山間地で開発の手の及んでいない旧根尾村は、昔ながらの美しい自然や文化財としての価値を有するものを数多く伝えています。そのうち、淡墨桜や根尾谷断層及び菊花石は、特別天然記念物として、国の指定を受けています。

         

 樹齢千三・四百年、幹の周りが九メートル余、広げた枝は五十メートルにも及ぶ桜の巨木が、岐阜県本巣市根尾板所にあります。満開の頃になるとその花びらが、次第に薄墨色になっていくことから淡墨桜と呼ばれています。
 この花も最近は有名になり、花の咲く頃には多くの人が訪れ、休日には村に通じる道路が大渋滞を引き起こすようです。



 
 
このような賑わいを見せる淡墨桜も実をいうと、何度も枯れ死寸前になり、昭和二十三年頃の文部省の調査では、「あと三年以内には枯れるだろう」といわれるまでになっていました。しかしながら、名木の枯れることを大いに惜しみ、何とか淡墨桜を蘇らせようと力を尽くした人々がいたのです。
 その中の一人に羽島市居住の不破成隆医師がありました。枯れ死寸前にある淡墨桜の話を聞いた不破医師は「国の天然記念物が枯れては一大事」と懇意にしている前田利行翁に相談を持ちかけたのです。



 接ぎ木の名手といわれる前田翁は、高齢にもかかわら
       満開の頃の淡墨桜
ず岐阜市内の自宅から根尾村まで足を運んで調査し、その結果、淡墨桜に回生術を施すをことを決意したのです。
 翁が土を掘り起こしたところ、太い根はほとんど枯れていて、腐ったところには無数のシロアリが群がっている状態でした。そこで病根をきれいに取り払い、僅かに活力の残る根を探し、それに若い山桜の根を接いでいったのです。
 その作業は、まず山桜の根を削って尖らせておき、それに卵の白身を塗ったうえ、V字形に切れ込みを入れた淡墨桜の根と一本一本つなぎ合わせるという、たいへん根気のいるものでした。何日もかかって二百三十八本の若い根を接がれた淡墨桜は、新しい養分をどんどん吸い取るようになり、翌年四月には見事白い花を復活させました。




 ところが、昭和三十四年の伊勢湾台風により、この老木はまた大きな被害をうけました。枝は折れ、葉が散ってしまうという無残な姿に変わった淡墨桜は、やがて、花をつけなくなってしまうのです。そんなおり、作家の宇野千代さんがこの桜を見に根尾村へ来られました。そして、その無残な姿に心を痛められ、岐阜県知事に保護を訴えられることになるのです。
 この桜の木の存在をあまりよく知らなかった知事も、宇野さんの手紙でそのことを知り、早速、保存のため動きはじめることになりました。
 知事の依頼を受けた岐阜大学・堀武義教授は、根を守るための柵をつくる。枝を支える支柱を増やす。幹についた菌類や地衣類を取る。大量の肥料を与えて若返りはかる等の措置を講じるよう指示をしました。 
 やがて、こうした努力が実って、老樹は再び蘇り、毎年枝いっぱいに花を咲かせるようになったのです。




 
その一つは、この地に流罪となった奈良朝の皇子が、根尾神所の地を南都に模して春日神社を造営し、この桜を墓標として植えたというもの
   千数百年の風雪に耐えてきた老木の幹
(村社『春日神社縁起』)。この子孫にあたるのが、南北朝時代、宮方として活躍した根尾入道といいます。この説は古くから伝えられています。
もう一つは、昭和初年に一宮市真清田神社に関係する土田家から見つかった古記録『真清探當證』にある継体天皇のお手植え説です。それによれば、継体天皇が十八年間居住された根尾谷をお立ち退きになるとき、この桜を植えられ、次の一首を残されたといいます。
   
   身の代と遺す桜は薄墨よ 千代に其の名を栄盛へ止むる