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「桜花! さっさとそこから出て!」
届かない悲鳴を鈴はあげる。
闇の中に白銀の翼が煌めいた。オーディーンが苛立つ様に、どこ迄も宇宙船を追って行く。徐々に高度を上げる船を、鈴は歯痒い思いで追い続けたのだった。
「くしゅん」
むず痒くなった鼻に、思わずくしゃみを一つこぼし、走りながら一矢はぐすっと鼻を擦った。船内の埃っぽい空気に反応したようだ。
空気清浄化装置を使っているとはいえ、自然な空気と比較するとどうしても様々な特性が出てしまう。人がいる以上、埃はどうやったってたつものだ。
埃っぽいな。
カビっぽいよりは遥かにましだと思い直し、一矢は目の前のハッチを開けた。堅く閉ざされていたハッチが、実にあっさりと開いて行く。
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薄明かりに照らされた通路に、一矢とグロウの影がのびる。ハッチが完全に開ききる前に、一矢は中に飛び込んだ。
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その後を躊躇いも浮かべずグロウが追う。グロウの任務、セイラの抹殺が意外な結末をみた事で、グロウは今現在、実質的にはフリーだ。任務上の束縛はない。だからなのか、先刻迄あった悲壮な気配が薄れてきていた。陰鬱な空気が和らいでいる。
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ま、いっか。緊張感を失った訳でもないし。ガチガチに緊迫されると、こっちが気を使うしな。これぐらい気楽な方がいいかな。
どことなく虚脱感が漂うグロウに、一矢は気付かれない様に苦笑を浮かべた。
よっぽどセイラを憎んでいたんだなぁ。
わからなくもないがと思いつつ、そういう思いは生きる上では邪魔になると、頭の隅で考えた。
憎しみはさらなる憎悪を産むだけだ。……憎みきっていいのなら、僕にはこの世界を潰していい理屈が成り立つ。……それだけの事はされた。神の勢力の側からも、ルービックサイドからも。そして戦後の星間連合からも。
走りながら軽く吐息を吐き出し、一矢は自分の心の奥底に鍵をかける。
……理性がある限りできもしないのにな。
自嘲気味に唇を歪め、そうひとりごち、一矢は前方に迫った新しいハッチを開けた。
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開けた瞬間にヒヤリとした空気を一矢は感じる。何かが肌に突き刺さる。ゾクリと背筋が戦慄いた。
「っ!」
小さく息を漏らし、一矢は前方から飛来した無数の礫を避ける。親指程の金属片が一矢の全身を翳めて行った。ごろごろと床を転がり、一矢は体勢を立て直す。前方を睨み付けると、そこは普通の通路だった。長く伸びた廊下が、静寂の中にあった。
礫? いや、大型のニードルガンか! 敵が近くにいる。オートメーションによる攻撃じゃない!
物言わず音一つも発てず、一矢は前方の通路を睨み付ける。ハッチの影でグロウの押し殺した気配を感じた。一矢の様子を見て、とっさに逃げ込んだのだろう。
一方、遮蔽物の存在しない一矢は、じっと全身の五感を総動員して、見えない誰かを捜していた。肉眼で見えない理由は、とっくの昔にわかっている。
光学迷彩装置を使っているな。……完全に気配が読めない。