• 日吉神社
    村の鎮守日吉神社
  • 秋景色
    紅葉の景色
  • 坂道
    車道の終点

サイト管理人より

桃原集落は今、廃村の危機にある。縁あって桃原で暮らしたことがある旧住民の一人として桃原のことを少しでも伝え残したいと思う。

多賀町には、山の上に幾つかの集落がある。なんでこんな不便な山の中にと思うけれど、車も鉄道もない昔、ひたすら歩く時代、山越えの道は近道だったかも知れない。年貢の取立てに苦しめられた稲作民より自給自足が可能だったかも知れないと思う。    

桃原が甦る日は無いかもしれない。「昔、山の上に桃原という村があった。」という昔話の世界に属してしまうのだろうか。                                                     

桃原の歴史

  • 桃原集落は平家の落ち武者が開いたという人もいるが、文献に登場するのは江戸時代である「江左三郡録」に畑作を主とし干し柿や、牛蒡の産地と紹介されている   
  • 牛蒡は「お多賀ごぼう」と呼ばれ江戸時代は、彦根藩でも珍重されたようで、重臣位の者が食したという。また、斬罪に処せられる者の朝餉に出されたとの事、昭和50年台まで、京都中央市場に出荷され高値で取引された。料亭の御節には欠かせない物だったらしい。   
  • 昭和20年代には60戸余りあったといわれる。まだ車道が無い時代、斜面の牛蒡畑は冬季の積雪でスキー場となり売店や貸しスキーもあって賑わっていたという。しかし昭和30年代後半、車道が開通すると家財道具を積んで平地に移転するようになり、集落は寂れていった。      
  • 村の墓地には、立派な墓石が過っての戸数分残されている。車道の無い時代如何して運び上げたものか背の高さを越す石も多い。家が朽ち果てた後も集落のあった証となるのだろう。      
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    桃原の伝説

      
           
    • その1『泣き地蔵』  昔、松兵衛さんという人が杉苗を植えこの木が立派に大木になったら自分は極楽浄土にいると思ってくれ。と家人に言っていた。そして傍にお地蔵さんを祀ったという。     時が経って、立派な地蔵さんが1本杉の根元にあるのを隣村の二人の人が見つけて担いで帰ったところその夜、二人の夢枕にお地蔵さんが「早く桃原に帰りたい」といって泣かれたので  元の場所に背負っていった。1本杉は大木になり、泣き地蔵様は今もそこにいらっしゃる。      
    • その2『金の鶏』 「 朝日チラチラ夕日チラチラする所に埋めておくぞよ金の鶏を」という言い伝えがありその場所を示す書類もあったという しかし大火があり焼けてしまった。    
    • その3 『火事と観音祀り』 昔、絶家になって放置されていた観音像を見つけた子供たちが、縄で括って引きずり回して遊んでいた。村人はすぐ止めさせたが、その日火事が起こり村の中心部を焼き尽くしてしまった。  宝物の在処を示す書類もこのとき焼けたという。村人は観音像を村の一番たかい場所に堂を建てて安置し、火事の起こった五月一二日に毎年火祭りを行っている。      
    • その4 『室 三郎』 昔、室三郎という剛の者がいたが、だまし討ちに会い生き埋めにされてしまった。そのあとに立派な蕨が生えるようになった。食べると腹痛や、高熱が出るというので村人は室三郎蕨を採らない。室三郎には姫があり父の仇を とろうとしたが殺されてしまった。その血潮の後には、毎年きれいな花が咲いたという。      
    • その5『大蛇』 桃原に「ジヤレ」という所がある。松の木が倒れているのだと思って、跨いだらそれは大蛇だったと何人もの村人が言う。そんな大きな蛇がいるわけない。と思うけれど、山へ行ったきり帰ってこない村人もいた。「ジャレ」は「蛇出」と書くのだろうか。        

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