コラム

大阪にくすりの町がある!?

1)道修町−西日本の薬業の中心地−

三津和化学薬品の所在地は大阪市中央区道修町。「道修町」は「どしょうまち」と読みます。

東京(旧江戸)が武家社会の町であったのに対して,大阪(旧大坂)は商人の町として栄えてきました。繊維卸問屋が集まる船場,人形,玩具卸が集まる松屋町など,現在もその名残をとどめており,道修町は古くから薬種卸問屋の町として栄えてきた町で,現在でも弊社を始めとして多くの化学薬品メーカー,医薬品メーカーの本社,西日本支社などが所在します。

道修町の始まりは,寛永年間(1624〜1644)に堺の商人小西吉右衛門が,道修町1丁目に薬種屋を開いたこととされています。現在のように「くすりの町」として知られるようになったのは,八代将軍徳川吉宗の享保7年(1722)以降のことで,道修町薬種中買仲間が株仲間として組織され,諸薬種を吟味(検査)のうえ適正価格を付けて,独占的に全国に供給するようになってからのことです。

明治に入ってからは西洋薬が主流となり,道修町薬種商たちは共同の薬品試験所の設置や製薬事業にも着手し始め,その多くは薬種問屋から製薬企業へと発展してきました。

2)薬の神様の神社があるって本当?

神農さん

大阪市中心部を南北にのびる堺筋の道修町の交差点を西へ入ってすぐのところに「少彦名(すくなひこな)神社」(神農さん)があります。入り口がこじんまりとしており,ビル街の中の神社ですから,初めての人はよく注意していないとややわかりづらいかもしれません。

この神社は,薬の検査をする和薬改会所の検査の正確さと神の加護を求めて,安永9年(1780)京都の五条天神宮より分霊を頂き,少彦名命(「スクナヒコナノミコト」と読み,大国主命(オオクニヌシノミコト)の兄弟として古事記に記されています。)をその前からお祀りされていた中国の薬祖神炎帝神農氏と共にお祀りしたのが始まりです。

古事記によれば,この少彦名命は大国主命と協力して国を作り固め,常世(とこよ)の国に去って行ったと伝えられています。大国主命が「大」に対して,少彦名命は,神産巣日神(かみむすびのかみ)という神様の指の間から産まれて地上に落ちたと伝えられるほど小さく,正に「小」の象徴。やがて平安時代になると,体は小さくても知恵があり,力があるという少彦名命をモデルに一寸法師とか,竹取物語が伝えられて行きます。

神農祭の様子

道修町では昔から薬品関係会社が「薬祖講」(やくそこう)を組織し、現在は近在の個人も含め四百社近くが加入し,神社の運営にあたっています。毎年11月22日23日に行われる神農祭なども薬祖講によって運営されています。

神農祭の様子

大阪の1年の祭りは1月の「10日えびす」で始まり,11月の神農祭で終わるといわれています。それゆえ神農祭は大阪の「とめの祭り」とも呼ばれ、毎年多くの参拝者が訪れ、無病息災・家内安全を願ってお参りされています。1日目の夕方になると通りの両側には数多くの夜店も立ち並び,会社帰りの若いOLの姿も見え,2日目(11月23日は祝日)には家族連れも含め,多くの人々が参拝の順番を待って堺筋の歩道にまで列を作ります。

3)薬の神様は阪神ファン?

神農祭の様子

少彦名神社の境内へ入る細い路地の入り口に並んで,「くすりのまち道修町資料館」があり,その正面玄関には虎の銅像が設置されています。大阪といえば,虎・・・というわけではなく,テレビアニメ「タイガーマスク」に出てきた悪役プロレスラーの養成組織「トラの穴」・・・でもなく,実は少彦名神社のお守りには「張子の虎」が用いられています。

神農祭の様子 神農祭の様子

なぜこれがお守りになったかというと、文政5年(1822)大坂で疫病(コレラ)が流行した時、道修町の薬種仲間が疫病除薬として虎の頭の骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬をつくり、神前で祈祷をして庶民に無料で施しました。この時、病除祈願のお守りとして、あわせて施与したのが「張り子の虎」です。その効能が顕著だったため、以来「張り子の虎」が当社のお守りとして世に知られるようになりました。

また11月の神農祭の時には,お札や張子の虎がつけられた笹が今でもお守りとして配られています(ただし,現在は有料です)。

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三津和化学薬品株式会社
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TEL:06-6231-1686
FAX:06-6231-1687
代表者 今田 美貴男
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