岩倉の地には、
産土神とされる「石坐の神」が古くから祀られ、村民から崇拝されてきました。産土神とはその土地の氏神であり、村社会の繁栄、五穀豊穣、健康祈願、家内安全、子孫繁栄など、あらゆる願い事を聞いていただける神様です。それ故、村社会の中心を成す存在です。
岩倉村では、「現在の山住神社」(※
地図)の拝殿奥にある大きな岩に、石座(石坐)明神が宿ると言い伝えられてきました(右写真:
崩れあり登ること厳禁)。実は、こちらが「石座神社」の元祖で、明治初めまで「
石座大明神」とか「
石坐明神」であったのです。地元の人の呼称は「明神さん」「明神さま」であったでしょう。
元慶4年(880)の『日本三代実録』には、「石坐の神」が「正六位上」から「従五位下」となる、記録が残っています。この記録が、「山住神社」を示していること、どうやら否定する人はいないようです。「石坐の神」の御神体が山の大岩であるから
磐座信仰とも結び付き、崇拝されはじめたのは相当古いと想像できます。
一方、平安京遷都のときに
王城鎮護の目的として、京都の東西南北に「四つの岩蔵」をつくり、その四カ所に一切経を埋めたとされています。この岩蔵と磐座信仰とは何らかの繋がりがあろうかと思われます。今は、「四つの岩蔵」のうちの北の岩蔵だけが現存し、現在の「岩倉」
名称の発祥となりました。
さて、「北岩蔵に一切経を埋めた」場所がどこなのかと言う議論があります。昭和初年にその結論として、「現在の大雲寺背後の山上」に『皇城鎮護埋経地』の碑が建てられました。しかし、結論を急ぎすぎたようにも思えます。一切経を埋めた場所が山住神社としている人は依然として多いと思われます。
【磐座信仰】古くからある自然崇拝(アニミズム)の一種で、磐座(岩)そのものが信仰の対象です。神事には「御神体である岩」から神を「依り代」に降臨させ、その依り代とその神威でもって祭祀の中心としました。自然への信仰の例は、岩のほか森、山、島、滝などがあり、それぞれが御神体です。この御神体が、後代に常設される神殿に移ることで、神社が信仰の対象になりました。
現在の地にある神社は、天禄2年(971)大雲寺の建立のとき、その東側に守護神として勧請された石座明神に始まるといわれています。
その後、長徳3年(997)鎮守石座明神に、高徳の七明神(新羅、八幡、山王、春日、住吉、松尾、賀茂)を勧請し、八所明神社となりました。さらに、天正20年(1592)にはその西横に、八所明神に四神(伊勢、平野、貴船、稲荷)を加え十二明神が祀られ、二社となりました。それ以来長く神社の名称は八所・十二所明神といったようです。明治になって、社殿があり松明を燃やし神輿を出す、こちらを「石座神社」と変更したようです。
【左図】天明6年(1786年)、
大雲寺の観光案内『都名所図絵』のもので、大雲寺の全景です。東下に「石座明神」の文言があり、1721年に建設の大鳥居が見えます。ところが、
八所・十二所明神の詳細を見るのは無理なようです。
大雲寺境内に参籠人の「籠屋(こもりや)」があちこちに見られます。狂疾者がここに籠もり、日夜観音堂に参詣し回復を祈願しました。このこと大雲寺の大きな収益源だったようです。
【右図】左図を神社境内の部分を拡大したものです。(更に拡大
右図をクリック)
長く伸びる階段は今の岩倉陵へ繋がるもののようで、神社の階段はその右にあるようです。大鳥居の前には「大岩」でも祭っているのでしょうか。神社の奥(北)は樹木が生え行き止まりのようで、ここに「石座明神」の文言が見えます。
図の左上端には「八所神社」の文言が見え、本来ならコの字形の棟の辺に本殿があるはずです。1743年の神祭で、松明・神輿2社がでていますが、この絵図の状態で祭りが実施できるでしょうか。
「描き方に曖昧さ」を見ました。大雲寺の観光案内図ですから致し方ないのでしょう。
『都名所絵図』の大雲寺境内に「石座明神」の文言があるから、後世の、地元の人まで誤解を生む事になったのでしょう。明治の初めまで、ずっと「石座大明神」や「石坐明神」の文言が付いていたのは、現・山住神社の方で、この大雲寺の地では八所・十二所明神であったようです。そのことが、別の絵図や村民の記録(1743年)、それに岩倉村が幕府に提出した文章(1805年)にも見られます。
きっと、絵図に「石座明神」を記したのは、大雲寺にいらっしゃっても「同じ功徳く」がありますよ、という意味なのでしょう。
注1)石坐、石座、岩座、岩蔵、磐座、岩倉、いずれも「いわくら」と読みます。
注2)現在の大雲寺は石座神社の東ですが、創建から昭和60年まで西の地にありました。
・本殿
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
・模式図
■石座神社の本殿
・本社 2社:
971年に石座明神を(山住神社から)勧請
997年に八所明神になる
(石座に、新羅・八幡・山王・春日・住吉・松尾・賀茂の7神を勧請)
1592年、十二所明神加える(上記八神に、伊勢・平野・貴船・稲荷の4神を勧請)
〃 、 八所明神(東)と十二所明神(西)の二社となる
・摂社 2社:
明治10年に一言主神を勧請し一言神社(東)を造る
明治11年に猿田彦神社・愛宕大神社を勧請し福善社(西)を造る
・末社 2社:
稲荷・鹿島・香取を勧請し西社、熊野・貴船・出雲を勧請し東社を造る、時期は不明
■その他
拝殿・神輿倉・神饌倉・東西宮座・社務所をもつ
■【祭りの一日】
【朝神事】 深夜に、六町の氏子が松明・剣鉾を先頭に石座神社の宮座に集います。六町の宮座到着は午前2時30分。2時40分、境内では「大松明」の点火とともに神事が執り行われます。 大松明が消えると、午前5時30分に剣鉾・神輿が御旅所である
山住神社へ向かいます。神輿が山住神社に到着すると、拝殿に安置され(6時50分)、ここ
山住神社でも神事が行われ、午前7時頃神事が終了します。
【昼神事】 午後2時前に各町の氏子が昼用剣鉾とともに山住神社に集い、午後2時過ぎに行列が石座神社へ向けて動き出します。この道中、数十年ぶりに復活した「
鉾指し」、大人・子供の「神輿振り」があります。また行列の途中の洛陽病院から「花笠」が加わります。石座神社到着は午後4時頃になります。神輿が拝殿へ納まると、神事とともに拝殿前にて岩倉史踊の奉納があり、これにて祭りも終了します。
■【行列の順序】社旗、金棒、御幣、各町の一和尚(いちわじょう、いちばんじょう)、各町の剣鉾、稚児、花笠(途中から)、子供神輿、太刀、大人神輿、神官、白丁、奉賛会長の順です。
六町とは、北から村松町、中在地町、上蔵町、忠在地町、西河原町、下在地町です。
■【古い祭り】
①いまの「大松明」の他、「相撲・走馬・尻たたき祭」の奉納がありました。大雲寺に二人の力者頭がいて、その差配で大雲寺から神輿を御旅所まで移動し、御旅所に神輿を安置をしました、さらに彼らが朝まで神輿を守護したといいます。
②行列の順序が、金棒(実相院部屋者)、御幣・剣鉾(下在地町)、他町の剣鉾、扇持、畳紙持、稚児、神輿、神殿(乗馬)、氏子総代(乗馬)、宮本の稚児(乗馬)、神輿、御旅の神主(乗馬)、大雲寺の法師一老二老(乗馬)、稚児(乗馬)、座衆、花傘(実相院からでる)のときがあったようです『洛北岩倉』。二人の神主、「御旅の神主」と「神殿」がいて、神殿は宮本町から選ばれた「宮神主」と称し、祭礼の中心となりました。2つの神輿は「雄」と「雌」の神輿でしょう。子供神輿はまだありません。
※①と②では内容が異なり比較できませんが、①の方が古いように思えます。「力者頭」と「実相院部屋者」や「(大雲寺の)法師一老二老」の文言から、当社が大雲寺の守護社であった頃で、祭りの起源が偲ばれます。
【早朝、各町の当屋に集合】
●上五人 当屋集合 |
各町の上五人による朝鉾の組み立て |
|
|
「鉾の組み立て」が終わった頃、神輿舁きなども当屋に集合しています |
|
|
●当屋を出発 |
先頭の松明に点火、一番南の下在地町を先頭に神社へ向かいます |
|
|
【朝神事】石蔵神社境内:六町の宮座到着は午前2時30分
●神 事 : 2:40~ |
東西の宮座で宴席がはじまる頃、拝殿では神事がおこなわれます |
|
|
●大松明点火 :3:00~ |
東西の宮座前の大松明が点火されます |
|
|
●東西の宮座 |
東西の宮座、六町内「振る舞い酒」で盛り上がりを見せます |
|
|
●神輿絡み : 4:00~ |
神輿出発に向けて大棒を入れます |
|
|
●記念松明 |
石座神社遷座一千年記念、記念松明・見本 |
|
|
・神輿出発(山住神社へ)子供 5:00、大人5:30~
神輿
・山住神社にて神事:7:15~
山住神事
【昼神事】
・御幣出発(山住神社へ向かう)
1:40~ 1:20頃
下在地町
お出迎え(金棒、一和尚、白丁)との集合写真
御幣は下在地町の当屋から出発します
・山住神社にて1:50~
剣鉾
山住神社
・行列出発(石座神社へ向かう)2:00~
行列先頭
剣 鉾
お稚児
子供神輿
刀(上蔵)
神 輿
行列後部
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
鉾指し
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
・岩倉史謡踊り奉納16:00~
史謡踊り
・大祭終了
鉾持帰り
・初宮詣、七五三詣、厄除け祈願、成人祭、安産祈願、地鎮祭など受付致しております。
令和六年(2024年) 行事 石座神社奉賛会
月日 | 曜日 | 時間 | 行事 |
1月 1日 |
(月祝) |
午前11時 |
元旦祭 |
1月 14日 |
(日祝) |
午前10時半 |
焼衲祭 |
2月 11日 |
(日祝) |
午後3時 |
御祈祷祭 |
7月 15日 |
(月祝) |
午後4時 |
湯立祭 |
8月 4日 |
(日) |
午前9時 |
神具虫干し |
10月 6日 |
(日) |
午前9時 |
御松刈り |
10月 13日 |
(日) |
午前9時 |
御松出し |
10月 20日 |
(日) |
午前8時 |
御松結い |
10月 24日 |
(木) |
|
支部は19日までに神事道清掃を随時行う |
10月 25日 |
(金) |
午前6時 |
神輿装具蔵出し |
10月 26日 |
(土) |
午前2時 |
大祭 |
10月 27日 |
(日) |
午後1時半 |
神輿解体蔵入れ |
11月 3日 |
(日祝) |
午後4時 |
御火焚祭 |
11月 17日 |
(日) |
午後4時 |
新穀祭 |
12月 22日 |
(日) |
午前9時 |
新年諸準備 |
時代 | 元号 | 西暦 | 月日 | |
| 不詳 |
? |
|
産土神「石坐の神」が崇拝され始める |
平安 | 延暦13年 |
794? |
|
平安京遷都に際し王城鎮護の目的で北岩蔵がつくられる |
元慶4年 |
880 |
10/13 |
石坐の神が「従五位下」になる 『日本三代実録』(現・山住神社の奥の岩に神が宿ると伝わる)
|
天禄2年 |
971 |
4/2 |
大雲寺の建立 東側に石座明神を勧請する |
長徳3年 |
997 |
|
大雲寺の鎮守石座明神に七明神を勧請し、八所明神社とする |
鎌倉 | 文正2年 |
1467 |
|
実相院が、この年に応仁の戦火を避け大雲寺境内の現在地にくる |
室町 | 文明17年 |
1485 |
9/15 |
近衛政家が実相院の藪にて、当社の祭礼を見物 |
天文15年 |
1546 |
10/29 |
細川氏と山本氏の抗争 神社が焼ける |
桃山 | 天正2年 |
1574 |
|
神社本殿の西殿、東殿ができる |
天正20年 |
1592 |
|
神社再建 八所明神の擬宝珠に天正二十年二月の銘 |
〃 |
〃 |
3月 |
八所明神に四神を加え十二明神も祀る |
江戸 | 慶長19年 |
1614 |
12月 |
八所・十二所明神社前 灯籠奉納 |
元禄3年 |
1690 |
3/27 |
大雲寺本尊の開帳 四ヶ月間(参拝人相手の茶屋114軒)これ以降多くの参詣人が常に集まる |
元禄11年 |
1698 |
|
権少僧都 恕融『大雲寺堂社旧跡纂要』編纂 |
元禄12年 |
1699 |
9/15 |
「相撲」、宮座前で東西「松明」燃やす 大雲寺力者棟梁の差配で「神輿」が『旅殿』(石坐神社)まで行く |
宝永8年 |
1711 |
|
石坐明神(現・山住神社) 手洗鉢奉納 |
享保6年 |
1721 |
|
八所・十二所明神社 大鳥居奉納 |
元文4年 |
1740 |
9/16 |
~明治初年廃止まで毎年御神札・神饌を皇室へ献納 |
寛保 3年 |
1743 |
6月 |
八所・十二所大明神、石座大明神 共に神主ハ百姓一和尚輪番持 9/9夜:松明,神利太々幾 9/15:御輿弐社,鉾五本,相撲(片岡(与)家文書) |
宝暦2年 |
1752 |
|
石坐明神(現・山住神社) 鳥居奉納 |
明和3年 |
1766 |
|
八所・十二所明神社 社殿改造 |
天明3年 |
1783 |
|
十二所明神社「鷺之図掲額」奉納 |
享和2年 |
1802 |
|
中在地町 吹散作成 |
文化2年 |
1805 |
|
岩倉村から幕府の寺社奉行宛文書に、現・山住神社を「氏神御旅 石座大明神」と記す |
天保2年 |
1831 |
|
八所・十二所明神社 拝殿再建 |
天保3年 |
1832 |
9/9 |
祭り、「岩倉尻たたき祭」の記録あり |
〃 |
〃 |
9/15 |
祭り、「大松明・相撲・走馬」の記録あり |
弘化2年 |
1845 |
|
神輿二基修復料寄進帳が現存 |
弘化3年 |
1846 |
|
西河原町 剣鉾作成 |
嘉永2年 |
1849 |
|
八所・十二所明神社拝殿「鷺之図掲額」奉納 西河原町 吹散作成 |
嘉永5年 |
1852 |
|
十二所明神社神輿新調 9月下在地町 剣鉾新調 |
安政4年 |
1857 |
|
上蔵町 剣鉾作成 |
明治 |
明治初期 |
|
|
社殿のある八所・十二所大明神を村社「石座神社」、石座大明神を御旅所「山住神社」とする |
明治4年 |
1871 |
1/5 |
寺社領上知令布告 大雲寺・実相院は寺領のほとんどを明治政府に納める 門跡制度も廃止となる |
明治6年 |
1873 |
9/15 |
祭り、旧暦9月15日の実施日を新暦10月23日に変更 |
明治10年 |
1877 |
|
一言神社を村松の正水山から遷座 |
明治11年 |
1878 |
|
福善社を石座神社裏の「万年岡」から遷座 |
昭和 | 昭和4年 |
1929 |
1/23 |
国有林「万年岡」、当社へ払下げ許可 |
昭和11年 |
1936 |
|
子ども神輿新調 |
平成 | 平成7年 |
1995 |
1/23 |
祭り、実施日を10月23日に近い土曜日に変更 |
平成8年 |
1996 |
|
竹田 源が『大雲寺堂社旧跡纂要』の現代語訳を著す |
■山の磐座を御神体とする
■その他
拝殿・集会所をもつ
○石座(いわくら)神社へ
・叡山電鉄「岩倉駅」より徒歩18分
・京都バス、岩倉実相院行き、終点「実相院」より北へ徒歩2分
○山住(やまずみ)神社へ
・叡山電鉄「岩倉駅」より徒歩6分
・京都バス、岩倉実相院行き、「JA農協前」より西へ徒歩2分
*山住神社は石座神社へ行く途中にあります。
※交通機関をご利用下さい。
[Web Top]