予備機について              / 1999.12.25

もうすぐ陽が落ちる頃、小雨が降る渓谷でタイヤがバーストしたことがありました。
トランクの予備タイヤに取り替えないと帰宅できません。
人里離れた山中の、他車が1台も通らない道端でジャッキアップして、
薄暗い中、ライトもなくホイールナットを緩めるのは心細いものです。
ようやく作業を終えて走り始めると、ため息が出ました。
心底、替えの予備があるというのは有難いと思いました。
ところが、オーディオにおける予備機はあまり意味がないと思うのですね。

私の中でオーディオへの憧れが最も素朴で純粋だったのは、
トランジスタラジオとフォノシートプレーヤーで音楽を聴いていた頃かもしれません。
フォノシートプレーヤーは覚えている限り横幅50pくらいだったので、
LPレコードのステレオ感を味わうために、寝そべって目の前にして聴いていました。
これが名ばかりのコンポーネントステレオに代わり、部品をひとつずつ取り替えていくに連れて、
音は確実に良くなって行きます。
機器の物理性能が高くなれば演奏の細部が明らかになって、
音楽がそれまでより豊かで雄弁になるのに歓喜していました。

トップクラスの製品が使えるようになった時分には、喜びの質が変わっていました。
オーディオ製品の階層を価格帯と音質の相関で眺めるなら、
下から上に向かってよじ登っていくときには明確な音質の違いを感じていたのに、
最上層といえる高みに着いてみると、そうした喜びが小さくなっていたのです。
どの製品も水準以上なので、基礎的な格差が小さいのは当たり前と言えなくもありませんが、
そうではなく、聴き手である私自身の変化が影響しているのです。
ショップでの製品選びでは、分解能とか情報量の違いはもちろんチェックしますが、
普段から自宅で調整に使っている愛聴盤を鳴らして、真っ先に抑えるのは、
再生音から想像される演奏者の人格や価値観が聞こえてくるかこないかであり、
聞こえてきても私と反りが合わなければ候補から落とします。
これが音質とは別の、心理的な評価を下す物差しになっていたのです。
音楽に熱中し始めた頃は音楽を聴くのは受け身で、ほとんど消費するだけの状態でしたが、
演奏を聴いて湧いてきた感情とか、聴き終わったあとに残る印象をそのまま放置しておけず、
心証が生まれた無意識の反応について考えているうちに、
私が音楽に表れて欲しい表情や価値観が解るようになって、
こまごまとした調整を組合せることで、その音を作ることができるようになっていました。
これを私は使いこなしと呼んでいます。

そんな感覚で、ほぼ日常的に自分の音を維持していると、
機器のどれかが故障して予備機に入れ替えても、
手早く音色のバランスを整えて似たような音を鳴らすことはできるのですが、
気心の知れた演奏者がそこに現れることはありません。
音楽を聴く意味が見いだせないので、むしろ辛さを感じるのですね。
だから、予備機があっても使えなくなったという次第です。

従って修理が終わるまで大人しく待つのですが、
心境は、薄暗い渓谷でタイヤを交換していたときの心細さです。




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