僕たちは銅鉱脈の上に住んでいる
−4つの親鉉と2000の間歩−
川西市の猪名川パークタウンの南西部にある多田銀山は、多田源氏と豊臣家埋蔵金伝説により全国的に有名ですが、銀山というよりも、銅山といったほうが正確で、川西市、猪名川町、豊能町、能勢町を中心とした東西南北10数キロにわたる範囲は、古来より日本でも有数の銅の産地として知られてきました。 |
古くは、奈良時代に聖武天皇が東大寺大仏を鋳造するために銅をこの地域から採らせたとも、平安時代中期に多田源氏の始祖である源満仲が採銅を始めたともいわれていますが、平安末期に朝廷が能勢に役所を設けて、本格的に採銅を始めたのが確かなところのようです。その場所は現在の豊能町余野のあたりと推測されていて、能勢採銅所の管理責任者には太政官の官務家であった小槻家(のちに壬生家)が代々あたってきました。 鎌倉時代には、採銅所は徐々に壬生家の私領的性格を帯びるようになりましたが、逆に、室町時代には、能勢氏や塩川氏などの土豪の支配力が強くなりました。 享保年間(江戸時代中期)の調査記録によると、このあたりには合計で約2000箇所の間歩(まぶ・坑道のこと)があったといいます。また、最近では、川西市銀山は昭和40年代後半まで、豊能町の桜谷鉱山は昭和20年頃まで操業していました。 平安時代に源満仲が河内からこの地に移り支配したのも、その後に多田源氏が大きく発展したのも、この地の土豪の塩川氏と能勢氏が長年年にわたり争ったのも、豊臣秀吉が塩川氏を滅ぼしたのも、全てはこの銅鉱の支配権が絡んだものといっても過言ではなく、この地域の歴史はこの銅鉱脈により作られてきたともいえます。 |
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4つの親鉉 主要な鉱脈のことを親鉉(おやづる)といいいますが、この付近は南北方向に河川に沿って4本の親鉉が存在しています。(七宝山は現在の高代寺山、奇妙山は知明山のこと) |
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一庫公園には間歩がいっぱい ときわ台、光風台は七宝山親鉉のど真ん中にあたるため、宅地になる前の山にはあちこちに間歩の跡があったようです。しかし、昭和40年頃から始まった宅地造成工事によりそのほとんどが消滅しましたが、初谷川沿いの谷部の雑木林の中には今も間歩の跡が現存しているそうです。 この中で最も記録に新しいのは桜谷鉱山で、大正時代に他の鉱山と同様に一度廃坑となりましたが、太平洋戦争が始まると再開発され、敗戦とともに再び廃坑となっており、現在の光風台1丁目から吉川中学校のあたりに坑口があったと言われています。 最近、全面オープンした知明湖の県立一庫公園には間歩の跡がそこら中に見られ、公園内の案内看板にも間歩跡が沢山表示されていますので、遊びに行った折には一度見てください。お勧めは、知明山の山頂付近にあるもので、金網越しに穴の中を見ることができます(でも真っ暗)。ただし、全ての間歩跡は当然のことながら土やコンクリで塞がれていますので、見ても「ふーん」で終わるかも知れません。 |
初谷川にある間歩 能勢電鉄光風台駅の上り下り両側のトンネルの山にも間歩跡があるようです。 妙見口側のトンネルの上にある切り立った岩場には、昔、岩の中ほどに大きな松の木があり、初谷川沿いに下から見上げた時には、天狗が手をかざしたように見えるため、天狗岩と昔から呼ばれているそうです。その岩場にいくつかの間歩跡があり、その上部には2つの祠が現存しています。ここには光風台側から簡単に降りていくことができますし、昔は降り口に鳥居があったそうです。 幸いにも私はとても怖がりなので、がけ面を下り、間歩穴奥深くに立ち入ることなどできませんが、世の中には間歩についての研究家や探検家が沢山おられるようで、ネットで検索したり、図書館で文献を探したりすれば、より詳しい情報が簡単に得られます。 「ここ掘れ ワン!ワン!」と自宅の庭で愛犬ポチが啼くなら、一度掘ってみてはいかがでしょうか。ひょっとして一財産できるかも。ただし、自宅の庭からだと、深さ数十メートルは掘らないと鉱脈には当たりませんから、そのおつもりで。 |
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