました。
 一方西側を進んだ戦闘団「Stahl」は苦戦となり、Ipolyszalka(現Salka)の東の森林地帯を抜けたところで強力なソ連軍部隊と遭遇し、Garamkövesd橋頭堡に辿り着いた時には対戦車砲と野砲の40%を失っていました。さらに不運は続き橋頭堡への到着がたまたまソ連軍の攻撃と重なってしまい、守備隊のヘッツァー3両からの砲撃によりIV号戦車3両が撃破されてしまいました。橋頭堡に辿り着いた「第6戦車師団」は大損害を被っていながらも直ちに橋頭堡守備隊に編入され、その後第72軍団に編入されてガラム川一帯の防衛線を引き継ぎました。


第72軍団(1944年12月27日)

第6戦車師団
第4機甲擲弾兵連隊(100名)
第114機甲擲弾兵連隊の一部(50名)
第11戦車連隊第2大隊:IV号戦車×3両
第41戦車猟兵大隊:IV号駆逐戦車×2両
第76機甲砲兵連隊:10.5cm軽榴弾砲×9門、10cmカノン砲及び15cm重榴弾砲×11門

セント・ラースロー師団
空軍ライフル連隊(28名)
偵察大隊騎兵中隊(65名)
第53工兵大隊(160名)
第3自動車化歩兵連隊残余(70名)
第8砲兵大隊:15cm重榴弾砲×5門
第93機甲擲弾兵連隊第2大隊(28名)
機関銃大隊「Sachser」(135名)
第114機甲擲弾兵連隊の一部(36名)
第4機甲擲弾兵連隊第1大隊(50名)
第4機甲擲弾兵連隊第2大隊(31名)

ドイツ軍機関銃中隊(135名)
ドイツ軍警戒中隊×2個(35名)
重対戦車砲×11門
ヘッツァー×6両

第2戦車師団
第2砲兵大隊:10.5cm軽榴弾砲(牽引)×6門
第6砲兵大隊:10.5cm軽榴弾砲(牽引)×8門


 ドイツ軍第3戦車師団は12月26日/27日の夜にIpolypásztó(現Pastovce)北側の陣地を放棄し、第57戦車軍団司令部との連絡が取れないまま独自の判断で第8戦車師団と共にガラム川のBény(現Bíňa)に向けて突破を開始しました。両師団の部隊は午後遅くにガラム川東岸に到着し、夕方には機甲擲弾兵連隊と第3機甲偵察大隊が橋頭堡を確保して工兵の16トン軍用橋の敷設を開始しましたが、翌日0900時までは完成しませんでした。
 12月28日早朝、第72軍団戦区ではGaramkövesd橋頭堡からの撤退が開始され、第11戦車連隊第5中隊のIV号戦車が後衛を勤めました。ソ連軍は0500時に橋頭堡に突入しましたが、ドイツ・ハンガリー軍守備隊は0440時に軍用橋を爆破しており、最後まで橋頭堡で後衛を勤めた第4機甲擲弾兵連隊第1大隊の第3中隊は東岸に取り残されたため、泳いで西岸に撤退しました。
 軍用橋は爆破されましたがソ連軍第27親衛戦車旅団の自動車化狙撃兵大隊の1個中隊はGaramkövesdの道路橋の200m東側でガラム川の西岸に渡り、続いて大隊が渡河して1200時頃にNánaの北側に侵入し1700時までに占領しました。
 Kicsindの軍用橋は0305時に爆破されましたが、ソ連軍歩兵は爆破された橋の残骸に溜まった氷の塊を利用して各地で渡河しました。Kicsind 対岸のKőhídgyarmat(現Kamenný Most)は一時ソ連軍に占領されましたが、第53工兵大隊の予備部隊(40名)と北隣のKéménd(現Kamenín)地区から駆けつけた4両の突撃砲と駆逐戦車が奪還し、VI号戦車5両により増強された第114機甲擲弾兵連隊第1大隊により確保できました。
 「セント・ラースロー師団」と配下のドイツ・ハンガリー軍部隊はここ数日の激戦で完全に疲弊しており、ソ連軍部隊がNánaとPárkány(現Štúrovo)に侵入するのを防ぐことはできませんでした。それでもソ連軍のPárkány地区から西方への更なる前進は、第6戦車師団の一部、「セント・ラースロー師団」の1個大隊及び突撃砲大隊「Bernorák」のヘッツァーにより阻止されました。

 第3戦車師団と第6戦車師団のBény(現Bíňa)地区でのガラム川渡河はソ連軍砲兵と多連装ロケットの砲撃、流氷、軍用橋の能力不足により困難を極め、北からはソ連軍第4機械化軍団も迫りましたが、第543戦車猟兵大隊のVI号駆逐戦車の一部がKisgyarmat(現Sikenička)地区で阻止しました。Kisgyarmat地区の橋頭堡は遅れて到着する残存部隊収容のために第3機甲偵察大隊と第8機甲偵察大隊により夕方まで確保され、2個師団の自動車、装甲戦闘車両、牽引砲はほとんどガラム川西岸に渡ることに成功し、ガラム川西岸で新たな防衛線に再配備されました。
 12月28日/29日の深夜、弱体な戦力にもかかわらず「セント・ラースロー師団」残余とドイツ軍の戦闘団「Reimar」は第2戦車師団のIV号戦車10両と共にNánaとPárkány地区に対して夜襲を行い、2時間の戦闘により奇跡的に奪還に成功しました。しかし小兵力ではこの地区を守ることはできず、翌朝にはソ連軍は街を奪還し西側郊外の鉄道駅へと前進し、ここで一進一退の攻防が繰り返されました。
 12月30日、Nána地区ではドイツ軍第3戦車師団の装甲擲弾兵と装甲車両が、Kőhídgyarmat(現Kamenný Most)地区では第6戦車師団の戦闘団「Göttke」が闘っていたほか、「セント・ラースロー師団」も残存のIV号戦車6両、ヘッツァー3両、装甲兵車9両によりなおも戦闘を継続しました。第72軍団はこの日0時を持って前線部隊の指揮を第52戦車師団に引き継ぎスロヴァキアのニトラ(Nitra)へと移動し、第8戦車師団も1月初めにスロヴァキアへと移動しました。

 「第1降下猟兵大隊」は12月26日の時点でブダペスト守備隊のハンガリー第1軍団に配属されていたとする資料もありますが、大隊は12月6日からバラトン湖南西のケストヘイ(Keszthely)地区にあり、12月23日に大隊は前線を離れてパーパ(Pápa)地区へと帰還しました。
 「第20突撃砲大隊」の25両のヘッツァーはKővágóörs地区から12月24日にエステルゴム練兵場に到着し、その内14両はAladár Simák中尉の指揮する第1中隊に配属され、南側のDorog地区に移動して習熟訓練を行いながらエステルゴム防衛の支援任務を行いました。大隊は12月26日のエステルゴム陥落後は「セント・ラースロー師団」本隊のいるドナウ川北岸には渡らず、ハンガリー第20歩兵師団、第23補充師団とともにドナウ川南側で防衛戦を展開しました。
 1945年1月1日時点で大隊はヘッツァー11両を装備しておりその内7両が戦闘可能で、1月7日頃に「セント・ラースロー師団」に復帰し、スロヴァキアのガランタ(Galanta)でヘッツァーの修理が行われました。1月中旬にはMagyardiószegからBodajkへと鉄道輸送され、最終的にセントキラーイサバドゥヤ(Szentkirályszabadja)の飛行場に到着しここでヘッツァーの補充を受取ることができました。

5.ガラム川の戦い
 12月28日の時点でパーパ(Pápa)地区では640名の非武装、未訓練の補充兵がおり師団に配属される20名の将校も輸送手段のないまま待機していました。またバラトン湖の南から帰還した「第1降下猟兵大隊」も輸送列車の機関車がないため、Celldömölk地区で長い間足止めされており、その間にパーパ(Pápa)地区で編成された補充部隊がセーケシュフェヘールバール地区北側のモール(Mór)地区及びタタ(Tata)地区で防衛戦に投入されていました。
 1月3日の時点でエステルゴム西方約30㎞のBátorkeszi (現Bátorove Kosihy)地区では「第2降下猟兵大隊」の残余と足止めされていた「第1降下猟兵大隊」も到着しており、パーパ地区の降下猟兵補充大隊で編成された1個補充兵中隊も合流して1個大隊が再建され、兵力は約400名となっていました。1月4日には訓練未了の新兵を残して戦闘可能な約300名の降下猟兵がドイツ軍のトラックで前線に移動しました。
 ガラム川の西岸では第57戦車軍団の第3戦車師団と「第271国民擲弾兵師団」(271. Volks Grenadier Division)が防衛線を構築しており、降下猟兵を中心とする師団残余は第3戦車師団戦区左翼の丘陵地帯に配置されて薄い警戒線を構築しました。
 1月6日、ガラム川の西岸(Párkány(現Štúrovo)-Nána地区)橋頭堡から開始されたソ連軍第6親衛戦車軍と第7親衛軍の攻撃はドイツ・ハンガリー軍の薄い防衛線を突破し、降下猟兵達もたちまち圧倒され包囲の危機にさらされました。この攻撃によりドナウ川流域の交通の要衝であるコマールノ(Komárno)地区にも危機が訪れましたが、スロヴァキアに後退していた第8戦車師団が呼び戻されて反撃に投入され、戦線はコマールノの東方で一旦安定することができました。

 一方ガラム川防衛線北部のレビツェ(Levice)地区では1月末から2月10日にかけてスロヴァキアから送られた戦闘団「タトラ」(Kampfgruppe “Tatra”)や第8軍の第558軍後方地域司令部(KoRück-558)などの後方部隊が穴埋めに投入されました。レビツェ(Levice)~エステルゴム(Esztergom)~コマールノ(Komárno)地区では2月17日から24日にかけて、来るべき「春の目覚め作戦」の前哨戦として戦車軍団FHH及びSS第1戦車軍団による反撃作戦「南風(Südwind)作戦」が実施され、ドイツ軍の防衛線は再びエスレルゴム地区~ガラム(Garam)川の戦線へと押し戻されました。
 師団長のシュギ少将は防衛戦の功績により1月12日付でドイツ軍の騎士十字章を授与され、壊滅状態となった「セント・ラースロー師団」は再編成のため1945年1月14日にパーパ地区へと後退しました。ドイツ軍司令部は「セント・ラースロー師団」の移動の遅れが大損害の原因として非難しましたが、根本的には輸送車両の不足が原因であり、擲弾兵連隊の到着遅れは軍団から派遣された連絡将校の不手際による回り道が原因でした。
 12月29日にBelá地区で「セント・ラースロー師団」と第72軍団の合同司令部を訪れたハンガリー軍最高司令部のGyula Kovács中将は師団壊滅の原因として次のような要因を挙げています。
・非常に困難な状況下にもかかわらず任務を達成しようとしたこと
・敵軍との圧倒的な戦力差
・ドイツ軍の管理と指揮の誤り
・師団は戦闘において模範的な働きを示した


第1降下猟兵大隊

セント・ラースロー師団【後編】につづく?


【補足-1】
第2戦車師団
 師団の編成計画は1941年10月1日から開始されたものの実際の師団編成は進展せず、師団の初陣は1944年3月13日にハンガリー第1軍に配属されてカルパチア山脈での防衛戦に派遣されることとなりました。


第2戦車師団(1943年時点の編成)

師団司令部
砲兵指揮官
第3戦車連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
第3自動車化連隊
  第4大隊
  第5大隊
  第6大隊
第2機甲偵察大隊
第2(自動車化)砲兵大隊
第6(自動車化)砲兵大隊
第52高射砲大隊
  自動車化高射砲中隊
  自走高射砲中隊
第2(自動車化)戦闘工兵中隊
第3(自動車化)戦闘工兵中隊
第2(自動車化)機甲補給司令部


 この時点でも第3戦車連隊の装備車両は不足しており、前線に輸送されたのは第1中隊と第2中隊のみで第3中隊は練兵場で戦車の到着を待っており、最前線で師団に合流できたのは7月になってからでした。第2戦車師団は4月末にナドヴィールナ(Nadvorna)とDelatynを占領し、作戦の第2段階ではコロミア(Kolomea)の占領が焦点となりましたが雪解けの泥濘で前進は停止し、師団は5月12日付けで第1軍予備となり前線から引き揚げられ、損害を補充するためIV号戦車H型、ティーガー重戦車、III号突撃砲などのドイツ製戦車を受取りました。7月下旬になるとソ連軍の攻撃は第1軍の前線を突破し、第3戦車連隊の第1大隊や新着の突撃砲大隊が投入されましたが第1軍は後退を開始しました。
 1944年9月にルーマニアが連合軍に寝返ると第2戦車師団は新編成のハンガリー第2軍に配属され、トランシルバニアの新戦線へと移動しました。予期せぬハンガリー軍の攻撃によりルーマニア軍は総崩れとなり、第2軍はトゥルダ(Torda)を占領したもののソ連軍が進撃を速めてハンガリー軍の進撃を阻止したため、以後は防衛体制に移行を余儀なくされました。第2戦車師団は9月10日に予備となり機動予備部隊として戦闘の重要拠点に投入され、ルーマニア軍とソ連軍の前進を阻止しました。
 12月初めまでに師団はブダペスト北方のイペリ川の防衛線へと後退しており、この時点では119両の各種装甲戦闘車両を装備していることになっていましたが、可動車両はそのうち17両のみという状態で12月末には約100両の装甲戦闘車両が除籍されました。12月末から1945年初めの時点で師団の残存兵力は第3自動車化歩兵連隊のAltorja大尉の指揮する第5自動車化歩兵大隊残余、Dozsö大尉指揮の第2偵察大隊残余の合計150名の小戦闘団のみとなっていました。
 12月29日ガラム川西岸のPárkányの鉄道駅付近では貨車に積載されたまま立ち往生していたハンガリー軍戦車×33両、ニムロッド対空戦車×3両、豆戦車×1両、対空砲×4門がソ連軍により鹵獲されており、これらの装甲車両は後送待ちの第2戦車師団の損傷車両ではないかと思われます。
【戻る】


【補足-2】
突撃砲大隊「Bernolák」

Rohamtüzérosztály „Bernolák”
 指揮官のBernolák Pál少佐は第16突撃砲大隊の大隊長であり、この大隊は同時期にエステルゴム練兵場で同時に訓練を行っていた第16及び第24突撃砲大隊の訓練部隊を管轄する臨時編成大隊と思われます。1944年12月9日に最初のハンガリー軍向けヘッツァー25両が到着しており、突撃砲大隊「Bernolák」への配備状況は下記のように想定されます。


突撃砲大隊「Bernolák」ヘッツアー 24両
大隊本部(第16突撃 砲大隊本部:Bernolák Pál少佐)9両?
第16突撃砲大隊第1中隊(György Koray中尉)6両?
第24突撃砲大隊第1中隊(Körös Bėl中尉) 9両?


 突撃砲大隊「Bernolák」とドイツ側呼称の「第16突撃砲中隊」及び「第24突撃砲中隊」はいずれもこの大隊のヘッツァーであり、第20突撃砲大隊に代わりイペリ川~ガラム川の防衛戦の間「セント・ラースロー師団」に配属されていました。
 12月28日夜の時点で突撃砲大隊「Bernorák」の兵力は可動4両、短期修理3両、長期修理7両、合計14両と報告されています。12月22日までの損失数2両と報告されていますが、その後の記録では12月20日から12月30日の間の突撃砲兵大隊「Bernorák」の損害はヘッツアー10両と記録されており、12月23日から30日の間にさらに8両を失った模様です。突撃砲大隊「Bernorák」は第16突撃砲大隊へと改称・改変されたと思われ、その際には第24突撃砲大隊第1中隊の突撃砲と兵員をそのまま吸収した可能性もあります。
【戻る】


2022.5.3 新規作成

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/