河童の墓   壱岐郡郷の浦町(ごうのうらちょう)里触(さとふれ)
昔、壱岐郡郷ノ浦町黒崎の法器山(ほきやま)に仁位殿という人があった。

ある夜丑の刻(午前二時)に苅田度(かりたわたし)の観音様に参っていると、袖取川の所で河童が出て来て、自分をその馬に乗せろと言う。今自分は観音様に参るところだから、ここに待っておれ帰りに乗せるから、と言って参詣して帰ってくると、河童はちゃんとそこに待っていた。

仁位殿は河童を馬に乗せて、綱で河童の体を鞍にしかと括(くく)りつけた。

河童はあやしんでなぜそんなに括るのかと言う。

河童の墓 98/10/25 撮影
河童の墓(六地蔵=六面に地蔵が彫られている)

仁位殿は、この馬は荒くて初めての人はあぶないから、こうして堅く括りつけておくのだと言って、自分もそのあとに乗って、一鞭くれると、馬は一散にかけて馬場ノ辻に着いた。仁位殿は家僕を呼んで、青竹を焼かせ、それを河童に数十回当てて、灸(やき)殺しにした。翌日そこに行ってみると、白水が流れているだけで、河童の屍はなかった。
時の人がそこを名づけてタルカドといった。 頭の皿にある水は馬が駈ける時にこぼれてしまったものであろう。

その後この河童の霊がいろいろ崇(たた)りをするので、石で六地蔵を建てて供養した。それを今は河童の墓と呼んでいる。

<西海の伝説 山口麻太郎編著 第一法規出版 昭和49年9月発行より>


1998/10/25 壱岐を訪ねました。現地の説明文をご紹介します。
 切支丹の司教の頭の形が、河童に似ていることから、「河童・切支丹説」が時々、話題にのぼることがありますが、その事をうかがわせる興味深い説明文です。

 
里触の河童塚

 黒崎村里触の比売神社付近の垂門の側に、六面地蔵石幢が一基ある。 この彫刻は、石田南触 辻の井戸のものに、酷似している。
 河童に、青竹を焼いたものを何回となく押し当てて殺したという伝説が残っている。
 禁教時代には、潜れ切支丹を、河童と呼んだ所もあったと聞く。 あるいは殉教物語の変貌ではなかろうかと、衆目を集めている。

平成2年9月
壱岐島遺跡保存研究会

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