<想い出語り>

20世紀後半の
京都市政 を 顧みて

   体験的京都市政論
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(2016.11.10-2021.4.29)

 はじめに

  『20世紀後半の京都市政を顧みて』をはじめるにあたって

 最初にこの草稿の特長について明らかにしておきたいと思います。
 まず第1に、この草稿は、必ずしも均整のとれた京都市政の歩みではありません。20世紀後半を歩んだ私の体験と経験に基づくものですから、当然のことでしょう。京都市政をその時々の同時代に生きたものの視点から記すことに努めました。
 第2に、私個人の経験とはいっても、若い頃から市政の権力中枢に近くかつ一定の距離を保ってきたことから、権力中枢の情報に触れ、時には自身もそれなりに関与してきたことから、比較的、各時代を通して等距離で市政の核心部分に触れることができたのではなかったかと思っています。これを糸口に、興味のある方は。具体的な事柄を深めていただければありがたいと思っています。
 第3に、そうはいっても、事柄の性格上、やはりピントをわざとずらしたり、また、永遠に触れることのできない部分も当然あるということは承知しておいてほしいと思います。

 さて、人生も締めくくりの段階に入ってきた今、そして、それなりに、それなりの仕事を成し終えてきた今、振り返ってみれば、「終わった」という感慨とともに、忸怩たる感情も沸いてきたりします。
 神武景気に始まる昭和30年代前半に青春時代を過ごし、戦後第2世代ともいうべき時期を歩んできましたが、今日の時代状況を見るにつけ、後世のために一体何をしてきたのか、との複雑な思いに駆られ、自分自身が成してきたことの総括もいまだできないでいます。
 齢70代後半、今の時代状況のなかではたしていかなる貢献ができうるのか。その余地は小さく、いろいろ考えた末、筆者自身が歴史事象の一コマを同時代に生きたものとして語ることこそがそれなりの意味を持つのではないかと思うに至りました。
 だが、半世紀も前のことはすでに忘却の彼方です。しかし、忘却の彼方にあってもなおかつ残っている観念のようなものはあります。それは、ことの真実に迫るきっかけとなるものかもしれません。私は、前頭部の痺れが眼球にまで及ぶようになった昨今、自分自身で資料的に検証する作業はもはやできません。、それゆえに、想い出語りのようなものとして、記してみることにしました。
 
 本手記は、昭和30年代半ばの高山市長三選後から21世紀初頭の桝本市長再選頃までのおおよそ半世紀を対象としています。その構成は、昭和30年代の高山市政、昭和40年代から50年代前半の富井-舩橋革新市政、1980年代の今川市政、1990年代の田辺-桝本市政、そして21世紀初頭の京都市政の将来展望、といった時期区分でまとめることにしました。時期の捉え方が、元号と西暦の両方を使い、前期では元号で、後期には西暦を用いたのは、時代の特徴が、この方がうまく捉えることができると考えたからです。平成になってからは、西暦の方が時代の展開が理解しやすくなってきているように思っているのは筆者だけでしょうか。これにより、以下のような章立てとしました。
第1章 昭和30年代(1956-65)
第2章 昭和40年代から50年代前半(1965-80)
第3章 1980年代(昭和56-平成2年)
第4章 1990年代(昭和3-12)
第5章 21世紀を目前にして

 こうして振り返ってみると、戦後の京都市政は、政治的には激しい変化に見舞われてきたものの、高山市政があって、それがゆえに富井革新市政が誕生する。そして富井市政は舩橋市政に継承され、舩橋市政はまた今川市政に継承される。今川市政に対する政治不信は田辺市政を生むものの市政の根幹は田辺市政もまた前市政を継承する。そうして田辺市政は桝本市政に継承され、桝本市政は門川市政に引き継がれて現在に至っています。逆説的な意味も含めて、この高山市政があって富井市政が、富井市政があって舩橋市政が、舩橋市政があって今川市政が、今川市政があって田辺市政が、田辺市政があって桝本市政、そして門川市政があるという時代の流れを理解することは、現在から明日の市政を考えるにおいても重要であると考えられます。過ぎ去った歴史というものは、その当時の血なまぐさい諸事象を超えて、明日への糧を冷静に提供してくれるのでしょうか。そこには歴史の偶然もまた大きな要素として横たわっています。“市長の倒病”、これなくして現在に至る経過もありませんでした。

 筆者の想い出を語る以上、その間の筆者自身の変遷にも触れなければなりません。各章の冒頭に、その時期の筆者の歩みを簡単に記しました。全体的に振り返ってみれば、京都市入職直後の修行時代を経て、前期は職員労働組合の幹部役員として、中期は京都市政調査会を預かる時期、後期は京都市歴史資料館を預かる時期、そして晩期は歴史資料館の嘱託として歴史博物館建設構想策定と京都市政史編さん事業に携わる時期となる。こうした歩みをたどりつつも、筆者の場合には、その時々の市役所権力中枢との関係が比較的近くかつ一定の距離感を持つことに一貫したものがあったのではないかと思っています。これが、本稿を著す動機の一端でもあります。
 今、想いつくままに、故人となった懐かしい方々の幾人かを記すならば、市長では、富井清と舩橋己求、識者では林屋辰三郎、市の幹部職員では三宅康雄、上田作之助、八杉正文、木下稔、城守昌二、高瀬嘉一郎、労働組合幹部では若林清一と三村義夫氏など多くの方々を挙げることができます。また亀井励京都新聞編集員長や関一『現代人』主幹、山崎丹波町長さんたち、身近には不室収入役や西口光博産業観光局長たちもいます。育ててもらった、教えを得た、ともに苦労をした、協力を得た、迷惑をかけたなど、感謝の気持ちを持って、故人でない方々も含めて、本文の中でそれなりに触れていきたいと考えています。

 目  次


 はじめに

  概  観 20世紀後半の京都市政

第1章 昭和30年代(1956-65)
 第1節 高山市政 
 第2節 労使関係の緊張
 第3節 財政再建計画 財政窮乏化と再建
 第4節 農政局の誕生と消滅
 第5節 国際文化観光都市づくり

第2章 昭和40年代から50年代前半(1965-80)
 第1節 革新市長の誕生と都市問題への対応
 第2節 富井市政の市政運営のメカニズム
 第3節 富井市政から舩橋市政へ
 第4節 福祉と市電・地下鉄建設問題       
  第5節 文明への挑戦と計画行政の確立      
 
第3章 1980年代(昭和56-平成2年)
 第1節 舩橋市政から今川市政へ
  第2節 古都税と市議会オール与党体制
   第3節 都市建設への本格的始動
 第4節 今川市政から田辺市政へ
 第5節 バブルとその崩壊過程の田辺市政

第4章 1990年代(昭和3-12)
 第1節 田辺市政から桝本市政へ
 第2節 継承される今川市政の都市整備計画
 第3節 平安建都1200年記念事業
 第4節 デフレ下の市政運営
 
終 章 21世紀を迎えて
 第1節 20世紀から21世紀へ
 第2節 21世紀初頭の国と京都市の動き
 第3節 観光客5千万人構想と新景観政策
 

「あとがき」に代えて
   >>京都の有識者たち<<
   補論 京都の全面移転に際して(2016.4.4)
 

詳細目次

 

 

  20世紀後半の京都市政の概観

 本題に入る前に、あらかじめ戦後京都市政をごく簡単に概観してみましょう。この場合、昭和30年代前半までの状況は、概ね諸先輩方からの伝聞によるもの、それ以降は、筆者自身の経験によるものです。そして、筆者自身は、戦後第二世代ともいうべき時代状況の中にあり、戦中戦後の動乱期を体験してきた先輩たちからの直接的な影響を受けてきています。
 まず、敗戦直後の京都市政は、戦後動乱期の真っ只中にあり、それが落ち着いてくるのが昭和25年頃からです。その時期に高山義三市長が誕生します。この高山市長は、保守候補が二分している中で、社共両党による民主戦線統一会議によって当選するのですが、こうした民主戦線統一会議による選挙戦は、終戦直後の民主化運動の余韻覚めやらぬ雰囲気の中で成立したものでしょう。高山市長は、再選に当たっては保守勢力を選挙基盤とし、社共勢力とは決別しますが、高山市長の市長としてのスタンスは、極めてリベラルにして、現実的なもので、一貫した姿勢を貫いていたともいえます。しかし、市長就任直後の市政運営をめぐっては、当初の支持母体であった京都市職員の労働組合と全面的な対立状況を生み、この厳しい労使対決は、高山市政16年間を通して一貫しています。このこと自体、戦後の体制VS.反体制の全面対決の時代状況を反映したものといえましょう。国はもちろんのこと、全国の地方自治体も制度は整備されてきつつあるものの、その実態を支える財政は貧弱で、人件費削減を中心とした行政の刷新と合理化が継続して進められざるを得ない時代状況でした。京都府との関係は、高山市長誕生直後の府知事選で、同じく民主戦線統一会議によって蜷川虎三元商工大臣が当選します。高山、蜷川両氏ともに気位が高く、政治的スタンスや手法の違いなどから、対立関係にありました。両雄並び立たず、ということですが、両雄ともに人気は高かったのです。
 高山市政を継承した井上清一市長は、就任1年にして急逝したことにより、突如として出現した市長選挙では、ここで再び、社共両党を軸とした全京都市民会議による富井清市長が誕生します。

 富井市政誕生への機運は、戦後的な民主化運動の余韻がまだ命脈を持ち続けていたといえ、富井市政は、一転して、市の職員組合と外部の民主化勢力、そして蜷川府知事の支持の上で市政運営を進めることになります。逆に市議会との関係は対立関係となり、市長は少数与党のもとで苦労をします。また、社共の関係も、市長の支え方をめぐって複雑でした。しかし、富井市長の悠揚としてかつ誠実なキャラクターにより、市議会多数派形成へ今一歩のところで病に倒れます。富井市政の立脚基盤は市民への直接的な働きかけで、市民との直接対話は年間数百回にも及びました。市役所内部では、職員労働組合の支援を受け、高山市政末期の集中管理システムを解消して現場重視の運営を図ります。病に倒れた富井市長任期満了後の選挙は多少複雑な経過をたどりましたが、最終的には舩橋求己助役が富井市政の後継者となりました。

 舩橋市長は、体質的にも蜷川京都府知事とは全く違うタイプで、蜷川知事は、誕生直後の舩橋市長に対して、「京都市長は誰だか知らない」といった意味の発言をしています。富井市政下での府市協調も、舩橋市政下では微妙なものとなります。また、市役所内部育ちの舩橋市長には、政治的な主義は基本的にはなく、あたかもすべてを飲み込むような市政運営によって、市議会運営も全会派を尊重したものとなり、やがてはオール与党体制となります。市職員の労働組合との関係も良好で、市長は、あたかも京都市職員の代表者であるかのような様相をかもしだしていたようです。御池産業という言葉もこの時期から出てきます。しかし、市役所育ちの地味な市長としては大方の意表をつく、世界文化自由都市宣言や空き缶条例など、先駆的にして大胆な課題を提起しています。富井市政で展開しようとしてきた「市民運動」は、この段階では鋭さを緩めた包括的な「市民ぐるみ運動」になってきます。こうして舩橋市長は、革新市長としてはその色彩を薄れさしつつあったのですが、しかし、飛鳥田一雄横浜市長が組織した全国革新市長会議の副会長には就任し、飛鳥田市長とは大変馬があっていたようでした。舩橋市長の福祉行政は、全国革新市長会のモデルでもあったのです。
 3期目半ばで、舩橋市長もまた病に倒れます。そして舩橋市長の盟友であった助役の今川正彦がその後継者となります。

 今川市長は、舩橋市長の遣り残した課題、空き缶条例、福祉施策の充実、京都市基本構想の策定などの仕上げをまず課題として、ついで今川市長自身の本分ともいうべき京都のまちづくりに向かおうとしたのですが、古都税問題で大きく躓き、加えて時期を同じくして発覚した用地買収をめぐる汚職事件など同和行政推進過程における問題発生などで、のた打ち回りつつ市政を運営することになります。今川市長は、市役所内部の掌握がうまくなく、また政治的な対応も得てではなかったため、舩橋市長の下でまとまっていた市役所内部や市議会、市民運動団体などとの関係も、揺らいでいくことになります。市会では、今川市長2期目の選挙をめぐって共産党が野党となり、オール与党体制は終えんします。結局、結局今川市長自身の特徴ある実績を残すことなく、市政執行能力不足と市政不信のなかで、世界歴史都市会議の創設を花道に、在任期間2期でもって、市長を退任することになりました。ただ、今川市長自身は、まちづくりに執念を燃やしていて、建設省の有能な職員を都市計画局長に迎え入れ、同氏はその後助役となり、以後の京都市のまちづくりの基盤整備構想づくりとその推進の道筋をつけることになるのですが、この点の評価は負の面が大きすぎたためか、あまり気づかれることがなかったように思われました。

 今川市長任期満了後の市長選挙は、市役所不信の中で多くの候補者が乱立し、その中から京都府医師会長であった田辺朋之が市長となります。市政刷新を掲げて市長になったものの、田辺市長には市役所内外ともにその支持協力体制が十分備わっていなかった。また、田辺市長自身、市長になるまで、市政問題に十分精通しているわけではなかったようです。また、折悪しく、バブルの末期からその崩壊過程で市長に就任したために、市政運営がそれらに翻弄され、市長自身は清潔で、無欲かつ温厚な人柄であったにもかかわらず、ポンポン山開発をめぐる事件で係争に巻き込まれ、有罪判決を受けることになり、ご遺族ともどもまことに気の毒な結果となります。
 そうした中で、平安建都1200年記念事業を担い全うすることができたのは、田辺市長にとって幸せであったと思われます。そしてそれにあわせて、京都のまちづくりの基盤整備構想を建設省からの二代にわたる人材でもって進めることになります。市政の基調は、大まかには実質前市政の継続ではなかったかと思っていました。その基礎的な要因には、舩橋市政のもとで準備作業が進められ、今川市政で策定をみた21世紀を展望した京都市の総合計画である基本構想に基づく市政運営が図られるべき時代となっていたことを無視することはできません。
 田辺市長は、病のために、平安建都1200年を花道にその翌年、任期途中で退任、代わって桝本頼兼教育長がその後継者となります。

 桝本市政は、田辺市長の後継者として、その路線を継承しますが、継承に当たっては、市長の持ち味を加えて、田辺市政の健康都市から元気都市へとステージを発展させることになります。そして、教育畑からの市長としての市役所の全体的な掌握の困難性を考え、田辺市長の下での薦田守弘助役を継続して助役に任命し、市政の円滑な継続性を確保することになります。桝本カラーが鮮明になるのは2期目以降となります。
 バブル崩壊後の日本経済の長期停滞は、やがてデフレとなりますが、それによって自治体財政の困難度もましてゆき、京都市も行財政改革に次ぐ行財政改革が続くことになります。そうしたなかで、京都のあり方を考える有識者による「京都を語る会」などもあり、観光振興がクローズアップされると同時に、歴史的文化都市としての京都を国策として位置づけるべしとの考えが醸成されてきます。そして、京都百年の大計ともいうべき実に大胆な「新景観政策」を打ち立てることになりました。また、国の同和対策事業の終焉にともない、京都市でも特別措置としての同和対策事業を終結させ、先駆的でありつつも幾多の問題を抱えてきた同和行政の正常化を図ったことは、桝本市政として注目すべきところでしょう。
 桝本市長は3期満了でもって引退し、同じく教育畑から門川大作教育長が後任の市長となりますが、この辺りの詳細は知るべき位置にはおりませんでした。筆者の京都市との関係もここらあたりからは薄れてきているため、想いで語りはこの辺でとめておくことがよいのではないかと思います。

2016.11.10)