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岡部伊都子先生にはじめて接しましたのは、私が国家保安法違反のかどで大邱拘置所の独房に収監されていたときでした。京都の金鍾八氏より送ら
れた岩波書店'岡部伊都子集'(全五巻)の文章を通してでした。先生の艶やかな日本語には、新たな先生の世界があるものと実感され、先生について、 それまで無知だった私には身の引きしまる思いがいたしました。
文中に朝鮮のチマ・チョゴリを着て赤いゴム靴を履き古都慶州(キョンジュ)の街を歩けたらなと、先生の思いがひろうされていました。私は一瞬ドキッと
しましたが、深い感動をおぼえました。それまで、日本語で表現されるチマ・チョゴリは私には在日朝鮮人女子学生たちの被害事件とかかわって、憤りと 屈辱感の混じった思いが胸にわだかまっていたのでした。
朝鮮のチマ・チョゴリは日本のきものに当たります。ともに、それぞれ女性の民族衣装です。生活に必要で美しくもあります。しかし、これが差別される
と'裂かれ醜いものに'されます。
だのに、先生はチマ・チョゴリを着てキョンジュの街を歩けたらとまで想像されました。先生はチマ・チョゴリもきものと同じくすてきで、身近な、そしてだい
じなものと思っていらっしゃる。
直ぐに、私は先生に書簡をしたためました。もし、先生の来韓案内役に先約者がいなければ、是非、私を、出獄のあかつきに案内役をつとめさせてく
ださいと。先生から、喜んでお願いしたいとの返信に接したときは嬉しかった。
2000年5月、先生はついに来韓されました。まず、キョンジュへ寄られ天馬塚や博物館、そして仏国寺など見学され、妻のキョンアが用意いたしたチ
マ・チョゴリを召されました。サイズやカラーも見合って、先生はもううるわしい朝鮮婦人にかわっていらっしゃいました。そのとき、キョンアや私はこの上な く幸せでした。先生も次のように書いておられます。
『さっそく(チマ・チョゴリを)着せてもらいましたよ。みんなに「よく似合う、かわいい、かわいい」と言われて、嬉しかったですね。あれには上等な刺繍がし
てありました。(日本の中の朝鮮文化)』
先生も、真実、喜んでいらしたのです。
先生にとって 、チマ・チョゴリも美をあらわすものであったのでした。「あこがれの前初」の文での美とはチマ・チョゴリを意味するものとも受け取れます。
『美は観念ではない。現象であり、現実である。その生産においても、享受においても、頑固な抵抗力が要る。(いまや、美を醜化しつつある政治への
怒りとして、美感覚は投票に直結し、市民運動に展開する。美は「選ばれた人のものだ」という偏見は自己放棄だ。)美は、「必要とする者のため」にある べきものなのだ。苦しむ者こそ、もっとも多く美を必要とする。すこやかな人間性を損傷させられている庶民自身のために、美はとりもどされなくてはなら ない。美は、創作や鑑賞などの芸術的存在以前のものであり、もっとも普遍的な「生活」そのものなのだ。いのちの時間をみたす生活、それがよろこびと しての「自分の美」を楽しむ生活ということができよう。』
この文において、チマ・チョゴリは朝鮮女性の「生活」そのものの内容であり、その「生活」美であるとも示しているように思えます。先生の『朝鮮母像』の
カバー画に赤尾麟作の「朝鮮風景」を採ったのも、もっともなことだと思われます。
そして、桜の花紋のきものを着られ、賀茂川べりの桜を愛でたり、中国人歌手李広幸氏から贈られたチャイナ・ドレスを着られて喜んでいられる先生、
そのおひとりのなかに三種の民族衣装が、美しくスムーズに融け合う必然性があることも十分に理解できます。こうして、先生には生活の中で差別意識 はつよく否定されるものでありました。それは、また、つぎのような現象で示されてもいます。
「アパートの管理者が『あんた沖縄か』ときくんです。『沖縄ですがいけませんか』といったら、『沖縄は同じ日本だからまあいい』というんです。ところがう
ちへ朝鮮関係の本が送られてきたら、『あんた、朝鮮人か』ときくんです。『ああ、朝鮮人だ』といいました。『沖縄人でもあり朝鮮人でもあり、つまり、あん たが差別しているそのものなんだよ』といったら黙っていました。」
さて、つぎに先生はキョンジュから光州(カンジュ)へいかれ、80年の光州民主運化動犠牲者の追慕塔に参拝されました。この年はちょうど民主化運動
20周年にあたっていて、以前から先生は参拝を望んでいらしたのでした。炎天下、跪かれ香をたき、高く聳える追慕塔を仰がれ合掌される先生のお 姿。韓国の民主化と祖国の統一、そしてアジアの平和のために殉じた英霊たちを、はるばる海を越えられ慰めんとされる先生のお心。先生は、同志を 忘れぬ熱い心の、強靱な闘士でもあったのでした。今は、英霊たちと和やかに談笑でもされていらっしゃることでしょう。
2003年10月、先生は二度目に来韓されました。「岡部伊都子女史訪韓歓迎の会」の人々はつぎのとおりでした。―高銀・朴炯奎・白楽晴・徐俊植・梁
順任・廉武雄・李山・李仁哲・李在徹・イム・ジェギョン・池明観・崔元植・玄ギョングー
皆さんは各界で重任を果たしていますし、民主化運動にも深くかかわっている人たちです。
80歳のご高齢ながら、先生は11月1日延世大で「反戦・平和のために−日本良心の絶叫」という題の講演がありました。
『(前略)いま日本の憲法は危機にあります。戦後の平和憲法では、第九条で戦争をしないという条項が入っています。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手
段として永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」
こうはっきり書いてあるけど、いったい日本には軍隊がどれだけぎょうさんいるか、知ってはりますか。ほんまのことは国民にも知らされていません。だ
けど、陸軍も海軍も空軍もぎょうさんいますがな。いま、日本という国を、戦争のできる国にしたいという政府の思惑、それはアメリカに追随するということ です。平和憲法をもっていたら、政府は困るのです。だから、憲法改憲を考えとるのです。平和憲法をなくして、戦争の可能な憲法にかえようというのが いまの政府の方向です。(中略)
ほんまに、はよう北と南、差別をこえて、境界をこえて、ひとつになってもらいたいな。(中略)
いまでも、日本は、在日のみなさんに参政権をあたえていない。指紋押捺を強要している。ひどいことです。そのうえ、チマ・チョゴリを着ていただけで、ひ
どい言葉をあびせられたり、ドレスを切られたり、そういうことがニュースになることが多いのです、いまでも。(中略)
「民族差別強化に反対!有事法制ゆるすな!アメリカのイラク戦争、イラク占領、支配を阻止しよう!日本の出兵をやめさせよう!」これはもう、すべて
のみなさんへの呼びかけです。誰それにということではなくて、みんな一人ひとりが、そう思わんといかんという時代や。わたしたち日本人も、人間であり たいんです。まともな人間でありたいんです。世界の人間たちと仲良しの、人間でありたいんです。(中略)
若い人たちも、たたかっています。あっちでもこっちでも、たたかっていてはります。みんな、それぞれはなればなれなところにいても、仲間がいてるとい
うことを力にして、わたしは、いのちが絶えるまで、言いたいことを言いつづけます。日本人はまともな人間であってほしい。自分もそうなりたい。人類全 体みんなが、いっしょに仲良く人類愛を味わえる、そういう世界にしようではありませんか。わたしは、そういうふうに言いつづけます。』
講演の前に、先生は軍事境界線の臨津江辺まで行かれ、朝鮮の分断現実が先生ご自身の苦しみとされていたからでしょうか、「自由の橋」の板目をさ
すりながら嗚咽されるのでした。同行された故高林寛子様も涙ぐまれて、、、。
ハンギョレ新聞では特別インタビューがなされ、一面を割いて先生の反戦平和の熱い思いを韓国社会に伝えました。
先生は、お言葉どおり、最期まで反戦平和と差別反対を主張され、若い人たちの進むべき道を指し示してくださいました。そして、韓国(朝鮮)の民主化
と平和統一を切実に望まれ、コリアンの奮発をも促されたのです。
私など、先生にもっともっと学び、より熱心に生活していくことを誓うものです。
※ 著者の朴菖熙先生は元韓国外国語大学校教授で高麗史の研究者です。
1980年代末に韓日農村友情文化交流のリーダーとして来日し、韓日の農村文化のほりおこし運動として日本各地を回り文化交流をはじめました。と
ころが1995年に国家保安法違反容疑で拘束され無期懲役が求刑されます。その後先生の無罪を訴える日韓の多くの人々・市民運動に支えられて釈 放が勝ち取られますが、信愛塾もその救援運動の中心的な役割を担ってきました。
今回の原稿は信愛塾スタッフの近藤和枝さんが韓国京畿道の利川にある朴菖熙先生の自宅まで訪ね編集したものです。
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