泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

セント・ラースロー師団【中編】
Szent László Division

 「セント・ラースロー師団」はイペリIpoly川とガラムGaram(独ガラムGran/現フロンHron)川の戦いで1944年12月末までに実質的に壊滅しました。ドイツ軍にとっては多くの部隊が壊滅から救われた『ガラム川の奇跡Garami csodát』でしたが、「セント・ラースロー師団」をはじめとするハンガリー軍部隊を生贄に捧げた結果でもありました。
 師団の再建は「春の目覚め作戦」の期間もパーパPápa地区周辺で進められましたが、ソ連軍の「ウィーン作戦」発動によりパーパ地区にも危機が迫り、再建途上の師団はバラトン湖北岸の防衛線に投入されました。

セント・ラースロー師団【前編】

7.パーパPápa地区での師団の再建
 1945年1月7日頃、師団残余はガラム川防衛線後方のオギャラÓgyalla(現スロバキア/ハルバノヴォHurbanovo)地区に集結し、シュギ少将はとりあえず各2個大隊からなる2個連隊と1個偵察大隊の再建をすすめ、偵察大隊は自転車中隊と戦車猟兵部隊から再編成されたほか、その後既存の2個砲兵中隊に加えて三番目の砲兵中隊も編成されました。
 師団の中核となる「第1降下猟兵連隊」の再建はパーパPápa~Bakonyszőcs~フェニジェフFenyőfő~バコニコパニBakonykoppány地区で急速に行われました。第1降下猟兵大隊に残った将校の半数は実戦経験者でしたが残り半数は新米中尉で充足され、降下猟兵も戦闘経験のあるベテランがまだかろうじて残っていましたが、補充されたほとんどの兵員は入隊したばかりの新兵で基礎訓練の段階でした。3月22日の時点で大隊の総兵力は1,000名に達しましたが、戦闘可能な兵員は800名程度でした。
 第2降下猟兵大隊にはレベンテ運動の訓練経験者、戦闘経験の少ない兵、訓練中の新規志願兵たちが集められ、これらの新兵の錬成を行うことが大隊の急務でした。第2降下猟兵大隊は3月20日の時点で小銃×800挺、軽機関銃×29挺、機関短銃×12挺、軽迫撃砲×3門、迫撃砲×8門及び対戦車砲×3門を装備していました。
 第1降下猟兵連隊では新兵の訓練が最重要課題となり、毎日の基礎訓練の後、武器の取り扱いと小部隊の戦術訓練に取り組み、昔ながらの行軍やいじめのような訓練はなくなりました。また連隊のための将校と下士官を訓練する新しい士官学校も開設されました。

 空軍ライフル連隊第2大隊の生き残りは将校3名と兵38名でKöbölkút (現スロバキア/グベルチェGbelce)地区に集結し、1月中旬までにレベンテ運動からの補充兵を加えてなんとか3個小隊に再編成されました。師団司令部からはBéla村防衛のために大隊の兵員を派遣するよう命令がありましたが、準備期間もなくうやむやのまま大隊は約25km西方のオギャラ地区に移動し、1週間後にはパーパ西方約30kmのヴァサロスミスケVásárosmiske~ケスクKöcsk地区へと移動しました。
 空軍ライフル連隊の再建はパーパ地区の南西約20kmのガーセGércze~ヴァサロスミスケVásárosmiske~ケメネスカーポルナKemeneskápolna~上メステリFelső-Mesteri~下メステリAlsó-Mesteri~アルソサグAlsóság地区一帯で行われ、連隊は兵力1,300名で主要兵器としてはドイツ製モーゼル小銃、ドイツ製軽機関銃×30挺、ドイツ製機関短銃×15挺、120mm迫撃砲×4門、80mm迫撃砲×8門などを装備しましたが、機関銃の装備数が不足していました。
 他に空軍ライフル予備連隊もヴァサロスミス地区に駐屯して補充兵の訓練を行っており、不足する連隊の将校には1945年1月1日までに17歳となる飛行士官学校の生徒が充てられました。

 擲弾兵連隊の再建はパーパ西方約20kmのナジシトケNagysitke~キシトケKissitke~ナジシモニNagysimonyi~インタ村Inta-puszta~Sándorháza~Pórdömölk(現セルドモルクCelldömölkに合併)~Nemesdömölk(現セルドモルクCelldömölkに合併)~トコルチTokorcs~ミハーリファMihályfa地区で行われ、第2大隊については空軍ライフル予備連隊と同様にヴァサロスミス地区に駐屯していました。連隊の兵力と装備内容は空軍ライフル連隊と同様の計画でしたが実際の充足状況は不明です。

 師団砲兵である第1中迫撃砲大隊第1中隊はバカイ・ゾルタンBakay Zoltán中尉率いられて1月6日の夜に訓練済みの砲兵中隊として大隊に合流しました。兵員には警察官と招集2カ月目の新兵も含まれましたが、継続的な訓練により練度は向上しました。またネメス・ラスローNémeth László中尉の第2中隊は3月20日に大隊に合流しました。
 パーパ地区の「第101新兵訓練所」に集められた将校や兵士は、ボロボロになった師団兵力を補充するために頼りになる存在でした。パーパの駐屯地は地元の若者でごった返し数百人の新しい志願兵が集まりましたが、ほとんどは軍事教練をうけておらず身体的にも未熟な少年達でした。


セント・ラースロー師団
Szent László Division

師団司令部
  師団長:シュギ・ゾルターンSzügyi Zoltán少将
  参謀長:ライトス・アルパードLajtos Árpád少将(1945年3月26日まで)
  ルトカイ・イェンRuttkay Jenő大尉 (1945年3月27日以降)

第1降下猟兵連隊
  連隊本部:タッソニー・エドメルTassonyi Edömér少佐
  工兵小隊:60mmロケットランチャー、パンツァーファウスト
  通信小隊:R3及びR6無線機×6セット
  戦車猟兵小隊:70mm牽引対戦車砲×3門
  第1大隊:ウグロイ・イシュトバーンUgron István大尉
    第1~第3降下猟兵中隊
    軽機関銃中隊:6個機関銃分隊
    重装備中隊:80mm迫撃砲×4門、7.5cm対戦車砲×2門
  第2大隊:マクレイ・フェレンツMakray Ferenc大尉
    第4~第6降下猟兵中隊
擲弾兵連隊
  連隊本部:パルフィ・サンダーPálfi Sándor大尉
  第1大隊:パルフィ・サンダーPálfi Sándor大尉兼任
    第1中隊~第3中隊
  第2大隊:
    第4中隊~第6中隊
空軍ライフル連隊
  連隊本部:パーレイ・ジェルジPályi György大尉
  通信小隊
  工兵小隊
  対戦車砲小隊(牽引):3月17日から牽引対戦車砲×4門
  重機関砲小隊:航空機から取り外した20mm機関砲×2門
  国家憲兵の騎馬警官分遣隊:士官1名と兵12名
  第1大隊
    第1中隊~第3中隊
    重火器中隊
    機関銃中隊
    迫撃砲小隊:80mm迫撃砲×4門
    重迫撃砲小隊:120mm迫撃砲×4門
  第2大隊
    第4中隊~第6中隊
偵察大隊
  大隊本部:ネメス・フェレンツNémeth Ferenc中佐
    工兵小隊
    通信小隊
    対戦車砲小隊
    迫撃砲小隊:鹵獲兵器を装備
  自転車中隊:軽機関銃×3挺、機関銃×2挺
  重対戦車砲中隊:75mm対戦車砲×9門、軽機関銃×9挺
第20歩兵師団軽騎兵中隊:エルジディ=ハラハErdődi-Harrach中尉
戦車猟兵大隊:レーヴェ・エルンLeöwe Ernő大尉
工兵大隊:コッパーニ・エルヌKoppány Ernő中佐
  第1中隊~第3中隊
第1中迫撃砲大隊:ゲルベン・フェレンツGereben Ferenc大尉
  第1中隊:バカイ・ゾルタンBakay Zoltán中尉
  第2中隊:ネメス・ラスローNémeth László中尉
第8機械化(榴弾砲)砲兵大隊
  第1中隊:15cm榴弾砲×2門
  第2中隊:15cm榴弾砲×2門
  第3中隊:15cm榴弾砲×2門
第16突撃砲大隊:ベルノラーク・パルBernolák Pál少佐
第20突撃砲大隊:ヘンキー=ヘニヒ・ヨーゼフHenkey-Hőnig József少佐
  第2中隊
  第3中隊
  第4戦車猟兵中隊:鹵獲兵器を装備
通信大隊
  有線中隊
  無線中隊
師団輸送段列:徴用されたブダペスト セーケシュフヴァロシ交通株式会社Budapest Székesfővárosi Közlekedési Rt.(BESZKÁRT)の路線バス通称「青バス」が使用されていた。

降下猟兵訓練大隊
空軍ライフル予備連隊
擲弾兵予備連隊


 師団の再建作業の一方で、ハンガリー軍首脳陣には葛藤もありました。ドイツ軍指導部、ハンガリー軍参謀本部、そしてシュギ少将自身はセント・ラースロー師団をドイツ本国に送りこみ、「最後の勝利」を信じて戦闘継続を望みました。一方で師団のラユトスLajtos参謀長は、ガラム川で戦闘中の1月5日に師団長や連隊長に対して『いかなる事態になっても、ドイツ軍のためにこれ以上ハンガリー人兵士の血を捧げたくない』と明言していました。
 当時ハンガリー人の若者はレベンテ運動のメンバーを中心として様々な名目でドイツ本国に集団で送られており、ラユトス参謀長は「セント・ラースロー師団」がドイツ本国に送られないことを前提として、できるだけ多くの若者を師団で受け入れることでハンガリー人の若者が強制的にドイツ本国に送られることを阻止しようとしました。
 ドイツ本国に送られれば「最終的な破滅」は目に見えており、師団を新兵訓練の名目でハンガリー国内に留まるとともに、師団がドイツ国境に達した際には西側連合軍への『別のアプローチ』を模索することも検討されました。

8.第16突撃砲大隊/第20突撃砲大隊
 イペリ川・ガラム川の防衛戦で師団に配属されていた突撃砲大隊「Bernolák」はおそらく1945年1月初めに指揮官のBernolák Pál少佐の原隊である「第16突撃砲大隊」へと改称され、セント・ラースロー師団の再建作業の間は引続き師団に配属されましたが、大隊の改称の経緯や行動の詳細はわかっていません。1月7日頃の時点で第16突撃砲大隊と第24突撃砲大隊の合計9両のヘッツァーがスロバキアのガランタGalanta地区の修理工場にあり、うち3両は良好な状態で6両は修理中との資料もあり、大隊は実質的に第24突撃砲大隊を吸収したと思われます。
 第16突撃砲大隊はガランタ地区からセーケシュフェヘールバールSzékesfehérvár南西のシャバドバティアンSzabadbattyán地区へと移動し、その後2月末~3月初め頃にベスプレームVeszprém南東のセントキラーイサバドゥヤSzentkirályszabadja地区の飛行場に大隊の最後のヘッツァー×2両が到着しました。
 また、1月から3月の間は再建中の「セント・ラースロー師団」に引き続き配属されていた模様で、大隊の残存車両と兵員は「第20突撃砲大隊」と統合運用され、3月6日に開始された「春の目覚め作戦」の際にはハンガリー第25歩兵師団戦区に配属されて攻撃初日に2両のヘッツァーを失いました。
 3月15日夜、全ての突撃砲を失った大隊はセントキラーイサバドゥヤ地区からベスプレーム地区へと移動し、兵員と数両の車両のみが鉄道輸送で北部のチョルナCsorna地区へと輸送されました。ハンガリー軍総司令部はここで大隊の残余を再集結させる計画でしたが、結局は2~3日間滞在しただけで負傷者の一行は荷馬車と馬でオーストリアへと送り出され、本隊も4月1日にはオーストリア国境を越えました。

 「第20突撃砲大隊」は「セント・ラースロー師団」の固有突撃砲大隊ですが、エステルゴムEsztergomの戦い以来師団とは別行動で、1945年1月7日頃に師団への復帰を果たしました。大隊のヘッツァーはスロバキアのガランタ地区の修理工場で整備を行なった後、ガランタ西方約6kmのマジャール・ディオーシェクMagyardiószeg(現スロバキア/ヴェジュキー・ディオセクVeľký Diosek)地区で第2中隊と第3中隊が再編成され、第4中隊は鹵獲兵器を装備した戦車猟兵中隊として編成されました。
 大隊は1月中旬にマジャール・ディオーシェクからハンガリーのボダイクBodajk地区へと鉄道輸送され、ボダイクではソ連軍の空襲を受けたもののニムロッド対空戦車×4両の有効な対空防御により撃退に成功し、最終的にセントキラーイサバドゥヤの飛行場に到着しました。
 なお、1月13日にはドイツ軍から供与されたヘッツアー×25両がハンガリーに到着し、その後1月20日頃にセントキラーイサバドゥヤに到着しており、大隊の第1中隊と第2中隊にヘッツアー×20両が配備されて乗員の猛訓練が開始されました。

 1945年1月末の時点で第20突撃砲大隊の第1、第2突撃砲中隊、及び第4戦車猟兵中隊は第6SS戦車軍予備として運用されており、「春のめざめ作戦」終了後の3月末になってからセント・ラースロー師団に復帰しました。
 2月5日の時点で第20突撃砲大隊の第3中隊と第4中隊はハンガリー第25歩兵師団に配属されており、稼働ヘッツァー×16両を持ってバラトンビラゴスBalatonvilágos地区での反撃作戦に投入され、大隊の2個中隊(各ヘッツァー8両装備)は師団の第23歩兵連隊と第25歩兵連隊とともにソ連軍第299狙撃兵師団を撃退しました。
 2月7日、ハンガリー軍はシオーフォクSiófok地区を放棄しましたが、レプシーニLepsényt地区は激戦の後奪還し、2月9日までにハンガリー軍歩兵師団はバラトン湖東岸から3kmのバラトンボゾクBalatonbozsok村~139高地~メジセントギョルジMezszentgyörgy村の南を結ぶ線で戦線を安定させました。
 2月10日にはソ連軍の攻撃が再開し、翌11日にはシオーフォク~レプシーニ間の道路のレプシーニの北東約4kmの交差点でソ連軍1個大隊が突破しましたが、12日朝にはハンガリー第25歩兵連隊とドイツ軍第6機甲偵察大隊の反撃により撃退されました。

 1945年3月6日、ドイツ軍第6SS戦車軍と第6軍の第3戦車軍団を主力とする「春の目覚め作戦」がバラトン湖とヴェレンツァ湖の間から発起され、左翼は北東~東に向けて進撃してブダペストとダニューブ川到達を目指し、右翼は南東に進撃してザルビッツ運河に沿ってダニューブ川到達を目指しました。
 同時に第2戦車軍はバラトン湖の南岸から東に向けて攻撃し、ユーゴスラヴィアからはE軍集団の第91軍団が北に向けて進撃して、あわよくばダニューブ川西岸からソ連軍を追い落とす壮大な目標が設定されていました。

 「セント・ラースロー師団」はパーパ地区でいまだ再建の途上にあり、「春の目覚め作戦」では「第20突撃砲大隊」のみが作戦に投入されました。「第20突撃砲大隊」とハンガリー第25歩兵師団の第25偵察大隊は「春のめざめ作戦」に備えて3月5日からドイツ軍の第6SS戦車軍に配属され、3月6日の作戦開始と同時に第1騎兵軍団の第3騎兵師団、第4騎兵師団と共にエニングEnying地区に投入されました。
 3月8日の時点で大隊は稼働ヘッツァー×15両を装備しており、第25偵察大隊と共に第4騎兵師団に配属されてハンガリー第25歩兵師団の第25歩兵連隊、第4騎兵師団とともに3月10日にエニング地区を奪回しました。
 3月13日には大隊のヘッツァー×15両はハンガリー軍第25歩兵師団の第26歩兵連隊とともにシオーフォク地区のソ連軍第93狙撃兵師団に猛攻を加えましたが、ヘッツァー×6両を失って撃退されました。
 そのころには「春のめざめ作戦」の攻撃はすでに行き詰まっており、3月16日にソ連軍の「ウィーン作戦」が発起さるとドイツ軍は3月18日には作戦を中止して撤退を開始しました。第20突撃砲大隊は3月21日に前線から撤退を開始しましたが、その時点で稼働ヘッツァー×13両を保有していました。【補足-3】

9.バラトン湖北岸の防衛戦
 1945年3月15日の時点でハンガリー第2軍団はベスプレームVeszprém地区に司令部を置き、バラトン湖北岸に展開して沿岸警戒任務を行っていましたが、「セント・ラースロー師団」は予備部隊としてパーパPápa地区を中心として再編成を続けながら待機していました。


ハンガリー第2(II)軍団(1945年3月15日現在)

第25歩兵師団
第20歩兵師団
セント・ラースロー師団


 1945年3月16日、ソ連軍の攻勢「ウィーン作戦」が開始されるとセーケシュフェヘールバールSzékesfehérvár地区の第4SS戦車軍団は最初の猛攻をなんとか食い止めましたが、3月17日になると北はVertes山地北側のタタバーニャTatabánya地区から南はセーケシュフェヘールバール北側のザモリZámoly地区までの幅約30kmの広い範囲でソ連軍の突破口が形成されました。

 ドイツ軍司令部はすでに3月15日0600時にパーパ~ボルソジュルBorsosgyőr地区の師団に対して「レベルI」の警報を発令しており、3月17日にはソ連軍がモールMór~オロシュラニOroszlány地区に達したためさらに「レベルII」の警報が発令されました。
 3月18日、「セント・ラースロー師団」のラユトスLajtos参謀長は南方軍集団からの命令を受取り、移動準備を開始していました。

『セント・ラースロー師団は直ちにバラトンフュレドBalatonfüred~チョパクCsopak地区に行軍し、バラトン湖北西岸に展開するハンガリー第2軍団司令部(バラトンフュレド地区に移転済)指揮下の第20歩兵師団及び第23歩兵師団と交代して、バラトン湖北岸全域の防衛を引き継ぐべし。』

 師団長や参謀長の懸念はいまだ再建途上の師団が分散配備されて無駄に消耗することで、師団は3個歩兵大隊を中心に直轄部隊と第8機械化砲兵大隊の3個砲兵中隊がある程度で実質的には「増強連隊」程度の戦力しかありませんでした。

 3月20日の時点でバラトン湖の北岸ではジルクZirc~ベスプレーム~バラトンフズフBalatonfűzfő地区の防衛線に第1SS戦車軍団の第12SS戦車師団「HJ」と第1SS戦車師団「LSSAH」、第9SS機甲擲弾兵連隊「ゲルマニア」の残余が防衛線を構築していましたが、ジルク地区以北のバコニーBakony山地ではマニMány地区から帰還した第1降下猟兵大隊を含む降下猟兵連隊が警戒線を構築しているにすぎませんでした。
 3月20日、「セント・ラースロー師団」は師団司令部、第1降下猟兵連隊第1大隊、空軍ライフル連隊第1大隊、擲弾兵連隊第1大隊、戦車猟兵大隊、工兵大隊及び通信大隊などの師団主力がバラトン湖北岸のチョパクCsopak地区へと前進し、師団司令部はバラトンフュレド地区に進出しました。
 第1降下猟兵連隊第1大隊では出発前に装備の更新が行われ、ハンガリー製の小銃、軽機関銃、旧式のシュヴァルツローゼ重機関銃(Schwarzlose MG M.07/12重機関銃)に代わり、新型のドイツ製小銃、軽機関銃、重機関銃が支給され、機関銃は1個中隊あたり軽機関銃×12挺、重機関銃×3挺が配備されました。機関短銃(SMG)は相変わらず不足しており、中隊の1名~2名のベテラン兵士が装備する程度でした。
 第1空軍ライフル大隊でも兵器は慢性的に不足しており、出発前に部隊が入手した大量のラム酒とタバコを元手に物々交換が計画され、大隊士官会議では敗走するドイツ軍部隊を見つけたらラム酒とタバコを武器と物々交換するよう指示されました。
交換レートは

タバコ200本でパンツァーファウスト1発
300本で突撃銃または機関短銃1挺
400本で軽機関銃または重機関銃1挺
 実際にどの程度交換できたかの記載はありませんが、小林源文さんの戦争漫画にでてきそうな話ですね。(笑

 師団本隊は第6軍の「バルク集団Gruppe Balck」に編入され、ベスプレーム~バラトンフズフ地区の防衛線に布陣しました。


バルク集団
Gruppe Balck

第4SS戦車軍団の残余
第3SS戦車師団
第9SS戦車師団
第5SS戦車師団の一部
第10SS機甲擲弾兵連隊「Westland」
第23戦車師団
セント・ラースロー師団
ハンガリー第20歩兵師団


 一方で再編成及び兵員訓練を継続中の第1降下猟兵連隊第2大隊、空軍ライフル連隊第2大隊及び補充訓練部隊はパーパ地区に、空軍ライフル予備連隊と擲弾兵連隊第2大隊はヴァサロスミスケVásárosmiske地区に残留して訓練及び駐屯地の警戒任務を継続しました。
 擲弾兵連隊第2大隊は3月23日時点で小銃×800挺、軽機関銃×29挺、重機関銃×12挺、軽迫撃砲×3門、重迫撃砲×8門、重対戦車砲×3門を装備しており、3月26日の時点でバラトン湖西部のザラシャントZalaszántó~ヴァルスVállus地区に移動してバラトン湖を迂回してくるソ連軍への警戒任務に従事しました。

 3月22日の時点でドイツ軍の戦線はベルヒダBerhida~ナーダスドラダーニNádasdladány~セーケシュフェヘールバール~ポルガードPolgárdi~バラトナカラッティヤBalatonakarattya地区の北に至る東西方向に約25kmの突出部を形成しており、ソ連軍はセーケシュフェヘールバール地区を攻撃すると同時にさらに西進して約30km西方のハイマルケルHajmáskér地区を経由してベスプレーム地区東側のカダルタKádárta地区及び南西のリットルLitér地区も占領しました。バラトン湖まではあと5km!

 ここに至り第5SS戦車師団「ヴィーキング」はセーケシュフェヘールバール地区を放棄して撤退を開始しましたが、バラトン湖との間の地域では第5SS戦車師団「ヴィーキング」をはじめ、第1戦車師団残余、第44帝国擲弾兵師団「ホッホウントドイッチェマイスターHoch und Deutschmeister」及び第96砲兵連隊の一部などに包囲の危機が迫りました。
 3月22日正午、クンゴシュKüngös地区で南北からの挟撃したソ連軍第26軍と第27軍の部隊が手を結び、これらの部隊の退路が遮断されると共に、第1SS戦車軍団の主防衛線にも危機が訪れました。

10.バラトン湖北岸の遅滞戦闘
 この危機に際して第6軍司令部と第1騎兵軍団司令部は直ちに反撃を命じ、新着の戦闘団「ネメス」と第9SS戦車師団「ホーエンシュタウフェン」の一部が投入されました。
 戦闘団「ネメス」は「セント・ラースロー師団」うち戦闘地域に最初に到着したネメス・フェレンツNémeth Ferenc中佐が指揮する戦闘団で、第20突撃砲大隊第3中隊の増強を受けて3月22日1600時に第4SS戦車軍団に配属されました。


戦闘団「ネメス」(ネメス・フェレンツNémeth Ferenc中佐)

偵察大隊の重対戦車砲中隊
擲弾兵連隊第1大隊の一部(おそらく第1中隊と第3中隊)
第20突撃砲大隊第3中隊:ヘッツァー装備


 戦闘団「ネメス」は第41騎兵連隊とともに第1騎兵軍団戦区のヴィローニャVilonya地区北部に投入されて撤退を援護し、第9SS機甲擲弾兵連隊「ゲルマニア」はヴィローニャ~クンゴシュKüngös地区まで前進して包囲部隊の退路を確保しました。包囲された部隊は3月23日0200時に突破を開始しましたがその損害は大きく、第1戦車師団の場合3月22日の時点で10,436名であった兵力はわずか250~260名にまで減少していました。【補足-4】

 3月22日の2000時に開始されたソ連軍の激しい攻撃は23日の夜明けとともに第1騎兵軍団戦区のバラトンフズフBalatonfűzfő北東地区に加えられ、第4騎兵師団が攻撃の矢面に立たされましたが、第41騎兵連隊と戦闘団「ネメス」は第24戦車連隊第1大隊のパンター戦車と第20突撃砲大隊のヘッツァーに支援されてこの攻撃を跳ね返しました。
 戦闘団「ネメス」は23日1300時~1400時まで陣地を維持してリットルLitér~バラトンフズフ地区への幹線道路を封鎖し、バラトンフズフの北東で現在塩素工場と製紙工場のある地区では戦闘団と増援の戦車により支援された守備隊がソ連軍を迎え撃ち、戦車×11両を撃破して突破を阻止しました。しかし南西のバラトンナルマディBalatonalmádi地区のさらに背後にもソ連軍が進出したため守備隊は新たな防衛陣地に後退しました。

 3月23日にソ連軍はベスプレームVeszprémを占領し、第3戦車師団の守備隊は市街から約1km離れた新しい防衛線まで後退しました。ソ連軍はベスプレームからグラーツへの主要道路(8号線)沿いに西に進撃しており、ドイツ軍の退路はバラトン湖沿いの道路に限定されることになりました。
 3月24日、「セント・ラースロー師団」は第4SS戦車軍団から第1騎兵軍団に転属となり、24日夜にはアソーフゥーAszófő地区に軍団予備として配備されましたが、すぐに約15km後方のザンカZánka地区へと後退しました。ソ連軍はバラトンフュレドBalatonfüred地区に向けて進撃しており、アソーフゥー~ティハニーTihany半島地区に布陣したハンガリー第20歩兵師団もその後すぐにバラトンアカリBalatonakali~ドルギツェDörgicse地区の新防衛線へと撤退しました。

 第6軍司令官のバルク大将が『ガラム川の奇跡garami csodát』の再現を期待しているのは明らかで、敗走するドイツ軍部隊を再編成して一息つくために「セント・ラースロー師団」に足止め役として犠牲になることを求めていました。このため師団司令部は降下猟兵大隊、空軍ライフル大隊を森の中に隠し、第1騎兵軍団司令部に対しても『部隊の集結が遅れている』と報告して師団の実態をドイツ軍からも「隠蔽」していました。
 3月25日、ソ連軍がティハニー半島を越えてバラトンアカリ地区へと前進している頃、内陸のナジヴァズソニーNagyvázsony地区では第1騎兵軍団の第3騎兵師団と第4騎兵師団の一部及び「セント・ラースロー師団」の一部が遅滞戦闘を継続していました。
 第1降下猟兵大隊はプーラPula~ナジヴァズソニー~ヴェロストVöröstó地区のドイツ軍防衛線で第3戦車師団戦区にありましたが、隣接のドイツ軍部隊は撤退し上級司令部とも連絡が取れなくなっていました。ドイツ軍連絡将校は大隊の撤退を阻止しようとしましたが、大隊長のウグロイUgron大尉は『車両を配備してくれればドイツ軍と共に守備に就く!』と答えて残留を拒否し、小隊ごとのグループに分かれて約15km後方のモノストラパティMonostorapáti地区の南の森まで後退し、その後タポルツァTapolca方面に向けて後退しました。

 3月25日の深夜、ハンガリー第2軍団司令部と直轄部隊はドイツ軍第1騎兵軍団に編入され、軍団左翼の第4SS戦車軍団との接続部を強化するため「セント・ラースロー師団」はモノストラパティ地区に移動し、25日/26日の夜に再編成が行われました。
 ここで第3SS戦車師団「トーテンコープ」、第5SS戦車師団「ヴィーキング」、第3戦車師団の残余と交代する命令を受けましたが、交代予定の3個師団の兵力はそれぞれ300~400名程度で、対戦車砲は1門もなくソ連軍2~3個軍団と対峙していることがわかりました。
 3月25日の夜、シュギSzügyi師団長とライトスLajtos参謀長が連絡将校とともにモノストラパティ地区のドイツ軍団司令部を訪れると付近のドイツ軍部隊はすでの撤退準備を始めており、ドイツ軍3個師団が大損害を被って撤退したとなれば、翌朝にはソ連軍の大軍が押し寄せるのは明らかで、参謀長は交代する代わりに直ちに撤退するべきだと師団長に進言しました。
 師団長も参謀長に同意しましたが、命令に従わない場合のリスクも考慮しなければならず、このため命令書には参謀長が署名し、発覚した場合には『師団長が知らないうちに参謀長が勝手に命令した』と弁明することで師団長と参謀長及び主な戦闘部隊指揮官が合意のうえで実行され、命令書は直ちにオートバイ伝令で伝達されました。

 3月26日の朝、モノストラパティ地区を出発した師団司令部は正午にタポルツァTapolca地区に到着し、前夜の命令により師団はすでに3月26日1400時から1700時の間にタリアンドログドTaliándörögd~カポルチKapolcs~メンシェリーMencshely地区の防衛線から撤退してタポルツァ地区の新防衛線を目指しており、師団長は自ら集結する部隊を視察するため出発しました。
 3月26日もナジヴァズソニー~メンシェリー地区の森林地帯では遅滞戦闘が続き、ソ連軍は9~10時間足止めされただけでしたが、それでも貴重な時間が稼がれました。空軍ライフル大隊と第1降下猟兵大隊はナジヴァズソニー地区からモノストラパティ地区の新防衛線へと後退しましたが、偵察の結果側面のドイツ軍は例によって撤退を始めており、降下猟兵連隊のタッソニーTassonyi少佐は空軍ライフル大隊のパーリィPályi大尉、第1降下猟兵大隊のウグロイUgron大尉と協議し、置き去りにされると確信して即座に撤退を命令しました。
 モノストラパティ地区から撤退した第1降下猟兵大隊は午後にはタポルツァ地区に到着すると翌26日にザラシャントZalaszántó地区で師団の輸送段列に追いつき、空軍ライフル大隊は早朝にタポルツァを通過しさらに西方のザラシャント地区を目指しました。

 1400時、師団長不在の師団司令部に第1騎兵軍団のハイテネック大将から怒りの電文が届いていました。

『なぜ撤退したのか? 師団は前線を守るべき。師団長か参謀長がすぐに報告せよ! ハルテネクHarteneck』

 ライトスLajtos参謀長はこれが潮時と考え、一人で自動車を運転して司令部を離れるとドイツ軍の撤退を見届け、暗くなってから私服でクシュヴァグルスKővágóőrs~バラトンゼペズドBalatonszepezd地区の森に入り、その後ソ連軍の捕虜となりました。
 参謀長の署名した最後の『撤退命令』は26日1800時に発令され、師団はタポルツァからさらに西方約15kmのザラシャント地区を目指して後退しました。3月26日にはバラトン湖西端のケストヘイKeszthely地区がソ連軍に占領されたため、実際にこの撤退は包囲を逃れるためには間一髪のタイミングでした。

11.タポルツァTapolca~ザラシャントZalaszántó~ケヒダKehidaの撤退戦
 3月26日/27日の夜、師団は第1騎兵軍団予備としてザラシャントZalaszántó地区に集結し、師団司令部も27日1400時にザラシャント地区に到着し、部隊は下記のように展開しました。


セント・ラースロー師団の展開状況(1945年3月26日現在)

・降下猟兵大隊:ザラシャント北東1km、Sárvály大森林の東側
・擲弾兵大隊(おそらく第2擲弾兵大隊):ザラシャント東方~南東1.5km、Válus方面
・空軍ライフル大隊:ザラシャント東方1km
・偵察大隊+戦車猟兵中隊:ザラシャント南方2km、シュメグSümeg地区
・工兵大隊:ヴァールヴォルジVárvölgy東方1km
・通信大隊の自動車部隊:レジRezi方面
・通信大隊の傍受部隊:自動車牽引

・師団砲兵指揮官司令部:ザラシャント北西
・第1中迫撃砲大隊:ザラシャント森林の北部
・第8機械化砲兵大隊+第153迫撃砲中隊:(Cserhát少佐) ザラシャント南方、レジRezi方面
・第37砲兵大隊:ザラシャント北西
・第6予備砲兵大隊:ザラシャント北側

・突撃砲大隊はザラエゲルセグZalaegerszeg地区との連絡が取れないため指揮できない


 戦闘団「ネメス」はこれまでの戦闘と空襲で大損害を被って解隊され、「偵察大隊+戦車猟兵中隊」が戦闘団の残余と思われます。またザラシャント~Válus地区の「擲弾兵大隊」は別行動であった第2擲弾兵大隊のことと思われます。
 「突撃砲大隊」は連絡が取れないとなっていますが、第20突撃砲大隊第3中隊についてはケストヘイKeszthely~バラトネデリクスBalatonederics地区に展開していました。

 3月27日の夜明け、ソ連軍は約40両の戦車でタポルツァTapolca北方のザラハラプZalahaláp地区を占領し、タポルツァのハンガリー第20歩兵師団、ドイツ第1騎兵軍団とハンガリー第2軍団の残存部隊は第23戦車師団の援護を受けながら包囲を逃れてシュメグSümegの南~レセンシストヴァンドLesenceistvánd~シグリゲットSzigliget地区のレセンスLesence川沿いの新防衛線へと撤退し、タポルツァは27日午前中に放棄されて陥落しました。
 タポルツァから後退したハンガリー第20歩兵師団はケストヘイ東方のバラトンギョレクBalatongyörök地区に師団司令部を移し、レセンストマジLesencetomaj~バラトンギョレク地区のレセンス川沿いに第14歩兵連隊が防衛線を構築しており、「セント・ラースロー師団」の一部もレセンストマジ~バラトネデリクス地区で道路を封鎖して第4騎兵師団の後衛部隊の撤退を援護しました。

 第20突撃砲大隊第3中隊のラドヴァーニ・フェレンツDr. Radványi Ferenc軍曹の小隊(ヘッツァー×3両)は後衛戦闘のためにバラトネデリクス地区に送られ、中隊のカルパティKárpáthy中尉が直接指揮してバラトネデリックの道路の交差点と踏切付近に布陣しました。
 交差点近くの踏切付近では高射機関砲を載せた軍用列車が立ち往生しており、高射砲兵の助けを借りてヘッツァーを車体半分まで埋めて木の枝で偽装し、待ち伏せ体制をとりました。軍用列車は機関車故障のため5人がかりで修理していましたが、中隊の伍長は応召前にMÁV社の工場で主任機関士を務めており、彼は機関車の修理を見ると1時間以内に完了するだろう報告して中尉を安心させました。
 間もなくソ連軍戦車部隊の先鋒であるT-34×17両と歩兵を積んだトラック×2両がシグリゲットSzigliget方面から交差点への一本道に現れました。縦隊が2,000mに達したとき小隊は発砲を開始し正確な射撃で先頭の2両が最初の発砲で、後続の2両が2回目の発砲で撃破されました。道路以外は湿地帯のため道路から外れた戦車は水没し、30分の戦闘で17両の戦車すべてが炎上しました。軍用列車の高射機関砲も一方的な銃撃戦に介入し、戦車やトラックで到着したソ連軍歩兵をなぎはらいました。
 ソ連軍の先鋒は5~6発ほど応戦しただけで全滅し、その間にIl-2戦闘機2機も飛来して低空から小型爆弾で攻撃しましたが激しい対空砲火で撃退されました。その後ドイツ軍の工兵部隊が到着し、陣地や施設を全部爆破するからすぐに撤退するように通告されて小隊は無傷のまま後退することができました。

 バラトン湖西側のケストヘイ~カルマックKarmacs~クスタニKustány地区ではケストヘイ地区から北上するソ連軍に対して「セント・ラースロー師団」と第20歩兵師団の一部、ハンガリー第2軍団直轄部隊の残余が薄い防衛線を引いていましたが、この方面のソ連軍の兵力は少なくなんとか戦線を支えていました。
 3月27日にはソ連軍はタポルツァの北西約15kmのシュメグレSümeg地区を占領し、これによりソ連軍がシュメグからそのまま南下して約25kmのケストヘイ方面へ向かうのか、または約15km西方のザラセントグロートZalaszentgrót地区に迂回してから南下して大きな包囲を狙うのか状況は流動的でした。

 「セント・ラースロー師団」は2日間の強行軍を経て計画どおりザラシャントZalaszántó地区まで後退しており、3月27日1800時の時点で師団司令部はザラシャントに置かれました。ザラシャント地区は北のシュメグレと南のケストヘイを結ぶ道路の中間地点にあたり、師団は幅約25kmの撤退路を南北両面の攻撃から守りました。
 シュメグから南下してくるソ連軍に対し、ザラセントグロート~オヒドÓhidの南~バジBazsiの南~ウザUzsaの北地区の防衛線では左翼から第1騎兵師団の第32騎兵連隊、中央部は第72独立砲兵大隊に支援された第32騎兵連隊と第31騎兵連隊の一部、右翼は第31騎兵連隊が展開していました。
 師団の2個戦闘団が一時的に第3騎兵師団に配属され、東部のシュメグ~バジ~ザラシャント間の道路には偵察大隊、降下猟兵大隊、重対戦車砲中隊からなるタッソニーTassonyi少佐の戦闘団が、西部のオヒド~ヴィンドルニャシュシュルシュスVindornyaszőlős間の道路には擲弾兵大隊からなるパルフィPálfi大尉の戦闘団が配置されました。

 3月28日の夜明けまでにソ連軍はバジ地区を占領し、約40両の戦車を含む師団規模の部隊が北側のシュメグ地区にも到達し、その後バジ地区からシュメクシェヒSümegcsehi~デーブローツェDöbröcén地区へと西進すると同時にマリアマヨールMáriamajor地区に戦車を集結させ、バジ地区から南に前進しましたがこの攻撃は第3騎兵師団の第31騎兵連隊によって阻止されました。
 タッソニーTassonyi少佐の戦闘団はタチカTátika山~ザラシャントの北~チェルハートマヨールCserhátmajor~ヴィンドルニャフォクVindornyafokの西~ローザヘグエンRózsahegyen~カルマックKarmacsの西地区で橋頭堡を築き、降下猟兵大隊はザラシャント地区で防衛線を構築しました。
 しかしその後のソ連軍の攻撃により第31騎兵連隊が撤退したため降下猟兵部隊は取り残され、ザラシャント地区で戦車に支援された約1個連隊のソ連軍部隊に包囲され、一旦は包囲を突破しましたが約4km西方のヴィンドルニャラクVindornyalak地区で再び包囲され、28日/29日の夜に包囲を突破するまでに降下猟兵の60%が戦死する大損害を被りました。
 3月27日~28日の間「セント・ラースロー師団」は遥かに優勢なソ連軍の攻撃を阻止し、その結果第1騎兵軍団の第3騎兵師団と第23戦車師団の部隊がケストヘイ~カルマック~クスタニKustány地区の防衛線から計画的に撤退し、クスタニ橋でザラZala川西岸へと渡河するのを可能にしました。

12.ザラZala川~ケヒダKehida橋頭堡の戦い
 3月28日午後、「セント・ラースロー師団」の司令部はザラ川西岸のケヒダKehida(現Kehidakustány)地区に後退し、ザラ川東岸のケヒダ橋頭堡では師団の再編成が行われ、橋頭堡の外縁部には降下猟兵大隊、空軍ライフル大隊、擲弾兵大隊、工兵大隊により防衛線が形成され、ザラ川の橋梁には工兵大隊第1中隊は配備されてハンガリー軍とドイツ軍の退路を確保しました。
 空軍ライフル大隊は橋頭堡北側のヴィンドルニャシュルシュVindornyaszőlősの北~ヴィンドルニャラックVindornyalakの北地区に、擲弾兵大隊は橋頭堡の南~東正面のクスタニKustány~カルマックスKarmacs~ヴィンドルニャフォクVindornyafok地区に配置され、ヴィンドルニャフォク地区には降下猟兵大隊の残余が布陣して師団のロケット砲部隊により支援されました。クスタニのザラ川橋梁には擲弾兵の1個小隊が布陣しており、交通管制員と突撃砲も配備されました。
 橋頭堡からの撤退は『チャバ王子Prince Csaba』の暗号で実行されることとされ、撤退後はサラネメトファルZalanémetfalu(現リゲトファルヴァLigetfalva)地区に集結し、最終的にはザラエゲルセグZalaegerszeg地区南方のボットファ Botfa~ツァタールCsatár地区まで後退して再集結することになっていました。

 橋頭堡の北側にはドイツ軍第23戦車師団とハンガリー第20歩兵師団が、南側には第3騎兵師団がザラ川沿いに防衛線を構築しましたが、3月27日朝にはソ連軍がザラセントグロートZalaszentgrót地区を占領したことから、ケヒダ橋頭堡の北側への脅威が増していました。
 3月28日には第4SS戦車軍団の第3戦車師団の防衛線が突破され、ソ連軍はザラセントラースローZalaszentlászló地区まで達し、さらにケストヘイKeszthely地区に向けて南下して撤退中のドイツ・ハンガリー軍の退路を遮断する動きを見せていました。
 このような戦況のなか「セント・ラースロー師団」は軍団命令により第23戦車師団に配属されました。師団長の抗議にもかかわらず軍団司令部としては軍団北翼の防衛を担う第23戦車師団の指揮下にケヒダ地区の「セント・ラースロー師団」を配属して師団の右翼を守らせようとしたのかもしれません。

 3月29日の時点でザラ川東岸の橋頭堡はGyülevész~ヴィンドルニャフォクVindornyafok~カルマックス~クスタニ地区の幅×奥行きともに約4.5kmの範囲へと縮小しており、北のGyülevész地区に空軍ライフル大隊、カルマックス~クスタニ地区には擲弾兵大隊、ヴィンドルニャフォク地区には降下猟兵大隊の残余がまだ頑張っていました。
 0730時頃、ソ連軍の大部隊がヴィンドルニャフォク地区を攻撃し、降下猟兵部隊は包囲を避けてドイツ軍対戦車砲中隊とともに西方に強行突破しましたが、山越えの道で対戦車砲中隊の牽引車が立ち往生し、砲撃で各個撃破されて大損害を被りました。
 降下猟兵部隊の残余、擲弾兵大隊の一部、ドイツ軍対戦車砲中隊の大部分がここで壊滅するとともに擲弾兵大隊の戦区へも攻撃が始まり、大隊は0800時にクスタニのザラ川橋梁に向けて後退を開始しました。

『チャバ王子、橋頭堡を放棄!、直ちに出発せよ!』
 3月29日0830時、師団長は計画通り橋頭堡からの撤退を命じました。

 1000時、東岸の工兵大隊と擲弾兵大隊は空軍ライフル大隊の1個中隊に支援されてザラ川西岸に撤退し、1300時には師団の全部隊がザラ川西岸に撤退しました。夕方からケヒダ~クスタニ地区の防衛を引き継いだ第3擲弾兵大隊は終日ザラ川橋梁を守り通しましたが、バラス・ゾルタンDr. Ballás Zoltán中尉の第1中隊は激しい市街戦に巻き込まれて夜になって壊滅しました。

 師団は軍団命令によりザラセントグロート地区から南下してくる敵に対して第3騎兵師団とともにケヒダ~ザラエゲルセグ地区間の道路沿いに防衛線の構築を命じられました。第3騎兵師団司令部は疲れ果てボロボロで弾薬も乏しい師団にすぐにナジカプールNagykapornak地区までの約10kmの防衛線を占有するように命令しましたが、シュギ師団長の抗議でアルマシャザAlmásháza南西の道路橋~ケヒダ地区間の約5kmの防衛に短縮され、空軍ライフル大隊の1個中隊が派遣されました。
 2300時、軍団司令部から第23戦車師団の撤退命令が届き、「セント・ラースロー師団」はケヒダ地区の防衛を全面的に引き継ぎましたが、30日1200時まではミセファMisefa~Zalaújfalu地区の第23戦車師団の新防衛線を越えての撤退は禁止されました。

 これにより第3騎兵師団はケヒダの西~アルマシャザAlmásháza南西の橋~ヘルバリHerbáli地区の防衛線を担当し、右翼の「セント・ラースロー師団」戦区では擲弾兵大隊の戦闘団がケヒダの北~ザラ川沿いのザラアパティZalaapáti地区に布陣し、空軍ライフル大隊と工兵大隊がザラネメトファルZalanémetfalu(現リゲトファルヴァLigetfalva)~パクサPacsa~ザラセントミハイZalaszentmihály地区に布陣し、第20歩兵師団の軽騎兵中隊及び空軍ライフル大隊分遣隊のトートTóth大尉の戦闘団がティラジTilaj~ネメッサーNemesszer地区で左翼を支援し、ザラネメトファル地区の空軍ライフル大隊とザラチャニZalacsány城の空挺部隊残余が師団予備として待機しました。
 3月30日、師団は第3騎兵師団と協力してザラ川西岸を南下する敵への防衛線を展開し、アルマシャザAlmásháza~ケヒダ地区の防衛線で6時間待ちこたえた後、1200時を過ぎてからネメスラド~Zalaújfalu~フェルスパホク地区の騎兵軍団及び第23戦車師団の新防衛線を越えて南に撤退しました。

 第1騎兵軍団の新防衛線はミセファ~ネメスラドNemesrádó~Zalaújfalu~フェルスパホクFelsőpáhok地区に構築され、左翼には第3騎兵師団が、右翼には第23戦車師団とケヒダ防衛司令官の部隊が展開しました。
 師団は当初ザラエゲルセグZalaegerszeg地区南方のボットファ Botfa~ツァタールCsatár地区に集結する計画でしたが、ソ連軍はブクスセントラースローBúcsúszentlászló方向からザラセントミハイZalaszentmihályへの攻撃を強めていたため、師団の集結地はペトレテPötréte~フェルスライクFelsőrajk地区に変更され、師団司令部も3月30日1200時にケヒダの南方約7kmのボルゾンツェBörzönce地区に移動し、翌31日にフェルスライク~ペトレテPötréte地区に集結した師団に追いつきました。

 3月30日付けのハンガリー第2軍団司令部の命令によると、「セント・ラースロー師団」は残存するハンガリー第20歩兵師団、第25歩兵師団とともに第1騎兵軍団からハンガリー第1軍/第2軍団に復帰し、再編成のためにラドカースブルクRadkersburg(現オーストリア/Bad Radkersburg)地区に移動する計画でしたが、結局ラドカースブルクへの移動命令はなく引き続き騎兵軍団の指揮下で戦闘を継続しました。
 3月30日/31日の深夜、師団はハンガリー第2軍団司令部の命令により軍団予備としてプスタスタセントラースローPusztaszentlászló~プスタマギャロドPusztamagyaród~プスタエデリクスPusztaederics地区に集結して再編成することとされました。
 3月31日の夜明けから師団は移動を開始し、午後にはプスタマギャロド~プスタエデリクス地区に到着しましたが、75号線のノヴァNova地区には敵の騎兵1個連隊が到達しており、敵の先遣パトロール隊はすでにレンティLenti~レンティソンバトヘイLentiszombathely~ミケカラチョニファMikekarácsonyfa地区にも達していたことから、休む間はありませんでした。

13.マルギットMargit陣地の西側で
 3月30日1520時、ソ連軍第57軍とブルガリア第1軍は2日間にわたるドイツ第2戦車軍による頑丈な抵抗を排除してバラトン湖南側の「マルギットMargit陣地」を突破し、2000時には第32親衛機械化旅団が油田地帯の東にあるイハロスベレニIharosberény地区に到達し、市街戦に突入しました。【補足-5】
 守備隊はリスペLispe油田の占領を遅らせるためナジカニジャNagykanizsaの運河地帯~ミクロスファMiklósfaの養殖池~バイチャBajcsa~フィチェハザFityeház~Murakeresztúr地区の第二次防衛線でソ連第299師団とブルガリア第12師団の進撃を足止めしましたが、ブルガリア軍の一部は手薄なドラバ川方面に進撃し、3月30日にはベルセンツェBerzence~ヴィズヴァールVízvár地区に達しました。

 ドイツ第1騎兵軍団の戦区では南下するソ連軍に対してバクBak~レンティLenti間の幹線道路75号線と鉄道線路への限定的な反撃が計画されました。「セント・ラースロー師団」の右翼では第9SS戦車師団「ホーヘンシュタウヘン」がグトルフェルデGutorfölde~バクトゥットシュBaktüttös~ソイトールSöjtör地区の道路を防衛しており、左翼では第3騎兵師団がミケクラツソニーファMikekarácsonyfa地区からノヴァNova地区を攻撃するとともに、第23戦車師団はパーカPáka地区からバルセントミハイファBárszentmihályfa地区を攻撃し、予備として第4騎兵師団がゼベツケZebecke地区に待機していました。

 「セント・ラースロー師団」は「第二段階グループ」として2個戦闘団を編成して攻撃に参加し、3月31日深夜から攻撃準備の後、ファルカスFarkas少佐の戦闘団(降下猟兵、擲弾兵大隊、工兵大隊)は4月1日0530時に行動を開始し、ベレクパタックBerekpatak渓谷のプシュタマジャロドPusztamagyaródの西~フェケテベレクヴォルジFeketeberekvölgy~セントペテルフェルデSzentpéterfölde~リゴヘジRigóhegyを経由し、1100時までにグトルフェルデの東でトーフェイTófej地区に通じる道路の交差点に達しました。
 その後はグトルフェルデの鉄道駅~セントコズマドンビヤSzentkozmadombja村~ゾルグヒダZörgőhida村の高地に向かい、武装SSの一隊とともにサラタルノクZalatárnok~ドゥルゴDurgó地区の230高地に向けて掃討し、ソ連軍のパトロール隊を撃退してドイツ軍の攻撃を援護しました。
 工兵大隊は1030時にセントペテルフェルデを出発して1125時にグトルフェルド地区に到着すると、そこで師団長自らの新たな命令を受けました。大隊は218三角点~ザゴリダZágorhidaの東までの新防衛線を構築することとなりましたが、正面とノヴァ地区の西で敵の抵抗に遭遇し、大隊はザゴリダZágorhida地区の東方の高台で西側と南側に向けて防衛線を構築しましたが、約3.5kmの主戦線に対して配備できた兵力はわずか115名!でした。
 師団右翼ではパールイPályi大尉の戦闘団(空軍ライフル大隊、第20歩兵師団の軽騎兵中隊、偵察大隊の戦車猟兵の一部)がプシュテデリクスPusztaedericsから進撃してセントコズマドンビャSzentkozmadombja~75号線沿いのザラタルノクZalatárnok地区~ゲルブジGörbő地区に達しましたが、散発的な迫撃砲火を受けただけでした。

 「セント・ラースロー師団」は正午までザラセントミハイZalaszentmihály地区で防衛に努め、その後は敵の追撃を受けることなく後退しました。師団右翼のパールイPályi大尉の戦闘団は敵から離脱し、セントペテルフェルデを経由してグトルフェルデ地区に1130時に到着し、町の南側に防衛線を構築しました。
 グトルフェルデの南2kmの陣地にはリスペ油田の防空を担うギャルマティ・ゲルジGyarmati Görgy大佐の第11高射砲大隊第1中隊が高射機関砲×6門を持って駐屯しており、中隊はオルタハザOrtaháza~グトルフェルデ間の道路で地上部隊の支援に投入されるとともに、大佐からは第11高射砲大隊の貴重な情報がもたらされ、大隊は後に師団に合流しました。

 4月2日、ドイツ軍はノヴァ地区への攻撃を継続しましたが午後には攻撃を中止し、1600時頃には第1騎兵軍団全体が敵から離脱し、ムール川北岸沿いのトルニセントミクローシュTornyiszentmiklós~レンドヴァデデス Lendvadédes~シャボラコス・プスタSzabólakos puszta~ムラレフMurarév(現スロベニア/ホティザHotiza)地区のより直線的な橋頭堡への撤退を開始しました。
 「セント・ラースロー師団」は司令部をグトルフェルデからセントペテルフェルデの森の旧第3騎兵師団陣地に移動し、師団の部隊もグトルフェルデ南の森に終結後、リスペゼンタンドラスLispeszentadorjánを経由してヴォルギファルVölgyifalu (現スロベニア/Dolina pri Lendavi)に向けて移動を開始し、第20歩兵師団軽歩兵中隊が後衛に配置されました。
 4月2日2200時、師団は第1騎兵軍団からアルソレンドヴァAlsólendva(現スロベニア領/レンダヴァLendava)地区に集結する命令を受取り、この命令により約60kmの強行軍を余儀なくされましたが、第1騎兵軍団司令部は徒歩行軍の師団の移動を考慮して敵がナジカニジャ地区から進撃してくる前にムラゼルダヘリMuraszerdahely(現クロアチア/Mursko Središće)地区に到達できるよう通常よりかなり早い時期に命令を伝達しました。

 師団の戦闘不能の部隊と輸送段列は一足早くボツカイヘジ Bocskaihegy(現クロアチア/Selnica)~ムラレタットMuraréthát(現クロアチア/Štrukovec)地区で再編成するため移動を開始していましたが、師団司令部は戦闘部隊に続いて4月2日午後に移動を開始し、アルソレンドヴァ~ムラゼルダヘリ地区でムール川を渡河し、4月3日午後にムラフレドMurafüred(現スロベニア/Gibina)地区に到着しました。

 4月3日、師団長は『ムール川防衛のための措置』として次のような命令を発しました。

『要点:敵は前夜に東から前線を突破してレテニLetenye地区を占領し、西のムラゾンバットMuraszombat(現ムルスカ・ソボタMurska Sobota)地区に到達して橋頭堡を包囲しようとしている。師団はトロニセントミクローシュTornyiszentmiklós~レンドヴァデデスLendvadédes~シャボラコスプスタSzabólakospuszta (アルソレンドヴァAlsólendvaの北4 km)~ムラレフMurarév地区の陣地に入り、ムラゼルダヘリMuraszerdahely(現Mursko Središće)地区のムール川橋梁を確保する。

師団の任務:ラカニツァráckanizsa(現スロベニア/ラスクリジイェRazkrižje)地区の渡船場を確保し敵の渡河を阻止する。ヘタズHétházの西~ムラヘリMurahelyの東地区の河川監視地域では、第20軽騎兵中隊がフェルスベシュテルツェFelsőbeszterce~チェルフェルドCserföldの北西の間の橋頭堡を、バルヌスBarnus~ムラゾンバットMuraszombat~マルトンヘリーMártonhely地区の間は第4騎兵師団の部隊とともに戦車猟兵中隊の2門の対戦車砲で維持される。』


 ムール川の防衛線に後退した第1騎兵軍団は「マルギットMargit陣地」からの後退後、ムール川の防衛線で立て直しを図る第2戦車軍に転属となり、第2戦車軍の右翼のドラバ川沿いの防衛線はフリダウfriedau (現スロベニア/オルモシュOrmož)地区までをE軍集団の部隊と交代して戦線が整理されました。
 「セント・ラースロー師団」はクロアチアとスロベニア北部のハンガリー併合地域である「ムラコズMuraköz」地方や「ムラヴィデクMuravidék」地方からも離れ、ついにドイツ併合地域であるムール川南岸の「ウンター(下)シュタイアーマルクUntersteiermark」地方に足を踏み入れました。ハンガリー領土を離れるにあたり希望者は軍を離れて故郷に戻ることも許可されましたが、ほとんどの兵士が師団とともにムール川南岸に渡りました。【補足-6】


第1降下猟兵大隊

セント・ラースロー師団【前編】

セント・ラースロー師団【後編】


ハンガリーの地名・人名表記について(2025.1.10)
・地名表記は当時ハンガリー領であった場所はできるだけ「ハンガリー語カタカナ表記+現地語表記(現○○国/カタカナ表記+現地語表記」の例により表記
・ハンガリー人の人名はハンガリー語表記のとおり氏・名の順で「カタカナ表記+現地語表記」の例により表記
・章の初出の地名、人名は「カタカナ表記+現地語表記」で表記し、2回目以降はカタカナのみ表記
・カタカナ表記はグーグル翻訳に頼っていますので、正確なものではありません。


【補足-3】
第16突撃砲大隊の装備数推移
1944年12月30日 ヘッツアー×14両(内稼動×4両)
1945年
1月1日 ヘッツアー×14両(内稼動×6両)
1月6日 ヘッツアー×14両(内稼動×4両)
1月11日 不明
1月16日 ヘッツアー×22両(内稼動×4両)
1月25日 ヘッツアー×17両(内稼動×8両)
2月1日 ヘッツアー×16両(内稼動×8両)
2月5日 ヘッツアー×16両(内稼動×8両)
2月10日 ヘッツアー×14両(内稼動×8両)

第20突撃砲大隊の装備数推移
1月6日 ヘッツアー11両(内可動7両)
2月1日 ヘッツアー24両(内可動24両)
2月5日 ヘッツアー24両(内可動24両)
2月10日 ヘッツアー24両(内可動16両)
2月15日 ヘッツアー36両(内可動20両)
2月21日 ヘッツアー36両(内可動21両)
2月24日 ヘッツアー38両(内可動22両)
3月1日 ヘッツアー36両(内可動23両)
3月11日 ヘッツアー38両(内可動6両)

World War II Armed Forces - Orders of Battle and Organizations

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【補足-4】
 「Panzerwrecks 20」(2016年 Panzerwrecks)のP8~P23に掲載の撃破さているソ連軍鹵獲番号「#5~#36」のドイツ・ハンガリー軍戦闘車両はまさに3月21日~23日の脱出戦が行われた地域で撃破されたもので、現場の様子が良くわかると思います。

Panzerwrecks 20

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【補足-5】
マルギットMargit陣地

 ハンガリーの主要な防衛線としては東部国境地帯の「アールパードÁrpád陣地」、ブダペスト~Kassa地区間の「カローラKarola陣地」、ブダペスト周辺の「アッティラAttila陣地」、ブダペスト~ヴェレンツ湖~バラトン湖地区の「マルギットMargit陣地」東部、バラトン湖南岸を挟んでバラトンケレスチュルBalatonkeresztur~バボチャBabócsa地区の「マルギットMargit陣地」西部、オーストリア国境地帯の「インペリアルImperial陣地」が構築されました。

 「マルギット陣地」はバボチャBabócsa地区のリンヤRinya川~ナギャタドNagyatád地区の養殖池~ラーボードLábod~ミケMike~チョコリCsököly~ヤコJákó~ナジバホムNagybajom~メシュテグニシュMesztegnyő~マルカリMarcali~バラトンケレスチュルBalatonkeresztur地区に至る西部の陣地帯と、その後バラトン湖南岸を経由してバラトン湖北東端~ヴァレンツァVelence湖~ブダペスト周辺の「アッティラ陣地」に続く東部の陣地帯に分かれていました。
 「マルギット陣地」東部は1944年12月にブダペストが包囲された際にヴァレンツァ湖周辺の防衛線が破られ、セーケシュフェヘールバールSzékesfehérvárも占領されました。西部陣地はソ連軍のオーストリアに向かう主攻勢線から外れており、ソ連軍第57軍とブルガリア第1軍による攻撃を第2戦車軍が寡兵ながらも4月1日まで防衛線を持ちこたえていました。

第2戦車軍(1945年3月6日現在)
第22(XXII)山岳軍団
  第118猟兵師団:9,000名
  第1国民山岳師団:13,400名
第68(LXVIII)軍団
  第16SS機甲擲弾兵師団:10,500名
  第71歩兵師団:9,000名
  第13SS山岳師団:9,300名
軍予備
  第92機甲擲弾兵旅団

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【補足-6】
クロアチアとスロベニアのドイツ・ハンガリー併合地域

 旧オーストリア=ハンガリー帝国領であったクロアチア北部とスロベニア北部の地域は第1次世界大戦後の1920年のトリアノン条約により「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(後のユーゴルラビア王国領)に割譲されました。1941年のドイツ・ハンガリー軍によるユーゴスラビア王国占領により、クロアチア北部とスロベニア北部の一部地域がドイツとハンガリーにそれぞれ併合されました。
 このためこの地域の町村の名前はドイツ本国併合地域ではドイツ風の名前で、ハンガリー併合地域ではハンガリー風の名前で呼ばれており、現在のクロアチア、スロベニアの表記とは違う場合が多いので注意が必要です。

・ムラコズMuraköz地方
 クロアチア北部のドラバ川北側のムール川に挟まれた地域である「メジムルリエMeđimurje」地方は、ハンガリーに併合後は「ムラコズMuraköz」地方と呼ばれました。

・ムラヴィデクMuravidék地方
 スロベニア北部のムール川北側の地域である「プレクムリェPrekmurje」地方は、ハンガリーに併合後は「ムラヴィデクMuravidék」地方と呼ばれました。

・ウンター(下)シュタイアーマルクUntersteiermark地方
 スロベニア北部のムール川南側の地域はオーストリア=ハンガリー帝国時代はシュタイアーマルク公国領でしたが、トリアノン条約によりオーストリア領と「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」領(後のユーゴルラビア王国領)に分割して割譲されました。
 ドイツ併合後は「ウンター(下)シュタイアーマルクUntersteiermark」地方と呼ばれ、ドイツ本国への同化政策が行われました。

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2024.12.24 新規作成
2025.1.10 【前編】改訂版に伴い章の構成を変更、一部追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/