石座神社
■ 氏子よる試作 2019.12.31 より ■

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石座神社 神輿
石座神社・拝殿 神輿

クラウド掲示板 ・更新情報
令和4年4月20日~ 石座神社、神祭関係の写真募集します
令和7年10月25日(土)午前二時より 大祭


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境内

     ・本殿

石座神社


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     ・神輿蔵と拝殿(模式図

境内


■石座神社の本殿
・本社 2社:
  971年 大雲寺の東に石座明神を勧請かんじょう
  997年 八所明神はっしょみょうじんとなる
      (石座に、新羅しらぎ八幡やわた山王さんおう春日かすが住吉すみよし松尾まつお賀茂かもの7しんを勧請)
  1592年 十二所じゅうにしょ明神を加える(上記八神に、伊勢いせ平野ひらの貴船きぶね稲荷いなりの4神を勧請)
  〃   八所明神(東)と十二所明神(西)の二社となる
・摂社 2社:
 明治10年 一言主神を勧請し一言ひとこと神社(東)をつく
 明治11年 猿田彦さるたひこ神社・愛宕あたご神社を勧請し福善社ふくぜんしゃ(西)を造る
・末社 2社:
 創建不明 稲荷・鹿島かしま香取かとりを勧請し西社
  〃   熊野くまの・貴船・出雲いづもを勧請し東社を造る

■その他
 拝殿はいでん神輿蔵みこしぐら神饌蔵しんせんぐら東西宮座とうざいみやざ社務所しゃむしょをもつ

▣探そう、[これ]どこにありますか~

年間の行事

令和七年(2025年) 行事 石座神社奉賛会

月日曜日時間行事
(R8)1月1日 (水祝) 午後1時 ・元旦祭
1月 12日 (日祝) 午前10時半  焼衲祭
2月 11日 (火祝) 午後3時 ・御祈祷祭
7月 21日 (月祝) 午後4時 湯立祭
8月 10日 (日) 午前9時  神具虫干し
10月 5日 (日) 午前9時  御松刈り
10月 12日 (日) 午前9時  御松出し
10月 19日 (日) 午前8時  御松結い
10月 23日 (木)  支部は23日までに神事道清掃を随時行う
10月 24日 (金) 午前6時  神輿装具蔵出し
10月 25日 (土) 午前2時 ・大祭
10月 26日 (日) 午後1時半  神輿解体蔵入れ
11月 3日 (月祝) 午後4時 御火焚祭
11月 16日 (日) 午後4時 新穀祭
12月 21日 (日) 午前9時  新年諸準備
 本年度の宮元町:忠在地町、次期宮元町:下在地町
    行事の詳細 奉賛会の方は ------  [こちら]



ご祈祷

初宮詣はつみやもうで七五三詣ひちごさんもうで厄除け祈願やくよけきがん、成人祭、安産祈願あんざんきがん地鎮祭じちんさいなど受付致しております。

 お宮参り(初宮詣、七五三詣など)、地鎮祭など
 神職に御用の方は、下記までご連絡ください。
 賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)社務所
  電話 075(781)0010



歴史

  ・年表
時代元号西暦月日 
 不詳   「石坐の神」が崇拝され始める
平安延暦13年 794?   平安京遷都に際し王城鎮護の目的で北岩蔵ができ一切経が埋められる
元慶4年 880 10/13 石坐の神(現・山住神社)が「従五位下」になる 『日本三代実録』
天禄2年 971 4/2 大雲寺の建立 東側に石座明神を勧請する
長徳3年 997   大雲寺の鎮守石座明神に七明神を勧請し、八所明神社とする
鎌倉文正2年 1467   実相院が、この年に応仁の戦火を避け大雲寺境内の現在地にくる
室町文明17年 1485 9/15 近衛政家が実相院の藪にて、当社の祭礼を見物
天文15年 1546 10/29 細川氏と山本氏の抗争 神社が焼ける
桃山天正2年 1574   神社本殿の西殿、東殿ができる
天正20年 1592   神社再建 八所明神の擬宝珠に天正二十年二月の銘
3月 八所明神に四神を加え十二明神も祀る(1593年村ほぼ自立か)
江戸慶長19年 1614 12月 八所・十二所明神社前 灯籠奉納
元禄3年 1690 3/27 大雲寺本尊の開帳 四ヶ月間(参拝人相手の茶屋114軒)これ以降多くの参詣人が常に集まる
元禄11年 1698   権少僧都 恕融『大雲寺堂社旧跡纂要』編纂
元禄12年 1699 9/15 「相撲」、宮座前で東西「松明」燃やす 大雲寺力者棟梁の差配で「神輿」が『旅殿』(石坐神社(現・山住神社))まで行く
宝永8年 1711   石坐明神 手洗鉢奉納
享保6年 1721   八所・十二所明神社 大鳥居奉納
元文4年 1740 9/16 ~明治初年廃止まで毎年御神札・神饌を皇室へ献納
寛保 3年 1743 6月 八所・十二所大明神、石座大明神 共に神主ハ百姓一和尚輪番持 9/9夜:松明、神利太々幾シリタタキ 9/15:御輿弐社、鉾五本、相撲(片岡(与)家文書)
宝暦2年 1752   石坐明神(現・山住神社) 鳥居奉納
明和3年 1766   八所・十二所明神社 社殿改造
天明3年 1783   十二所明神社「鷺之図掲額」奉納
享和2年 1802   中在地町 吹散作成
文化2年 1805   岩倉村から幕府の寺社奉行宛文書に、現・山住神社を「氏神御旅 石座大明神」と記す
天保2年 1831   八所・十二所明神社 拝殿再建
天保3年 1832 9/9 祭り、「岩倉尻たたき祭」の記録あり
9/15 祭り、「大松明・相撲・走馬」の記録あり
弘化2年 1845   神輿二基修復料寄進帳が現存
弘化3年 1846   西河原町 剣鉾作成
嘉永2年 1849   八所・十二所明神社拝殿「鷺之図掲額」奉納 西河原町 吹散作成
嘉永5年 1852   十二所明神社神輿新調 9月下在地町 剣鉾新調
安政4年 1857   上蔵町 剣鉾作成
明治 明治初期     社殿のある八所・十二所大明神を村社「石座神社」、石座大明神を御旅所「山住神社」とする
明治4年 1871 1/5 寺社領上知令布告 大雲寺・実相院は寺領のほとんどを明治政府に納める 門跡制度も廃止となる
明治6年 1873 9/15 祭り、旧暦9月15日の実施日を新暦10月23日に変更
明治10年 1877   一言神社を村松の正水山から遷座
明治11年 1878   福善社を石座神社裏の「万年岡」から遷座
昭和昭和4年 1929 1/23 国有林「万年岡」、当社へ払下げ許可
昭和11年 1936   子ども神輿新調
平成平成7年 1995 1/23 祭り、実施日を10月23日に近い土曜日に変更
平成8年 1996   竹田 源が『大雲寺堂社旧跡纂要』の現代語訳を著す
※寛保3年(1743)9月15日の『北山石座名神祭』(日次ひなみ紀事)には、「五和尚ごばんじょう」とよばれる村の長老5名のうちから「氏神神主壱人 御旅所神主壱人 壱ケ年ツツ百姓輪番勤」(「岩倉村差出明細帳」片岡与吉家文書)と神主が選ばれて祭祀を務め、とある。
 これについて、現在の長谷八幡宮でも上記と同様で一和尚は6~7町ある中でトップクラスの上役です。岩倉の各町内の中、郷頭の下に上五人があり、それを五和尚というと言い方が重なることになります。一和尚の理解が間違っていましたか。昼神事で、「御幣持ち」の後を各町内の「一和尚」が歩くのは、「役を離れた」長老が歩くと考えれば別におかしくないのですが。

起源
石座明神  岩倉の地には、古くから石坐いわくらの神」まつられ、これを産土神うぶすながみと村民から崇拝されてきました(産土神の表記自体は平安期の『延喜式』にその起源があるとされるようです)。産土神とはその土地の氏神であり、村社会の繁栄、五穀豊穣ごこくほうじょう、健康祈願、家内安全、子孫繁栄など、あらゆる願い事を聞いていただける神様です。それ故、いずれ時代でも村社会の中心を成す存在でした。

 岩倉村では、「現在の山住神社」(※地図)の拝殿奥にある大きな岩に、石座(石坐)明神が宿ると言い伝えられてきました(右写真:崩れあり登ること厳禁)。実は、こちらが「石座神社」の元祖で、明治初めまで「石座大明神」とか「石坐明神」であったのです。地元の人の呼称は「明神さん」「明神さま」であったでしょう。

 平安京遷都のときに王城鎮護おうじょうちんごの目的として、京都の東西南北に「四つの岩蔵」をつくり、その四カ所に一切経いっさいきょうを埋めたとされています。この岩蔵と磐座信仰とは何らかの繋がりがあろうかと思われます。
 元慶4年(880)の『日本三代実録』には、「石坐の神」の神位が「正六位上」から「従五位下」となる、記録が残っています。この記録が、「山住神社」を示していること、どうやら否定する人はいないようです。「石坐の神」の御神体ごしんたい山の大岩であることと、磐座信仰いわくらしんこうとも重なり、崇拝されはじめたのは相当古いと想像できます。

 で、この「四つの岩蔵」と「産土神」と称されるに至った時期、いずれが古いかと考えるに、さほど変わらないと、(私は)思います。どちらかと言うと「四つの岩蔵」の方が古いのではないかと思います。ここに磐座信仰(より具体的には「石坐の神」と崇められた時期)をも入れて考えますと、磐座信仰には自然崇拝の流れ、古代文明からの流れがあり圧倒的に磐座信仰(「石坐の神」=この文言を、岩に向かって手を合わせ始めたときの神とする)が古いと思われます。(※ 今は、「四つの岩蔵」のうちの北の岩蔵だけが現存し、現在の「岩倉」名称の発祥となりました。)


 この岩倉においては、いまだに「北岩蔵に一切経を埋めた」場所がどこなのかと言う議論があります。昭和初年にその結論として、「現在の大雲寺背後の山上」に『皇城鎮護埋経地』の碑が建てられました。しかし、結論を急ぎすぎたようにも思えます。一切経を埋めた場所が山住神社としている人は依然として多いと思われます。(「北の果て」から考えて大岩と磐座信仰を考えるに、ここ(山住神社)が一切経を埋めた所と考えます。でも、3世紀前半には小倉山の北に中在地遺跡もあるようだとすると分からなくなります)

【磐座信仰】古くからある自然崇拝(アニミズム)の一種で、磐座(岩)そのものが信仰の対象です。神事には「御神体ごしんたいである岩」から神を「依り代よりしろ」に降臨こうりんさせ、その依り代とその神威しんいでもって祭祀さいしの中心としました。自然への信仰の例は、岩のほか森、山、島、滝などがあり、それぞれが御神体ごしんたいです。この御神体に神が宿やどり、後代に常設される神殿に移ることで、神社が信仰の対象になりました。


『都名所図絵』に見る
 現在の地にある神社は、天禄2年(971)大雲寺だいうんじ建立こんりゅうのとき、その東側に守護神しゅごしんとして勧請された石座明神に始まるといわれています。
 その後、長徳3年(997)鎮守石座明神に、高徳の七明神(新羅、八幡、山王、春日、住吉、松尾、賀茂)を勧請し、八所明神社となりました。さらに、天正20年(1592)にはその西横に、八所明神に四神(伊勢、平野、貴船、稲荷)を加え十二明神がまつられ、二社となりました。それ以来長く神社の名称は八所・十二所明神といったようです。明治になって、社殿があり松明たいまつを燃やし神輿みこしを出す、こちらを「石座神社」と変更したようです。

大雲寺 【左図】天明6年(1786年)、大雲寺の観光案内『都名所図絵』のもので、大雲寺の全景です。東下に「石座明神」の文言があり、1721年に建設の大鳥居が見えます。ところが、八所・十二所明神の詳細を見るのは無理なようです。
 大雲寺境内に参籠人さんろうにんの「籠屋こもりや」があちこちに見られます。大雲寺境内に狂疾者きょうしつしゃがここに籠もり、日夜観音堂に参詣さんけいし回復を祈願しました。このこと大雲寺の大きな収益源だったようです。


大雲寺2 【右図】左図を神社境内の部分を拡大したものです。(更に拡大右図をクリック
 長く伸びる階段は今の岩倉陵へ繋がるもののようで、神社の階段はその右にあるようです。大鳥居の前には「大岩」でも祭っているのでしょうか。神社の奥(北)は樹木が生え行き止まりのようで、ここに「石座明神」の文言が見えます。
 図の左上端には「八所神社」の文言が見え、本来ならコの字形の棟の辺に本殿があるはずです。1743年の神祭で、松明と神輿2社、さらに鉾が5本がでているようですが、この絵図の状態では祭りの実態が予想できません。目的が大雲寺の観光案内図ですから致し方ないところでしょう。
 『都名所絵図』の大雲寺境内に「石座明神」の文言があるから、地方の方には誤解を生む事もあったでしょう。明治の初めまで、ずっと「石座大明神」や「石坐明神」の文言が付いていたのは現・山住神社の方で、この大雲寺の地では八所・十二所明神であったからです。山住神社が「石座大明神」であったことは、別の絵図や村民の記録(1743年)、それに岩倉村が幕府に提出した文章(1805年)にも見られます。

注1)石坐、石座、岩座、岩蔵、磐座、岩倉、いずれも「いわくら」と読みます。
注2)現在の大雲寺は石座神社の東ですが、創建から昭和60年まで西の地にありました。



山住神社(元石坐明神、御旅所)

御旅

   ■山の磐座を御神体とする [模式図]
   ■その他
    拝殿・集会所をもつ


アクセス

○石座(いわくら)神社へ
 ・叡山電鉄「岩倉駅」より徒歩18分
 ・京都バス、岩倉実相院行き、終点「実相院」より北へ徒歩2分
○山住(やまずみ)神社へ
 ・叡山電鉄「岩倉駅」より徒歩10分
 ・京都バス、岩倉実相院行き、「JA農協前」より西へ徒歩2分
 *山住神社は石座神社へ行く途中にあります。

 [京都市の北] [岩倉の地図]

 ※交通機関をご利用下さい。


所在地:京都市左京区岩倉上蔵町302