福太郎    甲子夜話(かっしやわ)より

先年(平戸藩)領国に怪しき版施のものを到来す。後思ひ出て是を尋索(たずねさぐ)るに有處(ありどころ)を、審(つまびらか)にせざりしが、この項乙酉(おつゆう)ふと筐裡(こうり)よりその故紙を獲たり。此図に小記を添ふ。最(もっとも)鄙文(ひぶん・世俗な文)なれど其旨を述ぶ。


福太郎訓蒙図彙(くんもうずい=子どもや初心者を教えさとす目的で書かれた書物・図集)に云、川太郎水中に有る時は小児の如くにして長(た)け金尺八寸(24cm)より一尺二寸(36cm)あり。
本草綱目(ほんぞうこうもく=狭義には薬草学だが、広義には博物学、貝原益軒の大和本草=1708年が草分け)に云、水虎(すいこ)、河伯(かはく・かわのかみ)、

出雲国に川子大明神といふ、豊後国には川太郎、山(城)国には山太郎、筑後国には水天宮、九州には川童子

これ恩返しに福を授く。因(よっ)て福太郎と謂ふ(いう)。
抑(そもそも)其由来は、相州金澤村の漁者重右衛門の家に、持傳(じでん=もちつたえ)たる箱に水難痘瘡(とうそう=天然痘)のまもりと記し有て、その儘(まま)家内に祭り置くに、享和元年(1801年)五月十五日夜、重右の姉夢中に童子来り。
我この家に年久しく祭らるれ共(ども)未だ能く知る者なし。願くは我為に一社を建て給ふべし。然らば水難疱瘡麻疹(はしか)の守神として擁護あらんと見へ忽(たちまち)夢覚たり。姉訝(いぶか)しく思ひ親類に告て相集り。

共に箱を啓(ひら)き見るに異形のものあり。面は猿の如く四支に水かきありて頭には凹かなる所あり。因て前書の説にきわめ、夢告の故を以て福太郎と称す。
後又某侯の需(もと)にてその邸に出すに某侯にも同物ありて同夢告により水神と勧請し、江都その領国に於てもるる霊験(ごりやく)ありとぞ。
又云今その社を建立に因て水神と唱ふ。
信心の輩はこの施版を受て銭十二孔を寄せんことを請ふ。

南八丁堀二丁目身自番向 丸屋久七


又この後に図を附す是は、他人の添る者なり。これも亦こゝに載す。

総じて川童(かわろう・かわたろ)の霊宣あることは、領邑(りょうゆう=領地)などには往々のことなり。予(松浦静山)も先年領邑の境村にてこの手と云物を見たり。
甚だ猿の掌に似て指の節四つありしと覚ゆ。又この物は亀の類にして猿を合せたるものなり。或は立て歩することありと云。又鴨を捕るを業とする者の言を聞くに、水澤の邊に窺(うかがい)居て、見るに水邊(みずべ)を歩して魚貝を取り食ふと。

長さ三尺(91cm)重さ十六貫目(60kg)

又時として水汀(すいてい=みずぎわ)を見るに足跡あり小児の如しと。又漁者の言には稀に網に入ることあり。漁人はこの物綱に入れば、漁猟なしとて殊に嫌ふことにて、入れば轍(すなわ)ち放捨つ。網に入て拳ぐるときは、其形一圓石の如し。
是は蔵六(ぞうろく=四足と頭・尾の六つを隠すこと)の体なればなり。因(よっ)て拘(かかっ)て廼(すなわ)ち水に投すれば四足頭尾を出し水中を行去ると。 然れば全く亀類なり。

<甲子夜話(巻65)吉川半七編 国書刊行会 明治43年5月発行より>
句読点と、(括弧)の注釈を入れました

甲子夜話】 かっしやわ

 随筆。肥前国平戸藩の九代藩主で、大名中の博識をもって知られた松浦清(きよし・静山)著。文政4年(1821)11月甲子の夜から書き始め、天保6年(1835)まで15年間書きつづけられた。
 正編100巻、続編100巻。大名、旗本などの逸話、市中の風習など自己の見聞を書きしるしている。

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