東ときわ台と新光風台には江戸時代の街道があった

− 能勢街道 と 山下道 −

 

 東ときわ台と新光風台が造成される前には、山の中に能勢街道と山下道という、古くからの2つの街道が通っていました。団地の造成によりこれらは消滅し、街道は分断されましたが、今での山中に残る街道跡はハイキングコースとして知られ、歩かれた方も多いのではないでしょうか。

 

能勢街道

 能勢街道は、大阪から豊中、池田、そして能勢地方を通り亀岡、京都にぬける江戸時代の主要地方道であったらしく、能勢地方からは炭、銀銅や農産物が、大阪からは衣類や乾物、塩、魚等が運ばれ、これらの物資を積む荷馬の往来が多かったことから「馬街道」とも、妙見参詣に通ることから「妙見道」とも呼ばれていました。
 主要街道といっても、計画的に建設された道ではなかったようで、成立時期もつまびらかではなく、またそのルートも時代によって変化があったようです。江戸時代後期以降に設置された道標や灯篭などの石碑がところどころに残されていて、多くの研究者が丹念に現地踏査を行っており、街道のルートほぼ判明しているようです。

 大阪中津あたりから始まり、豊中市内を通って、概ね阪急の線路に沿って北に向かい、池田市内に入ってからは、石橋商店街から阪急バス車庫を抜け、国道176号線の北側を平行する道路を通り、池田城跡西、絹延橋東詰から古江橋に至っていました。
 猪名川沿いに出たあたりでは、阪神高速の延伸工事や国道173号線の拡幅工事により、多くの文献でその存在が確認されている石碑やお地蔵さん、そして旧街道の雰囲気を残した町並みが無くなっていました。絹延橋の手前には地蔵堂があり、4基の道標が残されています。付近の道標を集めたものと思われ、その中の一つは、在銘道標としては全国で6番目に古い1670年頃のものといわれています。 
 ここから先、豊能町の黒川(妙見ケーブルの乗り口)までのルートは文献や研究者により若干の違いがあります。時代とともにルートが変わったのか、メインルートとサブルートがあったのか、私にはよくわかりませんが、概ね次の3つのルートがあったようです。


能勢街道と思われる3つのルート


古江橋の地蔵堂に集められた 4基の道標

 


伏尾台ゴルフ場への道の一対の石灯篭


豊能町営プール跡の地蔵さん


能勢カントリー入り口の一の鳥居


昔の鼓ヶ滝(クリックで大きくなります)

長尾ルート

 古江橋から、旧集落と市営住宅をすぎて、伏尾台住宅地の横から、伏尾台ゴルフ場への進入路を通り、ゴルフ場を貫通した後は、大阪府と兵庫県の境界にあたる尾根筋(長尾山の尾根)を通り、東ときわ台8丁目に出ます。東ときわ台を横断した後は、2丁目の送電線の下の谷筋を下りて、初谷川沿いに元の町営プールの横を通り、新しい国道477号線バイパス道を横断し、妙見口駅前の旧国道を通って、再び国道と合流して黒川に至ります。
 古江橋北詰や市営住宅前の立派な石碑と、ゴルフ場前の一対の石灯篭には、妙見山や妙見宮の文字が見られますし、吉川の谷筋道を過ぎた町営プール跡の横には地蔵さんと石灯篭もあり、ここが妙見参詣の街道であったことは間違いないのでしょう。
 ただし、尾根筋の上り下りは結構厳しく、荷馬の往来はちょっと無理があるようにも見え、参詣道としての機能がメインだったのかもしれません。

花折ルート

 一方、明治25年の大阪府の記録によると、能勢街道は、古江橋から国道173号線に概ね沿って北上し、平野、一の鳥居から、光風台を通り吉川、黒川に至るルートが記載されています。
 阪神大震災前までには、能勢電一の鳥居駅前には、まさしく妙見宮の「一の鳥居」があり、(現在は能勢カントリーの入り口に再建されています。)江戸時代後期の1790年頃に建てられたと刻まれています。、昔は街道を跨いでおり、付近には茶屋が軒を並べていたそうです。
 ただし、一の鳥居から光風台までの道(花折街道といいます。)は、明治中期に開通したそうですし、周辺の道標の行き先の記載から見て、平野から先は荷馬などが往来する主要な道ではなかったとする研究者もおられます。

出会橋ルート

 また、明治36年の別の大阪府の記録によると、一の鳥居を右に入らず、畦野、山下に抜けて、人庫ダム、国崎のキャンプ場と通り黒川に至るルートも記載されています。
 一庫ダムができる前は、今の県立一庫公園の前で、東からの田尻川と西からの大路次川が合流するところに出合橋という橋がありました。地形的に考えると、このルートが能勢街道といわれると最も納得がいきます。江戸時代においては、鼓が滝付近の猪名川の崖が急峻で、江戸時代においては、人一人がやっと通れる程度の道しかなかったと書かれた本もあります。確かに、摂津名所図会(江戸時代の名所案内みたいなもの)にある「多田鼓ヶ滝(左図)」を見ると、このあたりは川幅3間の急流(これが鼓ヶ滝か?)で両岸は岩場のように見えます。しかし、多田銀山や下財町(山下)あたりで精錬された銀銅は、ここを通らないと大阪には運べなかったのですから、そこそこ立派な道が昔からあったとみるのが妥当でしょう。

 

山下道

 能勢街道が主要地方道だとすれば、山下道は一般地方道でしょうか。
 吉川から山下に抜ける道として、江戸時代に使われていたらしく、山下の古い町並みの残る下財(げざい)町から大昌寺前の山沿いの道を通り山道に入って行きます。緩やかな上り坂を登ると新光風台2丁目の調整池の裏にでてきます。新光風台の造成はこの山下道を分断したらしく、新光風台4丁目の東造園さんの裏からまた道が続いています。高代寺山の中腹をくねくね行くと、妙見口駅から高代寺に通じる登山道にでます。そこに、江戸期のものと思われる道標があります。
「左山下 右高代寺」と書かれてあり、その横に平成6年3月豊能町の立てた案内看板がありました。そこには、
 「江戸時代から明治中期頃までは、吉川村から池田・大阪方面に至るには、長尾街道(妙見道)を通り、池田に出るか、この山下道を通り能勢街道に出るかであった。一の鳥居より吉川村に通じる花折街道が明治38年(1905)に開通するまでは、この山下道は吉川では重要な道であった。(一部抜粋)」
 この山下道も吉川地域にとって重要な道であったことは確かなようです。


山道への入り口(祠の上を上る)


高代寺への登山道の途中の道標

 


国道手前の町石


旧妙見参道の入り口の鳥居

妙見参道

 江戸時代末期には妙見参詣が一種のブームになっていたようで、妙見道には多くの人の往来がありました。
 能勢電妙見口駅前の街道を抜け、国道477号線に合流する手前の左側に「御山二十二丁」の町石があり、町石は山頂まで続いているそうです。妙見山の周辺の道には、いまでもところどころに妙見山を案内する道標があり、これもその一つなのでしょう。
 

 国道477号線はこのあたりで切り通しに切り下げられていますが、その上の上杉池の堤防沿いに旧街道が残されています。堤防を上がって右に行けば旧妙見参道で、山道にさしかかるところに鳥居や灯篭が立っています。鳥居は1830年頃(江戸時代天保期)に建立されたことが記録されています。
 鳥居の前の木橋は朽ち果てていますし、その先はとても歩けそうな気がしませんので、引き返してきましたが、当時はここがメインの参詣道で、途中で今の上杉尾根登山道に合流しています。