終章 21世紀を迎えて 21世紀の歩み

 第1節 20世紀から21世紀へ

●20世紀から学ぶもの
 本稿も締めくくりをすべきところまで、ようやくたどり着くことができました。本稿を開始したのは、2016年11月、今からちょうど4年前になります。対象とする京都市政の期間は、第2次世界大戦敗戦直後の混乱期から脱した概ね20世紀後半部分です。私が京都市に入職したのが、1958年4月、思うところがあって予定より1年繰り上げて退職したのが1999年3月でしたので、この期間の京都市政の実際を、私自身の目で見、或いは渦中で体験してきたことを基に、できるだけ客観的な視点を大切にしながら記述してきたものです。ですから、20世紀とともに、本稿は筆をおくことが当然のこととなります。少なくとも、2分の1世紀もの期間を叙述しているのですから、それはそれなりに歴史の一翼に加わるものとしての責任も持って記述してきたのも事実です。
 ただ、考えてみれば、歴史というものは不思議なものですね。終わらないのです。締めくくりもないのです。時間軸で考えるということ以上に、特定の理念などで動いているものではありません。21世紀、新世紀を迎えるということに、言わず語らずのうちに、我々は特別の意識や希望のようなものを抱いてきたのですが、その新世紀になって、今やすでに5分の1世紀を過ぎました。時代はむしろより混迷の度を深めているといえるでしょう。戦後京都の歴史を代表する歴史の碩学・故林屋辰三郎氏の多くの遺産や教訓は、はたして今日どれほど継承されているのでしょうか。幸いにして私は、氏の若い頃と晩年のお仕事を見守るところにいることによって、同氏からは多くの基本的なことを学ぶことができたのですが、その同氏の業績もすでに忘れ去られようとしています。歴史は、残酷でもあります。
 こうした、一大歴史家のそばにいた私は、自分の役割として、できる限り脚色をつけない京都市政の私なりの経験の一端を、記録で残し、後輩や、後の京都市政に関わる研究者の参考資料にしたいと考えるようになったのです。最後は記録です。昨今の政府の状況は、今更言うまでもないことですが、歴史を誇る京都市政の実態も、この記録保存に関してはけっして褒めたものではありません。このことも、つたない本稿を始めた動機の一つでした。
 さて、歴史から何を学ぶべきか、このたいそうな問題の一端を、勇気をもってここで述べてみることにします。
 それは、私権と公、「私」と公共性の問題です。
 
●個の利益と公共の利益 私的所有権と公共空間
 私が京都市に入職して以来今日に至るまで、一貫して続いていた問題は、「自我」と「公」の間で揺れ動いてきたことです。これに環境問題が加わって、この「自我」と「公」との関係の重要性は、これから21世紀を歩む若い人々にとって、最も大切な、人類の将来を左右する問題だと、自信をもって言えるようになっています。
 かつて、現行憲法を通読した時に感じたのは、この憲法の根本は、私有財産権の保護をベースに組み立てられているということでした。間違った受け止め方かも分かりませんが、深くそう感じたのです。現在の我が国や、欧米を中心とした世界、各国は皆そうでしょう。中世までの共同体の一員であった我々の祖先は、自我に目覚め、私有財産を確保し、これが近代をつくりだし、そして現代へと発展してきたのですが、この私有財産の考え方が、今や地球規模から宇宙規模へと発展しつつあるのです。ところが、地球や自然は有限です。ここに根本的な次の問題が生じます。有限の自然の取り合いの問題です。
 中世の村落共同体は崩れ、国家が成立します。近代国家は、人権を基とした民主制でもって構築されているとはいえ、その根本は、私有財産の保障です。自由競争の波は、国家間の対立を生み、19世紀後半にはついに帝国主義の時代を生み、20世紀には2度にわたる帝国主義戦争、すなわち第1次、第2次の世界大戦を経験、第2次では、我が国自身がその当事者として悲惨な敗戦を経験しました。ですから、私たち日本国民は、その戦後の窮状からの再スタートから、新たな歴史が始まったのです。ですから、勢い、戦前的なものの全否定から、新たな歴史は始められることになりましたが、その戦前的なものの冷静な総括は必ずしも的確にはできてこなかったという問題はさておき、戦争は古来、勝者の歴史を生み、敗者の歴史は抹殺されます。ですから、戦争にはそれだけの覚悟がなければならないのです。
 第2次世界大戦は、第1次と同様に、西欧の資本主義国間の矛盾対立によるものですが、そのベースにあるのが、私有財産の拡大と対立でした。第1次も第2次も、その世界大戦は、すでに地球上の支配地が有限となってきたための、その再配分を巡る争いだったのです。地球は、人類にとってすでに有限となっていたのです。第1次大戦後の国際連盟や第2次大戦後の国際連合による世界平和への努力は重ねられてはきたものの、今なお国家間の対立はやまず、数十年前には、「地域主義」による新たな世界の構築が模索され、地方自治の可能性も語られることがあたのですが、それも今は過去のことで、21世紀の今では、国家間の対立はより激しくなり、「国家」というものの重要性がより高まるとともに、国家と民族の相矛盾した関係も頂点に立ちつつあります。「自由競争」という原理も、それは、土地や自然などの地球的資源が「無限」であった時代のことで、それが有限となってくるやそこには弱肉強食の原理が支配するようになります。そしてそこに、「官から民へ」と、公共の部門を民間経営に委ねる「民営化」時代が到来するや、ようやくにして芽生えつつあった「公共」的な考え方が再び閉ざされつつあるのです。

●「民」と「公」
 「民」の原理は、私的利益の追求です。「公」の原理は、公共の福祉の追求です。利益は、「余計」な経費を限りなく削減する合理化を優先します。「公共の福祉」は、結構手間暇のかかる事業が多いもので、これは国民の日常生活に直結しています。ここで必要になってくるのは「民」と「公」との均衡であり、調和です。
 私的所有権と自由競争が帝国主義戦争をもたらしたにもかかわらず、今再び世界は軍事的にも高い緊張状態をもたらせています。軍事ばかりでなく、経済にしても、今や金融支配を通して極度の寡占体制が築かれ、さらにITなどの情報産業が、世界的な富の一極集中を築きつつあります。自由競争は、いまや軍備を背景とした情報技術産業が世界を覆いつくし、これが世界各国の市民生活の劣化と民主主義の荒廃をもたらせつつあるのです。
 今、アメリカで、民間の人工衛星打ち上げ成功のニュースが報じられ、新型コロナなどで楽しいニュースのない中で、明るい夢を与えてくれるニュースとなったのですが、考えてみると、これは、宇宙の商業利用の幕開けとなるもので、宇宙を巡る資源の争奪戦の開始を告げるものではないでしょうか。無限の地平に歩を進めるのは、勇気に裏付けられた自由なる第一歩かもしれませんが、この場合の民間活力は、有り余る資金の一部の将来への投資に過ぎないのです。宇宙旅行の夢も、それは多額の有り余る資金の所有者に限られ、一般庶民にとっては縁のないことでしょう。問題なのは、宇宙における私権の設定なのです。宇宙資源の開発競争の火ぶたが、官民挙げて世界中で切って落とされたのです。
 今、地球を取り巻く宇宙には、すでに数多くの廃棄された人工衛星などの欠けらが地球上を取り巻いているといわれています。米中など有力国は、国家の威信をかけて、宇宙開発に乗り出しつつあります。月の私的領土化とその争いも早晩生じてくるはずです。地球と地球上の自然の私的所有の限界を自覚し、今再び、原初的な地球上に誕生した知的生命体としての人間に立ち返り、共有と共生の「共同体」時代を思い起こす必要に迫られてきているのです。実は、地方自治の問題は、この地球上における人類のあり方の本質にかかわる土俵なのです。近代における「自我の目覚め」から、地球を覆い、宇宙をすら支配しようとする自然破壊の人類にとっての、新たな自覚的なあり方がここから生まれるのです。

●「公共の場」を通して、人間性の再生を
 近代における「個」の誕生が、科●「民」と「公」学文明の発展をもたらせた反面、人間存在を極めて不安定なものしました。民主主義の手法が開発されたにしても、本当の意味での「自立した個人」の誕生はむずかしく、現代では、無為な自己主張がはびこり、結果、「絆」がことさらに強調されなければならない時代となりました。人間の知的側面の成長は、科学技術の面では急成長してきたものの、精神や心の成長は逆に後退してきていて、しかも、コンピューターの発展による情報技術とその産業化・商業化の結果としての、スマートホンの普及は、それが便利なだけに、人間を完全にとりこにしてしまいつつあります。多量の情報は、それを利用する個人の判断を越えて、情報提供者によって操作され、個人の判断能力を急速に衰えさせているようです。人間のロボット化の進行です。便利さへの過剰な寄りかかりが、そのことを促進したのです。
 ここでも、我々は一度立ち止まって考える必要があります。その場が、地方自治体なのです。先にも触れましたように、かつては、人間は自然と共生し、共同体成員として互いに平等で、それぞれの役割を果たしていたのです。そうした人間の本源的なあり方は、地域共同体として、平安京の中で育成され、中世では、町衆という自立した構成員による強固な地域自治組織を完成させてきました。それは、近世では、徳川幕府による幕藩体制が確立されることによって、自衛権のようなものはなくなるのですが、地域共同体組織は、明治維新にまで継続し、それが基礎となって、全国初の小学校の建営を実現し、近代京都における、新たな近代的な市行政を支えてきたのです。そして今なお、それは、小学校区としてだけではなく、元学区として、住民の市政参加の基盤をなしています。しかし、この京都独特の住民自治組織も、その基盤となる町内会が、存亡の危機に立たされているところも出てきつつあるのです。その原因は、地縁や居住者同士の絆を必要としない住民の増加です。すなわち、居住地に対する当事者意識の希薄化です。町内会に加入することすら拒む新規居住者も生じるようになりました。また、既存の居住者の高齢化と相まって
町内会の維持すら困難なところも出てきているのです。これには、いろんな問題があるにしても、その底流にあるのは、共同体的なもののしがらみから自由でありたいという、現代人の精神のあり方に根差しているのです。このことを深く考えなければなりません。このことは、地方自治を、国家の統治構造の末端を担う行政組織として見るのではなく、人間存在の基盤をなしていた、かつての地域共同体の流れをくむ「地方公共団体」の本来の役割に目覚めることになるのではないかと思われます。「地方公共団体」なのです。

●国家と地方公共団体の役割
 市町村は、いうまでもなく「地方公共団体」なのです。戦前の「市制町村制」の時代にあっても、市町村は「地方公共団体」だったのです。統治構造の最高峰である国家の下部組織ではないのです。地域住民の地縁的な共同組織なのです。これを慣例的に「地方自治体」ないし「地方自治団体」といっているのです。都道府県は、戦前では、国の地方統治機構で、知事は国の地方長官でした。戦後の地方自治法では、都道府県も地方公共団体となりますが、市町村は、基礎的な団体としての位置づけで、地縁的な共同体の性格を継承するものであったのに対して、都道府県は国と基礎的自治体との間にあるいわば「中2階」の広域調整の自治体なのですが、その事務は、多分に戦前の国の地方統治組織であった時代の影響を残し、国の事務を市町村に浸透させるための経由機関としての役割を担うものだったといえるでしょう。戦後当分の間における知事は、戦前の内務官僚の地方長官としての官選知事経験者が多かったのはそのためです。こうした、都道府県という団体が、今なお国家の統治機構の重要な行政的役割を担い、知事自体にも、総務省(自治省、戦前は内務省)をはじめとする国の役人出身者が多いことは、地方自治法の本来の趣旨とは異なる、国家統治としての強い性格を持たされていることを示しています。ですから、我が国で地方自治を考える場合には、基礎的自治体である市町村の役割が本質的に重要となっているのです。こうした地方自治制度の状況を見てくると、我が国の場合、国家の統治機構を構築する民主的過程がまだまだ未成熟で、国家の権力的統治の面が強いことがよくわかります。地方自治を考えるということは、一国の民主政治を構築する仕事でもあると思われるのです。ですから、基礎的自治体としての大阪市を解体することによって実現しようとした「大阪都構想は」、本来の地方自治から考えると、府と市の関係を倒錯したものといえるでしょう。行政を効率性からのみ考えるということは、民主主義の積み上げを非効率として否定することになります。戦後京都市の高山市長が、民主主義は手間暇のかかることではあるが、それが民主主義で、その手間暇を嫌ってはならないという趣旨の発言をしていたのも、そのことなのです。多くの市民の多様な意見の集約と議論という民主主義の手間暇を避けることは、一時的な効率に身を委ねることにより、再び専制政治への取り返しのつかない道に戻ることになるのです。くどいようですが、民主主義には手間暇がかかるものなのだということを、私たちは肝に銘じておかなければならないのではないでしょうか。資本主義の、資本の論理による効率主義が、やがては専制政治をもたらすという歴史の皮肉は二度と繰り返してはなりません。

 こうして、市町村、とりわけその中核としての市、すなわち都市、なかんづく大都市というものが重要となってくるのです。ただ、この大都市問題は20世紀後半から21世紀にかけては国政の課題からは消えてしまっていたようです。地方自治の場で、都市自治体よりも、府県知事の動きの方がクローズアップされてきている時代は、まことに困った時代だといえるのではないでしょうか。繰り返しますが、本来的な地方自治は、地縁的な、基礎的自治体である市町村であり、府県はそれをバックアップするものなのですから。
 この、地方自治における逆転減少は、概ね1980年代の「地方の時代」にはじまりますが、それは、1960年代半ばから1970年代にかけて風靡した革新自治体の後退に代わるものでした。基礎自治体である都市部の革新自治体とは異なり、府県中心の地方の時代は、自治の内実を求めるものとはならならず、その後の地方分権法の制定以降についても、現実の様相では、基礎自治体の自主性、すなわち本来的な地方自治の向上には、実際上なりえていないようなのです。府県が元気になれば、基礎自治体はそれに従属します。国の国家統治は、府県を通して実行されているこの構図をよく考える必要があります。
ちょっと抽象的なことを書きましたが、20世紀から21世紀にかけての時期だけに、そのあたりの大きな流れを一応把握しておきたかったのです。

 第2節 21世紀初頭の国と京都市の動き

●国などの動き  21世紀の幕開け
 21世紀の幕開け、正確には2001年から始まるのですが、大方は2000年を21世紀の幕開けとして迎え、1999年12月31日から2000年1月1日にかけて、カウントダウンなどの催しで、新しい世紀を迎えることになりました。
 夢を開こうとした21世紀ではありましたが、地方分権整備法の施行など地方自治にとっての新しい時代を展望させ、希望を抱かせるものがあったとも思われたものの、容易に立て直せない国と地方の財政と経済によって、その期待実現への道は定かではなかったそのような時期に、2001年9月の米同時多発テロが発生しました。これは、世界とわが国の甘い環境を一気に吹き飛ばすものとなりました。アメリカの世界戦略の動揺と、デフレの進行の中における小泉構造改革は、以後のわが国の政治経済環境を規定するものとなったといえるのではないでしょうか。
 2002年に日本郵政公社が発足するものの、4年後の6年には民営化準備のための日本郵政株式会社が発足し、順次民営化が実施されます。また、05年には道路公団の民営化も実施され、ペイオフ全面解禁も実施されました。4年に施行された個人情報保護法の施行も地方行政にとって大きな課題となります。
 地方自治に関しては、地方分権整備法の施行と小泉内閣による構造改革のなかで、公共施設の管理運営の民間委託(03年.7月)や地方独立行政法人法の施行(4年4月)など行政の仕組みも徐々に変わってきます。そして、「三位一体改革」(国庫補助金、税源移譲、地方交付税の改革)下の市政運営に苦労していくことになります。また、2007年4月には、地方自治法改正により、収入役が廃止となったことも、特記すべきことでしょう。なにか、腑に落ちない感じですが。
 こうして、21世紀の地方自治は、国政や世界の激動に翻弄されていくことになります。地方自治を取り巻く外部環境が大きく激変してくる、そうした中での地方自治と都市自治を考えなければならない段階に来たようなのです。京都市政も、こうした市政の外部環境をこれまで以上に考察しなければならないのです。

●21世紀最初の4分の1世紀
 21世紀の最初の4分の1世紀は、小泉内閣以降は、与野党が攻守所を変えるだけではなく、内閣自体が目まぐるしく変わり、2012年12月の安倍内閣再成立に至るまでの2006年9月の最初の安倍内閣誕生からのわずか6年3カ月の間に成立した内閣は6つを数えるのです。そしてその間の2009年8月の総選挙では、民主党が圧勝して、これが政権交代につながり、2012年12月の総選挙では、今度は自民党が圧勝し、これが、自民党安倍政権の1強体制へとつながりました。こうした政治状況の変化の根底には、小選挙区制の問題があるのは明らかですが、スマホの時代による情報流通の問題とも相まって、今後も政治の漂流は続きそうです。加えて21世紀は、世界の状況も激動が激しく、今や国家と民族との関係が激しく揺らぎ、欧米先導の世界秩序そのものも、その先行きが見通せない段階にきているように見受けられるようになってきました。たとえばアメリカです。1985年のプラザ合意に見るまでもなく、1970年代のドルショック以降、円高誘導と日米貿易の対日赤字、市場開放などのアメリカの対日攻勢は激しくなってきていたのですが、1990年代に入ってさらにその度は激しくなってきます。1993年に就任したクリントン大統領には特にその印象を強く持っていました。その後の大統領は、21世紀にはいって、その初頭2001年就任のブッシュ、2009年のオバマ、そして2017年就任のトランプ大統領と続き、日米関係も試練続きであったし、今後もそのようであると覚悟しておかなければならないようです。
 こうして、戦後、アメリカを基軸としてある種安定してきた我が国の世界における立ち位置も、新たな模索の段階にきつつあるといえるでしょう。そのため、京都市政も、そうした流れの中での自らの立ち位置を考えつつ、市民自治の発展をめざして歩むべき時代となっているようです。もはや京都市政も、京都市政のみを考えているだけでは追っつかない時代となってきたようですね。
 また、21世紀は、自然災害の多発や地球環境が限界に近付いてきたという、ある意味ではとんでもない時代を迎えつつあります。しかし、人類にとっても文明と人口減少の問題が重要な問題となりつつあるなか、この人口減少問題は、人類と自然との関係の取り方についての回答を用意するもののようにも思われます。1995年に阪神大震災が起こりました。また、2011年には東日本大震災が、さらに2016年には、九州で熊本、大分両県で大地震が起こったほか、相次ぐ大型台風による被災や洪水被害など、日本列島は、さながら災害列島のような様相を呈し始めてきています。いつ地震が、台風が、大雨が、洪水が、さらには熱暑や日照りなどが来るかわからない状態となってきているのです。、そして、こうした状態は、何も日本だけではなく、世界各地も同様の状況となってきているのです。
 こうした時期の京都府ですが、2002年4月に自治省出身の山田啓二副知事が荒巻知事の後継者として知事に就任し、比較的地味で堅実な府政は継承されます。さらに2018年4月に西脇隆俊(前復興庁事務次官)氏が、山田府政を継承しています。

●21世紀初頭の京都市政
 さて、こうした21世紀の京都市政ですが、2000年2月の桝本市長再選で、幕開けします。そして、翌年には、前年に策定されていた、新しい第2次の京都市基本構想に基づく基本計画が策定されます。また、この時から、行政区ごとの基本計画も策定され、大区役所制へのあゆみが開始されます。こうして、桝本市政は、20世紀末から21世紀初頭にかけて展開し、2004年に三選してその任期を全うしたうえで2008年に引退し、同じく教育長であった門川大作氏が桝本市政を継承します。
 京都市政と私との関係は、21世紀にはいると、もはや従来の関係ではなくなり、退職して、特定事業推進に従事することの嘱託を受けるのみの関係となり、京都市政の動向を体験的に語ることができない状態となります。そのため、21世紀にはいった時点で、本稿も収めるべき段階となるのですが、ごく、基本的な事柄に限定して、軟着陸することにしたいと思っています 

 そこで、21世紀初頭の京都市政の特徴的な事業を眺めてみましょう
 2000年には東部山間埋立処分地「エコランド音羽の杜」の共用開始、大学のまち交流センター「キャンパスプラザ京都」のオープン、その翌年には先に策定されていた21世紀グランドビジョンに基づくその10年計画としての「京都市基本計画・区基本計画」の策定、さらに観光5千万人構想を打ち出した「観光振興推進計画」も発表されますが、その直後には、逼迫する財政事情の中で市長が「財政非常事態宣言」を出すにいたります。そうした中でも、3年6月には京都創生懇談会が「国家戦略としての京都創生」を提言し、これが、21世紀を展望した京都市の進むべき指針となってきました。
 20005年、46年ぶりの編入合併で、京北町を編入し、京北町の面積216.68km2を加えた市域面積は827.90km2に達しました。人口も6229人増えて146万6418人となり、1980年代後半から漸減傾向にあった京都市の人口が、20年ぶりに増加したのです。すなわち、1986年1,479,370人をピークに京都市の人口は減少を続け、2004年には1,468,401人にまで慢性的に減少してきていたのです。この編入合併は、京北町住民の要望によって実現したものです。2002年7月、同町住民約4,500人が合併を求める要望書を町と町議会に提出したことを受け、同町長がその要望書を桝本京都市長に手渡し、翌年10月、両自治体による法定協議会が設置され、さらにその翌年の04年8月26日、京都市と京北町が「合併協定書」を締結することにより、2005年4月1日に編入合併が行われたものです。これにより、京北町は、京都市右京区京北となりました。
 この2005年には、京都市がその建都1200年事業として誘致に努めてきた国立の京都迎賓館が、京都御苑内に開館します。また、その6月には、京都創生懇談会で働きかけてきた国の景観政策で、景観法や都市緑地保全法などの景観法3法が全面施行されました。
 また、これは何もしていないようで、実は重要な政策なのですが、建築基準法改正で、2003年1月から、容積率が緩和される制度について、京都市はこれを適用しないことを決めたことです。そもそも、建物の高さ制限自体が、他の大都市にはない京都市の独自施策なのです。
 都心部小学校統廃合とその跡地利用については、1996年2月、田辺市長が辞職し、桝本市長が当選した市長選挙がまだ執行されていない間ではあったのですが、2月5日の都心部小学校跡地活用審議会で、広域、身近、将来の3用途に分けて活用する市の案が提示されて了承されています。そしてこれが、以後の活用方針となるのです。そして、翌年1997年2月の同審議会で、この段階での統廃合による小学校跡地12カ所の活用に関し、当面する3カ所の整備計画と9カ所の活用基本方針を承認し、都心部小学校統廃合による跡地利用は計画的に進められることになります。当面する整備計画としては、旧開智小学校の「学校歴史博物館」、旧竹間小学校の「幼児教育センター」そして旧明倫小学校の「京都アートセンター」でした。 学校歴史博物館は1998年11月、こどもみらい館(幼児教育センター)は1999年12月、芸術センター(京都アーチセンター)は2000年4月に開設されています。このほか、特徴的なものとしては、2003年6月に「ひと・まち交流館 京都」、2004年7月に第二日赤の「救急救命センター」、2006年11月に「京都国際マンガミュージアム」が開設されています。

●2010年代の京都市政
 2010年代の京都市政は、2008年2月から門川大作市政となり、それまでは二期から三期目の桝本市政であり、この両市政は、両者ともに教育長出身ということもあって、基本的には同一の市政ということができます。これは、桝本市長が田辺市長の後継者、門川市長が桝本市長の後継者であるからです。1990年代以降の京都市政は、極めて安定した市政として継承されているといえるでしょう。とはいいながら、その政治基盤は、国政に見られる激動期にあって、かつての社公民を中軸としてこれに自民を加えた、共産党を除くオール与党体制できたものの、中軸となっていた社公民が崩れることにより、21世紀には自公に共産党以外が加わるという体制となり、そのリーダーシップは自民党にあるといえる状態となっています。が同時に、公明党の比重がかつてよりは高いものとなってきているともいえます。また、1960年代以降の京都市政をふり返ってみたとき、政党のパワーバランスの中における公明党の位置には重要なものがあり、時々の市政の安定に果たす役割はより一層高まってきているといえるのではないでしょうか。
 こうした桝本市政から門川市政への継承とはいいながらも、やはりかなり違った面もあるようです。それはまた、創業者とその継承者との違いとでもいうべきものなのかもしれませんが。その違いの最たるものは、後でもふれますが、新景観政策に対する姿勢にあります。市政の基本方針は、21世紀グランドビジョンとしての第2次の京都市基本構想が2025年までを展望したものであるため、その10年サイクルの基本計画は、2010年12月に基本構想に基づく第2期京都市基本計画として策定され、2010年代の京都市政を運営していくことになります。しかし、市政の装いとしては、桝本市政は「元気都市京都」、「安らぎ 華やぎ」の京都づくり、これに対して、門川市政は、市民との「共汗」市政、がその特徴となっています。また、都市づくり構想では、桝本市政の「歴史都市京都の創生」に対して、門川市政は「未来の京都づくり」ということです。
 さて、2010年代の京都市政の具体的な事業の特徴を眺めてみますと、まず目につくのが、民間活力の導入や規制緩和でしょうか。まず、都心部小学校跡地活用です。2011年10月の審議会で、従来は市の事業に限ってきた活用方針を改め、地域の活性化を図る民間事業にも拡大する方針をまとめます。そして、2015年.4月には、:学校跡地活用促進部長を、18年4月には、学校跡地活用を勧める「資産活用担当局長」を新設しています。そして、本格的な民活の第1号として、東京の不動産会社による地域・文化施設やホテルの複合施設「立誠ガーデン ヒューリック京都」が、2020年7月に開業しました。
 次に命名権と訳されるネーミングライツです。命名権の第1号は、2009年4月からの西京極野球場で、京都市内の健康食品会社「わかさ食品」による「わかさスタジアム京都」です。2011年3月には市立体育館が「ハンナリーズアリーナ」に、そして、同年6月には京都会館が「ロームシアター京都」に、さらに2017年2月にいたって、ついに美術館が「京都市京セラ美術館」になったのです。そしてここに至って、同年5月、命名権は市議会の議決案件となりました。
 都市整備関係では、四条通の歩道拡幅工事がありました。歩くまち京都のシンボルロードとして、2015年11月に完成したのですが、なる程、拡幅整備された歩道は高い評価を得た半面、ただでさえ混雑していた車道がさらに狭くなり、企業活動に差しさわりがあるとの強い反発があったものです。理念は理念として、旧市街地における京都の限界性をよく示すものだったといえるでしょう。また、都市整備では、京都駅西部と東部の新たなまちづくりが進められようとしました。2014年1月、西京区の桂坂にある市立芸術大学が、京都駅東部の河原町七條辺に移転する計画が発表され、また、翌年3月には、中央卸売市場の再整備とも関連して、京都駅西部エリアの活性化計画が策定されました。京都市では、都心部が四条通を中心に形成されてきたことから、京都駅周辺の都市整備は活発ではなかったのですが、ようやくにして、京都駅周辺も、北部と南部の都市形成の中間を埋める新しいまちとして、その形成が進みだしたといえるでしょう。また、この時期の都市整備で特徴的なことは、上下水道関係の整備でしょう。大規模な水道工事としては、1999年12月に、琵琶湖第2疏水の取水口からさらに掘り下げた新たな取水を行い、第2疏水との合流を行う連絡トンネルが完成するのですが、この工事費は120億円に近いものでした。また、山之内浄水場は、市街地の拡大による人口増加に備えて1966年11月に新設されたのですが、昨今の人口停滞と大型水需要のホテルや商業施設、工場などの地下水の利用による水道水の需要の減少から、ついに2013年3月に廃止となりました。京都盆地は大きな地下水の上にあり、地下水は無尽蔵に利用できるかのような考えがあるようですが、現在の地盤はその地下水の量との均衡の上に成り立っているものであり、遠からずその利用を規制するべき段階がくることを、行政は考えておく必要があるものと思われるのですが。ともあれ、こうして山之内浄水場は廃止され、その跡地活用が、地下鉄東西線の西端、天神川駅の右京区役所のある「さんさ右京」ともタイアップした京都市の西部開発の拠点ともなるところで、市の大学誘致に京都学園が応じ、南側用地に京都学園大学(現京都先端科学大学)太秦キャンパスが2015年3月に完成、残る北側用地には、大和学園と太秦病院が共同事業者として応募し、2017年に太秦病院が移転開院し、18年には、大和学園太秦キャンパスに関連学校が移転開校しています。
 大区役所制に合わせた区役所の総合庁舎化も進みます。2001年2月に東山区役所が、2008年3月には右京区役所が「サンサ右京」に、2010年1月には伏見区役所、そして2015年に上京区役所の新庁舎が完成して、区役所の総合庁舎化は施設的にも西京区を残して全区で完成することになりました。
 税財政対策としては、先に、2001年10月に財政非常事態宣言を発したところですが、門川市政のもとでも、2009年8月に設置された京都市財政改革有識者会議に、低成長、少子高齢化における京都市の財政改革の検討を願い、翌年2010年10月に、4分野31項目に及ぶ提言を得ています。また、市バス・市営地下鉄に関しては、すでに2002年9月に経営健全化計画を策定しているところですが、これにより、大幅な民間委託が実施されています。長らく経営が安定していた水道事業についても、近年の水需要の減少とインフラの老朽化により、経営が難しくなってきていて、2017年3月に「水道及び下水道施設等マネジメント基本計画」を策定するに至っています。こうした財政問題の一つの解決の方途として、「観光新税」が検討され、2001年12月に東京都が宿泊税(ホテル税)条例を可決し、翌2002年3月に総務省がその創設にに同意したのを先行事例として、京都市も、2017年11月、「宿泊税条例」を共産党を除く多数で市議会が可決し、翌2018年1月から、1人当たり200円〜千円の宿泊税が実施されました。これは、東京、大阪に次ぐ3例目となりました。
 なお、2013年5月には、有識者による「京都の未来を考える懇談会」が、「京都ビジョン2040」をまとめて発表しましたが、必ずしもインパクトのあるものとはなっていないようです。
 次に、パートナーシティの進展があります。桝本市政下の1998年2月に、姉妹都市とは別に、民間主体の新しい都市間交流を進めるための「パートナーシティ(新しい都市間交流)実施要領」を制定し、翌1999年4月に韓国の晋州市とパートナーシティ提携を締結したのを最初として、門川市政になって、トルコのコンヤ市(2009年12月)、中国の青島市(2012年8月)、ベトナムのフエ市(2013年2月)、トルコのイスタンブール市(2013年6月)、ラオスのビエンチャン特別市(2015年11月)と提携を締結しています。
 このほか、京都としては念願の文化庁京都移転があります。大きくは首都機能の分散化、中央省庁の地方移転の先駆けとして、文化庁の京都移転が決まりました。2015年、国の地方創生の動きは、文化庁の京都誘致を一気に加速し、政府は2018年2月に文科省設置法改正案を閣議決定、同法案は、6月には参院本会議で可決成立し、10月には施行されます。移転場所は、現在の府警本部庁舎で、府警本部が新庁舎に移転することに伴い、そのあとに文部省が、2022年8月に移転してくることで文部省と地元で合意しています。
 これは、国の中央省庁の地方移転として決まったものですが、京都を挙げて、また、関西広域連合の支持も受けて実現したものとして、京都としては喜びをもって迎え入れられたものでしたが、はたして、喜んでばかりはいられるものでしょうか。文化庁の京都移転は、あくまで国の機関の地方への移転に過ぎないもので、京都という一地方の振興とは別物だからです。京都はこれに受益するのではなく、むしろ新たな責務が発生したと考えるべきなのでしょう。これについては、別に少し考えてみたいと思います。

●21世紀に問われるもの
 21世紀になってみると、そこは、「新世紀」という言葉の希望に満ちた響きとは別の、やはり厳しい現実が待っていたのです。70年前の悲惨な敗戦のなかから立ち上がり、一歩一歩築きあげてきた「民主国家」の建設、その基盤となる地方自治体の新たな構築、そうしたものは1970年頃までは概ね積み上げてきていたのでしょうか。1952年4月に対日講和条約が発効して、我が国がアメリカの占領下から脱して再び独立国としての道を歩み始めるものの、1960年の日米安保改定と1970年の同安保条約の自動延長を巡っては、国論の激しい対立が起こるものの、60年と70年とでは、同じ「安保」といってもおよそ次元の異なったものとなっていたようでした。その両者の違いは、戦後日本の復興・発展と次に向かうための大きな壁への試練ではなかったかと思います。
 戦後の日本はアメリカとの深いかかわりの中で歩んできました。60年安保は、まだ敗戦の色を濃くしていたのですが、70年安保では、学生運動が中心となって、個人の主体確立が課題となってきていたのです。しかし、結果はそうした主体思想にそぐわないものとなっていました。1955年ごろからの経済の高度成長による日本の奇跡的ともいわれた成長は、物質的には豊かな国づくりに成功した半面、精神文化の発展には疑問なしとしない状況の中で、70年安保の頃からは、ミーイズム(me-ism)が若い層に広がりを見せ、それは、民主国家建設の基礎となる自立した個人というよりも、個人生活を享受する自己中心の社会文化をつくりだしたようなのです。それは、高度成長に裏付けされた消費文化の創出によるものでもあったのです。地方自治体もその波に巻き込まれていきます。参画よりも享受なのです。サラリーマンの創出とその都市部への集中が革新自治体を生みだしたものの、都市行政への市民参加は、「夜間市民」と称されるように、容易なものではなかったのです。考えてみれば、地方自治、都市自治といっても、それは国政の渦中にあるものであって、国や世界の動向と無関係ではなく、むしろ密接そのものなのではないでしょうか。1980年代からの20世紀後期の京都市政は、私自身深くかかわってきたがゆえにいえることは、国政どころか、多分に京都モンロー主義で、特殊京都の中に閉じこもっていた感がありました。それゆえに、将来の京都市政を担う方々には、国政はおろか、世界の動向にも十分な視野を持ってほしいものと思うのです。
 さて、戦後復興をとげた日本経済は、世界経済のなかにもそれなりのウエイトをもつに至る反面、戦後世界をリードしてきたアメリカの影響力の低下がみられるようになります。その顕著な面が、世界通貨たるドルの価値の低下とエネルギー不足です。いわゆるドルショックと石油ショックとなってこの問題は顕在化し、このあたりから、アメリカからの日本への風当たりは強くなります。いわゆる円高圧力です。ついで、貿易不均衡の是正、自由化と規制の撤廃、さらには資本の自由化攻勢などの圧力が強くなってきます。そして、それらは、現在にいたるまでの日米間の大きく、重要な問題点として存続してきています。
 ここで、こうした問題をどこまで展開するかということは、本稿の目的ではありませんから、この辺でやめておきますが、こうした問題が、21世紀のわが国とともに、この都市行政にも大きくその影響を及ぼしてきているのです。
 考えてみましょう。1950年代後半期に京都市が経験した財政再建団体としての歩み、これは、その後の市政にも著しい負の影響を与え続けてきました。市民福祉に意のある政策が十分行えなかったという問題のほかに、市政を執行する職員の必要な数が確保できず、長期にわたって、脱法まがいの大量の臨時的任用職員、いまでいう非正規職員によって、それを補ってきていたのです。ひるがえって現在のわが国を見た場合、非正規問題が、社会的な所得格差の問題とともに、重要な問題としてクローズアップしてきています。今や、世界の経済大国となっている日本で起こっているこの現象をどう見ればいいのでしょうか。労働者の非正規職員化は、日本という国そのものが再建団体の様相を呈してきたからなのでしょうか。そうではありません。現在のわが国における非正規職員化の波は、好ましくないがやむを得ないものというよりも、働き方の多様化や自由化といった、あたかも労働者にとって好ましいものであるかのような、政策的に積極的に推進されてきているところに大きな問題があります。企業にも、アウトソーシングといった事業の外部下請けへの推進、契約社員や人材派遣社員の導入などで、正規社員が減少し、今や正規社員であることがエリートであるかのような感を呈するようになってきているのです。働き方改革というのもその延長線上にあるもので、労働市場の自由化は、ごく限られた専門職以外は、結局のところ賃金水準の低下と労働条件の悪化をもたらすのであり、これは、国民の所得水準の低下につながり、やがては国力の低下そのものをもたらすことになるのではないかと危惧しています。
 終身雇用制は、従業員の人材育成と仕事への参加意欲を高め、大きく見た場合には、企業の永続的発展にも大きくプラスするものです。個別作業の外注や下請け化、外部人材による作業委託といった仕事の寄せ集めは、とりあえずの経費削減にはなるとしても、そこには明日への発展要因は存在しないのではないでしょうか。
 かつて、封建遺制のまだ残っていた時代は、口入稼業は労働者を食い物とするものとして禁じられたいました。それが、今、近代的装いのもとで、復活しているのです。当初は、個別労働者自身が企業に対して強い立場にある特定の専門職に限られていたにもかかわらず、今や、あらゆる職種に広げられています。労働者は、元来、一人ひとりでは、企業に対して弱いものです。ですから、労働組合の組織化が保証されているのですが、今やその労働組合自体の影響力が低下し、しかも多くの非正規職員はその埒外です。ですから、労使関係自体に政府が関与するような事態をも生むようになってきているのは、決して正常な状況とはいえないでしょう。ですから、行政は、国の基本的なあり方に関わるであろうこうした重要な問題に対する認識を深めて、一時的な効率性重視の風潮に飲み込まれることなく、長期的な視野のもとでの、市民福祉向上への行政のかじ取りを行うことが強く求められるのではないでしようか。
 こうした問題状況を考えていると、21世紀は、グローバル化の波による世界的な企業間競争の激化のもとで、寡占体制は促進され、経済への金融支配は高まり、さらには、急成長してきたIT企業による各種産業への影響強化には著しいものがり、今や、技術進歩と産業や市民生活との新たな秩序づくりの必要性が高まってきているといえるのではないでしょうか。自由だけではだめなので、新しい技術進歩による影響をどう読み取り、社会や産業の仕組みの中で秩序付けていくかが問われだしているのです。このまま放置すれば、人間のロボット化が進行し、ロボットと化した市民による地方自治は、これまたAIによる技術的な支配を受けた運営組織に陥ることになるのではないかという恐れが急速に高まってくるのではないでしょうか、こうしたことは、ある段階にいたった時には一気に高まるのです。
 急にこんなことを言い出してなんだ、と思われるかもしれませんが、ですから、21世紀は、「人間であるために」が、試されている世紀なのです。
 地方自治行政、なかんずく都市自治行政は、技術やそれが生みだしたしくみに組み込まれた人間から、技術やしくみを制御し、使いこなす人間を復活される砦となるもので、そのためのたえざる意識改革こそが、21世紀の「人間であるために」の都市自治体を生みだすことになるのではないでしょうか。

●21世紀都市行政の諸問題 自由化・民営化の波と [人間であるために]
 民営化や規制緩和は、中曽根内閣の第二臨調によって、1980年代から始まるといってよいでしょう。ただ、この段階では、まだ、国鉄や電電公社の民営化などのように、国家レベルの官業の民営化でしたが、2000年代にはいると、小泉内閣の下で、郵政民営化とともに、地方レベルの民営化促進も始められるようになります。その手法は、事業の民間委託や、独立行政法人など民間経営の手法を行政にも導入するというものです。これは、行政というものの経営が非常に遅れていて非効率であるという認識とともに、そもそも、民間でできるものは民間で行うべきであるという考え方によるものです。と同時に、事業の下請け化の促進です。このアウトソーシングと称される事業の下請け化の促進は、民間企業でも重視され、かつては我が国産業の二重構造として、解決されるべき重要な課題とされていた問題が、ここへきて、近代化の装いのもとに再び促進されるようになる一方、規制緩和は労働分野でも同種の問題を引き起こしつつあるのです。
 先にも触れましたように、民間経営は効率性を第1としますが、地方自治行政では、民主的な手続きと事業の公平かつ公正性の確保から、効率性を第1とするには必ずしもなじまないものが多いのです。事業の民営化やアウトソ−シングなどは、個別企業の合理化には一見いいように思われる反面、国の経済全体で見た場合には、労働者の低賃金構造を新たに生み出す要因になるとともに、労働者一人ひとりの創意工夫や労働の喜びを減退させ、結果として産業全体、国の経済力、民力を弱めることになっているのではないかという問題があります。加えて、自治体行政の場合、その仕事のほとんどは、住民、市民との関り、とりわけ、市民福祉に関わる仕事であり、この住民福祉に関わる仕事は、仕事の処理の効率性よりも、市民に対する意のある対応が大切で、機械化や情報処理装置よりも人材の配置そのものが重要なのです。加えて、民主政治の前線基地である都市行政では、市民の実情把握や市民意見の集約など、市民参加のための目立たない地道な活動が要求されています。これらはすべて、市民とともに進める手間暇のかかる仕事なのです。合理主義や下請け化など、さらには、デジタル処理技術だけでは全うできない仕事なのです。
 そこで、こうしたことがらの自治体・都市行政ににかかる問題点について、以下いくつかの指摘をしておきたいと思います。これは、21世紀における自治体・都市行政の極めて重要な課題となってきているものと思うからです。すなわち、「人が人であるために」に、深くかかわってくる課題だからです。

 まず第1は効率性の問題です。行政手続きというものは効率化しようと思えばいくらでもできますが、行政にとって必要なのは、住民に対する丁寧さではないでしょうか。そして、自治体行政の役割の最も重要なものは、住民の福祉です。住民登録のマイナンバー化とその活用は、その利用の便利さとは別に、多くの不都合性が生じる恐れがありますね。取扱い方も大変です。特にお年寄りにとっては。そして、住民の福祉は、考えてみれば、効率性とは無縁の世界なのです。行政に頼らなければならない市民にとって必要なのは、多分人的な資源ではないでしょうか。市民に寄り添い、市民とともに考え対処していくあり方は、時代を超えて、合理化できないものなのです。行政手続きの合理化、効率化は、とりわけ社会的弱者といわれる市民にとっては、苦痛以外の何物でもありません。ですから、行政サイドからの人的なサービスの充実は、時代を超えて不可欠なのです。
 第2に、民営化というものにも限界があるのではないでしょうか。私企業には私企業としての目的があり、社会奉仕では経営が成り立ちません。ですから、採算に乗らないものはいたしません。また、私企業は、行政から受託した事業について、市民に対して直接責任を負うものではありません。そして、事業やその企業自体の永続性が保証されているものでもありません。ですから、公企業は公企業としての役割が、また公共的事業は、行政自身が直接責任を持つ、住民の公益的事業として不可欠なのです。次に、以下の箱書きの中で、政府の事例を挙げてみましょう。

   民営化の問題事例 
   鉄道・旧国鉄の民営化ははたして成功事例なのか
  
 第2の民営化、民間でできるものは民間に、の問題です。確かに、民間の業務を行政が奪うことには問題があるでしょう。けれども、公共性の高い事業を、何の制限もなく私企業が思うように収益をあげることを目的に行うことにも問題があります。また、民間企業は、事業の安定性、継続性に問題があります。現在だけではなく、将来にわたって安定的に継続していく必要があります。例えば、周辺部の市バスの一部で、民間会社に委託していた路線は、今年2020年の新型コロナウイルス感染の影響による赤字化と人手不足から撤退したことにより、その路線を結局交通局で再びカバーしたことにより、事業の赤字が拡大することになった。このことなどは、代表例でしょう。
 政府の民営化で成功したとされている旧国有鉄道の民営化を見た場合でも、それを、国全体の総合的な視点から見た場合には、失敗例としてみることもできるのです。国有鉄道は、わが国明治の近代化の原動力として、全国津々浦々にまで至る鉄道網を敷き、それが、国土の一体化を実現し、資材や労働力の確保、また、全国土の交流を可能としてきたのです。また、田中内閣下の日本列島改造に代表される、道路網の全国土への整備は、それを道路でもって補完したものでした。けれども、今日の限界集落に見られる過疎地域の拡大は、その遠因を、鉄道の民営化によって赤字線が切り捨てられ、その廃線が全国的に広がったことがあげられるのです。経営を路線ごとに行うのではなく、全国一律の料金体系による官業であってはじめて国土全体の統合ができるのです。この、儲かるところも儲からないところも一体的な経営として行うことは、私企業経営では困難です。ですから、事業によって、私企業の適不適は存在します。上水道の民営化も進みつつありますが、その事業の継続性と水質の安全性確保の信頼性など、利益を最優先としない経営への安全と信頼醸成の確保は至難のことなのではないでしょうか。その信頼性は、遠い将来にわたっても確保されなければならないのです。
 ネーミングライツ(命名権)も似たようなものではないでしょうか。公共施設の名前は、市民のもの、市民の誇りでもあるのです。「名が体を表す」のです。京都市の伝統的な美術の殿堂である京都市美術館が、「京セラ美術館」では、それは、あまりにも精神的に隔絶したものになります。これは、お金の問題ではないのです。結果として、一私的企業のために、文化活動をすることになってしまいます。名前だけには終わらないのです。企業の宣伝費としては安いものです。本来であれば、企業が社会貢献をするのであれば、寄付行為を行い、行政はそれを顕彰する方式が望まれるのです。そこのところは、今後の行政のあり方として、また、企業の社会貢献のあり方として、十分考慮するべきところでしょう。行政というものは、一時のカネに左右されて、決して一部の私物化に陥る方向に向かわしめてはならないのです。

 第3に、「岩盤規制」といえばいかにもいけないものとの決めつけとなりますが、行政上の規制は、それなりの理由があり、そのほとんどが住民福祉を守るためのものであって、長年の歩みの中で築きあげられてきたものがほとんどでしょう。悪いものであれば基本的に規制はできなかったはずなのではないでしょうか。「岩盤規制」を撤廃すれば、本来保護すべきものが放棄され、それはそれで新たな利権が発生する場合も多く、岩盤規制という決めつけは、決していいものとはいえません。
 第4に、民営化や規制緩和の根底には、「自由化」という問題があるのですが、いたずらな自由主義が、自由な競争がやがて弱肉強食のしのぎ合いを生み、そして巨大企業による政治支配や挙句の果てに帝国主義戦争にまでいたったという、歴史の教訓を大切にする必要があるのではないでしょうか。特に、伝統文化は破壊されていくことになります。ですから、自由化にもそれなりのルールや規制というものがなければなりません。
 第5に、国際化の波と国家の役割についてです。グローバリズムの激しい波の中で、国家の役割の重要性が高まってきているのではないでしょうか。しかし、その国家そのもののあり方が、民主制のあり方とともに問われだしてもいます。民族と国家との複雑な関係も新しい時代に直面してきています。地球規模の世界をリードしてきたヨーロッパはその最たるものといえるでしょう。これまでの、第2次世界大戦の戦後の時代から、ヨーロッパ文明そのものも問われ出していて、日本も独自の主体的国家再形成の必要性に迫られてきているのかもわかりません。
 ですから、第6に、国家形成における真の意味での地方自治のあり方もまた問われているのです。地方自治もまた、広い視野と遠い見通しの下に、常にそのあり方を問い続けていく必要があるのではないでしょうか。「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー」(Think Globally、 Act Locally)という言葉を思い出します。40年ほど前に、市政調査会の「10人委員会」のメンバーであった京都大学人文研の樋口謹一教授から教わりました。「世界的視野で考え、行動は地域から」という趣旨です。簡単なことではありませんが、「地域と世界」の相互交流が不可欠なこの時代に、今こそ必要なことではないでしょうか。
このことは、まさしく21世紀の地方自治、なかんずく都市自治体に課せられている根本的な課題ではないでしょうか。
 第7に、問われだした人間存在の意味についてです。技術進歩が人類の限界を予見しだしているのではないかと思われる面も生じている感がありますね。技術は、それが人間のコントロール下にあって初めて有効なものとなるのではないでしょうか。できるからする、から、できるものでも不都合になるものはしないという賢明さが必要なのではないでしょうか。今、人類は、地球の生物としての存在が問われだしています。
 第8に、それには、私企業の収益構造を変えていく必要性があります。販売商品に対する最終責任を企業自身が持つことです。便利かつ低廉な商品を次々とつくりだす企業は、消費者にも歓迎される反面、その終末処理は自治体にかぶせてきたのです。最近では、地球環境保全への運動から、廃プラスチック容器などに対する取り組みが始まっていますが、こうしたことは、すべての商品について当てはまるのではないでしょうか。京都市が、舩橋市政の時に挑戦した「空きかん」問題の時は大変でした。企業からだけではなく、政府からも攻撃を受けていたのです。そこからすると、隔世の感がありますが、それだけ地球環境が危機に陥ってきているということです。
 そして、第9に、「京都は痩せたソクラテス」であるべき、を思い出しました。

●「痩せたソクラテス」
 この問題提起は、京都市が世界文化自由都市宣言を発した1年後の1979年10月、同宣言の具体化と、そのための最初の地方自治法に基づく京都市基本構想策定の課題を前に、京都市政調査会が主催した公開シンポジウム「みんなで考える明日の京都像」で、シンポジストのひとり、木下輝一京都新聞社論説委員長から提起された「京都市は、世界文化自由都市として、やせたソクラテスをめざすべきだ」という主張です。
 戦後の京都市は、一貫して都市財政の弱さに苦しんできました。それには、大都市としては、伝統産業など小零細企業を中心とした産業構造の弱さにその原因が考えられてきました。消費は大都市規模であるものの、生産規模は中都市並みにしか過ぎないとの見方できたのです。その後、幾つかの規模の大きな先端企業の発展はあったものの、基本的なこの構図に大きな変化はなかったといえるでしょう。
 他方、京都の伝統文化は、我が国を代表する大変な蓄積の上にあります。したがって、この遺産の上に京都観光が成り立ってきたのは、これまた近世以来の伝統ではあったのです。そこで、この京都観光の上に成り立った伝統産業を中心に、観光産業はこれまた近世以来成立してきていたのです。したがって、基盤的な産業構想は、伝統文化の上に成り立っっていたのか、はたまた観光産業として成り立っていたのか。観光か産業かは、ある種の論争点ではありました。そこからさらに、産業、観光、車の両輪論も生じてきていました。しかし、産業政策担当のセクションからは、伝統的に「観光では、100万都市は成り立たない」、でした。けれども、1990年代頃から、観光産業の経済分析等が行われ、観光産業の京都産業におけるウエイトの高さが注目されるようになり、京都は観光である程度成り立つのではないかとの見解も生じるようになってきたようで、市行政においても、産業観光局が約40年ぶりに復活するようにもなってきていました。しかし、観光産業の実態は、果たしてそうかという疑問はあります。すなわち、観光産業では、すべての産業を観光という側面からとらえられていて、本来的な観光産業なのだろうか、側面を広義的にとらえているに過ぎないのではないかという問題です。
 他方、似たような問題として、文化と観光との関係にもあります。観光資源のほとんどは、実は文化遺産なのです。観光では、それなりの収入があるとはいえ、観光は文化遺産の消費行為であるわけです。文化活動を支えているのは直接的には文化産業であり、文化遺産を保全、継承するのもまた伝統的文化産業なのです。ここでも観光は消費者の立場なのです。
 しかし、21世紀にはいって、観光客五千万人構想を達成するようになって、「観光産業」は高い市民権を得て、観光産業の発展がますます求められるようになってきたようなのです。しかし、そこに、2020年代の終わりになって、突如として新型コロナウイルス感染症の世界的な伝播が生じ、観光というものが一気に低減してきたのです。これには元来、観光というものの限界というものがあります。まして、観光が世界的な潮流となった場合にはそうです。まず、国家間の関係、そして経済の好不況などによって大きく左右されるということです。自然現象でもそうです。ですから、一般的にいえば、世界が平和で、経済状況にも恵まれ、世界各国の所得水準も上がってくることによってはじめて可能となってくることなのでしょう。また、直接的には、政府の入国管理政策に負うところが大なのです。
 そしてまた、京都の文化は、伝統的な文化遺産に裏打ちされたもので、その有形無形の文化遺産の保全継承には膨大な経費が必要なのですが、これを消費する観光産業からの資金循環がどれほどなのでしょうか。おそらくこうしたことはあまり意識されてきていなかったのではないでしょうか。伝統文化や文化遺産に裏打ちされた京都の財政需要に対しては、ほとんど根本的な考慮が払われてこなかったのではないでしょうか。それは、政府にしても、他の地域の人、そして、京都市民もです。こうしたことから、京都の文化遺産は、国民の宝であるがゆえに、国家としてもそれを位置づけて「国家政策として」支援してほしい、或いは「観光税」のようなものなどによって文化遺産の維持保全、継承の財源に加えていきたいという考え方は常に生じるのです。観光から文化遺産への資金循環の方程式を考えなければ、やがて観光によって、文化遺産は消費しつくされてしまいかねないのです。
 そしてまた、過度の観光誘致政策からは脱却し、京都の伝統文化を求める、自然な形での観光、抑制のきいた文化観光が求められるのです。観光は、外部環境によって、京都市自身を超えた他動的要因によって大きく左右されます。であるがゆえに、過度に観光産業に依存した都市のあり方は抑制することが必要なのでしょう。すでに、京都市では、1971年6月の京都観光会議報告書「10年後の京都観光ビジョン」で、「呼び込み観光との訣別
」をまとめ、その2年後には「マイカー観光拒否宣言」を発してきているのです。空き缶ポイ捨てにたいする反対運動もその線上にあったものです。飽和状態の観光公害をはじめとする諸問題は、すでに50年前から認識され継承がならされていたのです。こうした、抑制のきいた、経済至上主義に陥らない、文化に支えられた京都の生き方、それが、「痩せたソクラテツ」なのです。もうけが少なくとも、伝統文化の誇りの上に築かれた都市、それを目指したい。過度にもうけを追及して、逆に文化そのものを破壊することになりかねない生き方は、京都にはそぐわない、そうした誇り高い生き方ができないものなのでしょうか。これには、京都市民の考え方が大切で、また、今日現在、京都市民はどういう方々によって構成されているのか、その将来はどうかなど、京都市民の問題もおろそかにはできない問題でしょう。
 こうして、21世紀の京都市は、世界的な潮流の中での都市行政に託された課題の追求とともに、我が国における、伝統的文化遺産の継承保全をになう役割について、市民福祉の向上への努力とともに担っていくべき役割があるのではないでしょうか。汲めども尽きぬ、公的業務へのやりがいではないでしょうか。京都から世界へ、世界の潮流を京都へ、です。   2021.1.18)


  第3節 観光5第千万人構想と新景観政策 
 
 21世紀京都市政の最大の政策は、なんといっても「観光5千万人構想」と「新景観政策」でしょう。この二つは、ことの是非はともかくとして、歴史的にも京都市政の大事件なのです。当の政策執行者の意識がどうであったかはともかく。私はそのように認識しています。ただ、幾たびか触れてきましたように、この大きな政策判断について、私は既に京都市政から離れているために体験談としては語ることはできません。それでも、京都市政にとっての巨大な事業なので、最終章の最後に、どのようなものであったかについて、そのごく概要を、過去の経緯とともに、今後の研究のきっかけのために少しく期してみたいと思います。
 観光5千万人構想は、2001年1月、「観光振興推進計画」として発表され、新景観政策は、2007年3月、関係条例が市議会で全会一致で可決されて具体化しました。いずれも桝本市政下です。当時私は、とんでもないことになったものだと驚きながら眺めていたものでした。

  1.文化−観光−産業

 そこで、まず、戦後の観光政策にかかる歩みを振り返ってみたいのですが、その前に、観光というものに対する私なりのスタンスを述べておきたいと思います。
 京都は「古都」と称されますが、奈良と同じ「古都」ではなく、現代都市でもあります。古都でありながら、現代にも生き続ける大都市でもあるのです。ここに、京都の持つ矛盾とまた逆に発展性があるのです。
 ところが、観光といった場合、古都的な文化遺産、特に有名寺社の拝観巡りが中心となってきていますが、それだけではなく、1200年の歴史的蓄積の上に形成されてきた都市そのものを味わうことも昨今では重視されるようになってきたようです。そもそも観光とは、都市や地域の現在における価値ある様相を見ようとするもので、特に首都の場合はそうですね。これは、現代に生きる都市京都の様相を見ることで、そこにこそ、京都の価値があるのではないでしょうか。歴史遺産を内包し、歴史遺産に取り巻かれた都市・京都の生き様です。
 そしてまた、観光は、観光のための観光資源といったものがあるのではなく、特に京都では、歴史的文化遺産が観光財、観光資源なのです。ですから、観光財の維持保全と将来への継承は、文化遺産として保全継承されてきているのです。観光サイドからは、そうした文化遺産を消費している側にあるのです。そしてまた、伝統的な文化遺産、歴史遺産の保全継承は、現実には、各種伝統産業の技術職人さんたちによって担われているのです。ですから、歴史的な文化遺産が維持、継承されてきているのは、「観光」の以前に、伝統産業によってそれが可能となってきていたのです。ですから、近世までは、京都は、観光地であると同時に、日本を代表する工業都市でもあったのです。これが一変するのは、経済の高度成長下で、石油産業を中心とした大規模装置型産業が展開するようになってからです。港も空港も持たない京都の産業は時代から取り残されていくようになります。こうしたことから、大都市でありながら経済力が弱い内陸型の都市として、戦後の京都は、ゆるやかな下降線をたどることになるのです。ここから、文化への政策的重視が生まれることになります。歴史遺産を観光財として消費するのではなく、文化の創造的発展につなげていこうとする考え方です。観光は、京都にあっては文化産業でなければならないのです。
 こうして、観光は、文化遺産の上に成立し、文化遺産は伝統産業によって保全継承され、それらは、文化産業として、発展していくのです。と、このように、文化−観光−産業を一体的に理解する方途を考える必要があるのではないでしょうか。文化産業、観光産業に関わる産業は、今や伝統産業だけではなく、先端産業も現代京都をあらわす産業となってきているのですね。
 前置きはこのぐらいにして、次に進めましょう。

  2.戦後の京都と観光政策

●国際文化観光都市づくり 
 京都の観光政策は、京都市が誕生する明治期から始まります。明治28年(1895)の遷都1100年祭とその前後に、文化遺産を基にした観光政策は意識されてきていたのです。ただし、この時には、内国勧業博覧会がはじめて東京以外で開催されたこともあり、東は名古屋から西は広島にまで至る近隣2府8県の14市町による連合計画を伴うものでした。また、市内の社寺のほとんどは、宝物展と法要を実施していました。
 また、幕末維新の激動の中で、廃仏毀釈運動が展開したのですが、明治政府が安定してくるとともに荒廃する寺院の宝物などを収納、保存・展示する帝国博物館の必要が考えられ、その動きは明治20年代には具体化して、帝国京都博物館は、遷都1100年の時には概ね竣工し、1897年に開設されます。この帝国京都博物館は、後、大正13年(1924)、皇太子御成婚(故昭和天皇)記念で、京都市に下賜され、「恩賜京都博物館」となりますが、戦後の昭和27年(1952)、財政窮乏化の京都市としてはそれを担うことが困難であるということから、再び国に移管し、今日に見る「京都国立博物館」となったのです。さて、現在の私たちはこのことをどう見ればいいのでしょうか。なお、近代日本の形成期にその重要な場となってきた二条城は、1939年、皇紀2600年記念に京都市に移管され、長らく「恩賜元離宮二条城」との石柱が建てられていました。
 このように、戦後の京都市は、経済・財政力の極めて弱い大都市としての再生の道を歩むことになります。そこで取り組まれたのは、「京都国際文化観光都市建設法」という、一都市にのみ適用される特別法の制定でした。1950年に住民投票と国会の議決によって成立しますが、結果としては、必ずしも実効性のあるものとはなりませんでした。国際文化観光都市にふさわしい本格的な都市整備をしたいにも、貧弱な財政事情のもとではままならなかったというのが実際だったのでしょう。そしてまた、当初は「観光都市」としての打ち出しが考えられていたようでしたが、そこに「文化」が加えられることによって「国際文化観光都市」となったようなのです。単なる「観光都市」では、京都にとっての深みが見えてきませんね。
 こうしたことから、本格的な都市整備は今後に待つことにして、あらゆる試みが行われることになります。1956年3月には、京都市はついに財政再建団体に転落しますが、この年の9月には政令指定都市となります。そしてまた、この年には、5月に「京都市市民憲章」を「国際文化観光都市の市民である誇りをもって」定め、京都市交響楽団を創設するほか12月には文化観光施設税を実施し、その財源で、市民の文化ホールとしての京都会館の建設に向かうという、実に多様な活動が進められます。このように、京都市の観光政策は、広く文化政策を展開することでもあったようなのです。
 ここで、京都市と他の都市との文化政策の決定的な違いについて述べなければなりません。それは、文化政策は、元来教育委員会の所管なのです。ですから、文化政策は、市長や知事の執行権限にはないのです。それは、文化政策は、政治権力がかかわることを避ける意図からそうなったのでしょうけれども、地方自治体のレベルにおいては、必ずしもそれが当を得たものともいえないところはあったと考えられます。そこで、高山市長は、1958年4月、教育委員会事務の補助執行の形で、文化政策を市長が教育委員会に代わって執行する形態をとったのです。1980年代の地方の時代に、神奈川県に代表される、施設建設の場合の建設費の1%を文化的装いに使おうという1%文化論が提唱されるのがせいぜいだったのです。それは、文部省が、文化政策を教育委員会の事務から外さなかったからです。しかし、都市が自らの思想をもって都市づくりを進める時、文化政策は市長や知事が直接自らの政策としてこれを進めることは時代の要請にも応えるものとなってきています。京都市では、早い時期に教育委員会の事務の補助執行といういわばある種の便法でもって文化政策を市長自身の事務にしてきたということには、相当な意味があったといえるのではないでしょうか。こうして、京都市の文化政策は、財政の乏しい中にあっても、積極的に進められてきて、今に至る京都市の文化的装いを形成し、また、文化と観光を一体的に進める条件をつくってきたといえるのです。また、文化的な都市には、ギャンブルはふさわしくなく、教育委員会事務の補助執行を実施した年1958年の9月には、宝ヶ池にあった市営の競輪場を廃止しています。当時、競輪場の経営は、自治体の収益活動でもあったのですが、財政窮乏化の中にあってもそれを閉ざす決意は、高山市長のおおいなる見識であったといえるでしょう。ちなみに、蜷川府政では、向日町競輪が以後も長く継続されてきていました。
 さて、本格的な都市整備はできなかったものの、国際文化観光都市にふさわしい京都づくりは進められていきます。まず1956年には、世界からの観光客に恥ずかしくない京都市民でありたいという思いから、市民憲章を定めます。そしてまた、伝統的な文化遺産だけではなく、西洋音楽という新たな文化遺産の創出にむけて、市直営の交響楽団(京響)を設置します。幾たびか廃絶の危機を経ながらも、現在では、コンサートホールという音楽専用のホームグランドをもった京都市の楽団として伝統的文化遺産とは違う新たな文化遺産としての位置を確保しているといえるでしょう。また、1958年には、パリ市と友好都市盟約を締結し、ここから世界に向かっての姉妹都市提携が始まります。ここには、世界に向かおうとする戦後復興の熱い思いと、それにふさわしい京都市民たろうとする市民の心構えが語られているのです。昨今の、無礼、無法なインバウンドの波を見るにつけ、本当に、隔世の感がします。

●呼び込み観光からの決別!
 初期の観光政策が大きな転機を迎えたのは、1971年の「呼び込み観光からの決別」と1973年の「マイカー観光拒否宣言」です。「呼び込み観光からの決別」は、京都観光にかかる有識者による「京都観光会議」の報告書「10年後の京都の観光ビジョン」のサブタイトルです。当時、1955年に770万人であった入洛観光客の数が、1959年に1000万人台に、1965年には1500万人台に、さらに1970年には3千万人台に達するというように急拡大する一方、1960年代からは都市部への人口集中などによる都市過密現象による都市公害も生じるようになり、いわゆる観光公害も問題となるようになってきていたために、そうした諸問題を解決する観光政策のあり方を「10年後のビジョン」の形で、有識者に検討してもらったものなのです。有識者とは、よく知られている交通工学の京都大学教授の天野光三、都市建築の京都大学助教授の上田篤、歴史学の京都大学助教授の上田正昭、社会学の元京都大学助教授の加藤秀俊、観光論の同志社大学専任講師の玉村亜和彦、青年心理学の同志社大学助教授の野辺地正之、それに京阪電鉄や近鉄など鉄道関係の調査部長に市の文化観光局の局長、次長等11名による申し分のないメンバー編成です。約1年の検討結果の上で、観光客数はすでに飽和状態に達し、これ以上の観光客の増加は好ましいものではないとの共通認識の上で、これからの観光政策は、もはや「呼び込み観光」の時代ではなく、呼び込み観光から「決別」し、快適な観光の条件をつくるべき時代に来ているとの趣旨で報告書は作成されていたのです。そして、当面解決しなければならない重要な問題の一つとして、折からのマイカー観光の激増による市民生活と観光への弊害に対して、それを解決するための「マイカー観光拒否宣言」の必要性が提起されたのです。
 ここで注目すべきことは、1970年当時、入洛観光客数が3千万人台に達したことで、京都観光はすでに飽和状態に達している、それ以上の観光客の受け入れは、良好な観光の妨げになるという認識です。ですから、これからの観光政策は、観光客の呼び込みではなく、良好な観光の条件を整備することに転換しなければならないとの考え方です。
 しかし、こうした認識と考え方は、残念ながら行政内部にも、また、観光業界にもほとんど定着することなく、「おいでやす 京都へ」という変わらぬ「呼び込み観光」が今日に至るまで続いてきているのです。以下に、「マイカー観光拒否宣言」の一部を掲載しておきましょう。


       マイカー観光拒否宣言(昭和48年11月5日 京都市)

京都はいま、交通マヒ、高い交通事故率、環境の汚染という「くるま公害」が手におえない状態に入りました。ことに、休日の観光地域は、危機にひんしているといっても過言ではありません。
 「クルマ公害」に、近年急激に増加しているマイカー観光が大きな比重を占めている実態を前にし、京都市民のみなさん、京都を訪ねてこられる全国のみなさんに、「マイカー観光はご遠慮下さい」と訴えます。
 京都は、千年の歴史を持つ古都であり、日本人の心のふるさとであるばかりでなく、わが国を訪れる多くの外国人にとっても、最も愛すべき都市であります。
 われわれ京都市民は、このかけがえのない美しい町と自然、ゆたかな史跡、文化観光資源をそこなうことなく、日本国民の共有財産として、永遠に保存するための努力をする責任と義務を負っています。
 しかし、いま、この京都のまちは、汚染と荒廃の重大な危機にさらされています。このままでは、京都は死んでしまいます。
 われわれ京都市民は、貴重な国民の共有財産を、さらに、市民生活の安寧を守るために、マイカー観光を拒否するものです。
(以下略)
 

●世界文化自由都市宣言
 さて、次のエポックは「世界文化自由都市宣言」です。この宣言自体は、行政上の積み上げからではなく、一部の学識者と舩橋市長の強い思いから出発したもののようです。マイカー観光拒否宣言から5年後の1978年10月15日の自治記念式典で、京都市はこの宣言を世界に向かって発しました。ここで京都市は、単なる観光都市から、世界に開かれた文化都市に飛躍したのです。ただ、桑原武夫京都大学名誉教授をチーフに、梅原猛市立芸術大学学長を牽引者としたそのための懇談会や起草委員会による事態の展開があまりに早かったために、これを京都市の政策としてどう位置付けるかについては、市議会を含めて大きな問題となりました。そして、これを機に、京都市ではまだ策定されてきていなかった、地方自治法に規定されている「自治体の基本構想」(20年構想と10年計画)を策定することとなり、「世界文化自由都市宣言」が、その構想の上位概念となったのは、すでにみてきたとおりです。ただ、この宣言は、市議会の議決を経た京都市の都市理念であるとはいえ、他方で、国会で可決された特別法である「京都国際文化観光都市建設法」との関係もあり、これをどのように関係づけるかについての問題点は残されたままのようです。ですから、京都市では、「国際文化観光都市」と「世界文化自由都市」の二つの重要な都市理念が存在しているのです。 ま、この問題はしばらく置くとして、この宣言による京都市基本構想の策定は、その過程で、平安建都1200年という京都の都市の歴史にとって最大ともいえる歴史的周年事業を迎えることとなったのです。この平安建都1200年記念事業は、京都のあらゆるものを包含した歴史の一大イベントですから、観光も文化も、都市整備も経済復興も、すべてを網羅した京都を挙げての、京都復興策として、取り組まれることになります。
 このようにして、京都市の政策は、観光から、そのシフトを文化や都市の在り方そのものへと発展させてくるのです。1971年には、市街地景観条例が制定されます。また、1974年には、京都の代議士がそのために努力した「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(いわゆる「伝産法」)が制定されます。さらに1980年代に入って、81年に空きかん条例制定への挑戦、83年には古都保存効力税の創設と騒動、そして87年になると世界歴史都市会議が開催されとともに、これが世界の主要歴史都市で継続的開催されることになります。そしてまたこの年には、世界文化自由都市の目玉事業であった国立国際日本文化研究センターの創設誘致が実現します。そして、1994年の平安建都1200記念事業です。この年には「古都京都の文化財」が世界歴史遺産に登録されるのです。さらに、建都1200年記念事業として国に働きかけていた和風迎賓館建設が、国立京都迎賓館として2005年に京都御苑内で完成し、次の関心は、京都の歴史遺産の国家的位置づけに移行していきますが、この方向が、実は観光客5千万人構想とも結びついてくるのです。ということで、次には、観光客5千万人構想の流れとその功罪について述べてみたいと思います、

  3.観光5千万人構想の功罪
 
●観光振興計画と5千万人達成
 京都市が、観光振興計画をたてはじめる頃から、実は、観光と産業とを結びつける考え方が強まってきたのかもわかりません。観光を、文化観光よりも、産業観光として捉える方がいいのではないかという考え方は、以前からあったのですが、建都1200年直後の1995年4月の機構改革で、それまでの文化観光局は、文化市民局と産業観光局に再編され、文化と観光は分離されたのです。田辺市長の時です。そして、その前、建都1200年を2年後に控えた1992年1月に、最初の観光振興政策を策定していました。すなわち、「21世紀(2001年)の京都観光ビジョン−京都市観光基本構想」がそれです。こうした動きが、桝本市政による、観光5千万人構想に至る伏線としてあったといえるでしょう。
 桝本市長は、市長就任の翌年1月早々の年頭の記者会見で、この年、1997年を「観光元年」と位置づけ、4年後の西暦2000年に、観光客を過去最高の4千万人台に達する「飛躍台」にしたいと、その決意を表明します。パンチのきいた市政運営を進めたい桝本市長ならではの打ち出しといえるでしょう。こうして、翌年1998年5月、「市民とのパートナーシップでつくる21世紀の観光都市・京都」を副題とする「京都市観光振興計画」を策定し、その年10月に、京都市と京都市観光協会とで「おこしやす京都委員会」を設立し、その行動を立ち上げます。そして2001年1月に、10年後には観光客数5千万人を達成することを目標とした「京都市観光振興推進計画−おこしやすプラン21」を策定するに至ります。いわゆる観光客5千万人構想です。こうして、5千万人の入洛観光客数は、現実にもその数を達成するのです。それは驚異的ですらありました。
 入洛観光客の数をたどってみましょう。京都市が呼び込み観光からの決別を自らに課そうとしたのが1971年。この年の観光客数は3062万人でした。その10年前の1961年、この年は日本の経済がすでに高度成長期に入っていたときですが、入洛観光客数は1222万人。その3年前の1958年ではまだ1千万人に達していなかったのでした。これが、西暦2000年には4051万人と4千万人台に達します。3千万人に達してから約30年で4千万人に達したのです。ここで、桝本市長は、観光客5千万人構想を打ち出したのですが、それから10年を待たずに8年でそれを達成してしまったのです。すなわち2008年に5021万人となりました。そして、2015年にはなんと5684万人と驚異的な数字となり、それをピークに漸減に転じ、そして2020年には世界的な新型コロナウイルス禍で激減するのです。特に訪日外国人は、各国の入出国制限で、観光庁の調査では、2019年3,188万人であった訪日外国人旅行者が、翌年の2020年には412万人に急減したのです。さて、こうした観光客数の変遷を私たちはどのように受け止め、理解していけばいいのでしょうか。

●達成の要因と弊害
 入洛観光客数の激増は、観光関連業界を活性化させた反面、京都市民の日常生活に対する多くの弊害をもたらせることとなり、改めて、京都の都市のあり方を、その根本から考えさせることになりました。と同時に、もともと分かっていたことなのですが、やはり「観光は水物」だということを思い知らされたのでした。
 考えてみましょう。いかに京都であっても、一都市で観光客の誘致策を懸命に講じても、その効果はしれたものなのです。昨今の観光ブームは、世界的なもので、京都市の誘致運動の結果というよりも、そうした世界の動向と日本政府による入国管理政策によるところが大部分であるといっても過言ではないでしょう。そしてその事情は、今度は一挙に崩壊するのです。
 具体的に見てみましょう。観光は、観光客を誘致する側によってというよりも、観光する側の事情によって変わってくるもので、その主導権は、観光する側、すなわち観光客の側にあるのです。その事情の主たるものは、人びとの所得水準や経済事情であり、また、国家間の関係の良し悪しでしょう。この二つによって基本的に左右されるのです。
 21世紀は実に複雑な時代で、10年代半ばころから20年代にかけて世界的にも、経済の好転から、特にアジアにおける状況から中間層の所得の向上などとともに、国際関係も複雑でありながらも平和が保たれ、これが、海外観光客の世界的な観光ブームを産むことになったのです。ところがです、21世紀が複雑なのは、一方でこうした世界的な経済の好転と平和による観光ブームを生みながら、他方では、局地戦と国家間対立、さらには欧米先進国内部における民族対立ともいえる複雑な動向と、それと関連しながらの、富の一極集中と中産階層の没落ともいえる貧困層の増大など、観光ブームを生んだ事情とは正反対の事情が同時並行的に進行し、今や、対立と遠ざかる平和とでもいうべき時代に突入しつつあるようなのです。観光業界は、儲けのための業界ではなく、こうした世界の人びとの生活向上と平和の構築について、真剣に考えるところから再出発する必要に迫られているのではないでしょうか。

●京都のまちの激変
 では、入洛観光客急増による京都の都心部を中心とした地域の急変の実際を私自身の体験から、少し述べてみたいと思います。
 観光客の急増を感じるようになったのは、数年前の2015年頃だったでしょうか。それほど以前のことではありません。近年の京都のまちは、烏丸通で見てみますと、四条通辺りから北と、京都駅周辺とに分かれていて、京都駅から四条通まではせいぜい2キロメートル程度で、ゆっくり歩いても30分もあれば十分なのに、京都の人たちで京都駅から四条通まで歩く人はほとんどありません。国道1号線である五条通で、京都のまちは南北に分断されているのです。それと、京都では、都心部とJR京都駅とは元々離れているとの意識が強かったのもこうしたことに作用していたのでしょう。ところが、この様子が激変してきたのです。烏丸通を東本願寺から五条通に、さらに四条通に向かって歩く人の波ができるようになったのです。と同時に、京都駅北辺や東本願寺の東辺一体には古い旅籠風の小さな旅館がたくさんあるのですが、これらが新しい旅館に改装されるようになります。ですから、今や駅周辺の雰囲気はすっかり変わってきました。これもここ数年のことです。
 それから、ゲストハウスと簡易旅館、民泊の突如としての出現です。ゲストハウスは10年ほど前からでしょうか、東洞院道両側の概ね六条通りから五条通の間にあるわが町内にはじめてゲストハウスが誕生したのは10年ほど前だったでしょうか。困ったものだと思っていたのですが、それが数年前ごろから民泊が出現し、今やわが町内にもその類のものは10軒程度にはなっているのでしょうか。半径100mの範囲で見てみると、数十軒は下らないように思われます。烏丸通から西側になれば、旧六条通などは、まさに民泊通りのような様相を呈し、そこまで来るとそれはそれで一つの在り方かなとも思わてるのです。しかし、伝統的な京都のまちの在り方からすると、この急激な変貌は、京都の危機そのものといえるのです。こうした状況は、京都駅以北、五条通以南、西は西洞院通、東は間之町の間で著しい感じです。
 ここでは、今まで主として地元住民が中心であった生活道路が、無文別な旅行者による通行によって様相は一変しています。あたかも地元住民がよそ者で、主客転倒の感じです。最初の頃こそ、私も親切にしてあげなければという思いがあったのですが、いかにも我が物顔で、地元に敬意を持とうとすることのない様子が強く、関わらない方がいい、という状態になっていました。たまに、眼があったときに軽く会釈を交わす旅行者と遭遇した時はホットします。残念なことに、アジア系の旅行者にはそうした人はほとんどありませんでした。これは、経済の高度成長期に、わが国の海外旅行者、この時には農協の団体旅行者が欧米旅行で無文別な行動からひんしゅくを買っていたのを思い起こさせました。国際交流というものは、やはりこういう状況を経てだんだんに成熟していくものなのでしょうね。最も許せないのは、地元市民の生活の場そのものの家の中まで覗こうとする旅行者が結構あったことです。観光施設と個人の生活の場との違いがわからないか、ひょっとして、個人生活自体を観光資源と考えていたのかもわかりません。
 戦後、憧れのパリとの姉妹都市盟約を締結して、姉妹都市交流を開始したころの京都市では、「わたくしたち京都市民は,旅行者をあたたかくむかえましょう」との市民憲章を制定しました。この市民憲章は、京都市を世界に開いていくにあたって、世界に恥ずかしくない市民となり、その自覚の上で、世界からの旅行者を「あたたかくむかえよう」というものなのです。ところがこの数年の大量の旅行者は、そうした「あたたかくむかえる」ことなどとんでもないと考えざるを得ない方々が多く、また、いつ犯罪を犯すかもわからない様相の人びともいたりして、海外からの旅行者を「あたたかくむかえる」よりは、旅行者に対して「防御」の姿勢をとらざるを得ないことにもなりつつあったのです。ですから、「コロナ禍」による旅行者の急減は、観光業には打撃であったのですが、そこに居住する生活者にとっては、再び平穏な日常生活が戻ってきたことになったのです。けれども、その日常生活の空間である町内には、休業状態の民宿や簡易旅館、それらを建設するために買収された家屋が撤去されたままそのための施設が建設されることのない空地、空き家のままなど、市民の大切なコミュニティは、もはや穴だらけで、良好なはずであった生活の場は今後将来どうなっていくのでしょうか。それというのも、民家を買い取り、そこに民泊や簡易旅館、ゲストハウスを建設する事業者のほとんどは、大阪や東京方面の小規模なファンドで、その出資者はその方面のサラリーマンであったりするのです。いずれにしても、地元京都の資本ではなく、急激な観光客の増加に群がってくる資本は、目ざとい他地域からのもので、京都の文化を云々するようなものでないばかりか、京都を稼ぎの場としてたかってくるハイエナのようなものなのです。1980年代後半の土地買い占めブームの傷跡は、今なお京都には残っていますが、その時以上にこの数年の京都は、関東や大阪に食いつくされようとしているようにみられるのです。これは、ホテルの建設でも顕著で、歴史都市としての京都の様相を変貌させるものといえます。少し具体的に見てみましょう。民家が買収、解体され、新たな建設にあたって建築確認書が掲示される。施主は大阪、設計も大阪、工事施行は和歌山といった企業で、地元としても取り付く島がない。しかも、建築確認は今日では民間企業に委託されているのです。型通りの地元説明会はあっても、施主そのものは姿を現さないのです。こうした様相の民泊やゲストハウス、簡易旅館が驚くべきスピードで、京都市内に建設され、開業されていったのです。これはもう、京都観光に付け込んだ京都破壊以外の何物でもないでしょう。地元京都の役割は、民家の売り手として登場するのみです。実はここにも京都の現状の問題があったのです。すなわち、民家はなぜ売られるのかという、京都の事情です。京都の都心部は、衰退しつつあったのです

●崩壊した観光からの教訓
 2020年代後半は、実に衝撃的な時代でした。観光5千万人構想が実現したと思った瞬間、あっという間に5700万人に近づきました。そしてこれをピークに漸減しますが、外国人宿泊者数はむしろ増加し、2018年には100万人近く急増して約450万人に達したのです。こうしたことから、国内の観光客は、外国人によって荒らされている京都を敬遠するようになりました。
 こうした観光客、なかんずく外国人観光客すなわちインバウンドの急増は、先にも述べた世界的な経済発展による世界的な観光ブームとそれに呼応した日本の積極的な観光客増加政策が合致したからです。国の入国管理政策という、観光客呼び込みの水道の蛇口を広げたのです。しかも備えなしに。いかに経済政策が重要だとしても、国内の備えなしにインバウンドを一気に拡大すればどうなるか、その成行きは明らかです。東洋の島国で、世界との交流にまだ慣れていない一般国民にとって、急増するインバウンドとの関係は、大変難しいものなのです。国際化は、言うは易く、行い、定着させるのは難しいのです。徐々に進行させるべきものなのでしょう。したがって、こうした21世紀初頭の京都市と政府の観光政策は、多くの重要な教訓を身をもって示してくれることとなりました。
 すなはち、・観光は、極めて他動的なものだということ、・観光は、目的ではなく結果であるということ、・観光とは、その土地の文化を見てもらい交流するものであるということ ・決して儲け至上主義に走ってはならないということ、などでしょう。

●再び京都本来の観光政策に
 このようにみてくると、産業観光というのは、京都の観光政策としては必ずしもふさわしいものとはいえないのではないでしょうか。
 京都市の観光政策をふり返ってみると、国際文化観光都市=姉妹都市盟約→世界文化自由都市=世界歴史都市会議→国家戦略としての京都創生策、そして世界との儀礼的お付き合いから国際化の推進、さらに内なる国際化へと発展させてきました。昨今の京都市の観光対策は、激しい観光の波に飲み込まれたこともあったからでしょうけれども、産業観光に傾斜し過ぎたのではないでしょうか。やはり京都は、文化観光に回帰するべきではないでしょうか。1971年の京都観光会議による「呼び込み観光からの決別」を今一度思い起こし、世界文化自由都市宣言から「歴史都市・京都の創生」に至る京都市政運営の基調を大切にすることが望まれているのではないでしょうか。
 さいわい、近く文化庁の京都移転が実現します。文化庁とその行政は、あくまで国政であって、京都の受益を考えるべきものではなく、むしろ立地自治体として国政に協力することが大切になるのではないでしょうか。京都が、自分に都合のいい文化庁にしようとするのではなく、全国各地の文化行政の充実のために、京都として可能な協力をすることが、文化庁京都移転が全国各地の期待に応えることになるのではないでしょうか。そしてそのことが、京都の将来にとって重要な意味をもってくるものと考えられるのです。呼び込み観光ではなく、根強く地道な京都観光が永続していく条件となってくるのです。

●衰退過程の京都とその再生に向かって
 世界文化自由都市宣言にしても、建都1200年記念事業にしても、また、京都創生戦略にしても、その根底には、京都の地盤沈下や衰退に対するる危機意識が流れていました。そしてまた、その克服は、京都がわが国を代表する歴史的文化遺産に根差したものだったのは間違いのないところなのです。観光は、下手をすれば、その歴史的文化遺産を食いつぶすことになりかねないのです。観光を自己目的化するのではなく、文化資産の継承とそれに基づく新たな再生に務めることが、結果としての観光をもたらすのではないでしょうか。
 これには、これからしなければならない多くの仕事があります。
 まず最初に、都心部家屋の実態調査です。これは同時に、どのような人びとが住んでいるのかの調査でもあります。京都市民といっても、伝統的な京都人もあれば、新住民、サラリーマンなど多様です。伝統的な京都人といえば、町衆→町民と続き、伝統的な町自治の担い手であり、これらの人々は、家業を担いながら京都の文化を支えてきた方々です。かっては、徒歩による生活圏内には、日常生活にかかる食料品や生活雑貨をはじめとする多様な店舗があり、それらの人々もまた京都の文化を支えてきたのですが、そうした多様な店舗は減少し、空き家となり、買い取られて今般の民泊やゲストハウスなどとなって、町コミュニティ荒廃への要因になりつつあるのです。こうした、京都の都心部における実態把握は、今や、差し迫って必要になってきているのです。
 ですから、次の重要な課題は、京都の伝統的コミュニティの実態把握です。すでに事実上その機能をもたない町内も結構多いのではないでしょうか。少なくとも、役員の成りての確保に苦労している町は多いものと思われます。
 そして、次には、京都の伝統的な文化を担っている人びとの実態です。かつての京都では、各家庭の子供たちは、男女を問わず、お稽古事を習ってきていたのですが、それは今やどうなっているのでしょうか。お茶やお華はもちろんのこと、踊りや清元などに加えて、伝統的な祭りや行事を担っているところでは、さらにそれにかかわる稽古事があったので、それらが、他では見られない、京都独特の伝統文化の基盤を形成していたのです。したがって、これらは、京都の祭りや伝統行事の担い手の実態調査にもかかわってきます。
 京都の民泊や旅館、ホテルの建設ラッシュは、世界的な状況や政府、日銀の金融緩和政策によるところが大きいとはいえ、既存の京都の衰退がはじまっているからこそ激化したといえるのです。これに対して、京都自身に内在している潜在的な都市再生のエネルギーの発現を生みだす必要があるのです。他都市に浸食される京都ではなく、京都人自身による京都の再生が望まれるのです。
 こうした時期に遭遇した文化庁の京都移転は、先にも述べた通り、京都にとっては極めて重要な転機をもたらせくれることになりそうなのです。これは、文化庁京都移転によって、受益することではなく、京都に立地した文化庁への京都ならではの協力をすることが、再生を図る京都にとって有意義であるからです。

   4.新景観政策の衝撃

●京都市の景観政策の流れ
 それは実に衝撃的なものでした。京都市内中心部の高さ規制について、幹線道路沿いを45m、その他を15mとするもので、わが国の通常の大都市では考えられないことです。2007年3月のことです。市長は桝本市長でした。そして今、これを書いているさなか、2021年3月30日の京都新聞に、市都市計画審議会が、この高さ規制の「特例措置」を民間の施設にまで広げることを承認したとの記事がありました。ある種、ついにくるところまで来た、と思いました。そして今の市長は、門川市長。桝本市長の後継者で、前職は教育長です。ただし、タイプは全く別です。
 この、戦後70年近くの京都市の歩みを、私の体験談のようなものとして記してきた本稿の締めくくりに、この京都百年の大計に関わる事業を、そうした時間の流れの中で自然に取り上げることができたのも何かの縁なのでしょうか。心して、最終章を取りまとめることにいたしましょう。

 さて、京都観光には、いうまでもなく景観がきわめて重要な意味をもっています。山紫水明の自然環境に恵まれた立地の中に、古代からの都市景観を残し、近代都市でありながら歴史遺産をいまなお保全継承して生きているのです。京都の景観は、そこにあります。ですから、明治の近代化以降も京都は風致景観を大切にしてきたといえるでしょう。
 ただ、そうはいいながらも、建造物の高さが問題となってくるのは、そう古い話ではありませんが。
 それから、このあたりのこと、すなわち都市計画にかかることに関しては、元京都市技監であった望月さんに教えてもらったことを思いだしながら記すことにしましょう。同氏からは都市計画や建築に関する歩みなど、多くのことを学ばせてもらいました。
 戦前の都市計画は、1988年(明治21年)に、東京市区改正条例という名称の東京にのみ適用される都市計画法が制定されたのを最初とします。この時期は、日本の近代法制が順次整備されてくる時期で、翌年の1889年2月には帝国憲法が制定され、4月には市制町村制が施行されて近代都市としての京都市制が成立します。そして都市計画も、東京市区改正を準用することになりますが、1918年に、都市計画法が制定され、これが大都市に適用されます。ただこの当時の都市計画は、道路や鉄道、区画整理など都市基盤の整備が中心で、建物の高さ規制などは基本的には問題となっていなかったのです。それは、高層建築はまだだったからです。1924年になって、用途地区の指定がなされるようになり、高さ制限はそこで行われることになるのですが、住居地域は20m、その他は31mでしたが、それは、前年の関東大震災の教訓から導き出されたものだということでした。しかし、建物の高度規制が問題となってくるのは、戦後もごく近年のことだったのですね。それは、高層ビルや超高層ビルが建つのには、それだけの建築技術の発達が必要だったからなのですね。
 建築物は、明治時代の近代建築物かおおむねレンガ造りで、高層ビルはありません。大正から昭和にかけてはコンクリートの建物が立ち始めるものの、高い建物は百貨店ぐらいで、高層ビルが林立するというところまではいきません。
 そこで、高層建築物の技術上の問題に触れますと、概ね45mまでが高層建築物、それ以上が超高層建築物で、45mまでの場合には建物は剛構造、それ以上は柔構造でなけれがなりません。すなわち、鉄筋コンクリートは剛構造で、耐震性は弱く、45m以上は鉄骨造りによる柔構造が必要となるのです。京都の場合には、こうした建築技術上の問題に加えて、景観上の問題が加わってくるのですね。それは、他の大都市には見られないことです。こうしたことから、建物の高さ問題は、以前はあまり問題とならなかったのです。また、高さ規制は、他の大都市ではあまり問題化してきておらず、これが他都市と京都市との大きく違うところなのでしょう。
 さて、1950年に戦後の建築基準法が制定されますが、用途地域は戦前の考え方を継続しています。1964年には京都タワー建設に対するタワー論争が起こりますが、タワーそのものは建築物ではなく、構造物なのです。1966年には古都保存法が制定され、歴史的風土特別保存地区が指定され、歴史的な風土景観が確保されます。しかし、なんといっても京都の特徴と先進性は、市街地景観にあります。そして、その主軸となるのが高さ規制でしょう。この高さ規制は、1970年代に入ってからということになります。
 1970年 月、京都市は風致審議会に、京都市の景観行政のあり方「市街地における景観の保全・整備対策特に当面必要とされる施策について」を諮問、翌年6月にその答申を得ます。そして、その年の11月に、市民参加によるシンポジウム「京都の景観はみんなのもの」を開催し、長年の懸案に着手し、市民の手による景観行政を進めることになります。このうち、祗園新橋や清水産寧坂などの特別保全修景地区の制度は、1975年の文化財保護法の改正により同法の伝統的建造物群保存地区に取り込まれます。
 この頃、都市の拡大発展などにより、都市計画の制度も大きく変化していきます。
 1968年6月に制定された新都市計画法に基づく市街化区域と市街化調整区域の線引きを、京都市においても1971年12月に実施します。1973年12月には、新用途地域の指定を行いますが、この時に京都市では、45mの高度制限を導入しました。実は、この段階の新用途地域では、第1種住居専用地域以外の高さ制限は廃止されたのです。それで高さ制限に関しては、建築基準法上の問題となったのです。京都市以外の他の大都市では、高さ制限は導入していませんでした。一般的には、都市の発展の上で、建物の高さそのものは問題となっていなかったのですね。こうしたことから、京都市が、1988年4月に実施した総合設計制度は、公共空地を設けることにより高さ制限をプラスするものだったのですが、これは、他都市の場合には、高さ制限は元々ないために、容積率をアップするものであったのです。後に京都ホテルや京都駅舎の建て替えで問題となった総合設計制度は、京都独自の市街地景観対策があるが故の問題でした。
 なお、高さ規制については、1995年6月に、用途地域の指定換えで住宅地を従来の3種類から7種類に細分化され、新たに15mの高さ規制を加えることとなり、京都市では、10m、15m、20m、31m、45mの高さ規制となり、こうした状況の上に、新景観政策が実行されることとなったのです。

●新景観政策
 先にも少しふれたように、新景観政策の打ち出しは、これまでの京都市の景観政策の積み上げの上になされてきたものとはいえ、実に衝撃的なものでした。それは、都心部の建物の高さ制限をさらに大胆に抑えるというものだったからです。
 新景観政策は、歴史都市京都の優れた景観の保全・再生・創造に向けて、50年後、100年後にも「光り輝く」京都の景観をつくろうというもので、・建物の高さ・デザイン・眺望景観や借景・屋外広告物・歴史的町並みの保全という5つの柱とそれに対する支援制度でもって構成されていて、それまでの京都の景観行政の総合化をはかったものといえます。とりわけ衝撃的だったのは、建物の高さ規制でした。
 少し経過をたどってみましょう。このような大胆な景観政策をたてるには、二つの大きな流れがありました。一つは、京都市の景観行政の流れであり、今一つは、世界文化自由都市宣言にはじまり、京都を語る会を経て、国家戦略としての京都創生に至る流れです。とりわけ、国家戦略としての京都創生策は、それを国家的な課題として政府に理解を促すものであるだけに、京都自身もそのための自らの努力にを示す必要に迫られたという事情があるのです。ということを前置きとして、多少の経過をたどってみましょう。
 2005年7月、前年に市長三選を果たした桝本市長は、定例記者会見で、歴史都市・京都にふさわしい景観の保全策を検討する「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」の設置を発表し、「市中心部の建築物の高さについては、思い切った切り下げをも検討したい」と述べ、ここから新景観政策は始まります。ちなみに、桝本市長は、2000年2月の再選時の選挙公約には、次の1000年を見すえた「千年新都」の創造を、また直前の2004年2月の選挙公約には「国家戦略による京都創生の実現」を掲げていました。そしてまた、その前の、1999年5月の市と京都仏教会との和解によって、以後の高層化は事実上ないという課題を担うことになったことも、或いはこうした流れを産んでいたのかもわかりません。さらにまた、あとで述べますが、「国家戦略としての京都創生策」の国への働き掛けもあって、国では、2004年6月に景観法が制定され、1年後に全面施行されます。こうした諸々の条件と流れの中で設置された審議会は、2006年3月に中間報告を出したうえで、11月に最終答申を市長に提出するに至ります。、審議会の会長は、西島安則京都大学元総長で、委員には、川崎清京都大学名誉教授や田坪良次京都市立大学名誉教授、村田 純一 京都商工会議所会頭に、服飾評論家の市田ひろみなど各界各層に市民公募委員を加えた20名で構成されていました。

 取り組みの主な歩みをたどりますと別掲の通りです。この新景観政策の取組に対しては、当然のことながら、強い賛成意見とともに、激しい反対運動が起こりました。また、慎重を期すべしという意見もありました。賛成・推進派は、京都商工会議所会頭や経済同友会、「京滋マンション管理対策協議会」や姉小路界隈を考える会など地域の景観保護団体などで、中には高さ制限の特例許可制度は廃止するべきだという意見もありました。京都仏教会も当然その中にあります。
 これに対して、反対意見は、宅地建物取引業協会などの不動産業界や屋外広告物業界に加えて屋外広告物業界が強い反対を行います。とりわけ、屋外広告物業界は、まさに死活問題であったといえるでしょう。さらに、マンション住民らによる「暮らしやすい京都の住環境を考える会」も、いずれ起こるであろう建替え時の問題を考えればこれまた大変な問題であったことによるからです。「「田の字」規制を考える市民の会」では、その市民集会で、同規模の再建が不可能であること、財産権の制限であることなどの深刻な問題が議論されていました。しかし、桝本市長を代表とし、国土交通省から出向してきていた毛利信二副市長を担当副市長としていた当時の指導部には揺るぎはなかったようでした。修正するべきところは柔軟に修正して、原則を貫いたのは、見ていてもよくも頑張り通したものだと感心したものでした。この市長、副市長のキャラクターが大きくものをいったといえるのではないでしょうか。諸種の見方や意見はあるでしょうが、これだけの大胆な政策は、現代京都市政ではめったに見られるものではありません。逆説的にいえば、深部をわかっていないから出来たともいえるのでしょうか。まさに、修飾語ではなく、百年の大計なのです。
 そしてこれは今、十年を経たということで見直され、規制が緩和されようとしているのです。その是非やいかん!という思いで遠くから見ています。それは、京都のためなのか、京都以外の資本の外圧のためなのか、本当の京都市民はいまや少数派なのか、といったことを考えつつその成行きを見つめています。練り返しますが、この新景観政策に関しては、私自身の経験はありませんので、その評価に関わる意見は述べることはできません、ただ、「どえらいことをやったものだ」という感嘆を述べるのみです。

 さて、新景観政策の五本柱、市議会で全会一致可決された6つの条例は、これも別掲の通りです。

  新景観政策の主な取り組み経過   

2005.7.25::京都市、「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」を設置し、「時を超え光り輝く京都の景観づくり〜歴史都市・京都にふさわしい京都の景観のあり方〜」を諮問。
2005.11.12::市、景観保全で実施したアンケート調査の結果をまとめ発表
2005.12.22::「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」、中間とりまとめの骨子案を発表し、市民意見を募集
2006.2.19::京都市など、「景観シンポジウム−時を超え光り輝く京都の景観づくりに向けて」を開催  基調講演:河合隼雄文化庁長官
2006.3.27::「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」、緊急に取り組むべき施策を示した「中間報告」を市長に提出  ・「田の字地区」の高さの限度を10回程度に引下げ ・建物の高さやデザインの規制、誘導 ・歴史的建造物の保全と活用による都市景観の形成 ・屋外広告物や駐輪、駐車対策の強化
2006.4.19::桝本市長、2007年度から市街化区域全域で、建物の高さ規制を見直すことを記者会見で明らかにする  都心部幹線道路沿いの田の字地区:最高45m→31mに、それ以外の「職住共存地区」:31m→15mに
2006.6.26::「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」、市民から寄せられた保全すべき「眺望景観」157件と、守りたい借景114件を公表
2006.7.22::市と景観・まちづくりセンターなど、シンポジウム「京都の土地景観の創造的再生」を開催
2006.11.14::「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」、眺望景観と借景の考え方をまとめた最終答申案を市長に提出
2006.12.25::市都市計画審議会、市の報告を受けて新景観政策を議論
2006.12.28::山田府知事、2007年度から導入予定の市の高さ規制について、「全面的に支持する」との考え方を表明
2007.1.30::桝本市長、新景観政策の修正案を発表。併せて、建替え助成制度の創設を明らかにする
2007.3.13::2月定例市議会で、新景観政策の関連6議案、全会一致で可決成立 付帯決議「新たな景観政策の推進に関する決議」
2007.3.19::市都市計画審議会、新景観政策を原案通り承認
2007.4.16::市風致審議会、新景観政策に伴う規制強化等を原案通り承認
2007.7.2::新景観政策の導入に伴い、建築専門職員17人を採用
2007.7.31::市、景観政策の推進で、京都の建築設計に関わる関係5団体や学識経験者による「市景観デザイン協議会」を設置するとともに、「市景観政策アドバイザー制度」を創設して3名の学識者に委嘱(8/1) 協議会では、市街地類型76地域等に係るデザイン基準の今後のあり方の調査・検討などを行う
2007.8.23::市、新景観政策の実施に合わせて、京町家の耐震診断と耐震改修助成、分譲マンションの耐震診断助成、新景観政策による「既存不適格」マンションに対する建替え融資などを決める
2007.9.1::新景観政策施行
2007.10.15::新景観政策の規制緩和の特例を審議する「京都市景観審査会」を設置 会長:川崎清京都大学名誉教授
2008.2.25::門川大作市長就任
2008.3.7::市景観審査会、高さ規制を約10m超える京都大学付属病院新病棟の特例申請を、規制緩和の特例第1号として承認する 高さ31mに  2010.5:新病棟「積貞棟」完成
2008.12.9::市、8名の委員による「景観政策検証システム研究会」を設置し、新景観政策について、経済や文化など多角的に影響や効果を検証する仕組みを検討 座長:青山吉隆京都大学名誉教授
2012.3.24::新景観政策の影響を検証する「市民会議」発足 建築設計、不動産、観光関連団体、景観づくりに取り組む地域の代表、学識者、市民公募委員等約30名で構成
2018.5.7::市、レポート集「新景観政策10年とこれから」を公開
2018.7.25::市、「新景観政策の更なる進化検討委員会」を設置し、新景観政策の見直しを検討 委員長:門内照行京都大学名誉教授
2019.1.10::「新景観政策の更なる進化」に対する市民意見募集
2019.4.18::「新景観政策の更なる進化検討委員会」、門川市長に見直し案を答申 「特例許可制度」を地域ごとに認める 田の字地区には認めない 
  新景観政策 5つの柱

1.建物の高さ
高度地区の高さの規定は 10m、12m、15m、20m、25m、31m の6段階に設定
  都心部の幹線道路沿道等は 従来の45mから31mに
  旧市街地等は 15mに
良好な市街地の環境や都市機能の整備を図る建築計画等 高さの規定を超える特例許可制度を設ける
2.建物等のデザイン
  風致地区や景観地区、建造物修景地区等を指定し、地域の特性に合わせたデザイン基準を定める
3.眺望景観や借景
  眺望景観創生条例を制定 38カ所の優れた眺望景観・借景を保全
4.屋外広告物
  建物のデザイン等と一体をなして、都市景観を形成する  
市内全域で禁止 屋上看板や点滅式照明・可動式証明
  屋外広告物の表示位置、面積、形態、デザイン等 基準を定める
5.歴史的な街並み
  京都の伝統的な建築様式と生活文化を伝える京町家は、歴史都市・京都の景観の基盤を構成するもの  伝統的な建造物の外観の修理・修景などに対する助成により、歴史的町並みのの保全・再生を図る
6.支援制度
  新景観政策の展開に併せて、各種支援制度を設ける
  分譲マンションの建替え・大規模修繕 アドバイザー派遣、耐震診断助成、建替え融資など
  京町家支援 耐震診断士派遣 耐震改修助成など

   新景観政策関係条例
2007.3.13 2月定例市議会で全会一致で可決された新景観政策にかかる提案6条例
・京都市眺望景観創生条例
・京都都市計画(京都国際文化観光都市建設計画)高度地区の計画書の規定による特例許可手続に関する条例
・京都市自然風景保全条例の一部を改正する条例
・京都市風致地区条例の一部を改正する条例
・京都市市街地景観整備条例の一部を改正する条例
・京都市屋外広告物等に関する条例の一部を改正する条例 

●国家戦略としての京都創生
 さて、これだけの大胆な新景観政策を実行したのには、やはりそれだけの理由がるはずでしょう。それには、やはり先にも触れてきたとおり、世界文化自由都市宣言以来の京都市政運営の基調があります。それが、この段階では、「国家戦略としての京都創生策」として実行されていたのですね。新景観政策は、大きくはこの政策の中に含まれるものといえるのではないでしょうか。ということで、ここでは、「国家戦略としての京都創生」の進行について少し触れておくべきでしょう。

 京都市を国家戦略の中に位置付けるという発想は、なかなか自治体担当者からは出てこない発想ですね。しかし、考えてみれば、京都市を国家戦略の中に位置付けるという手法は、実は、世界文化自由都市宣言の中に内包されていたのです。宣言に基づく第1次提案では、国立の国際日本文化研究センターの創設誘致が成功しており、しかもその初代所長には、その設立に全力投球していた梅原猛氏が就任して、その目的は達成されており、第2次提案では、国立の京都歴史都市博物館の創設がうたわれていたのです。そしてまた、1998年4月に組織された、梅原猛氏を座長とする「京都を語る会」でも、同氏の狙いは国立の歴史博物館構想の実現にあったのですが、この時には、京都全体を、改めて国への要請行動へと向けていくための議論の場であったのでしょう。ちょうど市長に当選して間もなくの桝本市長と、そのあたりの呼吸がうまくかみ合っていた感がありました。そうした経過の上に、いよいよ「国家戦略としての京都創生」への取り組みが具体化していくことになったのです。ふり返ってみると、世界文化自由都市宣言からこの時点までの京都市政の進行は、実に系統的に進んできたことが読み取れますね。そして、これは同時に、観光客5千万人構想を打ち出し、京都を活性化しようとしていた桝本市長の市政運営にもかなっていて、新景観政策とも連携していたといえるでしょう。この、「国家戦略としての京都創生」は、国と京都市、さらには世界における京都市を、世界文化自由都市宣言のような高邁な理念としてではなく、具体的にわかりやすく、かつ明確に示したものであったといえ、実際、多くの国会議員の賛同も得ていたのです。ただ、そうは言いながらも、国政上いかに京都が重要であったとしても、制度的には1政令指定都市に過ぎない京都市にのみ特別な施策を国家として行うことは簡単なことではありません。そのあたりの認識と行動には、まだまだ甘さがあったといえるでしょう。梅原氏にすれば、国立国際日本文化研究センターの成功体験が、その自信となっていたのでしょうが・・・・。というようなことを前置きとして、若干の経過をたどることにしましょう。
 20世紀末から21世紀初頭にかけて、第2次の京都市基本構想(グランドビジョン)や基本計画を策定し、観光客5千万人構想などを打ち出し、市長による財政非常事態宣言を発するなど多くの懸案事案を進めてきた京都市は、国家支援を仰ぐべき在り方を検討し、国家財産としての京都市の位置づけと問題整理をはかったうえで、学識者による検討と問題整理を願うことになったのです。そこでは、当然、「京都を語る会」の座長であった梅原猛国際日本文化研究センター顧問とも相談の上であったのは当然でしょう。そして、国家戦略としての京都の位置づけをはかったうえでの政府への提案、要請が進められることになるのです。
 まず、2003年5月22日、梅原氏を座長とする有識者7人による「国家財産としての京都創生懇談会」が設置され、その初会合で、国への提言案をまとめることとなり、6月5日にその内容をまとめ、6月17日に、市長に提出します。その提言は、京都創生懇談会座長・梅原猛名でまとめられています。その要旨はは次のようなものです。
 〔懇談会の主な提言内容〕
  ▷著名人で百人委員会のような応援団を結成する
  ▷「国家戦略として京都を守ること」は、日本のため、世界人類のためである
  ▷緊切な事態にある京都を保全・再生・創造し、活用・発信するための提案
      ・京都創生基金を創設する  ・「歴史都市再生法」を制定する
      ・電線類の集中的な地中化  ・京都歴史博物館の建設
      ・観光立国の戦略拠点化
 そして、同年10月24日には、シンポジウム「歴史都市・京都創生シンポジウム」を東京で開催し、そこで著名人による「京都創生百人委員会」を発足させ、その世話人会で、委員会代表に梅原猛氏を選出します。なかなかの行動力だといえますね。
 そこで京都市自身も、翌2004年8月1日に、庁内組織として「京都創生プロジェクトチーム」を発足させ、庁内における国に対する具体的提案を一本化し、「京都創生策(仮称)まとめる作業に着手、10月13日に、「歴史都市京都再生特別措置法(仮称)」の制定などを訴えた「歴史都市・京都創生策(案)」をまとめ、公表します。そしてその翌日、機運を盛り上げるためのシンポジウム「京都創生推進フォーラム」を、祗園甲部歌舞練場で開催します。テーマは「世界における京都−京都に見る日本的感性」です。
 翌2005年4月1日には、市は総合企画局に京都創生推進室を新設し、その執行体制を整えます。その翌月の5月20日には自民、公明両党国会議員による、歴史都市再生のための超党派による議員連盟が結成され、また6月16日には、民主党国会議員による「国家戦略としての京都創生をはじめとする歴史都市再生議員連盟が結成されるなど、国会での機運も大きく盛り上がってきました。そうした最中の6月13日、村田純一京都商工会議所会頭を代表者とする「京都創生推進フォーラム」が設立されます。副代表には桝本市長、顧問には山田啓二府知事が就任するなど、京都を挙げての体制も整ってきます。
7月7日には、市が大学コンソーシアム京都も設置した政策課題研究会(座長・橋爪紳也大阪市立大学助教授)に委託していた京都創生に関する研究報告書「文化と観光の連携による京都の文化を生かす国の施策の研究報告書」がまとまります。この研究報告書は、・なぜ京都から「文化」なのか と問うことから始まり、国家戦略として、次の三つの課題を提案しています。一つは、「日本CI(カルチャー・アイデンティティー)の策定による「日本」のブランド化、今一つは、「「和」の伝統文化継承に向けた戦略立案」、そして三つ目に、国営文化施設「日本文化の家」(仮称)の創設」です。そして最後の、「提案実現に向けたの検討体制」で、従来の文化、観光行政の枠組みを超えた関係省庁の
横断的、多方面からの体制構築の必要性を指摘しています。特に三つ目の、「日本文化の家」(仮称)では、「京都歴史博物館」(仮称)、伝統芸能センター」、外国人を対象とした「文化学習体験プログラム」の三つの機能を包含した「日本文化の家」(仮称)の整備を提言しています。
 こうして京都市は、2006年4月1日、文化芸術都市推進室を新設し、文化芸術都市・京都創生に向けた体制整備を行いました。そして、8月22日に、政府の国土形成計画策定に対し、文化を地域資源として再認識するなど、文化を多面的に位置付けること要請する「新しい国土づくりに関する京都からの提言」を、北川一雄国土交通相に提出します。
す。
 そして、2006年11月10日には、京都市は、これまでの取り組みの上に立って、より具体化した「歴史都市・京都創生策U(案)」を作成し、政府への要望60項目、市の独自施策78項目がまとめられています。そしてその中には、景観編において、「全市的に高さの最高限度を引き下げる」という京都市自身の取り組みも明記されています。
 このような流れの中で、2005年4月には、京都迎賓館が京都御苑内で開館し、6月には、国の景観3法(都市緑地法、屋外広告物法など)が全面施行され、2007年1月には、文化庁の「関西元気文化圏推進・連携支援室」が京都国立博物館内に設置され、京都市では、その3月に新景観政策にかかる6条例が市議会で可決され、9月に全面施行されます。
 以上のような流れの上で、桝本市政は2008年2月に門川市政にバトンタッチしていきます。(完)



「あとがき」に代えて

     >>京都の有識者たち<<

    ・補論 文化庁の京都全面移転に際して



 この想い出語りを思い立ったのは、2016年の春ごろだったでしょうか。当時の自分の感覚では、2年もあれば十分だろうと思って着手したのですが、すでに6年になろうとしています。こうして私自身、すっかり歳をとってしまいました。考えてみれば、着手する時点で、すでに十分歳を取っていたのですね。ただ、京都市政に対する思いは、二十歳の時も今もほとんど違いがないほど、進歩がないのです。そのあたりが、本稿を記そうとした動機になっているのかな、と思ったりしています。
 考えてみれば、個別事件には終わりがあっても、歴史そのものには終わりはありません。ですから、本稿も、ほぼ1955年ごろから初めて、20010年ごろまでとなっているのですが、必ずしも明確な終わり方をしているものではありません。本稿は、あくまで、時間軸ではじめ、終わっているのです。その後のことは、若い方々に委ねるということですね。ですから、あとがきというようなものはありません。
 そこで、それではあまりにも愛想がありませんから、京都市政に、ことさら影響を持ってきたと思われる有識者について、少しコメントすることで、本稿のあとがきに代えさせていただきたいと思いました。加えて、文化庁の京都移転に関して、先に多少まとめたものがありましたので、その手記を補論として付け加えさせていただきました。有識者の記載順序は一応、順不同ということにさせていただきます。なお、ここに記載の有識者には、私も何らかの接点はありました。

     2021.4.29
                                                  語り・山添敏文





>>京都の有識者たち<<

1,まず最初に、私にとっての戦後第一世代の有識者と言えば、なんといっても京都大学総長の平沢興、そして立命館総長の末川博、さらに同志社総長の住谷悦治です。なかでも京都における戦後民主主義の代表者と言えば、やはり末川博でしょう。戦前、京都大学が国家権力に組み込まれていくときに、京大を退官して反権力を貫いた代表的な憲法学者です。同氏があって、京都大学からの有能な学者が立命館大学に入っていったのです。平沢先生は、医学部の教授でしたが、学識は幅広く、市長候補にも上っていました。大人の風格で、私は、市史編さん委員会開催の折には、市史編さん委員でもあった同氏のお迎えに、錦林車庫前のご自宅までよく行ったものでした。同氏が市長であれば、市の幹部職員は能動的に良く働いただろうな、と思ったものでした。そこへ行くと住谷先生は大分地味でしたが、同氏のご自宅をお尋ねした折のこと、その書斎のデスクの背後に、マルクスとローザ・ルクセンブルク2人の大きな肖像画が欠けられているのには圧倒されました。氏は、いつもこの二人を背景にして、圧倒されることなく研究や評論活動にいそしんでおられたのですね。マルクス、レーニンと並べられていた時代に、レーニンではなく、ローザ・ルクセンブルクをマルクスに並べられていたところに、氏の奥深さと真摯な研究態度というものを感じさせられたものでした。

2,次は、「京都の歴史」全10巻編さんのために設置された、市史編さん委員会の顔ぶれです。これは、概ね京都大学の総長や人文科学研究所長クラスのそうそうたる方々です。先にあげた平沢興を筆頭に、歴代人文科学研究所長の貝塚茂樹、塚本善隆、桑原武夫の面々です。東洋史学の権威であった貝塚は、かの湯川秀樹の実兄でもあったのです。塚本は、比較的地味な人柄でしたが、桑原は、いわゆる書斎型の学者ではなく、のちのちまで、京都市政に貢献願った方でした。これに加えて、監修者として或いは編さん事業の受託者として現場の指揮を執っていた若き日の奈良本辰也と林屋辰三郎、さらに市長退任後の高山市長や美術評論家の今泉篤男の両氏は、事実上名目のみで、私の知る限り編さん委員会への出席はありませんでした。この市史編さんとその編さん委員の選定は、当時の八杉市長公室長の意向が反映したものだったと思います。そして、当初は、奈良本先生と八杉公室長との間で事業は進められたようでしたが、市政の保守から革新への転換に加えて、編さん事務局が、学園紛争のあおりを受けたこともあり、奈良本先生は退き、当初、奈良本先生から手伝ってほしいといわれていた林屋先生が、責任編集者として全面的に責任を負う形となりました。このあたりは、奈良本先生と林屋先生との人柄の違いが良く表れていますね。京都市史編さんに対する林屋先生の恐るべき粘り腰でした。この林屋先生の粘り腰は、最後まで貫かれることになります。
 林屋先生による「京都の歴史」の編さんは、その後幾たびかの編さんの危機を経て、遂に、「京都の歴史」本編10巻、及び史料編・地域編16巻、合計全26巻を完成させますが、その間に篤志家からそのための土地の提供を受けて、京都の歴史編さんの事務所としての歴史資料館を建設し、編さん事務極を美術館2階の仮住まいから、本拠地への移転を実現しています。この資料館は、市史編さんの事務所ですが、その具体的な姿は、京都市政を含む京都の歴史に係る記録資料の保存と活用の館であるということです。その作業は繰り返す編さん事業とともに永遠につづけられます。先生は、次に、平安建都1200年記念事業の牽引者として、歴史家としての立場からその指導力を発揮しつつ、同時に、その年の自治記念日に最終巻を刊行し、京都市史全巻完結を実現されたのでした。そして、その最後の夢である、京都市立の歴史博物館建設をめざして、村井康彦国際日本文化研究センター名誉教授を歴史資料館長に迎えられるなかで、その夢の最中にその生涯を終えられたのです。まさに、京都と京都市政のために、京都の歴史というスタンスの上に立って、最後まで尽くされた、まさしく稀有の人物でした。
 1998年2月14日の告別式に、京都市長桝本頼兼の「京都市特別功労賞」が掲げられました。要旨「明日の京都が不死鳥の如く甦り飛翔していくことを常に希求され歴史を明日に生かすことを京都市民に語りかけていただきました よってあなたのご功績をたたえここに京都市特別功労賞を贈り顕彰します」

3,富井清革新市長下におけるおける学識者は、あまり記憶にはありません。京都府医師会長であった富井清は、蜷川府政との親和性が強く、府政のもとで育ってきた若手研究者などが革新市政を担う労働組合役員などと協力関係にあったようです。そうした中で、京都大学の公衆衛生学の権威であった西尾雅七教授が、人柄が公平かつ温厚であったため、以後舩橋市政に至るまで、京都市の保健衛生行政を導いていただいていたようです。地域医療を確立しようとされていたようですが、あまり目立っていませんでした。
 保健衛生と言えば、その近接の福祉行政がありますね。ここでは、全国革新市長会でも鳴り響いていた福祉体系を築いたとされる中心人物としての福祉学の小倉襄二同志社大学教授です。福祉学は、学問としての性格もあるのでしょうけれども、現実の福祉行政の実際と無関係にはありえないことから、行政と学問との垣根が低く、学者・研究者と行政との関係がなかなかに複雑化しやすい面があります。すなわち、行政の立場と学識者の立場との違いと緊張関係です。下手をすると癒着のようなことが生じ、研究者が、行政の執行過程まで介入するような事態も生じかねません。問題に至る過程を説明しましょう。これには私自身が深くかかわることになりました。
 舩橋市政は福祉市政を特徴としたことから、舩橋市長が民生局長であった時代からの付き合いがあった小倉先生は、まず、労働組合が京都市政調査会を政策集団としてつくり替えるにあたって、学識者を中心とした組織編成を行ったその会長に、小倉先生を担いだのでした。市政の総合的な政策形成の場で、その中心に福祉を持ってくるというのは、いかに福祉の時代を打ち出すにしても、ちょっと、私には違和感がありました。さたに、常務理事に市史編さん所の編さん主事のような立場にあった森谷克久氏、氏は奈良本辰也先生のお弟子さんでしたが、奈良本先生が市史編さんの現場から退かれた後も、林屋先生のもとに残って編さん事業に従事しておられたのです。氏は、私の先輩になります。そして理事には、府政に関わっていた京都大学財政学の島康彦教授の若手門下生でした。いろいろ政治的バランスを考えた上のことでしょうけれども、私にはしっくりしませんでした。ところが、その私に市政調査会の事務局長就任の依頼があったのです。⒉,3年面倒見てほしいと。とうとう断り切れずに就任。ただその時に、一つだけ条件をつけさせてもらいました。私の好きなようにさせてもらう、ということでした。
 舩橋市政から今川市政にかけて、10余年経過しました。やはり、危惧は当たりすぎたようでした。他の先生方には申しわけなかったのですが、市政調査会をいったん解消することによって、京都市と小倉先生との込み入った関係を整理し、改めて、数年後に再建しました。再建後の会長は、都市経済学の山田浩之京都大学教授で、当時経済学部長でした。やっと、然るべき方が治まるべきところに治まったのでした。こうして、小倉先生と私との関係も決定的に破局を迎えました。ついでにいうことではないのですが、常務理事の森谷さんも歴史資料館でにたような経過をたどり、当時歴史資料館長であり、タレントまがいの人気学者になっておられたにもかかわらず、若手研究者を私的に利用するだけで、その労に報いることがなかったために、結局自滅の道を歩まれることになりました。そのことを察知した私は、以後協力することをやめました。
 この2人の先生に共通したのは、学識者には、自己の専門性をもとにそのスタンスを発展させても、逸脱しない方と、タレントまがいに多方面に展開していかれる方とがありますが、行政サイドが心すべきは、学識者と行政との関係は、共にその節度を心得ていなければならないということです。市長との関係が深い有識者であれば、行政内部では、どのセクションからも声がかかり、引っ張りだこになるのです。そこで、その学識者に、それを自分自身の力量であると過信される場合、結局は自滅の道を歩むことになるのです。これは、結局行政サイドの「褒め殺し」なのです。行政というものは、引くとなればまた鮮やかなものなのです。
 この二人の先生には私自身が関わってきたことから、私自身に問題があるのではないかという誤解を受けた面もありました。それは、それ、そのように受け止められてもいいように仕組んだ面もあったからでしょうけれども。しかし、森谷館長の事件が生じたために、その終戦処理から、結局私の市役所生活における最後のしごとが、林屋−村井両先生のもとでの京都の歴史に係る贅沢な仕事となったことには、複雑な思いです。前記両先生の対極におられるのが、林屋先生です。自己の研究を深め広げることによって、結局、京都1200年の歩みのうえでのさらなる発展の道を指し示そうとされていたことです。ちょっとした文章であっても、林屋先生の場合は、常に史料的な根拠を持ったオリジナルなものだったのです。

4.ちょっと脱線気味でしたが、いよいよ世界文化自由都市宣言です。これの成功要因は、発案者の梅原猛先生が、桑原先生をうまく引っ張り出したことがすべてであったといえましょう。当時国家主義的と目されていた中曽根首相に、リベラルな研究を体現してきた京都大学のしかもそれを代表する人物が、当時のマスコミ情報からすると、頭を下げたのです。もっとも、桑原先生自身にも元々実際的判断にすぐれたところがあったのですが・・。
 しかし、その後、桑原先生は、社会教育総合センターの初代館長に就任される一方、平安建都1200年協会が設立されるやその初代会長にも就任されるなど、晩年は京都市のために尽くされていました。桑原先生は、林屋先生の市史編さん事業に対してもそれを支える役割をはたされ、林屋先生には協力的で、1200年記念協会会長の件も、そうした意味でも自然であったのです。桑原先生はまた、林屋先生のもとで編さん事業の実務を仕切っていた森谷さんもかわいがっておられていて、同氏を京大人文研の非常勤講師に招かれたのも桑原先生でした。そうしたことから、桑原先生とは、森谷さんと3人で、グランドホテル10階のティーラウンジで2時間ばかりゆっくりとした話に加わらせていただいたことがありました。その時には、人類学の今西錦司名誉教授の話など、京都大学の学問的な奥深さについて教えられたことを思い出します。
 国立の国際日本文化研究センターの創設誘致は、桑原先生の権威によるところが大きかったのですが、梅原先生の次の狙いである、国立の京都歴史博物館創設誘致は、もはや桑原先生に依存することができず、梅原先生は、行政を動かして実現されようとしてこられたのですが、そこには、日文研の成功体験に対する自らの力に対する過信もあり、動きも網打ちも大きくなるものの、具体化することは困難でした。すなわち、実現するには、時の政権に対する京都からのメリットがなければならないのです。この点でも、桑原先生は、自らの売り方をよく知っておられたのですね。
 また、世界文化自由都市宣言から、世界歴史都市会議が誕生するのですが、その企画力で力を発揮したのが矢野暢教授です。矢野教授は、京都大学の東南アジア研究センターの所長で、京都市政の国際交流に深くかかわるようになる一方、個人的な持ち味であったクラシック音楽への造詣から、経営の苦しい模索を続けていた京都市交響楽団にも深くかかわり、その人気の高さから、京響も盛り返し、結果として、音楽専用ホールとしての、現在に見るコンサートホールが実現することになったのです。氏の評価にはいろいろありますが、今川市長肝いりの世界歴史都市会議と京響再興の功労者であることには違いがありません。しかし、世界文化自由都市宣言の提案による市民劇場が、どうしてコンサートホールに化けたのか、その具体的なプロセスが今もってよくわかりません。残念なことに、氏は、学内スキャンダルによって失脚することになりました。
 さて、梅原猛さんです。氏は、学園紛争で立命館大学を辞し、その後、京都市立芸術大学の教授となり、また、同大学の学長に就任します。そして、その間、「隠された十字架」など聖徳太子や柿本人麻呂などのユニークな歴史小説を出版し、一躍有名人になりました。
学長に就任しては、それまで容易に定まらなまった大学の移転用地を確定し、無事移転を実現します。その後は、世界文化自由都市宣言に基づく提言の国立国際日本文化研究センターの創設、誘致を実現し、その初代所長に就任します。その後も、世界文化自由都市推進委員会の委員として、同宣言の推進に努めます。そして、桝本市政下では、京都を語る会や歴史都市京都・創生懇談会などの座長として、京都の発展を国家戦略の中に位置付け、国家事業として、京都に対するテコ入れを果たそうとしました。その具体的事業の一つとして、国立の歴史都市博物館の建設とそれを核とした京都における博物館群の形成を図ろうとしましたが、それは結局実りませんでした。
 こうした梅原さんの手法は、一つの事業を実現しようとするとき、その事業を国家的レベルでの広く高い位置づけによる壮大な構想や理念をつくりあげるのが特徴です。そして、
それを実現するために必要な政治・行政や経済界の人材にうまくアプローチして進めるのです。その進め方は、学者離れしています。また、自分の思いを貫く執念は、大変なもののようです。こうしたことから、梅原猛に対する評価は二分されているようです。京都市に関しては、行政はおろか議会まで篭絡されてしまったようなのです。「梅原学」なるものは、学なのか否かは私にはよくわからりませんが、私にとっては、困った存在でした。

5.「21世紀は人権の世紀」に!
 立命館大学の史学部で学んだ先生のひとりに、非常勤講師の上田正昭京都大学名誉教授がおられました。確か鴨沂高校夜間部の教師もされていて、大変な勢いのある先生の講座を受けていました。悲憤慷慨の獅子という感じでした。梅原、奈良本、林屋の3先生も、末川総長時代の立命館大学の先生です。そしてみな京都大学出身で、梅原先生が哲学出身である以外は、全て国史の教授です。これらの先生は、以後異なる歩みをされるのですが、結局晩年になって、反戦平和や学問の自由、民主主義に対するゆるぎない意思といったものがにじみ出てくるのを共通としているように思いました。根底のところに、権力に屈しない、反戦平和の思想が流れているのでしょう。自由なる京都大学の学風を体現されているのです。反戦平和に関しては、政治家の中曽根内閣時代の後藤田正治官房長官、小渕内閣時代の野中広務官房長官にも相通じるものがありましたね。戦中戦後をしのいできた方々の痛切な思いが根底にあるのでしょう。
上田先生はその後京都大学教養部教授そして、また教養部長として努められたのち、大阪女子大学学長にも就任されますが、他方で、京都市教育委員会の生涯学習にも尽力され、長年社会教育委員をつとめられて、学校歴史博物館の初代館長や生涯学習振興財団の理事長など多方面の活動をされていますが、とりわけ、次の役割には重いものがありました。それは、世界人権問題研究センターの理事長職を初代の林屋先生から引き継がれたことです。1997年6月のことです。世界人権問題研究センターは、建都1200年記念事業を企画推進してこられた林屋先生が、とりわけ未来へ向けての事業として重視されてきた事業であったのです。この事業は、建都120年記念協会自身が行う事業でしたが、腰の思い行政や経済界サイドを牽引して、21世紀は人権の世紀にしなければならず、これこそが京都が行うにふさわしい未来に向かっての事業だとして、当時すでに病気の中にあった林屋先生が人生最後のエネルギーを傾注された事業だったのです。初代理事長職を自ら務められ、次なるその役割を1997年6月、上田先生に託されたのでした。私は、林屋先生の傍らにいて、そうした経過を見守っていました。ですから、これでもって、この「語り」を締めくくることができたのを、大変幸せに思っています。

 来たり来った21世紀は、国家と民族との複雑な関係、国家間の対立や経済の上下格差の拡大など予想を超えた複雑な様相を呈し、人権そのものが大きな試練に直面してきています。この人権の試練を、だからこそ、希望につなげたいものと願い、このあとがきに代えてを閉じたいと思います。建都1200年記念事業は、いずれ忘れ去られるかもわかりません。しかし、記念協会が設立して運営するこの世界人権問題研究センターは若い方々によって受け継ぎ運営され、いすれは大きく羽ばたく時がくるでしょう。、お付き合い下さり、ありがとうございました。(2021.4.29)




[補論]  

   文化庁の京都全面移転に際して

 文化庁の京都全面移転、政府はよくぞ決断したものと思う。いろいろ言っていても結局政府機関の全面移転などできるものではないと考えていただけに、最近の動向を見ていて、ひょっとして、という思いを持つにいたり、3月22日、遂に政府は決断するに至った。政府の「地方創生」の目玉商品である。と同時に、京都にとっては大変なプレゼントとなった。そして、これには、石破地方創生大臣や馳文部科学大臣、安倍総理大臣らの京都に対する善意や、伊吹元衆院議長など地元国会議員の努力などがあったものと思われる。昨今の世界的な京都ブームにも助けられたこの状況は大変ありがたいことである。が、しかしである。こうした今回の事態は、はたして手放しで喜んでいていいのだろうか。

 そこで、中央省庁など国機関の地方移転は何のために行うのかという問題の根本にさかのぼって考えてみたい。中央省庁の地方移転には、わが国の東京一極中心の中央集権体質を改め、分権型の統治体制にしていくという考え方と、地震国日本では、統治機関の立地そのものを地域分散型にしていく必要性があるという考え方があった。それに対し、今回急速に具体化の可能性が浮上してきたのは、「地方創生」の目玉としてであった。国機関の地方移転に当たって、その受け皿を地方公募に求めたのであるが、それは果たして妥当だったかということである。
 国機関の地方移転は、国家統治のありようの問題であり、国レベルで考えるべき問題である。したがって、まず、国の国家統治のあり方としての基本的な戦略・構想がなければならない。そのうえで、移転先としての地方の受け皿を考えるということがことの順序であろう。地方に応募を募り、それに応える形での地方移転は、国家統治のあり方としては倒錯しているといえないだろうか。したがって、地方の要望に応える移転であるから、移転に当たっては、その費用の応分の負担を地方に求めるということが伝えられたりするするのである。まず、国家として、国機関の分割配置がなぜ必要なのか、分割配置をするには、いかなる機関をいかなる地域に配置するのがいいのか、その場合の国家統治のあり方はどのように変化するのかがあらかじめ明らかにされていなければならないのである。地方に要望があるとかないとかという程度の問題ではないはずである。
 今回の、文化庁全面移転をはじめとする国機関の地方移転に対する新聞各社の論説を見てみると、文化庁の京都全面移転には概ね評価をしているものの、はたしてそれだけでいいのかという指摘が多い。ここで、各新聞社の社説(産経は「主張」)をみてみよう。

 読売は、表題「文化庁京都へ 地方創生に役立つ移転なのか」のもとに、「地方創生にとって、東京の役所の移転が本当に必要なのか」と疑問を呈している。「文化庁の仕事は、文化財保護だけではない。音楽、美術から映画、アニメまで幅広い文化芸術振興、著作権保護、日本語教育、宗教法人の認証など、多岐にわた」り、京都移転による文化庁の機能強化といっても、現実には、京都と東京の二元体制になり、組織の肥大化など行政効率の低下を招きかねない。「中央省庁の移転は、東京を離れた場所でも行政機能を維持できることが大前提となる」と指摘する。

 日経は、表題「政府機関の移転にとどめるな」のもとに、移転機関をもっと増やすべきで、「地方への移転は政府内の仕事の進め方や職員の働き方を見直すきっかけになるだろう」と、政府機関の移転を積極的に捉えている。しかし、出先機関の強化などは、下手をすれば「行政の肥大化」を招き、地方分権にも逆行しかねないと、今回の政府機関の地方移転に関する基本方針への危惧を示し、地方創生には、政府機関の移転にとどまらず、「活性化の障害になる規制を見直し、地方に権限や財源を移すことにも、もっと力を入れるべきだ。」と指摘する。

 朝日は、表題「省庁移転 骨太の理念が見えない」のもとに、急務とされた東京一極集中の是正策としての政府機関の移転は尻すぼみとなった。」その最大の原因は、時代に合った政府機構や、「政府全体のあり方を見直すという視点」に欠け、「省庁を地方に移しても、現状の機能が維持できるかにほぼ終始し、組織や業務の在り方を改革する方向に踏み込まなかった」と指摘。そうした中で、「唯一移転する文化庁は、京都政財界の強い働きかけが実った」ものとして、「伝統文化の集積地」としての京都に立地することのメリットを生かして「移転が豊かな文化行政につながるよう、制度設計を丁寧に進めてほしい」と肯定的である。

 毎日は、表題「京都に文化庁 東京集中正す突破口に」のもとに、文化庁の京都移転には肯定的であるものの、これでもって「国機関の見直しを打ち止めにしてはならない」と、今回の基本方針では、そもそもの東京一極集中の構造にメスを入れた」ことにはなっていないと指摘。「文化庁移転を突破口として、国の行政組織のあり方についてさらに踏み込んで見直しを求めたい」としている。「国機関の移転は本来、国」の「危機管理として取り組むべき課題だ」で、「地方から要望がなくても、移転にふさわしい機関が他にもあったはず」なのである。そして、文化庁については「文化財保護にとどまらず、著作権や宗教法人など幅広い領域の行政を所管するため、東京に残す機能の確定などに万全を期す必要がある」としている。「文化行政全般の拡充に京都移転をつなげていく発想が欠かせない。政府は移転を機に、地方文化の多様性を従来以上に尊重していく」という「視点を実際にに反映できるかで、移転の意義がためされる。」としている。

 産経では、表題「政府機関の移転 地方創生とは切り離しを」のもとに、「政府機関の移転は地方創生とは根本的に異なる政策」で、創生本部は、今回決まった文化庁の移転以上の「深入りは慎むべき」だとしている。政府機関の移転は、「人口減少社会を迎え、あらゆる社会の仕組みがその在り方を見直す時期に来て」いて、中央省庁もその例外ではなく、「公務員の働き方や地方分権を含め」て、「本来、行政改革推進本部などが主体と」なって、「地方創生とは切り離して検討を進める大きな政治課題である」と指摘する。そして、文化庁の京都移転にしても、「360人ほどの規模で、大都市を抱える京都府に与えるインパクトは限定的であろう」と、あまり積極的には評価していない。

 以上の全国紙に対して、地元紙京都新聞では、表題「文化庁京都移転 新しい価値の発信こそ」のもとに、まず、文化庁の京都移転は「自然な流れ」ととらえ、「東京一極集中を是正する地方創生のモデルケースにしてもらいたい」としている。それには、京都の伝統的な特性だけではなく、「新しい文化資源」も活用し、日本各地に養われた独自の文化との連携が必要で、「東京以外の場所から、日本全体の文化を考え、画一性より多様性、集中よりネットワーク化を目指す」必要性を指摘。「京都府、京都市に課せられた責任は重」く、「行き過ぎた京都中心主義を戒め」ている。今回の政府機関移転の全体像に対しては、文化庁以外にみるべきものがなく、「地方創生戦略の柱としては看板倒れと言わざるをえない」としている。

 ここであげた主要新聞の社説からは、地方創生のための国機関の地方移転の主要な問題点は次のように理解できる。
@政府機関の地方移転と地方創生とは別次元の問題だ(産経)
A今回の国機関の地方移転は、文化庁の京都移転以外に見るべきものがなく、地方創生戦略は看板倒れで、その効果はほとんどない。(読売、産経)
B地方創生には東京一極集中の是正が必要で、国のあり方としてもっと根本的に政府自身が検討するべきだ。国機関の移転だけではなく、規制の緩和や地方への権限、財源の移譲が必要。(日経、毎日)
C国機関の全面移転ではなく、地方出先機関の拡充などでは、行政肥大化などの非効率をまねき、逆効果となる。(読売、日経)
 文化庁の京都全面移転に関しては、次のようである。
@地方に及ぼすインパクトはあまりない。(産経)
A全面移転とはいっても、実際には、京都と東京の二元体制となり、組織の肥大化や行政効率の低下をまねく。(読売)
B東京一極集中の突破口となる。(毎日)
C伝統文化の集積地としての立地を生かし、移転を豊かな文化行政につなげるように努めよ。(朝日)
D伝統文化にとどまらず、新しい文化資源も活用し、幅広い文化行政を。(読売、朝日)
E「行き過ぎた京都中心主義」を戒め、全国各地の文化との連携を大切に。(京都)
F総合的な文化行政には、東京に残す機能も大切。(毎日)
 以上のことから総合的に判断すると、
・地方創生には、国機関の地方移転以上に、日本が人口減少社会に向かっている中で、東京一極集中是正のための本質的な検討を政府として行う必要があること。 
・国機関の移転問題は、地方の要望からではなく、国の統治機構のあり方の問題として、政府自身が根本的な方策を検討すべきこと。
・文化庁の京都への全面移転は、実際上は京都と東京都の二元体制にならざるを得ないが、京都の特性を生かした豊かな文化行政の実現に、政府と京都の両者が努力するべきこと。・その基本的な行政責任は、政府機関である以上あくまで政府にあり、そのことを誤解してはならないが、京都の府・市も立地自治体として最大限の協力をしなければならないこと。
・それには、全国の自治体との連携の結節点としての役割を果たさなければならず、その責任は重いことを自覚しなければならないこと。などが重要なこととして指摘できるのではないだろうか。何はともあれ、地方創生策の象徴として、文化庁の京都への全面移転は決断された、政府とともに、これを誘致した地元京都の責任は重く、喜んでいる場合ではないのかもわからない。
 最後に、権力機構の一端としての問題に触れておきたい。国レベルであれ地方レベルであれ、行政機関は、その権力中枢から物理的距離が離れれば離れるほど、権力中枢からの政治行政的距離も遠くなるという現実がある。お叱りを受けるのを承知の上で、わかりやすくするために端的に言うと、文化庁は行政機関としては三流の役所である。現在でも権力中枢との距離は遠く、政治行政的な緊張の度合いやわが国が直面している政治行政に対する認識は疎い。施策体系をきちっと確立するよりは、多分に担当の専門官個人の認識に負うところが多く、下手をすれば個人の恣意に流れる危険性も高い。文部行政がそうであるように、文化という人の精神に関わる仕事であるにもかかわらず、仕事の流れは上意下達であり、そこには地方自治に対する理解の度合いは低い。地方自治に対する理解は、国土交通省のほうが現実には高い。それは、常に住民運動や政治の波に洗われているからであろう。担当専門官と有識者による検討によって施策はつくられ、その施策は上から下へと地方自治体に降りてくる。また、国民や有識者も、文化に関わる問題は、文化庁にやらせるという意識が強く、地方自治を否定しかねない土壌が根強く存在している。文化庁の京都移転が、権力中枢からさらに遠くなり、恣意的な行政体となる危惧の念は強い。財政に恵まれない文化庁は、本来誘導的な手法を講じるべき施策であっても、規制的手法の行使に陥る場合が多いのである。
 文化庁の京都移転が、こうした危惧を克服する契機になれば、それこそ願ってもないことである。その一つは、全面移転とはいっても、行政機構としては複雑化するが、やはり、東京には権力中枢の一角を占めるために、政治行政に関わる機能を残すということ、いま一つは、文化行政を上から下への施策ではなく、地方自治の積み上げの上での施策体系化の道、すなわち下から上への逆転の発想に転換することであり、これこそが、文化庁京都移転の積極的な意義であり、地元京都が貢献できる道である、と考えられる。
 筆者は、昔、岡崎公園内の京都会館に置かれていた文化観光局の文化財保護課に所属したことがあり、市役所機関が、河原町御池の市役所本庁舎(市会議事堂)ないにあるのと、岡崎公園にあるのとの政治行政的緊張感の違いの大きさを痛感した経験がある。それと同時に、文部省の外局としての文化庁による文化行政の限界に対する問題も強く感じていた。この経験が、本コメント作成の動機となったものである。東京の権力中枢との距離感をどうなくすか、全国各地からの積み上げによる文化行政の新たな体系化にどう挑戦するのか。地元京都府と京都市の役割は重いが、やり方次第で新たな可能性に満ちているといえる。心して臨んでほしい。(2016.4.4)