2003.04.30 (Wed)   美食の文化史 (3)
 
 ルヴェルは「言葉による饗宴」(本書の原題)と銘打った理由を次のごとく説明する。
『料理に関する文献が垣間見させてくれる美味の感覚の歴史を、文学的な観点からとりあげることは正しい方法といえよう。
ボードレールが「レストランがない。それを紛らわす方法は料理の本を読むことだ」と書いたときのように、ことばが饗宴の代理になることだってある。』
 
 私は必ずしも料理の本を読むことで紛らわせるとは思わない。そんなときそんな本を読めば、ますます食欲がわいてくるのではなかろうか。それはともかくとして、『料理名には料理以上に流行があり、料理の新しさは中身より言葉の目新しさに支えられている』というルヴェルの指摘は的を得ており、彼はベルクソンの言葉を引用している。
 
 『言語が感覚に及ぼす影響は、人々が考えているよりもずっと深い。美味だと評判の料理を食するとき、人々が表明する称賛にみちたその名称が意識と感覚の間に入り込んでしまい、その料理を好きだと思いそうになる。』
 
 さらにまた、これはほとんどの人が経験済みであろうが、一流シェフ、高級レストランとか、産地直送、有機農法による自家栽培の食材とかに私たちは弱い、いや、弱かった時期がある。ちょっと考えれば、一流の根拠さえ曖昧で、一流も高級も、味覚の鈍感な記者が命名したにすぎないのである。
 
 外観が立派、内装も食器も豪華、情報誌はべたぼめ、もうそれだけでポ〜とする若い人もいるだろう。誤解を恐れずにいうと女性はムードに弱い。味より言葉や雰囲気に惑わされる傾向の強いのが彼女たちの特徴である。(ムードに惑わされなくなるのが老いの特長)
無論、二流レストランも三流シェフもそれを知っている。知っているから、雑誌やテレビの新米・味盲記者を利用する。
彼らはアメリカ映画に頻繁に登場する誤認逮捕警官に似ている。真犯人=真の味が分からず、見当だけで行動し失敗を繰り返すさまは滑稽そのものである。だがそれにもかかわらず、滑稽記者の紹介記事で美食の殿堂は日ごと夜ごと大にぎわいである。
 
 現代まで伝わる最も古い料理書は紀元1〜3世紀の間に編纂されたもので、現在にのこっているのは主に4世紀に書かれたと思われるその縮約版である。それが営々と中世に写本として受け継がれていった。写本によく登場するのはアピキウスなる人物なのだが、さてこのアピキウス、該当者が多すぎてどれがどうなのかさっぱり分からない。
 
 紀元前95年頃生まれたアピキウス、そのほかにも二人の同名者。比較的分かりやすいのが紀元前25年に生まれたアピキウスで、タキトゥス、セネカなどの作家が記している食通。
とりわけセネカなどはこのアピキウスを評して、『20年前なら哲学や修辞学の学校へ通っていたであろう若者たちが、今や思想家の講義を聞きに行くようにアピキウスの厨房へ押し寄せている』と揶揄している。
 
 アピキウスはたいへんな資産家で、集まってくる者みなにタダで饗応し、大人数の料理教室の食材も贅(ぜい)をつくしたものであったらしい。昔も今も、哲学よりはおいしい食事のほうに人気があるということだろう。
ところでこのアピキウスさん、1億セステルティウス(現在の貨幣価値でざっと810億円)を食事に使い果たした後、飢えで死ぬのを恐れて自殺したのだった。
 
                          (未完)

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