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人権を守り差別に反対して

学生時代の思い出から
大学生時代は新聞部に属し関西の著名人から原稿をもら
いに行くことをしていました。執筆料は払いませんでした。
この経験で、他の人の個性を伸ばすこと、個性を尊重する
こと、個性を守ることの大切であることを学びました。

「人権を守り差別に反対して」つづき
「人権を守り差別に反対して」つづき


  このころ取材した人で印象に残るのは、作家の富士正晴さんです。大阪の茨木市を流れる
安威(あい)川近くに住んで、外出するのはたばこ屋に行くときだけという、出不精のとびきりの
奇人でした。人にはやさしいかたでしたが、自分の生き方には厳しいかたでした。文人画でも有
名で、京都の学者の桑原武夫さん(京大人文科学研究所)や貝塚茂樹さん(東洋史)たちが、う
まく自宅に誘い寄せて、酔わせてふすまに絵を描いてもらったとか、楽しい逸話がいっぱいのか
たです。大阪府の茨木市立図書館に富士正晴記念館が併設されています。
 冨士さんが終生、人を尊敬したのは自分の師である詩人の竹内徹太郎だけでした。だからど
んな人を見ても偉いと思うことはありませんでした。竹内徹太郎は旅行中に突然、事故でなくな
りました。富士さんはたいへんショックだったようで、学業を捨てて竹内さんの全詩集を刊行しま
した。
 さて、私と友人は、お酒をもって伺いました。早速、酒宴になってしまい結局、家に泊めていた
だきました。人の話では天井の板に破れたところがあり、そこからイタチが覗くとか蛇が落ちると
かいうことでしたが、それはありませんでした。
                                     

 特集で「睡眠中の夢」について特集することになり、芦屋に神谷美恵子さんを訪問したことがあり
ました。瀬戸内の長島愛生園でハンセン病患者の治療に当たっていたことなどで、よく知られたか
たでした。また、みすず書房から哲学的な全集を出しておられ、精神科の医者でした。当時は神戸
女学院と津田塾大学の教授だったと思います。幻覚剤LSD-25の実験のことなどの話を聞かせて
いただきました。知的で、明るくて、押しつけがましい所は無く、華やかな雰囲気をもっておられま
した。
 亡くなられてからNHKテレビのドキュメントで、日本政府とアメリカ占領軍(GHQ)との折衝が行
き詰った時に、その通訳を懇請されて戦後日本の復興に大きな貢献をされたことを知り、驚きとと
もに、なるほどという感想をもちました。
 出版された本は多くありますが、翻訳のマルクス・アウレリウスの『自省録』は読みやすく、お薦
めです。ローマ皇帝でありながら、哲学者でもあった人の書です。 
                                     

 当時、新聞部の友人のお母さんの紹介で訪れた、京大の人文科学研究所の所長だった薮内
清さんは、宇宙物理学から中国の科学史まで縦横無尽の知識の宝庫のようなかたです。自宅
の居間で本草学の貴重な図鑑を開いてみせて、わかりやすい解説で楽しい時間を過ごしまし
た。
 薮内先生は最初は天文学者で新星の発見などをしておられたのですが、天文学史から中国
文明史、東洋文明史と研究範囲を広げ、世界的学者になりました。京大人文科学研究所の所
長として東洋の科学史の共同研究をすすめました。シナの清帝国が隆盛だった時はヨーロッパ
と盛んに科学技術の交流をしていたことなどを話されました。清朝の衰退していく時代のことし
か知らぬ者にも、手ずから貴重な資料を示されて教えていただきました。温厚かつ重厚な人柄
で終始される風は、実にりっぱなものでした。
                                     

 碩学といえば薮内先生に負けないくらいの、金関丈夫(かなぜき・たけお)さんを帝塚山学院の
研究室に訪ねたときのことも印象深いものがありました。温厚な紳士で初対面の学生にも丁寧
で、コーヒーを入れていただき、中国婦人の纏足をいろいろ見せて、親しく話をうかがいました。
元来が医学者で骨の専門家です。発掘された人骨の鑑定をして、どんな生活をしていたかを考
える仕事をしておられました。この分野では世界的な人です。
 最近ニュースで、金関先生が収集した人骨が無断で盗掘されたものだということで、アイヌや
琉球の人から非難とと賠償請求が出ています。解決するといいのですが。先生は父親、自分、
息子の3代の骨格を九州大学に遺伝の研究にと提供しています。
 纏足は清朝時代の遺物です。女性の運動性を制限するためでしょうか、小さな足袋か靴下の
ようなもので、しっかりした布と糸でつくられていました。携帯電話くらいの大きさで、とても人の
足が入るとは思えません。これでは歩くこともできないのでは、と思いました。
 金関先生の本は法政大学出版会からたくさん出ています。
                                    
 作家の小松左京さんのモダンな住宅は箕面にありました。当時、同志社大学に「しんぶん学」
の講義に通っておられました。はじめ「新文学」と思ったのですが、話の途中で「新聞学」かと思
い直しました。想像力を発展させて形にしていく簡単なコツなど、とっておきの秘伝を教えていた
だきました。
 この時代はすでに大阪の社会の地盤沈下が著しく、政治や経済、文化が東京に集中するの
はしかたがありません。それでも小松左京、司馬遼太郎、藤本義一、小田実、田辺聖子、山崎
豊子などの人は東京に行かずに大阪で執筆をつづけました。これには大阪にいる方がゆっくり
と執筆に時間がとれるという事情もありました。テレビ出演に引っ張りだされることも少ないし、
政治と距離を置けるのもよかったようです。
 小松左京さんは1970年の大阪万国博覧会のディレクターをしておられ、その時に想像力を形
にして発展させる術を発明されたのでは、と思います。
                                   

 岩波書店発行の「育児の百科」で有名な小児科医で偉大な思想家でもあった、松田道雄さ
んのところへ伺いました。松田さんは京都の商家の旦那さん風の、ゆったりした和服姿で出て
こられました。京都によくある町家で、元は診療室にしていたところを書斎にして、そこに招い
ていただきました。小児科学の楽しさや、戦前の結核が大変な病気だったことを聞きました。
 何ヶ月かして、毎日新聞に連載されていた「ハーフタイム」という随筆に私が登場したので驚
きました。私ということが特定されないように、東京から学生が訪ねて来た、とありました。
 松田さんは戦前に「結核」という題の本を出し、ベストセラーになりましたが、その内容から
反国家的な思想を持っているとして特別高等警察(特高)から目をつけられました。当時、松
田さんは保健所所長で、かつ京都府の結核対策の実務者でしたので、何とか追究を逃れて
いました。松田さんの身を案じた人たちが、京都の保健行政の中心に置いて守ったと言われ
ています。私が当時のことを知る人から聞いたところでは、戦後松田さんに京都大学小児科
の教授にと要請があったが、固辞された。同期の人で警察の留置所でひどい目にあった人
や、徴兵されて戦死した人もあり、きっぱりと断られたのだと。
 さて、60才になったら定年と考えていたが、「育児の百科」が良く売れて、60より早く医院を
閉めたそうです。診察器具も処分したと。でも、懇意にしている教授連中が孫を診察してくれと
いうので、台所のスプーンで診ましたよと。高齢になっても学習は欠かさず、夜疲れるとジャズ
を聴くのが楽しみと。オランダの女性歌手アン・バートンがお気に入りの一人だったようです。
 
                                
 神戸大学の哲学の橋本峰雄さんに会いに行ったことも忘れられません。丸縁のめがねをし
ておられ、帰りに「丸いメガネを返せ」という本をいただきました。
 大学では哲学教授ですが、家では京都の浄土宗の法然院の貫主さんでした。法衣を着て檀
家をまわり、お経を唱えるのも仕事でした。
 これは人の話ですが、橋本さんは京都大学の哲学の学生さんで、たまたま法然院に下宿し
ておられました。当時の学生は4畳半くらいの貸し間で寝起きするのが普通です。風呂な無
し、トイレと洗面は共用です。今のようにマンションを借りて一人で暮らすということはない時代
です。そこで、法然院の先代の貫主さんと娘さんから惚れられたんだとか。
 新進の哲学者として嘱望されていましたが、若くしてなくなられました。それを惜しんで、「橋
本峰雄賞」が設けられています。神戸大学の研究室でのインタビューでは、学生の私たちにも
良くわかるように話してくださいました。とくに、物理学の「エントロピー理論」を興味をもって話
されました。こちらは物理学の話はチンプンカンプンで困ってしまいました。
 法然院に一度行ってみたいと思いながら、いまだに果せていません。椿の名所らしいのです
が、来年はと思っています。
                                

 阪大の微生物学研究所の所長だった藤野恒三郎(つねさぶろう)さんには梅田の中華レストラ
ンでご馳走になって、お話を伺いました。藤野恒三郎博士は腸炎ビブリオ菌の発見者として、医
学界では世界的に有名な人でしたが、このときは魯迅の作品の「藤野先生」の藤野厳九郎(げ
んくろう)の甥にあたられることで、取材に伺いました。
 「藤野先生」は魯迅の作品中、最も感動的と言われています。魯迅が強い喘息発作に苦しみ
ながら、夫婦で隠れ家を転転として、新中国の樹立のために命がけの行動をしているときの作
品です。運動が行きづまり、官憲の追究が迫り、呼吸にも苦しみながら、そんな時に日本留学
時代(東北大学の前身の仙台医学校)の藤野厳九郎教授が朱を入れたノートと写真を見て、想
うという作品です。
 後年、仙台の医学校が国立移管されるのに際し、藤野厳九郎は退職し故郷の福井に帰って
田園の開業医として過ごします。戦争のため食料の配給が乏しくなっていく中でも、農家からの
食糧のお礼を断わり、衰弱して往診の途中の農道で亡くなったと。篤実な、まことに医者らしい
一生だったと伝えられています。
 また、魯迅が終生だいじに持ち歩いた、藤野厳九郎が魯迅のためにたくさんの朱をノートは、
長く所在がわからなくなっていましたが、最近発見され、現代中国の国の宝として扱われている
そうです。
 私たちが取材に伺った「藤野先生」は当時、神戸の薬科大学の学長をしておられたとおもいま
す。有名な中華レストランに連れて行っていただき、料理は最高で、老酒(ラオチュウ)もたくさん
飲みました。(あとで友人と新聞部をやっていてよかったなあと) 
                                
 大阪、神戸、京都あたりが活動範囲の新聞でしたが、遠方でといえば新聞部と社会医学研究
会の共同合宿を信州の富士見町(現在下諏訪町)の高森にある、押田成人(おしだ・しげと)神父
のおられる高森草庵(教会)で寄宿して、おこないました。昼は農作業の手伝いと川や高原で遊
び、朝と夜は医学と社会の関わりについて討論。好き勝手な合宿ですが、最終日に押田先生か
ら、一人づつことばをいただきました。
 押田成人神父は、その存在が奇跡といえる人です。カトリックの神父で、学業は最初は東大の
理学部で原子物理学の研究者の道に入りました。しかし、その道の危険なことに疑念を持ち、
哲学に転じました。卒業の時、大学に残って将来教授になるように勧められましたが、カトリック
の神父の道をえらばれました。自身を「キリストに出会った仏教徒」といっておられました。外国
語に堪能で、いろんな国のキリスト者が草庵で生活をしていました。頼る者を拒まれることはあ
りませんでした。皆が協力をして自給自足の農業生活をしていました。近くの山で送電ケーブル
を張るアルバイトに行く仏教のお坊さんもいました。遊んでいるのは私たちだけでした。
 押田先生はこれからの世界が危うくなるということで、絶えず苦しんでおられました。行動の人
でした。一向に良くならない地球の将来について、何かすることがあれば病弱の体を気にも留め
ずに世界中に出かけました。宗派なぞ全く意にも介さない人でした。カトリックの世界でも、世界
中の信者から慕われる人でした。
                                
 
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