高校の成績が一番になったら買ってやる、そう父が約束してくれたステレオが、初めての自作ではないオーディオでした。
お酒に酔った勢いで口にした約束を、内心しまったと後悔していたかもしれません。
そのステレオはコンポーネント型で、部品を取り替えるとレコードから新しい魅力がみつかるのが楽しくて、ハードウェアにうつつを抜かしていました。
そんな私が、オーディオは音楽を聴く道具という認識をもったのは、大学2年の夏休み。
熱中症にかかったのがきっかけでした。
腎臓が回復するまでの3箇月は、だるいうえに集中力が落ちて、本を読んでも人の話しを聞いても意味がつかめず、講義も右から左に抜けていきます。
ところが、クラシック音楽を聴いて浮かぶ直感的な認識だけは明晰で、その内容が文章で、ときには漢字交じりで脳裏に現れました。
神秘体験みたいですが、実際のところは無意識の精神活動でしょう。
演奏に触発されて知識や経験の記憶が瞬時に組み合わされ、ものの見方や考え方がひらめき、論理的な展開を伴う場合、文章の形をとって脳裏を流れるのだと思います。
ときどき起きる現象なので、それ自体は何と言うこともありません。
ショックだったのは、文章の読解が満足にできない言語中枢が、音楽からうまれた心象なら言葉や文字に置き替えることができる、その不公平な落差でした。
多臓器不全で弱気になっているさなか、大切な文学を取り上げられた落胆が一層こたえました。
感覚の代替でしょうか、しばらくすると音楽に対して敏感になっているのを自覚します。
アイザック・スターンがヴァイオリンを調弦するのを間近で聴いたとき、その音色から、憧れ、感傷、親愛、自信といった感情が一緒くたに湧きあがるのを処理できず、わけもわからず涙がでました。
そんなこともあって、漠然と感じていた文学と音楽の違いが確信にかわり、文学に並ぶものとして音楽への傾倒が強まるのです。
レコードを聴いて文章が浮かぶ感覚がいつ現れるかは予測できませんが、条件を探ったことがあります。
わかったのは変哲もないことで、ごく一部の演奏が、本当にいい音で鳴ったときに限られるというもの。
オーディオが大きく貢献していることは間違いありません。
でも、特別な力をもっているのは音楽で、オーディオはそれに奉仕するものとみるのが順当でしょう。
道具と言うのは、そういう立ち位置を指してのものでした。
ジャズやロックではどうかというと、私はどちらも享楽的な音楽と思っているので聴き方もそんなふうになり、クラシックのように内面的なことは考えません。
でも、演奏者の人柄を感じることにかわりはないし、ボーカリストの声に嘘つきの性向を聞き分けることだってあるので、他人を好感したり嫌ったりする世俗的な感情が湧く機会は多くなります。
そういう音楽だし、それがおもしろさでしょう。
音楽が表層的に鳴ったら、仮面をかぶったみたいで正体がつかめずイライラするので、やはり人間性が伝わってくるいい音であって欲しいものです。
いい音とは幼稚な表現ですが、肩肘張らない、普通で自然な音をイメージする言葉なので、私は気に入っています。
はったりじみた鳴り方をせず、色付けは控えめで、沢山のCDから感情と表情を事も無げに引き出してくれる音が、私のいい音の定義と注釈は要るかもしれません。
そんな風に鳴らすための、経験則にもとづく私の調整方法は、苦手な性格を印象させる音調を抑えることと、自分に足りない感性を補完する彩りを添えること。
このふたつの要素を、私は常に意識しています。
不快な音は見つけやすく、対策の効果も判定しやすいので、この、いわば引き算の使いこなしは難しくありません。
難しいのは足し算の使いこなしで、仮に西欧的な自律と思いやりの均衡が漂う空気に寄せたいなら、その価値観を想わせる響きを調合してそっと忍ばせます。
システムに散在する調整要素は、それぞれ味わいが異なりますが、この違いを利用して、香水を開発するみたいに、ブレンドによって新しい表情を設計するわけです。
とはいえ、私に合わせてバイアスをかけた音だから、他の人はクセと感じるに決まっています。
知らないうちに、味付けが過ぎて品性を欠いたり、いびつな性格をさらしているかもしれません。
そこで、私はシステムをいじると、ちょっと聴いてみてくれないかと、妻か娘に声をかけることにしています。
オーディオに興味がないふたりには迷惑な話しです。
でも、音楽の素養があって、聴くジャンルが私と重なり、心象を言葉にする才覚もあるので、判断してもらうにはうってつけなのですね。
普段、ふたりとは、演奏者や作曲家についてはなしても、聞かれない限りオーディオの話しはしません。
試聴を頼むときも、音のどこを良くしたとか、何を替えた、などは言わないようにしています。
いちばんの理由は、当たり前ですが先入観を与えてはいけないから。
もうひとつは、オーディオ用語には形容詞的なものが多いこと。
なまじ用語を憶えられて、たとえば感想がいつも「情報量が増えている」になったら、確かにその通りであったとしても、正確な意味は埋没してしまいます。
音楽を語るのに向かないのです。
短い言葉でも、「伴奏の楽器が増えている」とか「5人の声それぞれが聞きわけられた」なら、彼女たちが注目した対象から、変化をどう受けとめたのか推察できます。
「このひとの声はやっぱり綺麗」も同様。
たまに、描写がとびすぎていて解釈不能なこともあります。
低域のノイズフロアを下げることに成功して、実質的に分解能が向上したときの、「楽しそうに演奏してる」などその好例。
でも、妻がイメージした風景は解るし、彼女の気だてが垣間見られて、これはこれでいいのです。
私が気づいていないことを教えられることもあって、マレイ・ペライアのシューマンがはじまるなり、「ピアノが上等になった」と娘が言ったとき、言い得て妙で感心しました。
娘には絶対音感があり、音階を色彩で感じるといいます。
写譜をこなし、歌えば音程を外さない。
街に流れるBGMで歌の音程がずれていると、私だって我慢できずその場から足早に離れますが、娘は建機がパイルを打つ槌音が音程を外していても苦痛らしいので、私には想像できない世界です。
その娘が調整の出来映えをどう評価するのか、これは興味深いわけです。
自分で得心がいかないと試聴に誘わないためか、否定的な意見を今まで聞かされたことがありません。
しかし、彼女たちは私に気を遣って、当たり障りのない台詞を口にしていた可能性がなくはない。
その懸念が晴れたのは、CDトランスポートのCambridge Audio CXCを改造していた2週間に、途中何度か感想を聞いたとき。
毎回、進展が大きかったので判りやすいこともあったでしょうが、なかなか的を射ていたし、私が改善を見送ることにした要素もちゃんと指摘されました。
私のこれからの課題は、健全なバランスを保ちながら、年相応の教養と良識をいつまで鳴らせるか。
自分の衰えに無頓着だったら、オーディオは道具でありながら使い手を映すので、無様をさらすかもしれません。
油断していると、音はすぐに狂ってきます。
道具の造反に遭うのです。
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