仏像−白鳳時代  

  「白鳳時代」の区分をここでは「大化の改新」の645年(大化元)から「平城京遷都」の
710年(和銅三)迄といたします。

 「白鳳時代」と言う呼称は、明治時代のある博覧会で何か目新しいことをと、企てて
定められたとのことで大変新しい年号です。適切な時代区分を設けたものだと感心し
ております。それは、法隆寺の仏像だけを見ても飛鳥時代と白鳳時代とは大きく感覚
が異なり、造像様式は目視で分かるほどの違いがあり大陸から伝わった様式が和様化
へと変化する時代だったからです。
 
 飛鳥時代の仏像の制作が、大和地方に限られるのと違って、野中寺(やちゅうじ・
大阪)の弥勒菩薩半跏像、深大寺(じんだいじ・東京)などから分かるように大和地域か
ら全国的な範囲に広がる時代でありました。

  韓国の百済滅亡 663年、高句麗滅亡 668年に伴って、両国から多くの亡命者があり、明日香地域だけでは収容できず埼玉の高麗、大阪の百済などに移住させられました。

  伊勢神宮(正式名は神宮)の「式年遷宮」をお決めになった「天武天皇」は、豪族たちの
自宅に仏像と経典を用意して、仏教に帰依するよう詔を出されました。しかし、土着
の氏神との関係もあってか一筋縄ではいかなかったようです。と申しますのも、
天武天皇の皇后だった「持統天皇」が、今だ先帝の言いつけを守っておらない不謹慎者
がいるようなので、役人に見回らせる。至急仏像と経典を備えるようにと警告をして
おられます。しかし、天武天皇の詔を守らない者があったにせよそれなりの念持仏と
いうか個人礼拝用仏像が数多く造られたことでしょう。個人が礼拝するのは飛鳥時代
のような厳しい様相の仏像より日本人好みの可愛らしくあどけない童顔童児に近い像
が選ばれたのは当然の成り行きでしょう。個人礼拝用だけに50センチ以下の小金銅
像が多く造られ、頭部が大きく6頭身くらいの短躯像になっております。

 仏像の素材は、飛鳥時代が「銅像」、「木彫像」に限られるのに比べて白鳳時代は「銅
像」が多いのですが「塑像」「脱活乾漆像」「押出仏」「塼仏」などの新しい素材の像も造ら
れ始めました。その中で「木彫像」が少ないのは彫刻に適した霊木が品薄になったから
ではなく、霊木だけに素材の品質に問題があり彫刻には不向きだったからでしょう。
これら新しい素材の造像には渡来人の技術によるところが大でありました。

 「法隆寺」は白鳳時代の670年に焼失いたしましたが持ち出されなかった仏教美術が数
多くあったとのことで返す返すも残念です。しかし、法隆寺には飛鳥・白鳳時代の仏
教美術品があまりにも多く存在することから考えると670年の火災は本当にあったのか
疑問が残るくらい再建後施入品が多いです。このことはいかに聖徳太子が多くの方々
から慕われていたかの証でしょう。

 

  
   阿弥陀五尊像(塼仏・法隆寺)    

         

    
   阿弥陀五尊像(押出仏・法隆寺)

 

  
     弥勒如来像(塑像・当麻寺)

       
   持国天像(脱活乾漆像・当麻寺)

   

  飛鳥彫刻に比較して白鳳彫刻の特徴を列挙いたしますと
・飛鳥時代の正面鑑賞性から側面感ある二面性を持つ丸彫りの像が造られ、肉体表現も
 写実性が一段と進み、直立不動から腰を振る動きのあるポーズの像が造られ、それが
 次の天平時代の「三曲法」の動きへと繋がっていきます。手の表現なども次第に自然な
 形になり、また、我々の身体のように体躯に抑揚が出、胸が膨らみ胴が絞られ腰が太
 くなります。
・髪は特異な蕨手型垂髪(髪の毛が身体に沿って下がり毛先でカール状になる)から宝髻
 の髪型に変わります。
・顔はギリシャ人のような面長から丸顔に近くなります。
・眼は杏仁形の人間らしい眼から瞑想するような半眼に変わります。
・アルカイックスマイルも消え僅かの名残は「橘夫人念持仏像」で見られます。
・ギリシャ人のような大きい鼻に比べて可憐な鼻に変わっていきます。
・「裳懸座」は厳粛な左右対称性が崩れて衣の自然な表現となっております。
・椅子に坐った「倚像」が多く造られました。

          飛鳥時代          白鳳時代

         
        救世観音像(木彫像・法隆寺)    

      
    夢違観音像(銅像・法隆寺)  

  「飛鳥時代の救世観音像」と「白鳳時代の夢違観音像」 の造像様式の違いを列挙いた
 しますと

・宝冠が一つの「山型宝冠」から宝冠が三つある「三面宝冠」となり、中央の宝冠には観音
 菩薩の象徴である「阿弥陀の化仏」が必ず表されるようになります。
・天衣が魚の鰭状に広がる装飾から衣本来の表現で自然な流れになります。「夢違観音
 像」の天衣は右腕の所で破損しておりますが垂直的に下降していたことでしょう。
・中国様式の厚着の衣からインド様式の上半身が、裸か身体が透いて見える薄着の像に
 変わります。
・髪際と眉の間が狭く、逆に眉と眼の間が広いです。
・華麗な「瓔珞」が胸と腰にあります。胸にあるのは胸飾りで皆さんでは首飾りと言われ
 ますね。
・天衣が腰下で「X字型衣文」から「二段型衣文」に変わります。
・足首は隠していたのが露になります。
・台座は蓮弁が出来、華麗な台座となります。

               
     

 
    聖観音像(銅像・薬師寺)       

 
      山田寺仏頭(銅像・興福寺)  
             
                      橘夫人念持仏(銅像・法隆寺)
 

  
    弥勒菩薩半跏像(野中寺)

   「野中寺(やちゅうじ)」は大阪府羽曳野市(は
びきのし)にあり、「聖徳太子」と「蘇我馬子」と
で建立したと言われております。
   「上の太子・叡福寺」、「中の太子・野中寺」、
「下の太子・大聖勝軍寺(たいせいしょうぐん
じ)」は河内三太子と呼ばれております。上、中、
下の決め方は最南を上としており、上宮(じょ
うぐう)太子(聖徳太子)の 「上宮(かみのみや)」
も同じように父親の「用命天皇宮」の南に位置し
たからです。我が国では南が上位だったのでし
ょう。中国では北が上位で、唐の「長安(今の西
安)」を真似て「平城京」が造営されましたが、天
皇のお住まいや官庁街があった「平城宮」は「平
城京」の北端の中央に設けられております。
 「弥勒菩薩半跏像」は666年に造像され、日本人
好みの埴輪像のようなあどけない感じの像です。

  惜しいことに毎月18日の一日だけしか公開されておりません。
 
 

  
   釈迦如来倚像(深大寺)

  「深大寺(じんだいじ)」は武蔵野の自然豊か
な佇まいの中にある古刹です。
 「釈迦如来倚像」は関東では一番古い仏像で、
腰をかける倚像は我が国では例が少ないのにそ
れが関東に存在するのは稀なことであります。
天平時代になると倚像はその姿を消していきま
すので貴重な尊像です。
 如来の髪は通常「螺髪(らほつ)」のパンチパー
マであるのに「剃髪」で、頭部は「山田寺仏頭」に
似ております。
 我が国で人気のある黒光りする像で、多分素
材の成分に砒素が含まれている烏銅と呼ばれる
ものになったからでしょう。
 装飾は煩瑣でなくシンプルで古刹にふさわし
いです。
 

  手印は 「施無畏(せむい)・与願(よがん)印」で、拝んでいる衆生の恐れや苦しみを
取り除きさらにいかなる願いでも叶えて頂ける印相です。
  私が訪れたのは20年ほど前でしたが尊像を礼拝される方が多くおられました。
 有名な「深大寺蕎麦」の店も賑わっており、当然、私も蕎麦をよばれてお寺を後に
 しました。 

                                                                                                 画 中 西  雅 子