吉川地区の歴史と地名の由来

−「吉河」から「豊能」へ−

  

ときわ台、東ときわ台、光風台は、「保原山−ほうばらやま−」
新光風台は、「ガウナイ(郷内)」
宅地が造成される以前はこういう地名でした。

「豊能郡」は、明治29年に「豊嶋郡−てしまぐん−」と「能勢郡」が合併して誕生し、
「豊能町」は、昭和52年に「東能勢村」が町制に移行した時に付いた名前です。

それ以前、
ときわ台、光風台のある豊能町西地区(吉川地区)一帯は「吉川村」と呼ばれていて、
「高代寺」「保之谷」と並んで歴史的にとても古い地名なのです。

 

しばし待て!..現在の地図と団地造成前の地図を交互に表示します(10秒間隔)

 

 「吉川」の名称は、古くは「吉河」といわれ、高代寺の旧書によると、その昔、多田満仲の孫の源頼国の政所が病気のとき、小野仁海なる僧が高代寺で水加持を修し、「水を吉とすること可なり」としたため「吉河」となったとも、また、高代寺の山号「亀甲山」を「吉河山」と改めたことによるとも、いわれています。

 

 古代の能勢郡と吉川地区

 大化の改新(645)及び大宝律令の成立(701)により、地方の行政制度は「国−郡−郷」という構成をとるようになりました。
 それぞれの「国」には行政庁として「国衙−こくが−」が設置され、その長として「国司」が朝廷から任命されました。その下に「郡」が、その下に「郷」がおかれ、その地方の有力豪族などが長に任命され、行政単位として徴税や防犯の機能を担ったようです。

 当初、能勢郡はまだ存在せず、豊能町、能勢町一帯は川辺郡の管轄下にありました。川辺郡の郡衙は今の伊丹市中心部にあり、相当遠く不便であったため、和銅6年(713)に郡司が任命され、能勢郡として独立しました。
 能勢郡がまだ川辺郡の一部であった時、この地域は「玖左佐村−くささむら−」と称されていたようですが、なぜ当時の一般的な行政単位である「郷」や「里」ではなく「村」なのか、そして具体的な場所はどこなのか、などの詳細はわかっていません。

 全国の「国−郡−郷」の一覧を著した「和名抄」によると、能勢郡には「能勢」「雄村−おむら−」「枳根−きね−」の三郷からなるとされていますが、それぞれが現在のどの場所にあたるかは定説がないようです。一説にはこの吉川地区は東谷村、中谷村(現在の川西市の能勢電山下駅周辺)とあわせて雄村郷だったといわれています。

 ちなみに、川西市、猪名川町、伊丹市あたりは川辺郡とよばれ、豊中市、池田市、箕面市あたりは豊島郡に属していました。

 

 中世の吉川地区

 墾田永年私財法と不輸(納税免除)不入(治外法権)の権の成立により律令制度が崩壊し、地方領主達の荘園が中央の有力な貴族や寺社への寄進されていきますが、豊能町域の村々もその例外ではありませんでした。

 木代一帯に石清水八幡宮支配の「木代荘」があったことが八幡宮の記録に、「高山庄」が勝尾寺(箕面市)の荘園だったことが寺の文書に、それぞれ残されています。  吉川地区においては、4段の田畠が寄進により勝尾寺の荘園に組み込まれたことが記録として残されています。

 地方の武士勢力の台頭は「守護請」「地頭請」などの制度を生み、やがてそれは在地有力武士による荘園の所領化へとつながっていきます。守護請、地頭請とは、武士の荘園への侵入に苦しんだ貴族・寺社など荘園領主が、守護・地頭に荘園管理をまかせ、代わりに一定の年貢の納入をうけおわせた制度です。
 吉川地区では、能勢氏や塩川氏といった多田院御家人の有力土豪の支配地域が拡大されていきました。

 田畑だけでなく、採銅所についても同様の現象が見られます。この時代、多田銀銅山の採銅所を支配していた官務家の壬生家には採銅所管理に関わる膨大な記録が「壬生家文書」として残されていて、その中に在地豪族の採銅所への干渉、侵略に対して苦慮していた様子が記されています。
 恐らく吉川地区においても、初谷川流域を中心として数多くの鉱山が当時から存在していたはずで、その支配権をめぐり能勢氏や塩川氏とが勢力争いを繰り広げていたことでしょう。

 

 近世の吉川地区

 戦国時代末期から江戸幕藩体制にかけて、村落組織は個々の武士が在地して直接的な農民支配を行う形から、農村を離れて城下町に移り住み間接的に農民支配を行う形(兵農分離)が進みました。

 その支配を成立させた制度が「村請制」でした。
 村請制とは、村が年貢や役の徴収を請け負うことで、自立的な共同体としての性格と同時に行政単位としての性格を強く帯びた村落組織で形態です。村長として「庄屋」が農村という生産団体の責任者として徴税、防犯等の任にあたったのです。これが商工運輸の町の場合は「問屋」であり、宿場町の場合は「本陣」となります。

 江戸時代、豊能町域には郷帳に記載されている村が吉川村含めて9つありました。これらは、それぞれ行政的に村として把握された単位ですが、この村がさらにいくつかの小単位からなる場合があり、吉川村もそのひとつとされています。
 この小単位の村毎に一つの集落が対応しており、吉川村には、上之町、中之町、下之町、保谷村の4集落が記載されており、慶長10年(1605)の「摂津国絵図」には、吉川村(上之町、中之町、下之町の集合)と保谷村が描かれています。

 保之谷の集落は少なくとも400年以上前から存在していたことは間違いない事実のようで、それどころか、源満仲の六男多田蔵人源頼範を「保谷殿」と称したことが高代寺の旧書に残っていることから、ことによると保之谷集落は平安時代には既に成立していた可能性もあります。

 

 豊能郡の誕生

 明治11年の「府県−郡−町村」制の施行により、吉川村は改めて大阪府域の能勢郡(郡役所は今の豊能町地黄)の一員となりました。
 明治14年には豊島郡と郡役所を統合し(郡役所は池田市内)、明治29年には両郡の名称の頭文字をとって「豊能郡」となり、豊能の名前が始めて歴史に登場しました。

 明治21年に当時の町村合併推進の国策の下、今の豊能町の東地区の大部分が統合し、東能勢村となりましたが、なぜか吉川村だけは独立路線を歩んだようです。

 一方で、明治30年頃には、今の川西市の黒川、国崎、横路といった一庫ダムの東岸に位置する村々が能勢郡への編入を国に要望していて、国会でも一時取り上げられたようですし、川辺郡を全域大阪府に編入しようという意見すら地元ではあったそうです。

 

 豊能町の誕生

 吉川村が東地区の東能勢村と合併し、新しい東能勢村となったのは昭和31年のことです。当時は、能勢町域も合わせた大合併が画策されたようですが、実現には至りませんでした。

 昭和42年から、ときわ台住宅の開発が始まり、その後、昭和46年には光風台、49年には東ときわ台、59年には新光風台の開発も始まり、これによる人口急増を受けて、昭和52年豊能町の名称で町制に移行しました。

 町名の決定にあたって一般から町名募集が行われ、応募名称の中から「豊能町」が選ばれました。ちなみに、最終選考まで残ったのが「阪北町」(何て読むのでしょうか)という名称らしく、大阪市内への通勤者が急増した町らしい選考結果です。


ときわ台 造成風景「能勢電鉄史」より


光風台 造成風景「豊能町史」より

 

 地理的な不思議

 ところで、地理と歴史の好きな私としては、昔から不思議だったのですが、吉川地区はなぜ豊能町に属しているのでしょうか。
 豊能町の東部(余野及びその周辺)、南部地区(高山)と呼ばれる地区からは妙見山などの600m級の山々で分断されいて、地理的にはむしろ兵庫県の山下、畦野、平野とのつながりののほうが強いはずです。
 府県境界線をみても、吉川地区だけが、大阪府から兵庫県に食い込む形をしています。(逆の言い方をすれば、黒川地区が大阪府に食い込んでいる。)

 そして、これらの歴史を調べるうちに、この疑問は「吉川地区がなぜ大阪府なのか。」ではなく、「吉川と黒川(兵庫県川西市黒川)はなぜ分断されたのか。」という疑問に置きかわりました。


都道府県、市町村の境界と吉川、黒川の位置

@吉川の氏神さまの八幡神社は明治30年ごろまで黒川の氏神でもあり、両村合同で神事や管理を行っていたという享保期(1720頃)の記録がある。

A天保期(1830頃)と元治期(1860頃)の人口移動を記した資料によると、黒川を始めとする川辺郡諸村との移動が多く、豊能町域のほかの村々とのが皆無である。

B吉川から山下や平野方面に出るには、現在の能勢電線路や花折街道(国道473)等の急峻な谷筋を通るより、黒川方向に迂回して国崎、横路のを通り出会い橋を経る旧能勢街道ルートを通るほうが合理的である。

C吉川と黒川はお互いに妙見山、高代寺に挟まれた谷間の集落で、「吉川」「黒川」という地名からも、なにやら深い関係がありそう・・・

吉川は江戸期を通して能勢郡の一村であり、領主の変遷においても東地区の余野や木代とまったく同様の地域として扱われています。そこには「川辺郡黒川村」の名前は見当たらず、やはり別の行政区分として取り扱われたようです。

吉川村の江戸期における領主の変遷
 (余野村、木代村も同様)
 −年号は領主記載のある資料の年号−

文禄 3年(1594)  島津家在京賄料
元和10年(1617)  能勢頼次預り(幕府領)
正保元年(1640)  高槻藩松平康信領
元禄15年(1702)  幕府直領
享保20年(1735)  高槻藩永井直行領
明治元年(1868)  高槻藩永井直諒領

 

 吉川地区の旧字名

 最後に、吉川地区の字名をみてみたいと思います。

 字には大字(おおあざ)と小字(こあざ)があり、大字は小字の上に位置づけられます。

 字の起源は、日本の近世の村の下にあった小さな区画単位で、これが現在の小字になりました。
 大字は、近世の村の名を、明治初期の市町村合併の際にその名称を残したものです。
 例えば、○○村が他の村と合併して△△市(町村)になったとき、住所表記が「△△市○○町・・・」又は「△△町(村)大字○○小字・・・」となったものです。

 現在の土地登記や住所の表示に小字は使用されず、大字の名称のみが残っているのですが、字は明治以前の地名であり、昔の人達が自分の住まう地域をどのように区分し、どう呼称していたか、そして地名の歴史的由来を知る上で重要な手がかりとなります。

 旧吉川村の範囲では、ときわ台、東ときわ台、光風台、新光風台以外の場所はすべて「豊能町吉川○○番地」と表示されていて、「吉川」が大字にあたります。


吉川地区の字 (代表的なもののみを表示している。「吉川中心地」は字名ではない。)

 

「吉川中心地」
 中心地だけに30程度の字があったようで、その中には、「上之町」「中之町」「下之町」も含まれています。ちなみに妙見口駅のあたりは「城ノ本」とよばれ、城とは井戸城のことか吉川城のことと思われます。

「高代」
 いうまでもなく高代寺のある山の南山麓一体をさします。

「保之谷」
 すでに記述した通り、歴史的に非常に古い地名のようです。「保」とは「郷」「里」などと同様に、行政区の最小単位として使用された時期があったようです。

「ガウナイ」
 新光風台が住宅地開発される前の地名で、漢字で「郷内」と書きます。筆者の知り合いで新光風台の開発に携わったひとは今でもこの団地のことを「郷内」と呼びます。
 シートスやコープの南側(大阪側)にある谷筋には小さな川があり、この正式名称は「ガウナイ川」で、旧字ガウナイのエリアを流域にしているためこう呼ばれているようだが、今でも河川の正式名称にカタカナが使われているのは非常に珍しいことのようです。
 「少し外れているけど、ここも吉川郷内だよ〜」みたいな感じでしょうか。

「保原山」
 ときわ台、東ときわ台、光風台のエリアが「字保原山」にあたります。
 団地造成前の地形図をみると、この範囲は周辺に比べて斜面勾配がなだらかで、「山」とみれば山だが、「原」とみれば原ともいえる。
 なお現国道は谷筋で、「オボレ谷」やら「西保原」などの字が付けられていて、他にもこれに並行して幾筋かの谷筋があったようです。

「南山」
 初谷川の南岸の尾根筋がこの字域にあたり、ときわ台、東ときわ台の北側一部も含まれます。旧吉川村中心地からみるとここはまさしく南の方の山です。

「光ヶ谷」
 箕面市上止々呂美地区に接した字域で、北斜面にも関わらず光の谷と呼ばれたのは、この斜面を尾根筋までのぼると展望が開けるからでしょうか。

「大峯」
 旧吉川郷からみると妙見山方面にあたるため「大峯」なのでしょう。

「川西」「西初谷川」
 いうまでもなく初谷川の西側だから。でも正確にいうと北側・・・か