泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

ポーランドでの警察部隊の戦い

1.ポーランド情勢
 1933年にナチスとヒトラーが政権を獲得すると、1935年3月の再軍備宣言を手始めとして第1次大戦で失ったドイツ領の回復と勢力圏の拡大に動き始めました。
 まず1935年1月には、ベルサイユ条約により国際連盟の管理下になっていたザール地方が、住民投票によりドイツへの帰属を決め、続いて1936年3月7日にはラインラント(フランス国境地帯で非武装地帯となっていた)にドイツ軍が進駐しました。
 さらに1938年3月12日にはオーストリアを併合し、9月のミュンヘン会議により10月にはチェコスロバキアのズデーデンラントへ進駐し、1939年3月15日までにはチェコスロバキアの西半分をベーメン・メーレン保護領として併合し、東半分のスロヴァキアは独立したもののドイツの衛星国となりました。さらに1939年3月24日にはリトアニア領となっていたメーメル地方がドイツに譲渡されました。

 ポーランドは第1次大戦後のベルサイユ条約により、バルト海への出口としてダンツィヒ港とポーランド回廊をドイツから獲得していました。ヒトラーの次の標的はポーランドに譲渡されたダンツィヒ港とポーランド回廊となるのは明白でしたが、これに対してポーランドは断固拒否の態度をとり、ダンツィヒ地区の緊張は一気に高まってゆきました。


2.ヴェステルプラッテ
 ダンツィヒ市には「国際連盟管理下の自由都市」として独自の権限が与えられるとともに、軍の配置や武器の持込が制限されていましたが、ダンツィヒ港の入り口を押さえるヴェステルプラッテ半島は1924年3月14日からポーランドに譲渡され、重要な軍事施設となりました。すぐに基地施設の増強が始まり、唯一の埠頭にはクレーンが備え付けられ、倉庫や鉄道線路が増設されるとともに、基地の外周にはレンガ塀が築かれていました。

 1930年代になって緊張が高まると防衛施設として4箇所の衛兵所が建設されたほか、将校クラブの地下室や兵舎が防衛陣地に改装されました。その際には秘密のうちに地下室陣地も建設されましたが、このような地下施設は協定に違反するため交代勤務の下士官にも秘密とされ、1939年3月にメーメルがドイツの手に落ちた後になって初めて兵たちに知らされました。古い建物の建替えの際にも同様に秘密の地下陣地が建設され、その他にも半島の鬱蒼として森は防御に有利なように計画的に間引きされ、草むらには鉄条網やトラップが仕掛けられました。

 当初は1個小隊20名だけだった守備隊も増強され、開戦時の守備隊はヘンルィク・スハルスキ少佐を指揮官としポーランド全国から選抜された兵による約1個中隊200名余りの兵力に増強され、75ミリ野砲×1門、37ミリ対戦車砲×2門、81ミリ迫撃砲×4門、機関銃数丁を装備しており、ドイツ軍がダンツィヒ市内の兵力のみで攻撃してくる限りは十分に持ち応えると考えられていました。


3.ナチスの浸透
 一方ドイツ側はダンツィヒ市のナチス化を進めており、1930年には「ダンツィヒ大管区」を設けアルベルト・フォルスターを大管区指導者として送り込み、その影響力を強めてゆきました。ダンツィヒ市参事会への浸透によりポーランドがダンツィヒ市に持っている多くの特権を有名無実のものにするとともに、1939年6月にはドイツ系住民の保護を名目としてダンツィヒ防衛軍の設立や警察部隊の派遣が決定されました。
 ダンツィヒ防衛軍の設立にあたってはフリートマン・ゲーツェSS中佐が指揮する第4SS髑髏連隊「オストマルク」の第3大隊がドイツから派遣されました。7月には対戦車中隊も増員され、これにドイツ系市民の志願兵を加えて8月18日には将校42名、下士官・兵1,500名により「SSダンツィヒ郷土防衛軍(SS-Heimwehr Danzig)」が編成されました。これとは別に7月3日には警察部隊も派遣されて「アイマン大隊」が編成され、ダンツィヒ市の実効支配を強めていました。

 こうした「公式」の部隊派遣(派遣されたのは国防軍ではなくて、あくまでも親衛隊の義勇兵と警察官であるのに注目)とは別に密かに武器も持ち込まれており、オストプロイセンから武器が持ち込まれるのを目撃したポーランドの税関職員数名がドイツ側に殺害されるという事件も発生しました。また、ヴェステルプラッテへの物資の輸送も監視されており、開戦直前には輸送途中の医薬品や外科手術用器具がドイツ側に押収され、結果として医薬品の不足がヴェステルプラッテの戦闘を大きく左右することになります。


4.ヴェステルプラッテの戦い
 ダンツィヒ地区の攻略は第3軍のエーベルハイト将軍の率いるエーベルハイトグループが担当しましたが、その兵力は地方警察(Landespolizei)の警察官による2個警察連隊のほか、SSダンツィヒ郷土防衛軍の義勇兵や突撃隊(SA)という二線級の兵力でした。このほかドイツ海軍の旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」は、8月25日から28日まで行われたドイツ巡洋艦「マグデブルク」の追悼式典に参加した後もダンツィヒ港に留まり、9月1日には支援砲撃を行うとともに「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」の水兵から臨時編成された機関銃小隊も戦闘に参加することになっていました。

 1939年9月1日午前4時45分、「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」の28cm砲と15cm砲によるヴェステルプラッテへの砲撃を合図にドイツ軍の攻撃が開始されました。しかしポーランド側の意外な抵抗により、ドイツ軍は1日の戦闘だけで突撃部隊長のヴィルヘルム・ヘニングゼン中尉を含む82名が戦死し多数の負傷者を出したほか、攻撃の先鋒を務めた突撃工兵小隊は49名のうち戦闘可能な将兵は13名にまで減少していました。
 ヴェステルプラッテの攻略に当初は楽観的であったエーベルハイト将軍も、この思わぬ大損害に驚いて直ちに増援を要請し、これに対してポーランド戦の原因とも言えるダンツィヒへの増援が決定され、ヘッケ少佐の第52戦闘工兵大隊がデッサウから急遽空輸されました。この他にも9月2日からはスツーカ47機が飛来して爆撃を行い、9月3日には210ミリ迫撃砲数門も到着して砲撃に参加し、戦車数両も攻撃を支援しました。さらに9月4日からは海軍の2隻の魚雷艇「T-196号」と「フォン・デア・グレーベン」も砲撃に参加しました。


旧式戦艦「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」によるヴェステルプラッテへの砲撃

 ヴェステルプラッテのポーランド軍守備隊は、圧倒的なドイツ軍による連日の攻撃を撃退し、9月7日の午後ついに降伏するまで持場を守り通しました。守備隊降伏の主な要因は水と医薬品の不足で、守備隊の損害は戦死15名、負傷53名にすぎなかったのに対して、ドイツ軍は200名から300名が戦死したようです。
 降伏して捕虜となったポーランド守備隊へのドイツ側の扱いは比較的丁寧で、将校にはサーベルの佩刀が許されていましたが、カジミェシュ・ラスィンスキ軍曹はポーランド軍の暗号システムを教えるのを拒否したため処刑され命を落としました。

 さて、ヴェステルプラッテ守備隊の装備していたたった1門の75ミリ野砲は、初日の戦闘で使用不能になりましたがドイツ軍に捕獲されて修理された後、なんとスターリングラードで最後を迎えるまでドイツ軍に使用されつづけたそうです。


5.ダンツィヒ中央郵便局の戦い
 一方、市内の防衛拠点となったヘヴェリウスプラッツのダンツィヒ中央郵便局では、密かに準備されていた武器(軽機関銃4挺、ピストル40挺及び手榴弾)と弾薬が運び込まれ、郵便局員や消防士を中心に56名が立て篭もりましたが、この中には何人かの学生も含まれていたようです。中央郵便局は重厚なレンガ造りの建物で少々の銃撃くらいではびくともしないばかりか、建物内には土嚢や防弾鋼板が持ち込まれて防御体制を整えていました。

 ドイツ軍は午前4時45分の「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」の砲撃を合図に、地方警察第2警察署の警察官による警察中隊を中心として、SSダンツィヒ郷土防衛軍の義勇兵、突撃隊(SA)を含む合計約150名が攻撃を開始しました。しかし、わずか56名の守備隊はよく善戦して午前中のすべての攻撃を撃退しました。
 これに対してドイツ軍は警察部隊の2両のシュタイヤー装甲車と、さらに陸軍からの支援兵力も投入して攻撃を再開しました。攻撃にはSS郷土防衛軍「ダンツィヒ」の第13中隊の装備する7.5cm歩兵砲2門のほかに10.5cmleFH18榴弾砲(!)1門までもが投入され、わずか140mの至近距離から直接射撃によって郵便局の正面玄関付近は穴だらけになりましたが、守備隊の抵抗は止みませんでした。最後にはシュタイヤー装甲車に援護された突撃兵がなんとか郵便局の建物に達すると、建物にガソリンを流し込んで点火したため守備側は火達磨状態となり、頑強に抵抗した中央郵便局もついに占領されました。


ダンツィヒ中央郵便局の戦い

 ヴェステルプラッテの守備隊がポーランド軍人だったのに対して中央郵便局の守備隊は民間人であり、降伏した守備隊はその後ほとんどがパルチザンとして処刑されています。


6.ダンツイヒ中央駅
 もう一つの市内の防衛拠点となったのはダンツィヒ中央駅で、鉄道員を中心とした守備隊が抵抗しましたが、戦闘の状況についてはわかっていません。


7.ダンツィヒの警察装甲車小隊


8.第14軍・第3警察連隊の警察戦車中隊


9.補足
 ダンツィヒ中央郵便局守備隊の戦いの様子はギュンター・グラスの小説「ブリキの太鼓」(ブリキの太鼓・第二部 集英社文庫 ISDN4-08-760038-6)の中で語られており、この中では「オストマルク(Ostmark)」と「ズデーテンラント(Sudetenland)」の2両のシュタイヤー装甲車もちゃんと登場していますので、興味のある方は読んでみてください。


参考資料
「歴史群像・第2次欧州戦史シリーズVol.17武装SS全史-1」(学研 2001)
「コマンド・マガジン日本版32号」(国際通信社 2000)
「歴史群像・第2次欧州戦史シリーズVol.1ポーランド電撃戦」(学研 1997)
「Panzerfahrzeuge und Panzereinheiten der Ordnungspolizei 1936-1945」(Podzun 1999)


2001.6.2 URL引越し記念新規作成
2001.6.5 「補足」を追加
2002.3.6 「ナチスの浸透」などを追加
2019.7.13 ページ構成を変更
2019.7.19 改訂版

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