飛天像のお話

 今月は「飛天像のお話」を記述いたします。洋の東西を問わず古代人にとって天空を自
由に飛行することはロマンそのもので飛行さえ出来れば天国、極楽浄土にも行けると考
えていたかもしれません。全人類の希望だった空のかなたの天国、極楽へ飛んで行きた
いと言う願いは叶いませんでしたが鳥と同じように飛べる飛行機という便利な乗り物は
実現いたしました 。
 我が国を含めて東南アジアで一番多い画像は飛天でしょう。典雅にして優美な飛天は
仏を散華供養するのみではなく仏の世界を荘厳(しょうごん)するのに一番適しているか
らでしょう。とはいえ、当初は男性の飛天もありました。もしくは空を住処とする神と
地上の衆生との連絡を飛天に託したのでしょうか。それが、菩薩の中には如来になれる
のに菩薩のまま下界に降りてきて娑婆世界で衆生救済される方もいましたから飛天の連
絡係の役割は不要となったのでしょう。

 「飛天」と言えば天使、天人、楽天、天男、天童、天衆、天女とも呼称され後の時代に
なれば一般の場合飛天は女性で表されるようになりましたので天女と呼ばれることが多
くなります。
 飛行用具には「翼」と「領巾(ひれ)」がありますが領巾は天衣、ショール、肩衣、長い布
などとも呼ばれます。通常、領巾を「羽衣」と言う方が理解していただけますが天衣とい
う方が多いようです。ただ、天衣と領巾とは本来違うものである筈で天衣で飛行出来る
ならば天衣のある「菩薩や天」の総てが飛翔出来ることになるのですが。 

 

 西洋では飛行するのに鳥のように翼を必要としたのであります。我々のお馴染みと言
えば森永製菓のエンジェルでその姿の可愛らしかったことは甘いものに飢えていた我が
世代だから余計に愛しく感じたのでしょう。紀元前より翼を付けた神並びに翼を付けた
ドラゴン、天馬ペガサスなどの聖獣が造り出されました。大きさにおいては東洋の比で
はないくらい雄雄しい立派な翼を持つ大型獣が多くありました。
 一神教のキリストでは「天使」と言うように神の使いで神の意思を人間に伝える役目を
背負ったものであって複数の役目を背負う飛天とは少し違うようであります。
 ローマの「愛のキューピット」の前身であるギリシャの「エロス」は幼児ではなく青年の
姿でありました。

 

 

  インドでは先月掲載いたしました「八部衆」の「乾闥婆(けんだつば・ガンダルヴァ)、
緊那羅(きんなら・キンナラ)」が飛天であるともいわれますが我が国で造像された乾闥
婆、緊那羅からは想像し難いものです。飛天らしい乾闥婆、緊那羅がインドでは存在し
写真などを見ると飛天そのものであります。乾闥婆、緊那羅は夫妻の飛天もあります。
このようにインドでは飛天が早くから存在しておりましたので経典にもない仏教の飛天
が誕生したのでしょうか。それと、乾闥婆、緊那羅を飛天とすると飛天の誕生はまだ釈
迦がシンボルで礼拝された時期ですから釈迦像誕生より先行することとなります。
 尊像はインドの気候風土の関係から上半身が裸というのが通例ですから飛天が瓔珞な
どで身を飾っておりますと菩薩像との区別が付き難いところがあります。このことは我
が国でも同じ傾向で飛天か菩薩かという「音声菩薩」があります。
 ガンダーラでは有翼の飛天が見られたとのことですが間もなく飛行用具の翼が無くな
り上半身は裸で天衣を翻しながら遊泳するようになりました。 

 インドにも古来の神で弓と矢を手にした愛の神・カーマがおり西洋の愛の神・キュー
ピットと同じですが翼はなかったようであります。また、カーマには配偶神が居りまし
たのでキューピットと同じ男性神だったようです。   


          如来三尊像(マトゥラー博物館)

  「飛天」は本尊が居られる天上の左右を雄飛し蓮弁を散らしながら仏を供養しており
ます。飛天は菩提樹の天で仏の供養のため飛翔しておりますが我が国では天空を遊行す
るものがほとんどです。「菩提樹」そのものも珍しくまたインドの菩提樹と我が国の菩提
樹は種類が違うようです。斜めに構えた男性飛天で上半身は裸で前の長いフンドシのよ
うなものを着けております。宝冠、胸飾り、腕釧を着け天衣は前後に流れなびいており
ます。ただ、見た感じでは曲げた足で蹴り上げてまさに飛ぼうとする瞬間のようであり
ますが足を曲げたり伸ばしたりして飛翔しているのでしょうか。右の飛天は華盤をもっ
ておりますが他の手がどうなっているか分かりません。
 本尊は結跏趺坐、円形光背、マトゥラー様式の偏袒右肩、施無畏印です。ただ脇侍は
素材の制約上本尊の後から顔だけを出し存在感を示すというほほえましい光景となって
おります。本尊、脇侍ともに清楚にして清々しい顔をしており好男子という風情です。  

 


   童子形有翼飛天(ニューデリー博物館)

 「童子形有翼飛天」は中国に近いミ
ーラン寺院跡から発掘され翼を持っ
ているということで大きな話題を呼
んだらしいです。
 ギリシャ人らしい大きな見開いた
澄んだ眼、高い鼻でギリシャ・ロー
マ風の天使そのものです。エロスが
誕生した当初はこのような眉目秀麗
な青年の容貌であったのが、可愛ら
しい幼児形飛天エンジェルに変わっ
ていったのでしょう。ただ、本像は
3世紀位の創像といわれております

からエンジェル誕生より後の制作です。
 なぜ、有翼の飛天がミーラン寺院から中国の敦煌莫高窟まで大陸感覚でいえばそんな
に離れていないのに何故中国へは届かなかったのでしょうか。ひょっとすると、その時
期には神仙が翼を持たなくなっていたため思想上の問題で侵入を妨げたのでしょうか。
それとも、道中の砂漠で翼が飛んでいってしまったでしょうか。髪の毛は一部だけを残
して髷を結っているように見えます。 

 

 
     男女一対の飛天像(アジャンタ石窟)

 全裸に近い男女一対の「飛天」です
がインドでは何の抵抗もないようで
す。先述の乾闥婆、緊那羅夫妻の飛
天の影響でインドではペアの飛天が
多くあるのでしょう。どうもペアの
飛天は中国で馴染まなかったようで
我が国へは伝来いたしませんでした。
  男性は左足をのばしたまま、女性
のほうは男性に寄り添って右手を男
性の肩に掛けしだれかかっている可
愛らしい仕草でまるで睦言を囁いて
いるようにしか見えないのは煩悩に
苛まされている凡人だからでしょう
か。飛天と言うイメージではなく仲

睦ましい若者の憩い風景に見えます。男性は腰に女性は腰と胸に衣裳をつけております
が余りにも小さくて女性はちくびが見えているようで官能的で妖しい魅力です。宝冠、
耳璫、胸飾り、腕釧を着けております。
 ただの男女にしか見えなく徒手空拳で翼も羽衣なしで飛べるのですから不思議です。
翼なしで本像のような普通の成人男女がどうして飛べるのか理解に苦しむところであり
ます。しかしそのインドでも天衣で飛翔するように変化して参ります。
  インドで最初に男性の飛天が生まれその後男女の飛天が新たに生まれ、そして中国を
経て我が国に伝来する間に逆に男性の影が薄くなり女性の飛天が目立つようになりまし
た。

 

 

 中国ではインドのように何もなしで飛行することは考えられずインド伝来の天衣で飛
行するようになりますがさらには仏教伝来以前からありました神仙の雲を追加するので
あります。 
 男性の飛天が中国で消えたのも華麗に飛翔する姿に加え、天空を飛翔中なら天衣を幾
ら棚引かしても問題がないので天衣はますます長くなっていきその優美な姿は女性でな
いと様にならないからでしょう。それと、後述の「道教」の女性の神仙「西王母」の影響で
しょうか。
 翼より雲に乗って飛ぶほうが人間的に見え翼があれば動物的な感じがするので翼を敬
遠したのでしょう。
 中国で天空を飛行する大型な生き物は竜くらいで竜は最初飛行用具は翼でしたが雲に
変わってまいりました。我が国でも同じ経過であったと思われますが「日光東照宮の竜」
は翼を取ってあるから飛んでいかないという説があり江戸時代にもまだ「翼のある竜」と
いう考えがあったのでしょう。  「日光東照宮のお話」をご参照ください。


  紫禁城(中国)    鳳凰に乗った仙人(緑矢印)

  中国には仏教伝来以前に民族宗教
として連綿と続いたきた「道教」があ
りました。乱暴な言い方ですが我が
国の神道のようなものであります。
その道教には神仙思想があり、はる
か西方にある崑崙山(こんろんさん)
には仙界がありその仙界を不老不死
の女性の神仙、西王母(せいおうぼ)
が住処としておりました。西王母は
当初は恐ろしい形相だったのがつい

には美貌の神仙になったとのことです。はるか東方には東王父(とうおうふ)という仙人
がおりましたが母系社会の時代でありましたので影は薄く神仙は女性から始まったとい
えそうです。
 西王母は不老不死の霊薬を持っており皇帝の中には西王母に会い不老不死の薬を貰い
受けることや遊泳の術を学ぼうとする者もいたらしいですが崑崙山までどのようにして
行ったのでしょうか。どうも行けなかったようで崑崙山まで行くのは難しいと考えたの
でしょう。皇帝達は部下に不老不死の霊薬を持つ仙人を捜し求めさせ我が国にも「徐福」
と呼ばれる者が訪ねて来たと言う伝説があります。
 神仙は当初、翼や異常に大きい耳を持っておりましたが時代とともに翼が無くなりそ
の代わりに飛雲が出て参りました。その飛雲の時代に有翼の飛天が到来しても中国では
受け入れることが出来なかったのでありましょう。 
 仙人、飛仙、神仙とも言います。自由自在に天空を飛翔できる仙人の乗り物には雲、
鳳凰、鶴があります。修行を積めば仙人になれるということでしたので不老不死でしか
も飛行できる仙人には万人が憧れたことでしょう。
 道教は唐時代には国教の地位を得たくらい盛んでしたが我が国では神道があった関係
上か余り普及はしませんでした。それと、我が国では政治に宗教を利用しなくても単一
民族ですから統治できたこともあるでしょう。天武天皇が仏教を奨励するため貴族の住
宅には仏と経典を確保せよとの詔を発しても一部の者には聞き入れられず仕舞いでした。
 ただ、奈良町の住宅の軒先に身代わり庚申(こうしん)の赤い猿が数多くぶら下げてあ
ります。これは道教の「三尸(さんし)庚申」の名残ではないかと言われております。ここ
での三尸とは虫のことで庚申とは干支の「かのえさる」で57番目にあります。三尸庚申
の俗信については奈良町でお訊ねください。

  雲の種類では「霊芝雲(れいしうん)」が飛天だけでなく色んなところで用いられますが
「霊芝」とは切り株に生える万年茸(まんねんたけ)と言われる茸のことでその霊芝に似た
雲文のことを霊芝雲と言います。霊芝は中国では不老不死の薬草でさらに霊芝の効き目
で雲に乗り飛べるようになるとのことです。このことは修行で仙人になるには難行苦行
でありますので簡易な方法として霊芝が奨励されたのでしょう。ですから、霊芝雲は神
仙思想から生まれたと言えましょう。霊芝の文様は不老不死の象徴でお目出度いという
ことでいろんな分野で好んで用いられております。 
 余談ですが「久米の仙人」も雲に乗らず鳳凰か鶴に乗っておれば墜落せずに済んだかも
しれませんのに。 

 


     唐三二零窟(敦煌莫高窟)

 「敦煌莫高窟」では撮影禁止でした
のでこの飛天画を購入してまいりま
した。その絵をフィルムカメラで撮
影しそのプリントからのカラーコピ
ーにしたのでありますが今はカラー
コピーしか残っておらず原画、フィ
ルムネガ、プリントの総べては行方
不明です。仕方がなくカラーコピー
をスキャナーで取り込みましたので
不鮮明な画となりましたが敦煌の飛
天画は絵の具が変色か退色したらし

く黒い飛天が多くその意味では多少不鮮明の方でが良かったのはないかと自己弁護して
おります。
 説明には「唐三二零窟(青枠内)」と書いてあります。
 「飛天」は天空からまっさかさまに急降下するところですが自由自在に気の向くまま飛
行しているようであります。
  双髻の一方に十字状の飾りが付いております。首飾り、腕釧を着けており上半身は裸
で天衣は長く下半身は裳を纏っております。美しい曲線を描きながら飛行するスタイル
はスマートでしなやかな体付きを表しており若々しい優雅な飛天となっております。体
の線に沿って流れる天衣は美しさに輝いております。
 しなやかな右手には一輪の花、左手には華盤、もう一方の飛天の右手は素手、左手に
は数珠を持っているように見えます。胸は小さく痩身となったのは中国での変身であり
ます。  
 法隆寺金堂の小壁画像とよく似ておりますがこの像の方が顔が小さくいかにも女性ら
しい表現です。

 


  飛天像(雲岡石窟)


      大仏像(雲岡石窟第20窟)

 「雲岡石窟」は飛天の天国で飛天の中に尊像があるくらいとにかく多いです。敦煌莫
高窟では色が褪せていたり黒色の飛天がいて余り気がつかなかったのでありますが雲
岡は浮彫りの飛天であり素晴らしい眺めでした。
  「飛天像(緑矢印)」は有名な露座の「大仏」の右上方に彫刻されております。  
 「上部の飛天像」は宝冠を冠り、豪華な胸飾り、臂釧、腕釧を着けております。裸の
上半身を起こし左手には蓮華を入れた篭を持ちますが右手は岩盤の制約上表現されて
いません。飛雲にも乗らず天衣も棚引くことがなくインドで見たように飛行用具なし
で飛翔しているようにも見えます。天衣が棚引くこともないくらいゆったりとした飛
行であります。天衣だけの飛行で雲を表すことがないのが雲岡石窟の飛天の特徴であ
ります。条帛を着けておりますから菩薩像のようであります。顔付きは当時の宮廷美
人を写されたのか端麗な美貌であります。両足は曲げずに伸ばしたままであります。
 「下側の飛天像」は立膝で坐り両手で華盤を捧げております。頭上に宝冠を冠し品格
のある容貌です。上半身は裸ではなく偏袒右肩で腰裳は足首までの長さがあるものを
着けております。胸飾りは着けておりませんが見た感じでは菩薩像と思しきものです
がぽっちゃりとしていかにも女性らしい顔付きで飛天らしいイメージでした。
 本尊、飛天ともインド様式の薄着でありますが雲岡の寒さはこたえることでしょう。
と申しますのも、私が雲岡石窟を訪れたのは9月下旬だというのに雪が舞う天候でし
た。日本製のマイクロバスはヒーターが故障で北京まで行かなくては修理出来ないの
ですぐには無理。ホテルは暖房を入れる期日が来なければ駄目で悲惨な目に会いまし
たが10年も前の話で現在では総べて改善されていることでしょう。後述の「鞏県石
窟」では蝉が鳴いていたのが「天竜山石窟」を経てたった2日後に雲 岡石窟が雪とは想
像もしませんでした。異常気象だったとはいえ内陸から内陸への移動ですのに中国と
は広大な国と言うことを実感いたしました。

                   


       飛天像(撮影場所不明)

 「龍門石窟」では賓陽中洞でも著
名な尊像を撮影するのに気を取ら
れ飛天は全然撮影せず奉先寺大仏
も光背の飛天は小さすぎて拡大す
るとボケて無理でした。仏教美術
関係のホームページを作成し始め
たのは今から数年前でガイド案内
のホームページがいつの間にか現

在の形に変わりました。仏教美術のホームページをもう少し早く開始しておれば多くの
写真を撮影して参りましたのに惜しいことです。
 写真は奉先寺大仏から白馬寺に向かう途中でここにこんな飛天の浮き彫りがあります
よと添乗員の方が案内されたので何となく撮影したため撮影場所は記憶にありません。
飛天は龍門石窟で雲に乗るようになりますが残念ながら雲らしきものは見当たりません。  

 


     飛天像(鞏県石窟)

 「鞏県石窟」も内部は撮影禁止でしたので
「飛天像」と「礼仏図」の拓本を買ってまいり
ました。10年も前でしたので飛天図の拓本
は2,000円程度でした。さほど大事とも思
わなかったので礼仏図は他人にあげてしま
い飛天図は拓本屋の割引セールスに釣られ
て相談すると原画の大きさのままだと高価
になるが四方を少しきると大幅に下がると
言うことで四方を切ってしまいました。今
になっては惜しいことをしたもんだと後悔
しております。
 「飛天像」は三面宝冠を冠り高い鼻の面長
で体付きはほっそりとしたプロポーション
でいかにも女性らしい優雅さがあります。 

流れ行く風に立ち向かうため風をはらんだ天衣が舞い上がっております。飛行を手助け
するのに雲が一番適しており霊芝雲が飛天の周りを取り囲んでおります。霊芝雲と天衣
の発想は中国独自に考えられたものでこれらの様式は我が国にも伝来して採用されてお
ります。

 

 


  聖徳大王神鐘(国立慶州博物館)  


     飛天像(韓国)

 この「梵鐘」は「聖徳大王神鐘」と言われ韓国最大の鐘であります。朝鮮鐘のなかでも最
も優美な鐘であることと合わせて悲しい伝説で著名であります。
 738年、孝成王が父聖徳王の追福を祈願して創建された奉徳寺に懸けられていた鐘が
洪水で流出しため新しい鐘を鋳造しようとしたがうまくいかず、途方にくれていると神
のお告げがあり幼い子の生贄が必要と言うことで鐘を造るために溶鉱炉に幼い子が捧げ
られたのであります。そうすると溶鉱炉の中からエミルレ(お母さん)と泣き叫びました
ので「エミルレの鐘」とも言われます。
  「飛天像」は霊芝雲の上にある蓮華座に跪坐し上半身は裸です。両手で柄香炉を捧げ持
ち下から仰ぎ見るような体制で、今までの天空からの散華するポーズとは違います。鋳
造も緻密に出来ており評判が高く惚れ惚れする飛天像です。

 

 我が国では中国と同じように翼は好まなかったようであります。我が国では三保の松
原の羽衣伝説があり羽衣(領巾・肩巾・ショール・天衣)で飛行するか久米の仙人ではな
いですが雲の上に乗り飛行するかであります。とはいえ、後の時代になれば「迦陵頻伽
(かりょうびんが)」という翼を付けた美しい飛天も現れて参ります。羽衣の天人は子供を
生むことが出来、我々と同類の人間そのものですから親しみがもて各地に羽衣伝説が生
まれたのでしょう。昔の人は空に浮かぶ雲を見てある時は天候を占うとか季節の変わり
目を感じたりして雲は日常生活では重要な役割をしていたことでしょう。寺院では火除
けの願いで雨を呼ぶ雲を建物の天井に描いております。


     須弥山図(玉虫厨子・法隆寺)

 「玉虫厨子」は仏画では現存最古の
遺構であるばかりでなく釈迦如来の
前世の物語・本生譚(ほんじょうた
ん)でも数少ない貴重なものです。
それに、古代建築の様式、技法が今
に伝える資料で極めて価値の高いも
のです。なお、建築様式では現金堂
より古いとも言われております。
 A:鳳凰に騎乗した仙人
 B:帝釈天宮
 C:太陽に三本足の烏(八咫烏)
 D:月に兎
 E:四天王宮
 F:飛天
 G:飛雲に乗る鳳凰?
 H:巻きつく双竜
 I:海面
 J: 海龍王宮(龍宮城)
 K:釈迦如来
 M:菩薩?
 N:迦楼羅

 それだけに、法隆寺に訪れられこの見応えのある玉虫厨子だけを拝観されてお帰りに
なるだけでも訪れた価値があります。
 「須弥山図」は仏教世界の中心である海上に茸状に伸びた須弥山を表現した図です。
 中国で誕生した「神仙(A)」が鳳凰に騎乗して左手で先に幡がある棹を立て右手は大き
く広げて天空を飛翔しております。仏教の飛天と違って上半身は裸ではありません。仏
教の「飛天(F)」が天から急降下してくる状況が描かれております。 
 太陽のシンボルは「三本足の烏(C)」か「鳳凰」、月のシンボルは「兎(D)」か「蟾蜍(ひき
がえる)」でこれは「神仙思想」の宇宙観を表現したものであります。月の図は少しはっき
りいたしませんので書かれているのは蟾蜍とも言われますが私は我が国ならば兎だろう
と思っております。  
  海龍王宮(龍宮城)(J)で釈迦(K)が竜王のために説法をするところです。釈迦の脇
侍は図から判断すると菩薩(M)であるようですが女性っぽいので少し肥満体の方が
竜王の奥さんでスリムなのが娘さんではないかとも言われております。
  現在(2005.10)、カビの繁殖で問題となっている「高松塚・キトラ古墳の壁画」には仏
教の飛天が現れず四神が描かれております。そういう意味ではこの画像は中国の神仙思
想と仏教との混淆という貴重なもので後の時代ではお目にかかれないものです。インド
で誕生した飛天と中国で誕生した神仙が仲良くはるか東方の地・法隆寺に雄飛してきた
図であります。
 仙人が幡の付いた棹を持つのは天子の使いと言う目印で、崑崙山から須弥山にやって
きたのでしょうか。霊魂がこの仙人に連れられて崑崙山へ行くのであれば仏教の浄土へ
の往生願いはないのでしょうか。難しい問題ですね。
 須弥山の山腹を取り巻いているのが、「二竜王(G)」の「難陀(なんだ)」「跋難陀(跋なん
だ)」竜王で須弥山を守っております。
 八部衆の「迦楼羅(N)」が「龍」を銜えているところの場面が龍宮城の横にあるとのこと
で真剣に見つめましたがそれらしいところしか分かりませんでした。釈迦の慈悲で竜が
迦楼羅から逃れることが出来る以前の物語でしょう。
 正面の供養図並びに背面上部の霊鷲山浄土図にも 飛天像がありますのでご覧ください。 

 


           飛天像(法隆寺)

 「飛天像」は金堂の長
押上にある小壁画で、
昭和24年の悲しい出
来事で、アジャンター
石窟の壁画と並んで世
界二大壁画と称された
金堂の大壁画は今は痛
ましい姿となってしま
いました。ただ、小壁
画は幸いなことに金堂
の解体修理のため取り

外してありましたので無事でした。
 飛天が二体並んでゆったりと楚々たる美しさで舞い降りてきております。丸顔、上半
身は裸、胸飾り、臂釧、足釧を着け天衣は長く曲線状に棚引きスピード感にあふれてお
ります。頭を挙げて本尊に視線を送りながら右回りに回る右繞(うよう)礼拝であります。
 足裏を見るとスピードをつける為キックしているように見えます。二体とも白魚のよ
うな美しい左手に華盤を捧げて散華供養をしております。瑞雲の霊芝雲が躍動感あふれ
る天衣に寄り添って流れております。 
 飛天の視線が水平方向にあるように見えるのは本尊の高さ近くまで降下してきたので
しょう。
 顔付きをみるとどうも男性らしいですが時代が進むにつれて我が国では三保の松原の
天人のイメージが強くて天人と言えば女性と決め付けており圧倒的な男性世界の仏の世
界を荘厳するのに女性の天人は適任でしょう。菩薩も釈迦の王子時代の姿と言われてお
りましたのが時代とともに女性らしく変わってまいります。飛天もこれと同じような時
間経過を辿ったのでしょう。
 「大宝蔵院」はこの飛天図と下記の飛天像とが同じスペースに展示されておりますので
古代の飛天の絵と像が同時に拝見できますので雅なひと時を満喫してください。

 

 
    飛天像(法隆寺金堂)

 「飛天像」は金堂を荘厳するために3天蓋の上辺に付
けられております。蓮華のうてなに正座する表情が愛
らしい飛天でキリスト教のエンジェルのイメージがあ
りひょっとするとこの飛天のルーツはインドではなく
ギリシャ・ローマであるのかも知れません。
 飛天はいろんな楽器 横笛、ばち、琵琶、鼓、笙、  竪笛を吹く木彫像で木のぬくもりを感じさせます。
 頭の双髻は優しい雰囲気のある「中宮寺の弥勒菩薩
像」と同形です。
 天衣がこれほど像本体に比べて大きいのは珍しく西
洋の天使の雄大な翼のイメージでしょうか。この舞い
上がる天衣では超スピードを出したり停止して浮遊す
るのもお手のものでしょう。台上に座しているという
感じですが天空に浮かんでいる状態で仏を琵琶で奏楽供養しております。
 上半身は裸ではなくファーベストのような上着(肩着)を着けております。

 顔貌は心が和む白鳳時代の童子の顔であります。
 左右対称の天衣は唐草風に透彫したものです。左右に蓮のような丸いものがあり唐草
文は光背と天衣を兼ねたものでしょうか。      

  現存最古の「飛仙図」が法隆寺金堂に安置されております「薬師如来像」の台座内側に描
かれております。男性の飛仙で飛行には天衣だけで飛雲がありませんがイメージとして
は先述の鞏県石窟像のようです。

 


音声菩薩像・横笛(東大寺)


音声菩薩像・竪笛(東大寺)

 「飛天」は大仏殿の前庭に設
置された「八角灯篭」の火袋の
八面のうち四面に浮彫りにさ
れております。ただ、頭光背、
宝冠、条帛、踏割蓮華座上に
安置されておりますことから
いいますと「音声菩薩」という
ほうが正しいかも知れません。
 奏楽の楽器は横笛、竪笛
(尺八)、銅祓子、笙の四種類
です。銅祓子、笙を奏でる飛
天は後補ですから大仏開眼供
養の状況を知っているのは竪
笛、横笛の音声菩薩でその前
に立ちますと流れてくる笛の
音に合わせて大仏開眼供養の
状況を無言のうちに語ってく
れることでしょう。
 ふわふわとした雲上の踏割
蓮華座に乗りふくよかな体付

き、端正な顔立ち、豊頬で無邪気な溌剌とした少年のようで爽やかな印象です。像全体
が丸味を帯びているのに対し背景の斜め格子とは見事なコントラストを描き出しており
ます。 
 手を体の前に持ってくることで奥行きを構成し立体感を出しております。菩薩像が腰
を振りだんだんと女性らしくなって参りますのに合わしており本像も腰を振っておりま
す。
 1300年も前から佇んでおり、日々に忍び寄る「酸性雨」などの公害問題を克服されまし
たお陰で天平時代の傑作に今日お目にかかることが出来るのです。

 


    水 煙(薬師寺)


  天童     天女      天男
 この三体の飛天は子供の天童、母親の天女、父
親の天男であると闊歩された方があり大変感心い
たしました。天童は坊主頭で蓮の蕾を両手で捧げ
ております。天女は頭が小さく華盤を捧げており
ます。天男は跪き変わった頭巾を被り横笛で奏楽
しております。健康的な家族の飛天ということで
あれば親しみが湧いてまいります。

  「水煙」は天平創建の東塔を思いましたが映像が不鮮明なため昭和再建の西塔を掲載
いたしました。水煙は左右対称で天衣と霊芝雲が同じ火炎状となって識別し難くなって
おりますが「東僧坊」内に全く同じに造られた水煙が飾ってありますので間近にご覧にな
り見極めてください。     
 果てしなき空間の霊芝雲上に雄飛する東塔の飛天が、天平時代から今まで現実の天空
で散華奏楽をし続けてきたことは奇跡としか言いようがありません。心に残る薫り高い
飛天像でありますから双眼鏡持参でご覧ください。

 

 


             飛天壁画(法界寺)


    飛天光(法界寺)


         飛天壁画(法界寺)

 壁画の「飛天像」は鎌倉作で、霊芝雲に乗るのが原則でありますが雲があると煩わしく
なるので天衣だけの方がすっきりするため霊芝雲を採用しなかったのでしょう。この壁
画は歴史上最後の傑作と言われる作品です。
  本尊の「阿弥陀如来」の居られる極楽浄土を彩るには飛天ほど適した尊はいないでしょ
う。仏さんも美しい艶やかな飛天に散華して貰う方がうれしいことでしょうし衆生もそ
のような極楽世界に憧れたことでしょう。ただ、女人禁制の極楽浄土へどうして天女が
入り得たのでしょうか。私のような凡人には極楽浄土には美しい飛天が居なくて男ばか
りの浄土では殺風景過ぎて魅力あるものとは思えません。こんな不謹慎なことをいうと
極楽浄土へは往生出来なくなるかも知れませんが。
  四面の長押上の小壁を三区分、十二面に仕切られた内十面に飛天が描かれております。
他の二面は香炉と楽器の図でありますが何故か香炉図には雲があります。
 しなやかな 熟年の女性のようで優美な顔立ち、ぽっちゃりとした頬、華麗な宝冠、胸
元には豪華な瓔珞を付けております。天衣の上にささやかな上着を着けて いるように見
えます。
 上部の飛天は華盤を両手で捧げており華麗に彩られております。下部の飛天 が一輪の
花を捧げ持っておりますのは敦煌莫高窟像と同じであります。
 法隆寺像より胸を反らしておりますが片足だけでなく両足を軽く曲げ天衣はスピード
感あふるる優雅で麗しい飛天像であります。

 「飛天光(飛天光背)」は本尊の光背として設けられております。光背の見事な透彫の
「飛天」と壁画の飛天の二天で礼拝する本尊に歌舞散華しながら仏の世界を荘厳いたして
おります。
  飛天は頭は高髻、上半身は条帛で壁画のように胸を隠すことはしてはおりませんがし
なやかに腰を大きく振っていかにも女性らしい仕草であります。優美な顔立ちで豊麗な
曲線美の天衣をなびかせておりますが腰前にある丸いものは奏楽のための小鼓でしょう
か。
 飛天光は古代からあり法隆寺金堂の本尊釈迦如来像の光背には周囲に飛天が設けられ
ておりましたのが今は欠損しております。一時廃れた飛天光ですが仏師「定朝」によって
再び蘇ります。鳳凰堂像は当然ですが浄瑠璃寺像など多くの尊像で採用されるようにな
ります。ただ、法隆寺金堂本尊の光背は飛天付光背と言いそれが変化したのが飛天光と
言う説もあります。
 以上の法界寺の画像はお寺の許可を得て絵葉書から転写いたしました。
 「寺院建築−鎌倉時代」「阿弥陀如来像のお話」をご参照ください。

 

                               画 中西 雅子