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白玉光氏を救う会
1975(昭和50)年11月「白玉光(ぺ・オッカン)氏を救う会」を結成し無事生還まで頑張りました闘いました
1975年11月22日,当時の韓国中央情報部(KCIA)は日本から韓国へ母国留学していた在日韓国人学生らの一斉逮捕を発表。
その日の夕刊で写真入りで白玉光氏らの逮捕が報じられていました。
白玉光氏は留学生ではなく、すでに社会人で、した。
わたしの母が、「白水君やで。これは。」と教えてくれました。白水君は大手前高校の友人でした。
当時のわたしは在日韓国人・朝鮮人が社会的に差別され日本風の通名で生活をしているのを知りませんでした。
また彼が在日韓国人であることもしりませんでした。

1976(昭和51)年4月30日 ソウル地裁「死刑」
おまえは医学部の学生だから一番ヒマだろうと、高校の同級生たちがわたしに救援会をやってくれと指名しました。
そのころの医学生はのんびりしていました。
当時の韓国は軍事独裁国家。北方の社会主義独裁国家とは内戦状態です(休戦はしていますが)。
ソウルへ何度か行きましたが、ことばは分からないし、本人に会えるのは裁判所で傍聴するときに遠くからちらっと見えるだけ。
意を決して、護送車の到着しそうなところに、待機しました。
運良く彼がわたしの目の前を引かれてくる。そこで前に出て「シラミズ!」と大声で叫びました。
彼はわたしを認めて「おうっ」とこたえました。
次の瞬間、わたしは警備の係官につきとばされていました。
詰め寄る警備官たちに、横から日本の朝日新聞の記者が脇をかかえて、かばって抗議してくれました。
生きてがんばってくれとの願いが言わずとも通じたとおもいました。

大手前高校の故浜田一郎先生のこと
韓国の裁判で死刑になると考えられ、世界に向かって救援のパフォーマンスをしようという意見が出て、母校の前を借りて韓国政府に 抗議するハンガーストライキをやろうということになりました。
わたしが大手前高校との交渉役にきまり、かつての担任の物理学の浜田一郎先生にお願いに行きました。
先生はわたしが在校生のときは、高校生が政治に関心をもって行動するのには批判的な考えだったと思います。
学校の応接室でわたしの話を聞いてくださり、「わかりました」と一言いわれました。
無理は覚悟でお願いに行きましたので、ほっとしました。
校長先生や他の先生にも説明をしなければと思いましたが、先生は、ハンガーストライキをする場所を学校の正門横に指定され、在校 生の登校の邪魔にならないようにとだけおっしゃられました。
ハンガーストライキは卒業生二人と若い人でリレー式におこないました。
場所のちょうど斜め向いがNHK大阪放送局で、さっそくカメラマンと記者がきて、全国にニュースで放送してくれました。
今から思うと、浜田先生におかけした迷惑は大変なものであったでしょう。
おそらく浜田先生は学校や大阪府警と大阪府教育委員会に十分念を押して、わたしたちの安全を守ってくださったと思います。
なにせ、高校の隣が府庁の教育委員会で、そのまた隣が大阪府警本部でした。
卒業した高校の正門横で外国政府への抗議行動をするということは前代未聞のことであったでしょう。
先生の常の毅然とした態度と、生徒に話しかけられるときの丁寧な様子は忘れられません。大阪府教育委員会も大阪府警も、それな らばと許可されたのがとおもいます。

現在のきれいになった大手前高校の正門前。
門に向かって左の歩道に面したところでハンガーストライキをしました。
うしろにみえる白い大きなたてものが、大阪府庁です。
そして、その左となりが大阪府警本部です。

当時の正門横の古びた石塀と同じ塀です。この塀を背にして座りました。
今は、学校の裏に残っています。

大阪大学の山田信夫先生のこと
当時の韓国でも死刑囚は、面会は肉親と弁護士にかぎられ、白君のお母さんが面会に行っていました。
丈夫ではない体をおして、死刑のわが子を助けてほしいと母国の監獄に通うのはつらかったろうと思います。
やがて、病を得て亡くなりました。すでに彼の父親は幼少のときに亡くなっています。
肉親以外の誰かが行って、かれに母が亡くなったことを伝えなければならなくなりました。
阪大のときの直接の恩師ではないが、山田信夫教授にたのめばどうかということになりました。
山田信夫先生は中央アジア史の世界的な学者です。
たしか、西夏文字を読むことができる数少ないうちの一人だとか。
山田先生なら韓国政府も特別に面会を許可してくれるかもしれない。
阪大の同級生の人たちが先生にお願いに行きました。
そのとき山田先生はごくふつうに、いいですよと簡単におっしゃたそうです。
そして、外務省にいる東京大学時代の友人に連絡して、韓国政府とも事前のあいさつをかわして面会に行き、白君にお母さんの死をつたえられました。
白君は、母が長く来ないので、覚悟はしていたようですが、悲しかったろうと思います。
山田先生はその後亡くなられましたが、奥様をはじめ何人かの人から、先生が病室で白君は元気だろうかと心配しておられたということを伺いました。

この二人の教育者のことを思うと、人の意思の偉大さというものを実感するのです。
特定の主義や運動と明らかに一線を劃している人が、一旦教え子が窮地に直面したときに迷わず手をさしのべる。
しかも、ふだんとまったくかわらない表情のままで。
そのころわたしは若かったから、それがとても困難なことだとは気がつきませんでした。
しかし、そういうことができるようになった自分が今、同じ課題を突きつけられたら、逃げるかもしれない。ごまかすかもしれない。
じっさいに、病気や死に直面している患者さんを目の前にして、逃げたり、ごまかしたりしている。
でも、いくじなしの自分でも、ちょっと依怙地なところがあるのは、こんなすばらしい教育者に出会えた結果と思います。

もう一人のすばらしい教育者
白君を救う会は大阪と東京にできました。
東京では、当時白君の親族が東京医科歯科大学で学んでいて、白君が捕まって驚き、どうしようかと医科歯科大学の物理学の渡辺一衛教授に相談しました。
渡辺先生は、国立大学の教授という制約のきびしい中で、市民に白君の救出をうったえ、韓国を訪問もされ釈放に尽力されました。
常に物静かで、姿勢のいい、とてもダンディーなかたです。
東京と大阪なので、よくお会いするということはできませんが、何年かに一度お会いすると、なつかしく当時の話をしてくださいます。
今は退官され、元気で著述などの生活にもどっておられます。

1976(昭和51)年12月14日 韓国大法院「死刑確定」
しかし、やはり一審、二審、最高裁(大法院)と死刑。
この衝撃の死刑宣告の日から、わたしたちはなんとしても死刑執行を避けるために、世界中に白玉光君の無実を訴えつづけました。
当時の韓国の法律では、死刑囚は6ヶ月以内に死刑執行しなければならないと決まっていました。
このとき与党自民党、野党社会党の国会議員のかたがた、とくに佐々木静子さん、土井たか子さんやアムネスティのいろいろな人に助けていただきました。
その間、愛媛県松山市の道後温泉の旅館経営者のかたが、ニュースを見て、起訴状にかかれた日時に白君が宿泊していたことを日本で証言してくださったことなど から、恩赦で無期懲役に減刑されました。
やっと死刑執行という恐怖から開放された、わたしたちの喜びは大変なものでした。
そして、その後の韓国の民主化の大きな変化の中で、1990(平成2)年に生身の白玉光を無事日本に迎えることができました。
すでに15年の年月がたっていました。
毎年、11月22日が近づくと白君をはじめ皆で集まるのを楽しい恒例にしています。

大阪と東京の白玉光氏を救う会の活動の記録(1979年昭和54年発行)
希望者には現在も500円で頒布しています。

朴菖煕先生を救う会
「無実の朴菖煕(パク・チャンヒ)先生を救う会」を立ち上げ
釈放まで闘いました
その5年後、1995(平成7)年に、わたしの大学時代の恩師の島津博士(生理学)から思いがけない依頼がありました。
島津先生の韓国人の友人である韓国外国語大学の歴史学の朴菖熙教授という人が韓国で国家保安法という法律で逮捕された。
救援活動を立ち上げて、彼を救ってほしい。
あなたは以前に在日韓国人の救う会をやっていたでしょうと。
しかし、わたしは47歳でした。白君のときは20代の学生。
大学病院ではNICU(新生児集中治療室)と小児科病棟の管理をまかされて、年中ヒマなし。
うへーっとおもいました。しかし恩師の期待はうらぎるわけにはいきません。
裁判は一審で無期懲役。
古い友人の協力と新たな友人を得て救う会を結成し、韓国政府、日本政府への減刑と釈放の訴え、街頭活動をくりかえしました。
この時も、たくさんの市民やアムネスティの協力を得て、減刑のすえ3年6ヶ月の収監生活を終えて、朴菖熙さんの釈放をかちとりました。
しかし釈放後も朴菖熙先生は長く自由の保障されない生活を強いられました。
今は朴菖熙さんとは最高の友人として往来があります。

「許浚」(ホジュン)の訳者
 朴菖熙教授は1932年、日本統治下の朝鮮の蜜陽に生まれました。
 1951年に日本に渡り、一橋大学経済学部で学び社会学博士号取得、都立大学で歴史学専攻。
 1968年に韓国に帰国し、梨花女子大、国立韓国外国語大学などで20年間、経済史・思想史・韓日関係史などを講義。
 そして、日本の農村を仮面劇のサークルの学生を連れて何度もおとずれて、草の根の文化交流をすすめました。
 1950年の朝鮮戦争で生き別れになった兄が、北で生きていると聞き、行方を尋ね、てがみを交わしたことが、外国語大学教授在職中の1995年に国家保安法違 反に問われたのです。
 朴菖熙さんは日本では、この後、李恩成氏の小説「許浚」(ホジュン)の訳者として、名前を知られています。
 許浚は約400年前の朝鮮李氏王朝時代に『東医宝鑑』という医書を著した実在の名医。
 韓流テレビの『東医宝鑑』は有名になったので見た人もあるでしょう。
 また朴菖熙さんは、作家の岡部伊都子さんの晩年に親交があったことでも知られています。
 
 参考ソウルでの故岡部伊都子先生(朴菖熙)」

精神医療問題研究会(精医研)
1970年代後半に日本の精神病患者のおかれていた人権無視の医療状況と闘いました
1970年代後半に奈良医大、関西医大、京大、阪大の医学生と精神科医の関西の有志で立ち上げました。
当時わたしは医学生でした。ただし、のち精神科をえらばずに小児科にすすみました。
当時の精神病患者の人権をまったく無視された状態の改善にとりくみました。
精神病患者の新聞報道のあり方や、大学の精神科の教育、研究のあり方にもとりくみました。
大阪の山本病院闘争、浅香山病院問題などを闘いました。
その後、露骨な権力の介入により運動の中心の奈良医大精神科が暴力的にこわされ運動は収束しました。
しかし、この運動の成果は大きく、その後の日本の精神科医療の民主化に大きな影響をあたえました。
この精医研で育ったひとたちは、今は日本を代表する精神科医として活躍しています。

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