吉川地区の歴史と地名の由来
−「吉河」から「豊能」へ−
ときわ台、東ときわ台、光風台は、「保原山−ほうばらやま−」 |
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「吉川」の名称は、古くは「吉河」といわれ、高代寺の旧書によると、その昔、多田満仲の孫の源頼国の政所が病気のとき、小野仁海なる僧が高代寺で水加持を修し、「水を吉とすること可なり」としたため「吉河」となったとも、また、高代寺の山号「亀甲山」を「吉河山」と改めたことによるとも、いわれています。
古代の能勢郡と吉川地区
大化の改新(645)及び大宝律令の成立(701)により、地方の行政制度は「国−郡−郷」という構成をとるようになりました。
当初、能勢郡はまだ存在せず、豊能町、能勢町一帯は川辺郡の管轄下にありました。川辺郡の郡衙は今の伊丹市中心部にあり、相当遠く不便であったため、和銅6年(713)に郡司が任命され、能勢郡として独立しました。 全国の「国−郡−郷」の一覧を著した「和名抄」によると、能勢郡には「能勢」「雄村−おむら−」「枳根−きね−」の三郷からなるとされていますが、それぞれが現在のどの場所にあたるかは定説がないようです。一説にはこの吉川地区は東谷村、中谷村(現在の川西市の能勢電山下駅周辺)とあわせて雄村郷だったといわれています。 ちなみに、川西市、猪名川町、伊丹市あたりは川辺郡とよばれ、豊中市、池田市、箕面市あたりは豊島郡に属していました。
中世の吉川地区 墾田永年私財法と不輸(納税免除)不入(治外法権)の権の成立により律令制度が崩壊し、地方領主達の荘園が中央の有力な貴族や寺社への寄進されていきますが、豊能町域の村々もその例外ではありませんでした。 木代一帯に石清水八幡宮支配の「木代荘」があったことが八幡宮の記録に、「高山庄」が勝尾寺(箕面市)の荘園だったことが寺の文書に、それぞれ残されています。 吉川地区においては、4段の田畠が寄進により勝尾寺の荘園に組み込まれたことが記録として残されています。
地方の武士勢力の台頭は「守護請」「地頭請」などの制度を生み、やがてそれは在地有力武士による荘園の所領化へとつながっていきます。守護請、地頭請とは、武士の荘園への侵入に苦しんだ貴族・寺社など荘園領主が、守護・地頭に荘園管理をまかせ、代わりに一定の年貢の納入をうけおわせた制度です。
田畑だけでなく、採銅所についても同様の現象が見られます。この時代、多田銀銅山の採銅所を支配していた官務家の壬生家には採銅所管理に関わる膨大な記録が「壬生家文書」として残されていて、その中に在地豪族の採銅所への干渉、侵略に対して苦慮していた様子が記されています。
近世の吉川地区 戦国時代末期から江戸幕藩体制にかけて、村落組織は個々の武士が在地して直接的な農民支配を行う形から、農村を離れて城下町に移り住み間接的に農民支配を行う形(兵農分離)が進みました。
その支配を成立させた制度が「村請制」でした。
江戸時代、豊能町域には郷帳に記載されている村が吉川村含めて9つありました。これらは、それぞれ行政的に村として把握された単位ですが、この村がさらにいくつかの小単位からなる場合があり、吉川村もそのひとつとされています。 保之谷の集落は少なくとも400年以上前から存在していたことは間違いない事実のようで、それどころか、源満仲の六男多田蔵人源頼範を「保谷殿」と称したことが高代寺の旧書に残っていることから、ことによると保之谷集落は平安時代には既に成立していた可能性もあります。 |
豊能郡の誕生
明治11年の「府県−郡−町村」制の施行により、吉川村は改めて大阪府域の能勢郡(郡役所は今の豊能町地黄)の一員となりました。 明治21年に当時の町村合併推進の国策の下、今の豊能町の東地区の大部分が統合し、東能勢村となりましたが、なぜか吉川村だけは独立路線を歩んだようです。 一方で、明治30年頃には、今の川西市の黒川、国崎、横路といった一庫ダムの東岸に位置する村々が能勢郡への編入を国に要望していて、国会でも一時取り上げられたようですし、川辺郡を全域大阪府に編入しようという意見すら地元ではあったそうです。
豊能町の誕生 吉川村が東地区の東能勢村と合併し、新しい東能勢村となったのは昭和31年のことです。当時は、能勢町域も合わせた大合併が画策されたようですが、実現には至りませんでした。 昭和42年から、ときわ台住宅の開発が始まり、その後、昭和46年には光風台、49年には東ときわ台、59年には新光風台の開発も始まり、これによる人口急増を受けて、昭和52年豊能町の名称で町制に移行しました。 町名の決定にあたって一般から町名募集が行われ、応募名称の中から「豊能町」が選ばれました。ちなみに、最終選考まで残ったのが「阪北町」(何て読むのでしょうか)という名称らしく、大阪市内への通勤者が急増した町らしい選考結果です。 |
ときわ台 造成風景「能勢電鉄史」より
光風台 造成風景「豊能町史」より
地理的な不思議
ところで、地理と歴史の好きな私としては、昔から不思議だったのですが、吉川地区はなぜ豊能町に属しているのでしょうか。 そして、これらの歴史を調べるうちに、この疑問は「吉川地区がなぜ大阪府なのか。」ではなく、「吉川と黒川(兵庫県川西市黒川)はなぜ分断されたのか。」という疑問に置きかわりました。
@吉川の氏神さまの八幡神社は明治30年ごろまで黒川の氏神でもあり、両村合同で神事や管理を行っていたという享保期(1720頃)の記録がある。 A天保期(1830頃)と元治期(1860頃)の人口移動を記した資料によると、黒川を始めとする川辺郡諸村との移動が多く、豊能町域のほかの村々とのが皆無である。 B吉川から山下や平野方面に出るには、現在の能勢電線路や花折街道(国道473)等の急峻な谷筋を通るより、黒川方向に迂回して国崎、横路のを通り出会い橋を経る旧能勢街道ルートを通るほうが合理的である。 C吉川と黒川はお互いに妙見山、高代寺に挟まれた谷間の集落で、「吉川」「黒川」という地名からも、なにやら深い関係がありそう・・・ 吉川は江戸期を通して能勢郡の一村であり、領主の変遷においても東地区の余野や木代とまったく同様の地域として扱われています。そこには「川辺郡黒川村」の名前は見当たらず、やはり別の行政区分として取り扱われたようです。
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吉川地区の旧字名 最後に、吉川地区の字名をみてみたいと思います。 字には大字(おおあざ)と小字(こあざ)があり、大字は小字の上に位置づけられます。
字の起源は、日本の近世の村の下にあった小さな区画単位で、これが現在の小字になりました。 現在の土地登記や住所の表示に小字は使用されず、大字の名称のみが残っているのですが、字は明治以前の地名であり、昔の人達が自分の住まう地域をどのように区分し、どう呼称していたか、そして地名の歴史的由来を知る上で重要な手がかりとなります。 旧吉川村の範囲では、ときわ台、東ときわ台、光風台、新光風台以外の場所はすべて「豊能町吉川○○番地」と表示されていて、「吉川」が大字にあたります。
「吉川中心地」 中心地だけに30程度の字があったようで、その中には、「上之町」「中之町」「下之町」も含まれています。ちなみに妙見口駅のあたりは「城ノ本」とよばれ、城とは井戸城のことか吉川城のことと思われます。
「高代」
「保之谷」
「ガウナイ」
「保原山」
「南山」
「光ヶ谷」
「大峯」
「川西」「西初谷川」 |