釈迦如来像のお話

 「仏像」が造られ始めた約2000年前、「仏」と言えば「釈迦如来」のみでありましたので
当然、仏像とは「釈迦如来像」のことでした。が、後に誕生し悟りを開いた「薬師如来、
阿弥陀如来、大日如来」の像をも指すようになりました。それが今では「菩薩、明王、
天部、羅漢、肖像」の像までを仏像の分野に入れております。それだけ、仏教は仏の
数においては他の宗教に比べ抜群の多さを誇っており、仏像の数の多さには西欧人も
びっくり仰天でしょう。 

 釈迦如来の前身はインドのヒマラヤの麓に存在した一小国、釈迦族の王子でありま
したので釈迦と言われました。別名の「釈尊」とは釈迦牟尼世尊を略したものです。ま
た、釈迦族で一番尊い人でもあるので同じく釈尊と言われました。

  「釈迦入滅」から長い間、姿なき仏の時代を経て、仏像がこの世に現れるまでの「礼
拝の対象物」については「仏塔のお話」で記載する予定です。
 
 釈迦入滅から釈迦如来像の誕生までには、半世紀もの長い年月が経過しておりまし
た。入滅直後なら人間釈迦如来だけに人間らしく現さなければならなかったのでため
らいがあったことでしょう。幸いなことに、長き間釈迦如来像が造られなかったので
釈迦如来の人物像を知るものは当然いない訳で釈迦如来を理想化、絶対化して偉大な
尊像に造り、民衆にそれを崇めさせようと思い考え出されたのでしょう。
釈迦が29才で出家して35才で悟られるまで6年間の修行で修得された悟りの教義
が仏の教、仏教で、すなわち仏教とは釈迦の教えでもあります。釈迦が現世で悟りま
でいかれたのは現世における修行だけでなく前世において自己犠牲による功徳、善行
を積まれたからだという話に展開していくのであります。
  インドの古い民話に出てくる善行物語を流用して釈迦如来の前世の物語、本生譚
(ほんじょうたん)が作られることによって、超人間に仕立てた釈迦如来を庶民に理解
しやすくしたのでしょう。その内容でありますが、仏教には何回でも生まれ変わると
いう「輪廻転生(りんねてんしょう)」という考えがあればこそ、釈迦が幾度となく自己
犠牲の精神に基づき身体(生命)を投げ出されたのでしょう。
  余談ですが先日(2005.01.)長崎県教育委員会の調査で「死んだ人が生き返ると思い
ますか
」の質問に応じた小・中学生の15.4%の生徒が、生き返ると答えたと報告され
ております。中でも中学
2年生にいたっては18.5%の生徒が生き返ると答えていると
のことでした。これら生き返ると答えた生徒達に、生き返るのではなく生まれ変わる
というこの輪廻転生の意味を教えるとどのような反応を示すのか難しい問題ですね。

  釈迦如来像が現れるまでの間に本生譚の数が増すに従って人間釈迦が超人格者とな
っていったのとあわせて如来の特徴である「三十二相八十種好(さんじゅうにそう・は
ちじつしゅごう)
」までが出来まして釈迦如来はますます神格化されました。三十二相
八十種好とは仏の優れた容姿の特徴で32の大きな特徴と80の細かい特徴のことで
す。 
三十二相八十種好については「仏像のお話」をご参照ください。
 
偉人が亡くなると色んな伝説が作られますが釈迦如来ほどの多さは比を見ないでし
ょう。
 釈迦如来を庶民に信仰させるため釈迦如来のお墓(塔婆)や足跡などの礼拝を奨励し
たり数多くの本生譚を作成して庶民に釈迦如来を理解させようとしましたが、人間ら
しい釈迦如来を待ち焦がれている庶民に、仏教に帰依させるにはどうしても仏像が必
要だったのでしょう。
  仏教誕生当時は仏と言えば仏教を開祖された釈迦如来だけで、今でもその伝統を受
け継いだミャンマー、ビルマ、スリランカで仏教と言えば釈迦如来信仰だけです。
私はミャンマー以外は訪れておりませんがそのミャンマーでは仏教における信仰は過
去四仏もありましたが釈迦如来ばかりといってもいいくらいでした。釈迦一尊を祀り
信仰するのは上座部仏教(昔は小乗仏教とも言われておりましたが差別用語のため現
在は使用されておりません)で、我が国は大乗仏教でありますゆえ薬師如来、阿弥陀
如来、大日如来と四如来がいらっしゃいます。しかし、釈迦如来が我が国では「お釈
迦さん」といって親しみを感じる面があるのはお釈迦さんが如来の中では実在された
唯一の方であり、愛らしい「誕生仏」などがあるからでしょうか。このことはキリスト
教、イスラム教を信仰される方には人間が仏になるなど想像も出来ないことでしょう。
 一概には言えませんが上座部仏教は釈迦如来一尊で三尊形式にすることはありませ
ん。ですから、釈迦三尊像があるのは大乗仏教といえそうです。
 釈迦如来の弟子となって修行をしなければ悟ることは出来ないというのが上座部仏
教の基本哲学であります。
  仏教の生誕地であるインドでは、仏教は寂れて僅かしか存在しておらず幕を閉じた
状態らしいです。現在、インドではヒンドゥー教徒が8割以上でイスラム教徒とを合
わせますとほぼインドの全人口となり、仏教徒はたった1%にも満たない少数派とな
っております。
 

 上座部仏教での僧は、食事などの準備や一切の労働はしないことになっております
ので、信者が托鉢に回って来た僧に食事などの喜捨を施すわけです。我が国では雲水
が喜捨を受けた場合、雲水と信者の双方が合掌いたしますが上座部仏教国では僧は直
立不動のままで喜捨した信者の方が跪いて合掌をいたします。上座部仏教では食事の
用意をする必要がないので庫裏は要らないことになります。それと、上座部仏教は出
家者中心主義の仏教教団で、庶民は善行を僧、寺院のみに行いそして浄土に近づける
よう僧に託します。
 
 釈迦如来は出家しなければ悟りを開けないと主張されたため庶民には受け入れ難く、
大乗仏教の我が国では釈迦如来を本尊とする寺院は、極僅かでそれも古代が多いので
す。その意味でも「法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像」は貴重なものといえます。
禅宗では仏殿(古代の金堂にあたる)に釈迦如来を祀りますが禅宗の思想は仏殿より法
堂(古代の講堂に当たる)を重要視して仏殿はなくても良いとされるくらいですから釈
迦如来は主尊とは言い難いです。  
 
 日本人は神も仏も一緒くたで自分に災難や不利益を蒙ると「神も仏」もないのかと嘆
きますだけに現世利益の神・仏でなければ信仰が得られません。釈迦如来の「印相」で
すが東南アジアでは降魔成道の「降魔印」が多いのに比べ我が国では「施無畏・与願印」
の現世利益的な印相をした釈迦如来が殆どであります。
 
 釈迦如来の「脇侍」としては「薬王・薬上」、「普賢・文殊」、「梵天・帝釈天」、「十代
弟子」か「十代弟子のうちの阿難(あなん)・荷葉(かしょう)」などであります。脇侍が
阿難・荷葉であるのは禅宗寺院に多くその場合仏殿は大雄宝殿と呼称されることがあ
ります。阿難は阿難陀、迦葉は大迦葉とも呼ばれます。 

 

  
              仏足石(薬師寺)


  薬師如来像(薬師寺)

 「仏足石」は国宝指定で仏教史上貴重な文化財です。
 仏足石は幅108.0p、奥行74.5p、高さ69.0pという大きな石の作品です。足
の大きさは約50pで右図の「薬師如来像の足文」と同じような文様が刻まれており
ます。千輻輪宝、金剛杵、双魚文などが刻まれておりますが二匹の魚があるのは
魚を日常的に食していたということでしょうか。それとも、インドでは托鉢で得
た物は肉といえどもすべて食しているのかもしれません。
 さらに、足指にも花文のような卍文の美しい文様がありますが現実には考えら
れないことですね。
 釈迦入滅後500年以上の間、仏塔、菩提樹などを礼拝して参りましたがそん
な中でも仏足石の礼拝だけが釈迦如来を意識させる唯一のものでした。それでも
親しみの持てる人間らしい釈迦如来のお姿そのものを拝みたい要望が強くなって
きて仏像が制作されたのでしょう。

 
   ガンダーラ立像

 「釈迦如来像」は最初インドのガンダーラとマトゥラ地
方で造られましたが開始時期については説が分かれてお
ります。
 初期の「ガンダーラ像」は西欧的でこの像などギリシア
の神像彫刻として安置してもさほど違和感はないのでは
ないでしょうか。この像がダイレクトに我が国に請来し
ていたらこの像を下敷きにしてどんな趣向の像を作った
ことでしょう。
 布地は厚く無地で、しかも、頭光、大衣は文様が一切
ありません。肩は撫で肩です。
 相好は面長、髪はウェーブで束ねてはいますが螺髪で
はありません。眼はぱっちりとして窪んでおります。鼻
は鼻筋が通って高いですが鼻下は短いです。ただ、ギリ
シャ彫刻にはない「白亳」があったり「耳朶」が長かったり
しております。
 大衣が両肩を覆った「通肩」です。頭光のみで身光はあ
りません。

  
      マトゥラ−坐像

 「マトゥラー像」は感じとしてはどちらか
と言えば東洋的と言えましょう。
 大きな田螺のような肉髻が一際高くみえ
ます。
 右肩を露にする「偏袒右肩」ですが何故か
我が国の偏袒右肩の場合は右肩に薄い衣を
掛けております。大衣は薄くその下の素肌
が見えて透き通るさまで肉体表現に力点が
置かれております。
 大型の頭光で、身光は賑やかでその上部
の中央には菩提樹とその両脇には飛天が刻
まれております。
 釈迦如来の両脇には脇侍、台座前面の中
央、両脇には獅子が浮彫りされております。
 この獅子が台座から独立して、中国、日
本で変化したのが唐獅子、狛犬、獅子舞、

  沖縄のシ−サ(−)だったりするのであります。
   相好はインド人の如くで、肩はいかり肩です。 

    

 
  釈迦如来坐像(賓陽中洞・中国)    

 「釈迦如来坐像」は黄河の支流・伊水の
河岸に築かれた「龍門石窟」の一画「賓陽
中洞」の主尊として安置されております。
 中国では釈迦如来の脇侍として十代弟
子の迦葉・阿難が結構あるのは驚きでし
た。この賓陽中洞でも釈迦如来の脇侍は
「迦葉(向って右)」と「阿難(向って左)」で
した。
  最近はこの釈迦如来坐像を模倣して
「法隆寺金堂釈迦如来像」が造像されたと
の話はあまり聞かれなくなりました。私
もこの像を下敷きにしたのではないと考
えております。
  「◎塼仏・押出仏のお話」をご参照くだ
さい。 

    

  
   釈迦如来坐像(菩提寺)

  韓国の南山弥勒谷「金鰲山菩提寺」は大雄殿も新し
く古建築は見当たりませんでした。
 「釈迦如来坐像」は緑濃い閑静な空間にぽつんと安
置されておりました。相好は瞑想する伏目、鼻筋が
通り、口に微笑みがあり、豊頬で若々しくさわやか
な青年のようでした。
 結跏趺坐しており右手が大地に触れる「降魔印」で、東南アジアに多くミャンマも降魔印の釈迦如来ばか
りのようでした。「印相」の降魔印は我が国では少な
く今回記載いたしました釈迦如来像は総て「施無畏・
与願印」の印相でした。大乗仏教の我が国では他の
如来でも「施無畏・与願印」が殆どです。
 また、降魔印は手が大地に触れますので「触地印
(しょくちいん)」とも呼ばれます。  
  「降魔印」をとる場合左足を右足の上に置く「降魔

坐」であると思っておりましたらこの像は右足が上に来る「吉祥坐」です。ミャンマでも
見た範囲では降魔像は吉祥坐となっておりました。結跏趺坐の場合東南アジアでは吉祥
坐が多く、我が国では顕教は降魔坐、密教は吉祥坐、禅宗は降魔坐のようですが一概に
は言えなさそうです。

 

 
       誕生仏像(東大寺)

 釈迦如来は生後間もなく七歩歩いた後右手が天を
指し、左手が地を指し、「天上天下唯我独尊」と発せ
られたということは、お生まれになった時点から仏
となる素質が有られたということを言いたかったの
でしょう。ということは人間としてお生まれになっ
たのではなく超越者としてお生まれになったという
ことになります。
  釈迦如来誕生の際、天から甘露の雨が降り注いだ
という言い伝えから釈迦如来誕生日の4月8日には
甘茶を頭上から誕生仏に注ぎ供養いたします。それ
を花祭といいますが、仏さんなのに祭とは我が国ら
しいですね。
 「誕生仏像」は丸い灌仏盤の中に立っておられ、上
半身は裸で凛々しいお姿です。もう既に螺髪が生え
ております。    

 余談ですが「お釈迦になる」という言葉がありますがこれには色んな説がありその一
つに江戸時代、飾り細工の制作行程で半田付けをする場合こてを温める火の温度を調
節しないと半田が金銀の材料にうまく溶着しないだけでなく貴重な材料まで駄目にし
てしまうことがあります。その失敗の原因は「火が強かった」のでありますが江戸っ子
は「ひ」が「し」と訛るので「火が強かった」が「しがつよかった」「しがつようか」「四月八
日」となりました。その「四月八日」は釈迦如来の誕生日であたりますのでそれになぞ
らえて物が不良品になることを「お釈迦になる」といわれるようになったらしいです。
また、釈迦如来が成道そして涅槃(死)からの死をもじって、製品が壊れて使い物にな
らなかったことを言う説もありますがこの場合でしたら「お陀仏」と江戸っ子は言った
と思いますが。


     釈迦如来坐像(飛鳥寺)            

      
   釈迦三尊像(法隆寺)(想像図)

    「釈迦如来坐像」については「明日香のお話」をご参照ください。

  「釈迦三尊像」は一光三尊形式で三尊が一つの光背に納まっております。裳懸座の大
変厚い衣の襞は自然ではなく左右対称で造られており見事な出来栄えです。それと、光
背は想像図通りの華麗・豪華なものであったと確信いたしておりますがもしそうであれ
ば「止利仏師」も腕を上げたものです。

 


      涅槃像(法隆寺・五重塔)

 我々でしたら死亡と言うとこ
ろを釈迦如来は肉体は消滅して
も精神は不滅なので「入滅」とか
「涅槃」という言い方を致します。
このことは釈迦如来は生存され
ましたからこのような場面が起
こりますが他の如来は空想上の
仏さんですのでこのような場面
は出て参りません。
 法隆寺の「涅槃像」は通常の
釈迦如来の入滅場面とは違うと
ころがあり、そこでこの場面を

聖徳太子が亡くなられて、民衆が嘆き悲しむのを表しているとも考えられます。

 

 
   捨身飼虎図(法隆寺・玉虫厨子)

 
   施身聞偈図(法隆寺・玉虫厨子)

 「玉虫厨子」の壁画、「捨身飼虎」ですがインドでは百獣の王は獅子・ライオンであり、
釈迦如来は釈迦族の獅子とも言われておりましたのにどうしてインドでは珍しいトラ
の餌食になられたのでしょうか? 
  「捨身飼虎」の物語も釈迦如来を聖徳太子に置き換えることが出来るのではないでし
ょうか?
 我が国はシルクロードの終着地で、仏教伝来が釈迦が悟られてから1000年も経って
おりますので、釈迦如来像が残っていても釈迦如来の前世物語、仏伝は皆無に等しい
です。玉虫厨子の「捨身飼虎図」「施身聞偈図」「須弥山世界図」など釈迦如来の前世の物
語が保存よく残されておりますのは奇跡といえましょう。前でも申しましたように釈
迦如来の前世の物語はこれ以外残っていないだけに我が国の宝物といえましょう。 
 玉虫厨子の壁画だけを拝観されるだけで法隆寺を訪れた価値を見出されることと確
信しております。 

 

 
    須弥山世界図(法隆寺・玉虫厨子)

  
     釈迦如来坐像(法隆寺)

  「釈迦如来坐像」は釈迦三尊像として「上御堂(かみのみどう)」に安置されております。

 

    
    釈迦如来倚像(深大寺)


     釈迦如来坐像(室生寺)

   「深大寺倚像」については
  「仏像−白鳳時代」をご参照ください。

   「釈迦如来坐像」については
 「室生寺のお話」をご参照ください。  

 

    


      本堂(蟹満寺)

     釈迦如来坐像(蟹満寺) 

  「蟹満寺(京都府)」は京都市より奈良市
 寄りの山城町に位置しております。創建
 当初は大寺だったらしいことが発掘調査
 で判明しております。
   今はその面影を偲ぶことは出来ません。

  本堂は威風堂々たる「釈迦如来坐像」をお祀りするには少し空間が狭過ぎるようでした。
 本尊の前に跪くと本尊の説明と蟹満寺の由来となった「敬虔な娘が蟹に助けられる話」が
テープで流れてきます。

   「蟹満寺像」は像高240aという包容力豊かな丈六像で施無畏・与願印で結跏趺坐してお
ります。頭は珍しい「剃髪」ではなくて惜しいことに「螺髪」が取れたの説があります。しか
し、如来になくてはならない「白亳」がありませんので頭が螺髪でなく剃髪だったと考える
のが妥当かと思われます。
 頭部が大きいように見えます。私の想像ですが高い見事な台座に安置されていて五体投
地礼の姿勢で尊像を下から崇めると丁度バランスがとれた体系に見える工夫の結果だと思
われます。 

 

  
         本堂(清涼寺)

  
   釈迦如来立像(清涼寺)

   
          掲額(本堂)

 

  「清涼寺」は京都の名所「嵐山」の近傍にあります大寺です。
 本尊の「釈迦如来立像」は秘仏で特別な日以外は拝むことは叶いません。が、1000円
を寄進いたしますと拝ませていただけます。この1000円が問題になっているようですが、
木魚を叩きながらの読経と他の方の打ち鳴らす太鼓の儀式が終わると厳かに幕が上がり、
お釈迦さんが姿を現します。その後、像についてお坊さん自ら説明していただけます。
多くの人々を魅了し続けてきた「国宝像」を目の前にしてこのような機会もそうありませ
んのでどうぞ。
 「清涼寺像」はインドにありました赤栴檀製の「釈迦如来像」を中国からの僧が持ち帰り
中国の寺院に安置されておりましたのを、東大寺の僧「「然(ちょうねん)」が模刻して持
ち帰りました。
 インド、中国、日本へと伝来されたので「三国伝来の釈迦如来像」といわれております。
三国とは昔、世界などの事情は分からずインド、中国、日本の三国で世界を形成してい
ると考えたのであります。今は死語となってしまいました「三国一の花嫁」といわれた素
晴らしい花嫁さんはどこかへ姿を隠したようであります。男性にとって三国一の花嫁を
パートナーにすることは遠い昔の夢物語となりました。
 先程のインドの現像は、釈迦如来が生存中に作成された作品で世界初の仏像との言い
伝えがあります。
 渦巻状の縄のような螺髪、大きい白亳、翻波式衣文、丸首の大衣の如く頸まである通
肩、大衣は放射状に波紋を描くような流水文で感じとしては「薬師寺聖観音立像」に似て
おります。ガンダーラ像のように髭がくっきりと描かれております。全体に異国情緒溢
れるものとなっております。    
 光背は日本製らしいですが豪華絢爛な透彫で見ごたえのあるものです。
 素材は赤栴檀が調達できなかったので中国産の魏氏桜桃の材が使われております。
我が国では桜を素材にした仏像は極少ないですが、昨年(2004)世界遺産登録されました「金峯山寺(きんぷせんじ)」の本尊の「蔵王権現」を刻んだのは桜の木であります。
 釈迦如来像は持ち帰りました平安から江戸時代にかけて世間の評判を呼びその名を轟
かせました。特に鎌倉時代に南都復興、「釈迦如来に還れ」と提唱され釈迦如来像が多く
造られましたがその中でも「清涼寺式釈迦像」の模刻が数多く行われ全国各地に清涼寺式
釈迦像として安置されております。  
 釈迦如来像の胎内から絹製の五臓六腑の模型が出て参り大きな話題となり、中国の高
度な医学に驚かされたのであります。
  「掲額」は黄檗宗を開祖された「隠元禅師」が書かれた額「栴檀瑞像」です。

 

                                                                    画 中西 雅子