評論と音楽                / 1999.11.10


まず文章のお話から。
アマチュアが小説を書こうとするとき、評論の視点を持っていると強みになるでしょう。
自分の書いた文章を、第三者がどう受け止めるのかを予測できるからです。
作品を公開した場合に、見識の未熟さを曝してしまうリスクを避けることができるから。
いくら流麗な文章を綴れる人であったとしても、これは有益なことです。

小説に限りませんが、評論という行為には思考の論理性が欠かせません。
仮に書き手の倫理観を論じるのであれば、自分も相応の人格を備えている必要があるでしょう。
評論といえども小説同様に文芸ですから、読み物としての面白さが求められます。
評論のいわば商品性は、視点の独自性と論考の背景となる価値観でしょう。

読者の立場であれば文芸を愉しむだけなので、何かを表現する創作動機を持っている必要はありません。
でも読んで心が動き、自分が反応した理由を考え始めたとしたら、
評論の入口に立っていると言えなくもありません。

音楽鑑賞でわくわくしたりじいんとしたあと、なぜだろうと詮索したくなるのも同じです。
音楽は抽象的だから答えがみつからなくても、
時間が違えば心理状態も違うので、何度も聴いているうちに分析の焦点が合ってきて、
言葉で説明できるくらいはっきりと理解できることがあります。
そうではなく、いきなり気持ちの整理がついたり、抱えていた問題の解法が浮かぶこともあります。
音楽の刺戟で何かしらの解釈が生まれるのは、バラバラだった記憶を組み合わせた結果なので、
そうした心への作用を言葉にするのは、きわめて評論的だと思うのですね。

人間は考えを言葉にできます。
言葉にするから、論考を深めたり、他人と共有することもできるのです。
言語と切り離して音楽と付き合うのはもったいないと思うのですね。




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