光善寺のあゆみ


一 蓮如上人がひらいた「島坊」光善寺



「島坊」光善寺のはじまり
寛正六年(一四六五)、比叡山の衆徒によって大谷本願寺を破却(寛正の法難)された蓮如上人は、畿内各地を布教されていました。そんなころ、師とも仰ぐ大乗院経覚の助けをえて、越前(現福井県)に吉崎御坊をつくられました。多くの門徒が集まりましたが、この地が加賀一向一揆の拠点となることを怖れ、文明七年(一四七五)八月 、「お叱りの御文」を書いて吉崎を去られました。
 吉崎御坊を出た蓮如上人は、若狭国小浜から丹波づたいに摂津国に入られ、萩谷村(現高槻市)を経て、有力門徒のいる富田にとどまられました。まもなく河内国出口村(現枚方市)に行き、御厨石見入道(みくりやいわみにゅうどう)という人の道場(仏法を聞き語り合う場)をもとに、蓮如上人は出口に光善寺を創建されました。
 出口光善寺はその後、戦乱や火災のために焼失しましたが再建されることなく、島下郡鳥飼、茨田郡大庭と移り、慶長年間(一六〇〇年代)には、この島村に島坊光善寺が開かれることとなりました。
ほどなくして光善寺は、出口の旧地に戻ったとされます。
その後、この島坊光善寺の正式名称「渕埋山(えんまいざん)光善寺」は出口の光善寺と同じまま現在に至っていますが、この間の事情は明らかではありません。


江戸時代の島村光善寺


出口光善寺は、寛永十六年(一六三九)、八世准玄が西本願寺学寮の初代能化(学長)となるなど、学問の寺としても有名でした。しかし、十世寂玄が異説を唱えたとされたことを契機に、元禄九年(一六九六)、東本願寺に転派します。
当時、島村光善寺は出口光善寺の掛(別院)となっていたため、市域の触下寺院(末寺)も同様に転派することとなりなりました。江戸時代になると、幕府はすべての人々には必ずいずれかの寺院の檀家となり(檀家制度)、すべての寺院には本寺・末寺の関係(本末制度)をつくることを命じました。とりわけ檀家制度は、キリシタン禁制をかかげて、宗教界の管理と戸籍(こせき)制度の徹底をはかる、幕府の重要な社会政策でした。島村でもこの檀家制度にもとづいて、宗門改め(宗旨改め)が行われました。人々が他村に嫁いだり、旅に出たりする時に必要な村送り状や往来手形などの発行も、戸籍をあずかる寺院の大切な仕事でした。
寺院は、このような社会的役割のほかにも、寄合や娯楽など村人が集う開かれた場所として、また人々の心のよりどころとして、多様な役割を果たしてきました。村人たちは、そのような公共の場としての寺院を支えてきました。傷んだ寺院の建物の修理に関する古文書からも、村人と寺院のそんな姿がうかがえます。




光善寺を受け入れた島村


戦乱の時代、島村はなぜ、出口光善寺のような由緒ある連枝寺院(門主一族の寺院)を受け入れることができたのでしょうか。
戦国時代には大坂(石山)本願寺が成立し、西国の物資が瀬戸内海から大坂に集まるようになりました。大坂本願寺は宗教都市であると同時に経済都市でもありました。いっぽう、摂津茨木には守護所(その国の支配の中心地)が置かれるなど、北摂の政治の一拠点となっていました。島村は神崎川・淀川の水運によって、茨木と大坂を結ぶ中継地になっていきました。
島村に残された絵図や明治時代の地籍をみると、「津之辺(角部)」「舩津道」など水運にかかわる地名が記されています。
江戸時代には、大阪市中から農作物の肥料となる屎(こえ)(人肥))を運ぶ屎(肥)船が盛んに往来し、明治になってからも、島村には料理屋や宿屋なども多く、物流の拠点として多くの商人の往来(おうらい)があったことが知られます。

 明治五年(一八七二)に学制が発布された時、茨木市域は翌年の明治六年、三つの小区に分けられ、それぞれに中心となる小学校が置かれました。島村が属す三小区では、光善寺に置かれた島小学校(現玉島小学校)が茨木小学校、福井小学校とならんで、茨木で初めての小学校となりました。このように、島地区は戦国時代以来、農村でありながら流通の一拠点としての先進性も兼ね備えていました。


二、蓮如上人の教え


蓮如上人はどういう人か ~真宗の再興(さいこう)を願って~
 今から七百年ほど前、本願寺第三代覚如上人(かくにょしょうにん)は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えを継承するものであると主張され、本願寺と名のり、本寺として門弟の上に君臨(くんりん)する立場をとられました。そのため、大谷本願寺は多くの門弟からみはなされることになっていました。参(さん)詣(けい)者(しゃ)がほとんどなく、経済的にも困窮(こんきゅう)した状況が長く続いていたのです。
応永(おうえい)二十二年(一四一五)、蓮如上人は本願寺第七代存如(ぞんにょ)上人の長子として誕生されました。上人は質素な生活の中で勉学に励まれ、親鸞聖人著の『教(きょう)行(ぎょう)信(しん)証(しょう)』などを繰り返し読まれたのです。二十歳頃より父の存如上人を補佐して聖教類(しょうぎょうるい)を書写(しょしゃ)し、各地の念仏集団へ授与(じゅよ)
されています。
 四十三歳で本願寺を継承された上人は、人々と対面する場所を、一段高い高座(こうざ)から聴衆のいる平座(ひらざ)
にあらためます。僧侶も門徒も同列(御同朋(おんどうぼう))であり、同じ仏の道を歩む者(御同行(おんどうぎょう))とされ、ともに親鸞聖人の門徒、念仏の生活者であるとされたのです。


聞法の場をひらく  ~道場と講~


十五世紀の後半、旧仏教に対抗して専修念仏により民衆を救おうとした真宗の教えが、戦乱の世を生き抜こうとする民衆の中に浸透しはじめると、急速な勢いで門徒が増えていったのです。蓮如上人は、各集落に「道場」を設立していきます。道場とは、念仏の教えを語りあうために寄りあう建物です。道場には「南無阿弥陀仏」の名号軸が掛けられ、道場主は集まった人々とともにお勤めをし、念仏の教えを深めあいました。
上人はまた、寺院や「講」と呼ばれる組織をつくられます。毎月一回以上開かれる講では、老若男女が念仏生活や人生問題など広く話し合いました。こうして「講」は、人間づくりの貴重な場ともなっていたのです。
真宗大谷派では、昭和三十六年真宗同朋会運動が提唱され、現在も継して展開されています。これは、まず各々の寺にだれもが教えを話し合う場(同朋会)を開くこと。そして、そこでは門徒、僧侶がおつとめや話し合いを通じて、ともに真の人間として生きることを願うものです。


今日の社会生活においても、「講」が果たしてきた人間づくりの精神に学ぶことに大きな意味があるのではないでしょうか。当院の聞法会「いぶきの会」も、この願いにもとづいて開催しています。

教えをやさしく  ~『御文』~


仏教の教えは、当時の庶民には理解できない難解なものでした。そこで、蓮如上人は真宗の教えをだれでも理解できるやさしい言葉で書いて、僧侶や門徒に与えられました。これが『御文』です。数多く書かれた『御文』には、「雑行のこころをすて」「弥陀をたのめ」「報謝のためとおもいて念仏もうすべき」と信心のもち方を簡明(かんめい)に示されています。上人から『御文』を受けとった人びとは、講の場などで同行に読み聞かせます。このようにして、念仏の教えが誤りなく伝えられ、人びとに広く受け入れられていきました。寺や門徒の家でされるおつとめを「正信偈)」・「念仏」・「和讃」であると定められたのも上人です。また、「正信偈」の版木を作られ、おつとめの本も容易に手に入ることになります。蓮如上人のご尽力を通じ、ただ念仏を称えることでたすかるという真宗の教えが民衆の中に浸透していったのです。


                                                                

三 現在の光善寺 ~暮らしのなかで~

 

門徒会と講


・門徒会   総代・責任役員・世話方
・仏教婦人会 行事での接待 バスツアー主催
・花講    報恩講の仏花を立てる
・尼講    初講・秋彼岸会(無縁仏法要)おみがき奉仕
・十六日講  十一月二十日開催、組ごとに当番
・二十八日講 毎月二十八日、朝七時に勤行
その他 
・「絵本コーナー」を本堂内に開設しています。


年中行事


・門徒総報恩講 一月下旬
・蓮師会(れんしえ)(蓮如上人ご祥月) 三月下旬(春季永代経を兼修)
・ご旧跡の巡拝バスツアー (仏教婦人会主催)
・盂蘭盆会
・地蔵盆  しんのんさん(島地区)
・秋季永代経
・報恩講  十一月十九・二十日 
・十六日講 十一月二十日(報恩講修了後)
・除夜式・修正会
・いぶきの会(同朋会) 毎月二十八日