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1978(昭和53)年6月に寝屋川市の附属香里病院小児科に新任助手として入局しました。
部長は野呂幸枝教授(当時助教授)。日本の周産期医学(未熟児新生児学といいました)のパイオニアです。
その当時の日本の新生児学は、世界をリ−ドしていました。
ここで、新生児学、発達神経学を学びました。
ほかに教わったことは、肺炎などの感染症、腎臓病、喘息、自己免疫疾患、悪性腫瘍、あげればきりがありません。
6ヶ月で戻れと松村教授にいわれて赴任しましたが、結局18年を附属香里病院の小児科ですごしました。
先輩、同僚の医師から学ぶことも多くありました。
なかでもとくに中野真美先生には、医師のこころがまえ、生き方など大きな影響を受けました。
写真は前列中央の白服の女性が野呂教授、その左が松村教授、前列右端が水谷。
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山内先生は1923年に岡山県の生まれ。
日本の周産期医学(未熟児・新生児学)を文字どうり創りあげた人です。
1947年頃から、第二次世界大戦での敗戦直後の日本で、未熟児を障害を残さずに育てるという前人未踏の分野を開拓しました。
国立岡山病院の小児科におられたときです。その後、一貫して岡山病院におられ、名誉院長としてその生涯を終えられました。
晩年はみずからの病をおして、母乳の大切さを日本中の若い母親や将来母親になる人にうったえて、行脚されました。
写真は、寝屋川市に講演に来られたときに、控室に呼んでいただいたときのものです。
著書は岩波新書だけでも、「新生児」、「未熟児」、「子育て 小児科医の助言」などがあります。
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中野小児(こども)病院は全国でもめずらしい小児科単科の総合病院です。
中野先生には、小児科医の心がまえをまなびました。ご夫妻と私の友人父子と。
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野呂幸枝教授が定年で退職し、1996(平成8)年4月に同じ病院の津田信幸内科部長にたのんで内科助手に移籍しました。
内科では小児神経学の知識を生かして、こどものキャリー・オーバー例を中心に神経内科外来を開いていました。
神経内科なのにアルツハイマー病、パーキンソン病はなどは苦手で、おとなのてんかんや脳炎、脳脊髄膜炎、拒食、出社拒否、閉じこ
もり、パニック障害、虐待などが得意でした。
諌見康弘副部長のすすめで、血液浄化療法を学び透析室のしごとも兼務しました。
香里病院は建てかえのため、2005(平成17)年12月末日で閉院となりましたので、大学を退職し、尼崎市の阪神医療生活協同組合
の小中島診療所に勤務することにしました。
大学には24年間いたことになります。
写真は、閉院の日にとったものです。
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外来は日に80〜100人。日によっては診療が夜の10時になることも少なくありません。
往診軒数は月に50〜60軒。
最近は大学病院や県立病院などに入院したかたが早期に退院させられることが多くなり、
ガン末期の方の心身両面でのフォローが増えました。
この診療所スタッフは経験が豊かで、フットワークもよく、
なにより利用者の思いに寄り添うハートの持ち主たちです。
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1階は診療所。2階は病児保育室「キッズ・ケア・ハウス」。
50代になって、小中島診療所でもう一度医療の原点を学びました。
それまで小児科と内科を大学で勉強してきましたが、
老いてもなお、人は成長していくということまではわかりませんでした。
小中島に来て、やっと人の生老病死の意味を知ることになりました。
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病児保育
小中島診療所では私の前任の石丸修所長が全国でも早い時期に病児保育室をつくりました
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医師、看護師、薬剤師、教師など専門職の女性が家庭と仕事とを両立させるためには、
病児保育はぜったいに欠かせないものです。
日に4人前後の病気のお子さんをあずかります。
病気の時ぐらい母親がこどもについてやらないと、ということを言うかたもありますが、それはあたっていません。
病児保育はスタッフがこどもと父母を家庭ぐるみでフォローする、癒しの場といえるでしょう。
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寄り添う医療
在宅医療も前任の石丸所長が全国でも最も早い時期に始めていました
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在宅診療を強力なチームワークで全力でやりました。
ここで「生・老・病・死」ということばの奥深さが見えて来るような気がしました。
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多岐にわたる小中島診療所の活動を下からグッと支えていたのが小中島支部の支部長の岸本さんです(写真中央)
患者の代表として、利用者と職員を守りとおすスタンスは一貫して変わりませんでした。
人生の先輩として、友人として敬愛やまぬ人でもあります。
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尼崎公害患者の会のしごと
喘息やCOPD(慢性閉塞性肺障害)のみなさんといっしょに
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尼崎公害患者の会は阪神工業地帯の幹線道路ぞいに多発した喘息公害患者のあつまりです。
患者がみずからの健康をまもるために健康活動を進めてきました。
しかし、高齢化とともに、なくなるかたも増え、年々会員数は減少しています。
それでも皆さん、次の世代に運動をつないでいこうと、がんばって活動をしています。
写真は、日本を代表する喘息治療の権威の金沢の清水巍先生をお招きしたときのものです。
清水巍先生のプロフィール
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