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・本殿
| どの灯籠も古いため石積みが緩んで倒壊の恐れあります |
| 触れたり もたれかかったり は禁止です |
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
・神輿蔵と拝殿(
模式図 jpg)

■石座神社の本殿
・本社 2社:
971年 大雲寺の東に石座明神を
勧請
(昭和60年以前、大雲寺は神社の西にありました)
997年
八所明神となる
(石座に、
新羅・
八幡・
山王・
春日・
住吉・
松尾・
賀茂の7
神を勧請)
1592年
十二所明神を加える
(上記八神に、
伊勢・
平野・
貴船・
稲荷の4神を勧請)
〃 八所明神(東)と十二所明神(西)の二社となる
・摂社 2社:
明治10年 一言主神を勧請し
一言神社(東)を
造る
明治11年
猿田彦神社・
愛宕神社を勧請し
福善社(西)を造る
・末社 2社:
創建不明 稲荷・
鹿島・
香取を勧請し
西社
〃
熊野・貴船・
出雲を勧請し
東社を造る
■その他
拝殿・
神輿蔵・
神饌蔵・
東西宮座・
社務所をもつ
▣探そう、[
これ]どこにありますか~
令和七年(2025年)行事 石座神社奉賛会
| 月日 | 曜日 | 時間 | 行事 |
| (R8)1月1日 |
(水祝) |
午後1時 |
・元旦祭 |
| 1月 12日 |
(日祝) |
午前10時半 |
焼衲祭 |
| 2月 11日 |
(火祝) |
午後3時 |
・御祈祷祭 |
| 7月 21日 |
(月祝) |
午後4時 |
・湯立祭
|
| 8月 10日 |
(日) |
午前9時 |
神具虫干し |
| 10月 5日 |
(日) |
午前9時 |
御松刈り |
| 10月 12日 |
(日) |
午前9時 |
御松出し |
| 10月 19日 |
(日) |
午前8時 |
御松結い |
| 10月 23日 |
(木) |
|
支部は23日までに神事道清掃を随時行う |
| 10月 24日 |
(金) |
午前6時 |
神輿装具蔵出し |
| 10月 25日 |
(土) |
午前2時 |
・大祭 |
| 10月 26日 |
(日) |
午後1時半 |
神輿解体蔵入れ |
| 11月 3日 |
(月祝) |
午後4時 |
・御火焚祭
|
| 11月 16日 |
(日) |
午後4時 |
・新穀祭
|
| 12月 21日 |
(日) |
午前9時 |
新年諸準備 |
・
初宮詣、
七五三詣、
厄除け祈願、成人祭、
安産祈願、
地鎮祭など受付致しております。
お宮参り(初宮詣、七五三詣など)、地鎮祭など
神職に御用の方は、下記までご連絡ください。
賀茂御祖神社(下鴨神社)社務所
電 話 :075(781)0010
受付時間:午前9時より午後5時までの対応
現・山住神社には古くから巨石に宿る「石坐の神」があり、これが大雲寺の守護社として勧請されます。後に、これに7社が加わり八所明神社となります。さらに5社が加わり別宇の十二所明神社を創建し、二社となります。八所十二所明神社といったのでしょうか。石座明神が勧請されてから乱世までには幾度か焼ける被害がありましたが、大雲寺(実相院)の支配の中で村民の「氏神」としての歩みを進めました。
秀吉・家康の世には岩倉の地は実相院の支配から逃れ、明治までほぼ天皇家の御料となります。その経過を経て八所十二所明神社も村民の主体的な運営に委ねられていったといえます。
明治になり、北の八所十二所明神社が石座神社となり、南の石座明神社が前者の御旅所であり山住神社となります。
・年表
| 時代 | 元号 | 西暦 | 月日 | |
| | 不詳 |
? |
|
「石坐の神」が崇拝され始める |
| 平安 | 延暦13年 |
794? |
|
平安京遷都に際し王城鎮護の目的で北岩蔵ができ一切経が埋められる |
| 元慶4年 |
880 |
10/13 |
石坐の神(現・山住神社)が「従五位下」になる 『日本三代実録』 |
| 天禄2年 |
971 |
4/2 |
大雲寺の建立 東側に石座明神を勧請する |
| 長徳3年 |
997 |
|
大雲寺の鎮守石座明神に七明神を勧請し、八所明神社とする |
| 鎌倉 | 文正2年 |
1467 |
|
実相院が、この年に応仁の戦火を避け大雲寺境内の現在地にくる |
| 室町 | 文明17年 |
1485 |
9/15 |
近衛政家が実相院の藪にて、当社の祭礼を見物 |
| 天文15年 |
1546 |
10/29 |
細川氏と山本氏の抗争 神社が焼ける |
| 桃山 | 天正2年 |
1574 |
|
神社本殿の西殿、東殿ができる |
| 天正20年 |
1592 |
|
神社再建 八所明神の擬宝珠に天正二十年二月の銘 |
| 〃 |
〃 |
3月 |
八所明神に四神を加え十二明神も祀る(1593年天皇家の御料となるものの村はほぼ自立か) |
| 江戸 | 慶長19年 |
1614 |
12月 |
八所・十二所明神社前 灯籠奉納 |
| 元禄3年 |
1690 |
3/27 |
大雲寺本尊の開帳 四ヶ月間(参拝人相手の茶屋114軒)これ以降多くの参詣人が常に集まる |
| 元禄11年 |
1698 |
|
権少僧都 恕融『大雲寺堂社旧跡纂要』編纂 |
| 元禄12年 |
1699 |
9/15 |
「相撲」、宮座前で東西「松明」燃やす 大雲寺力者棟梁の差配で「神輿」が『旅殿』(石坐神社(現・山住神社))まで行く |
| 宝永8年 |
1711 |
|
石坐明神 手洗鉢奉納 |
| 享保6年 |
1721 |
|
八所・十二所明神社 大鳥居奉納 |
| 元文4年 |
1740 |
9/16 |
~明治初年廃止まで毎年御神札・神饌を皇室へ献納 |
| 寛保 3年 |
1743 |
6月 |
八所・十二所大明神、石座大明神 共に神主ハ百姓一和尚輪番持 9/9夜:松明、神利太々幾 9/15:御輿弐社、鉾五本、相撲(片岡(与)家文書) |
| 宝暦2年 |
1752 |
|
石坐明神(現・山住神社) 鳥居奉納 |
| 明和3年 |
1766 |
|
八所・十二所明神社 社殿改造 |
| 天明3年 |
1783 |
|
十二所明神社「鷺之図掲額」奉納 |
| 享和2年 |
1802 |
|
中在地町 吹散作成 |
| 文化2年 |
1805 |
|
岩倉村から幕府の寺社奉行宛文書に、現・山住神社を「氏神御旅 石座大明神」と記す |
| 天保2年 |
1831 |
|
八所・十二所明神社 拝殿再建 |
| 天保3年 |
1832 |
9/9 |
祭り、「岩倉尻たたき祭」の記録あり |
| 〃 |
〃 |
9/15 |
祭り、「大松明・相撲・走馬」の記録あり |
| 弘化2年 |
1845 |
|
神輿二基修復料寄進帳が現存 |
| 弘化3年 |
1846 |
|
西河原町 剣鉾作成 |
| 嘉永2年 |
1849 |
|
八所・十二所明神社拝殿「鷺之図掲額」奉納 西河原町 吹散作成 |
| 嘉永5年 |
1852 |
|
十二所明神社神輿新調 9月下在地町 剣鉾新調 |
| 安政4年 |
1857 |
|
上蔵町 剣鉾作成 |
| 明治 |
明治初期 |
|
|
社殿のある八所・十二所大明神を村社「石座神社」、石座大明神を御旅所「山住神社」とする |
明治4年 |
1871 |
1/5 |
寺社領上知令布告 大雲寺・実相院は寺領のほとんどを明治政府に納める 門跡制度も廃止となる |
| 明治6年 |
1873 |
9/15 |
祭り、旧暦9月15日の実施日を新暦10月23日に変更 |
| 明治10年 |
1877 |
|
一言神社を村松の正水山から遷座 |
| 明治11年 |
1878 |
|
福善社を石座神社裏の「万年岡」から遷座 |
| 昭和 | 昭和4年 |
1929 |
1/23 |
国有林「万年岡」、当社へ払下げ許可 |
| 昭和11年 |
1936 |
|
子ども神輿新調 |
| 平成 | 平成7年 |
1995 |
1/23 |
祭り、実施日を10月23日に近い土曜日に変更 |
| 平成8年 |
1996 |
|
竹田 源が『大雲寺堂社旧跡纂要』の現代語訳を著す |
※寛保3年(1743)9月15日の『北山石座名神祭』(日次紀事)には、「五和尚」とよばれる村の長老5名のうちから「氏神神主壱人 御旅所神主壱人 壱ケ年ツツ百姓輪番勤」(「岩倉村差出明細帳」片岡与吉家文書)と神主が選ばれて祭祀を務め、とある。
これについて、現在の長谷八幡宮でも上記と同様で一和尚は6~7町ある中でトップクラスの上役です。岩倉の各町内の中、郷頭の下に上五人があり、それを五和尚というと言い方が重なることになります。一和尚の理解が間違っていましたか。昼神事で、「御幣持ち」の後を各町内の「一和尚」が歩くのは、「役を離れた」長老が歩くと考えれば別におかしくないのですが。

岩倉の地には、古くから
「石坐の神」が
祀られ、これを
産土神と村民から崇拝されてきました。産土神とはその土地の氏神であり、村社会の繁栄、
五穀豊穣、健康祈願、家内安全、子孫繁栄など、あらゆる願い事を聞いていただける神様です。それ故、いずれの時代でも村社会の中心を成す存在でした。
その神様が、「現在の
山住神社」の拝殿奥にある大きな岩に宿ると言い伝えられてきました(右写真:
崩れあり登ること厳禁)。実は、こちらが「石座神社」の元祖で、明治初めまで「石座大明神」とか「石坐明神」であったのです。
歴史を
遡ること、平安京遷都のときに
王城鎮護の目的として、京都の東西南北に「四つの岩蔵」をつくり、その四カ所に
一切経を埋めたとされています。この岩蔵(石坐)と磐座信仰とは何らかの繋がりがあろうかと思われます。(※ 今は、「四つの岩蔵」のうちの北の岩蔵だけが現存し、現在の「岩倉」
名称の発祥となりました。)
元慶4年(880)の『日本三代実録』には、「石坐の神」の神位が「正六位上」から「従五位下」となる、記録が残っています。この記録が、「山住神社」を示していること、どうやら否定する人はいないようです。「石坐の神」の
御神体が
山の大岩であることと、
磐座信仰とも重なり、崇拝されはじめたのは相当古いと想像できます。
この岩倉においては、いまだに「北岩蔵に一切経を埋めた」場所がどこなのかと言う議論があります。昭和初年にその結論として、「現在の大雲寺背後の山上」に『皇城鎮護埋経地』の碑が建てられました。しかし、結論を急ぎすぎたようにも思えます。一切経を埋めた場所が山住神社としている人は依然として多いと思われます。
【磐座信仰】古くからある自然崇拝(アニミズム)の一種で、磐座(岩)そのものが信仰の対象です。神事には「
御神体である岩」から神を「
依り代」に
降臨させ、その依り代とその
神威でもって
祭祀の中心としました。自然への信仰の例は、岩のほか森、山、島、滝などがあり、それぞれが
御神体です。この御神体に神が
宿り、後代に常設される神殿に移ることで、神社が信仰の対象になりました。
・
『都名所図絵』に見る
■山の磐座を御神体とする [
模式図 jpg]
■その他
拝殿・集会所をもつ
○石座(いわくら)神社へ
・叡山電鉄「岩倉駅」より徒歩18分
・京都バス、岩倉実相院行き、終点「実相院」より北へ徒歩2分
○山住(やまずみ)神社へ
・叡山電鉄「岩倉駅」より徒歩10分
・京都バス、岩倉実相院行き、「JA農協前」より西へ徒歩2分
*山住神社は石座神社へ行く途中にあります。
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京都市の北 jpg] [
岩倉の地図 jpg] [
過去の推定地図 jpg]
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