泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

ハンガリー王国/第1降下猟兵大隊

 戦前の空挺作戦の研究ではソ連軍が大規模な空挺降下演習をいち早く成功させて各国の注目を集めており、このような状況の中で東欧各国においてもそれぞれ独自に空挺部隊の研究が開始されていました。中でもハンガリー王国は早い時期から独自の研究・開発を開始し、パラシュートの国産化にも成功して第2次世界大戦初頭のユーゴスラヴィア王国への侵攻作戦で実戦降下を成功させた数少ない事例となりました。

1.降下猟兵中隊の創設
 ハンガリー国防省では1936年後半からパラシュート部隊の検討が開始され、パラシュート降下して破壊工作を遂行できる小グループの創設が検討されました。1938年5月3日、センテンドレ(Szentendre)島で24名の特殊部隊が設立され指揮官にはValér Stefán大尉が任命されました。破壊工作の訓練後、部隊はパーパ(Pápa)飛行場に移動して降下訓練を開始しており、国産のHehs社製H39Mパラシュートを最初にテストしたのもこの部隊でした。
 1938年7月、国防省は本格的な空挺部隊の創設を決定し、兵員の募集はブダペストのマリア・テレジア兵舎で行われました。当時のパラシュートはまだ黎明期であったにもかかわらず多くの志願者が殺到し、8月にはベルタラン・アルパード(Bertalan Árpád)大尉が指揮官となりました。8月25日、ソンバトヘイ(Szombathely)に降下訓練センターが開設されて地上訓練が開始され、9月2日から最初の模擬降下訓練も開始されました。
 パラシュートやその他の装備は輸入品であり、イタリアのサルバトーレ、ドイツのシュローダー、アメリカのアーバインなどのパラシュートがテストされましたが、これらの輸入パラシュートは高価で大量配備は問題外でした。このため国産パラシュートの開発が加速され、1939年にはHehs社製H39M型パラシュートや降下服が完成しました。


カプロニCa.101の前に整列したベルタラン大尉(写真中央)
左からハンガリーのHehsパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュート,
アメリカのIrvinパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュートの別のタイプ,
そしてIrvinパラシュートを装備しているのが分かる。
http://www.repulomuzeum.hu/Adomanyok/MuzslaiPal/MuzslaiPal.htm

 輸送機はイタリア製のカプローニCa.101型機2機が使用されましたが、この機体は1932年にハンガリー空軍に爆撃機として15機が導入された機体であり、旧式化により輸送機に転用されていました。この機体は6名の降下猟兵を輸送可能で訓練や特殊任務のような小規模降下には適していましたが、大規模な空挺作戦には適していませんでした。
 このため、輸送機は新しくイタリアのサヴォイア・マルケッティSM-75型機5機が導入されましたが、これはハンガリーの航空会社「MALERT」が1938年に購入した機体であったため、旅客機から輸送機への改造が必要でした。この機体は最大24名の降下猟兵の輸送が可能であり、機体後部には防御用の12.7mm機銃座も追加されました。「第1パラシュート輸送飛行隊」はこれらの機体をもって1940年5月1日に創設され、Károly repülő飛行大尉を指揮官となりました。しかしSM-75の改造は遅々として進まず、すべての輸送機への改造が完成するのは1940年6月まで待たなければならず、まずはSM-75×2機と旧式のCa.101×3機が配備されました。

1943年1月ハンガリー世界ニュース985
https://filmhiradokonline.hu/watch.php?id=4893


カプローニCa.101型機
http://www.repulomuzeum.hu/Adomanyok/MuzslaiPal/MuzslaiPal.htm


サヴォイア・マルケッティSM-75型機
http://www.repulomuzeum.hu/Adomanyok/MuzslaiPal/MuzslaiPal.htm


<カプローニCa.101>
軍用機登録番号:B103、B105、B115

<サヴォイア・マルケッティSM-75>
民間機登録番号:HA-SMA、HA-SMB、HA-SMC、HA-SMD、HA-SME
軍用機登録番号:E101、E102、E103、E104、E105


 輸送機の大型化は良いことばかりではありませんでした。パーパ飛行場にはSM-75のような大型機を格納できる大型格納庫がなかったためやむなく露天に駐機されたり、既存の格納庫に機体の半分を入れて後はキャンバスで覆うような応急処置が行われましたが、このような環境は機体の腐食を早め故障の原因ともなりました。

 1938年9月11日ソンバトヘイで「パラシュート実験隊」が設立され、9月20日にはベルタラン大尉と7名の部下により最初のパラシュート降下が行われ無事成功しました。1939年9月、実験隊は「降下猟兵中隊」となり、1939年11月にベルタラン大尉は少佐へと昇進しました。1940年には降下訓練センターは手狭になったソンバトヘイからパーパ飛行場に移転し「降下学校」へと拡大されました。
 1940年8月には2個降下猟兵中隊が追加編成され、8月末には3個中隊により「第1降下猟兵大隊」へと拡大され、大隊の兵力は将校30名、下士官120名、兵250名合計410名となり、11月1日付けで空軍に移管されました。

2.第1降下猟兵大隊
 1941年4月6日、ドイツ軍はユーゴスラヴィア王国への侵攻を開始し、ハンガリー軍も4月11日にバチカ地方に進撃を開始し、降下猟兵大隊はハンガリー第3軍予備となり警戒態勢に入りました。ユーゴスラヴィア軍は国境地帯からフランツ・ヨーゼフ運河沿いの防衛線へと後退して防御態勢を固め、このため大隊はこの防衛線の背後に降下し、進撃路の2箇所の橋を占領する作戦に投入されることとなりました。
 しかし4月初めの時点でパーパ(Pápa)地区にはまだ1メートルの積雪があり、パーパ飛行場も積雪のために過積載状態のSM-75輸送機の発着には使用できませんでした。このため約50㎞南東のベスプレーム(Veszprém)近くのjutasi飛行場が使用されることとなり、降下猟兵は4月12日の正午までには車両により移動を完了し、ここでベルタラン少佐は兵士たちに初めて任務の内容を説明しました。
 降下猟兵大隊の攻撃目標はフランツ・ヨーゼフ運河に架かるスルボブラン(Srbobran=ハンガリー名Szenttamas)とヴルバス(Verbasz)の2か所の橋であり、橋が爆破されるのを防ぎ13日の夜明けに快速軍団が到着するまで橋を確保することが任務で、当初の計画では大隊はSM-75輸送機5機により104名が降下する計画でしたが、1機は修理が必要となりSM-75輸送機4機で実施されることとなりました。

 4月12日1540時、第3軍司令部から最終的な出撃命令が届き、最終的な作戦説明と検査後、1645時に輸送機へと搭乗しました。輸送機の飛行時間はわずか40~45分、飛行距離は片道約220キロであったため燃料は半分ほどにして離陸重量が軽減されました。
 1号機(E101)はクレメント大尉を機長としてベルタラン少佐の他24名が乗り込み、2号機(E103)は機長のFerenc Gelencsér中尉とZoltán Kiss中尉が指揮する24名が、3号機(E102)は機長のSándor Szalkai軍曹とTibor Néma中尉が指揮する25名が、4号機(E104) は機長のロバート・クルツ中尉と大隊軍医のフェレンツ・ヴァンドール軍医中尉が指揮する救護班が搭乗しました。※1号機はE102とする資料もあります。
 まず1号機が離陸を開始したが、機体が高度50~60メートルに達したところで突然失速し、右主翼から浅い角度で墜落しプロペラとエンジンが吹き飛び、機体下部が引き裂かれてたちまちガソリンに引火しました。直ちに飛行場の地上要員と待機中の降下猟兵が駆け付けましたが、燃料と弾薬による大火災のために機体に近づくことができず1701時の墜落後、機体はわずか2分間で全焼しました。機体からは9名が脱出し7名が負傷して後送されましたが、この事故でベルタラン少佐ほか15名の降下猟兵と4名の輸送機搭乗員が死亡しました。それでも降下作戦は残りの3機で実施され、事故原因として過積載が疑われたため、将校3名と兵57名の降下に縮小されました。後の調査により事故原因は昇降舵のトリムの故障と考えられ、遠因としてパーパ飛行場での格納庫の不備が考えられました。


墜落炎上した1号機の残骸
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 偵察の結果、ヴルバス(Verbasz)の橋はいち早く爆破されたことが判明したため、作戦目標はまだ健在のスルボブラン(Srbobran)の橋に絞られ、4月12日1900時頃、初の実戦降下は実施されました。しかし1号機を失ったため作戦用の地図もなく夜間飛行などの悪条件が重なり、目標地点の橋からは約40kmも北に離れたSzabadka – Nagyfény地区の原野に降下しました。降下地点では現地の民兵と銃撃戦となり、この小競り合いで降下猟兵2名が戦死し、3名が負傷しましたが6名を捕虜としました。
 翌朝には進撃してきたハンガリー軍Sándor István中佐指揮の第2機械化旅団のSándor部隊に拾われ、トラックに便乗して前進しました。この部隊は第4機動大隊、第2偵察大隊、第12自転車中隊、1個追撃小隊、2個高射砲小隊からなり、降下猟兵はこの部隊に臨時編入されました。
 スルボブランの橋は無傷のままで強力なユーゴスラヴィア王国軍守備隊が陣取っていました。13日早朝から陸軍部隊は北側から街を攻撃し、降下猟兵は西側から迂回して台船で川を渡ると橋の南側で橋頭堡を確保し、0900時から正午までの戦闘で降下猟兵は陸軍部隊と協力してこれを占領しました。4月13日深夜にはSándor部隊はノービサード北郊外へと進撃し、14日早朝には早くもノービサード北部を占領しました。4月15日、ハンガリー降下猟兵部隊はSándor部隊を含む第2機械化旅団、ハンガリー快速軍団とともに前線から引き揚げられました。
 多くの犠牲を払ったこの作戦の戦闘での戦闘による死者は降下猟兵2名のみで、多くは1号機の離陸事故の犠牲者でした。大隊の名称は事故死したベルタラン少佐を記念して改称されることとなり、5月9日付で正式に『第1降下猟兵大隊「騎士ベルタラン・アルパード」』(1st “Vitéz Bertalan Árpád” Honvéd Parachute Battalion)と改称されました。

3.東部戦線
 大隊の2回目の降下作戦はソ連への侵攻開始後の1941年8月6日に行われました。ハンガリー軍部隊の第1山岳旅団はウクライナのヤシニア(Yasinia =ハンガリー名Körösmező) からTatár峠を越えてYablunytsya(Jablonice)地区に急進撃しましたが、補給路の橋が破壊されて本隊と切り離され、さらに包囲されたために補給が届かない事態となっていました。このため空中投下により補給が行われることとなり、輸送飛行隊の3機のSM-75輸送機が15時30分にデブレツェン(Debrecen)飛行場を離陸しました。積荷はトウモロコシ12袋、オート麦12袋、パン21袋、コーヒー6000缶、小麦粉64kg、コショウ3kg、脂肪75kg、燻製肉480kg、豆6袋でした。
 補給地点確保のために10名の降下猟兵が補給物資とともに降下しましたが、第3山岳旅団大隊第3中隊から「敵パルチザンの降下」と誤解されて発砲を受けましたが、無事無傷で降下に成功しました。指揮官のGodó中尉は山岳部隊中隊長に物資回収のための人員を求めましたが拒否されたため、現地のウクライナ人15名の協力を得て広範囲に散乱した物資を自分たちで回収しました。
 こうして荷物のパラシュートと貨物コンテナは、パラシュート3個と貨物コンテナ1個を除きすべて発見されましたが、一部の補給物資は現地の兵が勝手に開けて持ち去っていたため降下猟兵達は9日までかかって貨物コンテナを全て発見し、降下猟兵達は馬を調達して後方へ離脱することができました。

 ベルタラン少佐の後任として大隊の指揮は古参将校であるLabancz Gyula大尉が引継ぎましたが、彼はベルトラン少佐の功績に否定的で降下猟兵達の規律と戦意は低下してしまいました。その後2代目大隊長の時代は2回の致命的な墜落事故と軍用車両の違法使用というスキャダルによって1941年8月に終了しました。1941年後半、新たに3代目大隊長としてシュギ・ゾルターン大佐が着任しました。彼は降下訓練の経験がなく、大隊の古参将校からその点を指摘されるとすぐさま降下訓練を始めて降下バッジを獲得するような行動派で、降下猟兵部隊の指揮官としてうってつけの人材でした。
 1942年から43年にかけて、ハンガリー第2軍の約20万名が東部戦線に派遣されていました。一方パーパの「第1降下猟兵大隊」は精鋭部隊として温存され、訓練とともに新しい戦術や戦場での応急手当など新しい技術の研究に使用されました。その間にも降下訓練中の事故は発生しており、1942年には6名の降下猟兵が訓練中の墜落事故により死亡しました。

 東部戦線に少しでも兵力の欲しいドイツ軍はハンガリー軍降下猟兵大隊に目を付け、大隊の作戦投入を再三求めていましたが、大隊を「虎の子」として温存したいハンガリー軍上層部は「訓練中」とか「改編中」とか理由をつけては毎回その要請を断っていました。この間、シュギ大佐と大隊の将校、下士官のグループが特殊作戦の研究と前線視察を名目として3か月間東部戦線に派遣されましたが、降下猟兵大隊で東部戦線での実際の戦闘を目の当たりにするのはこれら一握りの将校、下士官に限られていました。
 1943年1月、ハンガリー第2軍がドン河戦線から撤退する際にはこの視察団が装備、武器、医薬品の空中投下について助言と支援を行い、シュギ大佐は現地で撤退する小部隊を集めて秩序ある撤退戦を行い、ハンガリー軍部隊の脱出戦に貢献しました。東部戦線から帰還後、シュギ大佐は模擬戦車の展示、対戦車戦闘の訓練、東部戦線に必要な新しい歩兵戦闘の訓練を開始しました。
 降下猟兵の志願者確保も重要な問題であり、既存部隊の指揮官たちは優秀な兵士を降下猟兵部隊に供給することに同意せず、その代わりに部隊での「厄介者」たちを部隊に送って意欲ある兵士の志願を禁止することさえありました。この問題の解決策として1941年の終わりに新しい志願者募集方法としてレベンテ運動(Leventeszervezetek)のプログラムを利用して徴兵前の若者に降下訓練を行う方法が開始されました。
 レベンテ運動(Leventeszervezetek)は1921年に創設された国防省管轄の運動であり、12歳から21歳までの少年、少女に参加が義務づけられて体力訓練、行軍訓練、愛国心教育が行われた他、水上、飛行、無線通信、パラシュート降下などのより専門的な教育訓練も行われました。

1943年9月ハンガリー世界ニュース1019
https://filmhiradokonline.hu/watch.php?id=5145

4.カルパチアの防衛戦
 1944年3月22日、ドイツ軍は「マルガレーテI作戦」を発動し、ハンガリー全土を軍事占領下に置きました。ハンガリーの指導者はハンガリー軍のさらなる動員を求めるドイツ軍の要求に答えなければならなくなりましたが、それでもハンガリー軍上層部では降下猟兵大隊を無傷のまま温存したいとの考えに変化はありませんでした。
 このため「第1降下猟兵大隊」はパルチザン掃討作戦に派遣されることとなり、派遣先は東部戦線への補給路の出入り口にあたるハンガリー領カルパティア・ルテニア地方のベレホヴェ地区となりました。『他に投入できる適当な部隊がない』という怪しげな理屈でしたが、大隊はパルチザン掃討作戦のために再編成され、大隊はドイツ軍の動員から免れることとなりました。
 列車でパーパを出発した大隊は6月7日にベレホヴェ(Berehove= ハンガリー名Beregszász)地区に到着しました。出発の際には出動への期待と興奮とともに「輸送機での出撃」を期待していた兵士の間には失望感をも巻き起こしました。6月6日には連合軍がノルマンディーに上陸しており、ドイツ軍の計画ではハンガリー降下猟兵部隊は連合軍に対抗するため西部戦線に投入される予定で、ハンガリー軍としてもベレホヴェ地区への派遣は西部戦線への派遣をわずかに先延ばしにするだけと思われました。
 「第1降下猟兵大隊」はここで中隊単位でのパトロールを開始しましたが、この地区ではパルチザンの兆候など元からあるはずもなく、大隊は2か月の間「パルチザン掃討作戦」を展開しながら訓練と地元住民との交流を行い、この「作戦期間中」での大隊の損害は事故や病気による死者3名のみでした。

 とにかく西部戦線への派遣はされなかったものの、ソ連軍は着実にハンガリー国境地帯に向けて進撃しており、「パルチザン掃討作戦」の平和な日々は8月上旬に終わりを告げ、「第1降下猟兵大隊」は重火器、通信、工兵部隊で増強された野戦編成となり、8月15日にはVolovets(ハンガリー名Volóc)地区に派遣されました。8月28日、部隊は列車への積み込み中にソ連軍機の空襲を受け死傷者を出してパニックを起こし、大隊の降下猟兵達は初めて戦闘の洗礼を受けたのでした。Volovets地区での大隊の任務はソ連軍が到着する前にハンガリー領の歴史的国境であるIlmenka渓谷を押さえることであり、まずは中隊規模の偵察部隊が送り出されてソ連軍偵察部隊との間に小競り合いも発生しました。
 「第1降下猟兵大隊」はその後30㎞ほど離れたVyshkiv地区へと移動し、ハンガリー国境防衛線の師団に臨時に配属されましたが、大隊の担当戦区は何週間もの間静かでした。9月9日の戦闘ではソ連軍の攻撃を撃退し、さらに大隊の第1中隊は反撃によってソ連軍戦線を突破し、戦線後方6㎞まで進出して敵の大隊を奇襲攻撃によって壊滅させ数名の捕虜を得ました。この戦闘により中隊のLajos Molnár大尉が戦死する犠牲もありましたが、中隊の降下猟兵達は悪鬼のように戦い、敵味方双方から名声を得て本物の「降下猟兵」に成長しました。大隊はソ連軍の攻撃により約280名が戦死、負傷、行方不明となる損害を被りながらも10月12日までこの戦線を維持しました。

5.降下猟兵中隊の戦い
 1944年8月23日のルーマニアでのクーデターにより、かつての枢軸同盟国はソ連に寝返り、失われた領土である北トランシルバニアを奪還し、戦争を終結させようとオラデア地区に進撃を開始していました。この状況は枢軸軍側の防衛計画を無効にしかねず、ハンガリーにとっては防衛計画の失敗はより致命的でした。このためこの地区のハンガリー軍とドイツ軍の撤退を支援するため、オラデアの飛行場確保は最優先事項となり9月26日から27日にかけて、パーパの降下猟兵訓練大隊から中隊規模の部隊が北トランシルバニアのオラデア(Oradea=ハンガリー名Nagyvárad)地区に空輸されました。
 降下猟兵中隊の兵力はZoltán Kiss中尉指揮下の175名で、1943M Danuvia “Király”サブマシンガンをはじめパーパで手に入る最高の武器で武装していました。中隊は輸送機が着陸すると同時に自力で飛行場を確保し、さらに路線バスを徴発して直ちに前線に移動して防衛線を構築しましたが、夕方からは早くもソ連軍とルーマニア軍の攻撃が始まりました。その後の36時間は小康状態となりましたが、その後はるかに強力な攻撃が降下猟兵の陣地に繰り返され、弾薬切れとなった降下猟兵は一旦後退しました。
 数日後、補給と再編成を終えた降下猟兵はドイツ軍の防衛線に戻り、その後一週間の間は戦車狩りと歩兵部隊の支援のために休みなく戦い続けました。しかし防衛線はティサ(Tisza)川沿いのTiszafüred地区へと後退し、さらに8日間防衛戦を戦った後に降下猟兵中隊がパーパへと帰還した時点で中隊の兵力は43名まで減少していました。

6.第1降下猟兵連隊への拡大
 1944年10月、「第1降下猟兵大隊」は新編成の「第2降下猟兵大隊」とともに2個大隊により「第1降下猟兵連隊」へと拡大され、新編成の「セント・ラースロー師団」に配属されてその中核連隊となりました。「第1降下猟兵大隊」のシュギ・ゾルターン(Szügyi Zoltán)大佐は師団長となるとともに10月20日付けで少将に昇進しました。
 「第1降下猟兵大隊」はドイツ軍と矢十字党によるクーデター(ドイツ軍呼称:ミッキーマウス作戦)が起こったまさに当日の10月15日にカルパチア地方からブダペストへと帰還しました。これはドイツ軍の動きを警戒したホルティー提督が護衛部隊として呼び戻したとの説もありますが、真相はわかりません。
 シュギ大佐は直ちにドイツ軍と矢十字党側に忠誠を誓い、大隊は10月23日からはブダペスト南東郊外のソロクシャール(Soroksár)地区とドゥナハラスティ(Dunaharaszti)地区の防衛線に配置されましたが、ブダペスト前面の防衛線はまだ静かで、これはカルパティア・ルテニア地方に配置されて以来のことでしたが、これから始まるブダペスト防衛戦の嵐の前の静けさでした。
 「第2降下猟兵大隊」の創設は1944年10月17日に発令され、新設大隊の兵員の大部分は徴兵されたばかりの17~18歳の新兵であり、「第1降下猟兵大隊」のベテランが基幹要員となりこれに機関銃、迫撃砲、無線機の訓練ができる専門職の兵員が他部隊から加わりました。新大隊の新兵はレベンテ協会(Leventeszervezetek)でパラシュート降下訓練を経験したものが選抜されており、降下訓練は1回だけに短縮され代わりに野戦戦闘訓練が重視されました。
 若い降下猟兵達は基礎訓練の後、1944年11月1日に最初で唯一のパラシュート降下を行いました。約1,000名の大規模な降下は一日中続き、1名が事故により死亡しましたが、新兵たちの士気は衰えませんでした。続いて実弾射撃訓練、強行軍、武器整備などのほか、大規模な地上戦訓練が行われました。第2降下猟兵大隊の新編成により念願の「降下猟兵連隊」編成が実現し兵力は約1,400名となっていましたが、これは第2大隊と連隊本部、連隊の重装備中隊の合計ではないかと思われます。


第1降下猟兵連隊(László Pokorny少将)

連隊本部
  重装備中隊
第1降下猟兵大隊
  3個降下猟兵中隊
  1個機関銃中隊
第2降下猟兵大隊
  3個降下猟兵中隊
  1個機関銃中隊
降下猟兵訓練大隊(在パーパ)
  3個訓練中隊


セント・ラースロー師団【前編】

セント・ラースロー師団【後編】(準備中)


2022.5.10 新規作成

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/