旧根尾村の中心部を流れる根尾川にそって、いくつかの集落が開け、その中に昔この地の有力者であった根尾氏の遺跡が数多く残されています。
 根尾氏の祖先がその墓標として植えたと伝えられる「淡墨桜」、居城跡や屋敷跡、根尾右京亮が祭神として鎮座する根尾神社などがあって、昔日の面影を偲ぶことができます。
 では、いつの頃より根尾氏がこの地で勢力を持つようになったのか。以下年代を追って、今に残る代表的な史料を紹介させていただきます。




 南北朝時代の争乱を描いた軍記物語に『太平記』があります。全四十巻からなるものですが、物語の構成は一般に三部に分けて考えられています。
 第一部は巻一から巻十一までで、後醍醐天皇の倒幕計画に始まり、楠木正成、新田義貞らの挙兵、足利尊氏の離反などで、鎌倉幕府が滅びるまでを述べています。

 第二部は巻十二から巻二十一までで、建武新政の開始と行き詰まりから、足利・新田両勢力の抗争を中心に、後醍醐天皇が吉野で亡くなるまでのことが書かれてあります。
 第三部は分量が多いので、足利勢の内部抗争を記した巻三十四までを前半とし、巻三十五以降の後半は、守護大名らの果てしない戦いを記し、細川頼之が入京したところで筆をおいています。
 このうち、第二部の巻二十一に、後醍醐天皇の崩御直後のこと、諸国の勤皇の将を列記したなかに
 「世の危ヲ見テ弥命軽ヲゼン官軍ヲ数ルニ・・・・・と遠江ニ井介、美濃ニ根尾入道、尾張ニ熱田大宮司、越前ニハ小国・池・風間・禰津越中守・太田信濃守・・・・・皆義心金石ノ如ニシテ、一度モ変ゼヌ者共也」
というかたちで、根尾入道の名前が出ています。
 このことから、南朝側が凋落の一途をたどる情勢にあっても、根尾氏はまだその勢力にとどまっていたことが分かります。




 旧根尾村に隣接する徳山村(現在は藤橋村に編入)は、徳山氏発祥の地で、その一族である五兵衛は戦国武将として名を残しました。関が原の戦いの後は徳川家に五千石で召抱えられ、旗本として存続しました。
 この徳山氏の系図によれば、五兵衛の祖父に当たる徳山貞輔は根尾右京亮の娘を母としています。このことから、室町時代中期に根尾右京亮という人物がいたことが明らかになってきます。また、この母のことを「七十四代鳥羽天皇皇子清仁親王末裔・根尾右京亮の女」と『徳山稔家文書』(岐阜県歴史資料館蔵)「徳山氏系図」に記載され、さらに「霊應院殿永岩宗英大姉 文明十四年壬寅年六月十四日(没)」の法名があります。



 この『根尾根元記』によれば、奈良にある天皇の皇子の一人が「悪王たるにより奈良の都より根尾長嶋へ流され給ふ」とあり、その子孫が後に根尾領主となって、在名を称号としたものが、根尾氏の始まりと伝えられています。
 また、この文書には戦国期の根尾一族についても記述されており、その頃の動向を知ることができます。その一部を次に紹介してみましょう。
  
   根尾右京亮殿と申し、代々根尾居住、終頃兄弟四人在、
   一、兄嶋右京助殿と申し、飛騨国高山え行く
   一、二男林出羽殿と申し、その子孫徳山え行く、
   一、三男中村内蔵殿と申し、これも飛騨国高山え行く、
   一、四男根尾出泉殿と申し、これは林出羽殿を討ち取り、後に出羽殿の
     子孫寄せ来たり、すなわち今村尾崎の城にて一合戦有り、後に百姓
     より追い払われ、京都へ行く、京にて相果申し候
 
 この文書を要約すれば、代々右京亮を名乗った根尾氏の終わり
  淡墨公園にある根尾右京亮の塚
頃(戦国期)は、兄弟が四人ありました。長男は嶋右京、二男は林出羽、三男は中村内蔵、四男は根尾出泉といい、それぞれが根尾谷を離れ、飛騨高山をはじめとして各地に移り住んでいきました。
 
この『根尾根元記』は、江戸時代の中ごろに成立したようですが、これと同じ頃に『美濃明細記』というものもつくられています。これにもほとんど同じような記述があり、その頃の根尾谷にこのような伝承あるいは古記録があったように思えます。


 
 
根尾一族を宛名とする織田信長発給文書が、現在五通明らかになっています。
 (一)その一通は富山県の根尾家に伝わるもので、根尾の地から山一つ越えた越前国大野郡内の小山七郷を根尾右京亮外二名に与えるというもので、根尾一族もこの時期には、織田信長の陣営に属していたことが分かります。
   
   
越前大野郡内小山七郷
   同公文跡職共宛行畢
   全可令領地之状
   如件
  天正二年五月廿六日  信長(天下布武印)
                     根尾右京亮殿
                     根尾五郎兵衛殿
                     根尾市助殿
 
 (二)もう一通も富山県の某家に伝わるもので、宛名も前記文書と同じ三人宛となっています。
 これは織田信長が徳川方の遠江高天神城を救援するため、岐阜を出発するにあたって、越前の一向一揆に備えるよう根尾一族に指示を与えたものといわれています。

     今度就遠州出馬、越州之一揆等、自然自其口令蜂起度望可在之歟、
    如件、無覚束候、若其沙汰有之者、各申談、可相防候事簡要候、
    此節之儀、別而忠儀可為祝着候、謹言、
          六月九日   信長(天下布武印)
                     根尾右京亮殿
                     根尾市助殿
                     根尾五郎兵衛殿

 (三)前記二通はすでに『増訂 織田信長文書の研究』上巻・下巻において、明らかになっているものですが、岐阜県歴史資料館においても、根尾氏宛信長文書が収蔵されていることが分かりました。以下、紹介させていただきます。
 その文書は歴史資料館の展示説明によれば「この書状は加賀・越前方面から大坂へ通行しようとする商人や旅人の通行を根尾氏におさえさせようとするものである。根尾氏は、天正2年(1574)に越前国境警備の功績により、越前国大野郡小山七郷を与えられていることから、本状は天正2年以前の元亀年間のもので、朝倉義景との関係が悪化している様子から、元亀2年のものと考えられる。」とされています。

加賀越前其外北国より大坂へ通候商人同旅人
岐阜県歴史資料館収蔵・根尾三氏宛朱印状
、一切可被相留候、
荷物巳下押置、其身をハ搦捕可有注進候、少も於用捨者可為曲事候、為其急与申送候也、謹言
 十二月十三日
     信長(天下布武印)
        根尾右京亮殿
        根尾市介殿
        根尾内膳亮殿





 (四)さらに岐阜県歴史資料館蔵の徳山稔家文書の「徳山氏系図」に所収されている根尾三氏宛文書の写し書があります。これは江戸期の中頃、徳山氏が親類縁者の所持する文書を調査し、系図に収録したものと思われます。
 その内容は、鷹狩りに用いる巣立ち直後の鷂(はいたか)と児鷹を根尾一族から贈られたことに対する信長の礼状のようです。末尾には「猶金森可申候也」とあることから、この時点では根尾一族が金森氏の軍陣にあったことがうかがえます。それにより、金森氏が天正三年九月に織田信長から越前国大野郡の三分の二与えられた以降のものではないかと推測されます。(この文書の内容については『岐阜史学第87号』「北国・大阪通路留を命じた信長朱印状―元亀の争乱の新史料―」(佐藤圭氏)を参考にさせていただきました。
 つけ加えるならばこの後、根尾一族から根尾庄右衛門というものが金森家に仕え、後に金森家おいて世襲の国家老となります。この文書は「徳山氏系図」編纂の際、この子孫家に存在していた可能性があるように思われます。
   
          巣鷂一攢・同児鷹二もと到来、累年逸物之巣之旨、喜入候
          猶金森可申候也
            六月七日(印影) 信長公
                       根尾右京亮殿
                       根尾五郎兵衛殿
                       根尾伝次郎殿
 
 (五)日付・内容から前項の文書に引き継いで出されたもののようで、「先ごろ鷹が到来した祝着におもう。その鷹は優れたもので大切にしたい。今後とも一羽も残らず所望したい」というような内容で、このことから、信長が如何に鷹狩りを好んだかが分かります。
 この文書は『飛州志』に所収されているものです。『飛州志』は飛騨代官・長谷川忠嵩が徳川吉宗の内命を受け編纂されたもので、この信長文書を所持していたのは「飛州地役人 安江廣當家蔵」となっています。当時、飛騨国に存在していたということは、前項の文書と同じように金森家に仕えていた根尾氏が所持していたものと推測されます。金森家改易後、散逸してしまったようです。

           先度巣鷹到来祝着候、委曲如令申候、於其山中出来之鷹
          逸物候大切候、向後此巣一羽も不残申付可被越候、相違
          候てハ如何之間兼日ニ申述候、馳走簡要候、仍褶之面五
          端完送之候、猶金森五郎八可申候、恐々謹言
             六月十六日 信長(天下布武印)
                     根尾右京亮殿
                     根尾 市介殿
               
        根尾 彦□□

 

 この系図は、茨城県の根尾家に伝わるもので、もと下妻藩井上家の重臣であった家系です。一部抜粋してみましたが、戦国時代の根尾氏の動向がよく分かります。 

 この家には、このほか歴史的に価値のある古文書をたくさん所持しておられ、その多くは茨城県立歴史館に保存され、誰でも閲覧できるようになっています。
 この系図では、根尾清馨より十数代にわたって、先祖を遡ることができ、清長の後の子孫も現在の当主まで記述されています。その内容の確かさは、今に残る金森家関係資料で裏付けることができ、また浅野家に仕えた根尾氏の子孫との系図が一致するなど、根尾一族の戦国期やそれ以降の動向を確認するうえで、たいへん貴重なものであるといえます。




 このページは史料の羅列になってしまって、少々分かりづらいものになっていますので、簡単にまとめておきたいと思います。 
 『太平記』や『徳山氏系図』などによれば、根尾一族は南北朝時代から根尾谷にあって、その勢力を維持していたことが分かります。また、その先祖も「奈良の都の皇子」あるいは「鳥羽天皇の子孫」と伝えています。
 そして、戦国の頃は織田信長の陣営に属し、また、兄弟も四・五人あって、兄弟間で対立していたこともあるが、それぞれが大名家に仕えたりして、根尾谷をあとにしていきました。ただ、南北朝時代の根尾氏と戦国の頃の根尾氏とは、同流でない可能性もあるようです。