水神社  五島 福江市
 大円寺川畔の水神社は、消防の神として昔から有名であるが、河童を祭ってあり、前面の深淵には河童の大将が住んでいると言い伝えられている。

火消し河童 1998/9/12 撮影
福江(大円寺)川・かっぱ池の火消し河童

 享保八年(1723)二月十六日、江戸麻布六本木の五島家上屋敷が類焼した。
 そこで、時の藩主第26代盛住は、火の用心のためにとこの神社の分社を同屋敷内に建て奉祀した。

 その後、隣屋敷である小田原藩主大久保家に火災が起り、正に五島邸に燃えうつろうとした寸前、突然五島邸より大勢の消防手が現われ、またゝく間に火を消し止めたという。

 その消防手は人間でなく、水神社の河童であったことが江戸市中の大評判となり、参拝者が多かった。そこで、五島邸では長さ十五センチ巾六センチの「水天宮御守」を作ったが、飛ぶように売れたので、旧藩時代はその収入で大変うるおったということである。

 二番町は、安政五年(1858)七月十六日大火があり、町内の大部分を焼失し、其の前後も火災が多かった。そこで、明治初年部落民が協議し、毎年旧二月初午の日に水天宮に参拝し、お祭を行うことにしたが、この行事は今なお続けられている。

 新一番町も、旧藩時代は火災が度々起ったので、町内に水天宮を分祀したが、その後災難は絶えたと云う。

大円寺川 1998/9/12 撮影
大円寺川と左矢印が水天宮、右矢印が大円寺

 旧藩時代、砲術の師範であった中村家では、火薬を取扱うため火災のおそれがあるとして水天宮を分祀してあった。家人が火の始末を忘れた時は、必ず河童が炊事場・風呂場・囲炉裏の時は灰をかぶせ、家の外で塵焼の場合は土をかぷせてあったという。

 そのように、水天宮は火災予防の神であり昔は、大円寺住職の受持で御守も配布していたが、明治初年に八幡神社の受持に変り、其の後天満神社神官の受持と変っている。

 河童は人をだましたり、人の持っている食べ物、特に魚を盗んだりするといわれているが、この水神に属する河童はそのようなことがなく、決して下劣な行為はしない。それは大将の教がよく、なお、大正橋の下には悪事をしないよう監督まで置いてあるので、夜おそく生魚を持って通っても、昔から一度もなくなったことはないとのことである。

<五島物語 −歴史と伝承− 郡家真一著 国書刊行会 昭和49年8月発行より>

 ⇒福江市 ガータローの腕



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