2003.04.23 (Wed)   美食の文化史(J・フランソワ・ルヴェル著 福永淑子他訳・筑摩書房)
 
 美食家のための手引き書は、「美味礼讃」(ブリア=サヴァラン著岩波文庫 原題は『味覚の生理学』)がつとにその名を知られており、バルザックなどは手放しで絶讃している。しかし、このブリア=サヴァラン、どうもいけ好かない。
その理由は以前「今日のトピック」の「食風景」(01年10月15日)にも記したのであったが、『どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう』というこの男の傲慢さが芬々と鼻につくからである。
 
 ほかにもまだサヴァランの鼻芬々たる言いぐさはある。「美味礼讃」の序文として彼が記した『新しいご馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである』とか、『国民の盛衰はその食べ方のいかんによる』とか、『食卓こそは人がその初めから決して退屈しない唯一の場所である』などは、この男がフランス革命政府において地位の高い役人であったことと無関係ではあるまい。
 
 18世紀末、なぜフランス革命が勃発したのか、その後いかにしてロベスピエールの恐怖政治が行われたか。そういった歴史的事実などわしゃ知らん、わしは、ロベスピエールだろうがだれだろうが、時の為政者に仕えた高級官僚だ、庶民が貧窮にあえいでも自分とは一切関係ない、そう開き直るサヴァランの声がいまにも聞こえてきそうである。
 
 書評の冒頭に述べるには適さないことを百も承知で書いているのは、18〜19世紀にかぎらず、ブリア=サヴァランは20世紀にも21世紀にも存在するし、讃辞であれ非難であれ、すべての著者は後世のいかなる批判も甘んじて受けねばならないからだ。
 
 食卓こそは人が決して退屈しない唯一の場所であるなどと愚にもつかない、人が退屈しない場所はほかにも色々ある、そしてまた人によっては、食卓が退屈きわまりない場合もあるのだ。たしかに「美味礼讃」には食に関する様々な蘊蓄(うんちく)が所狭しと列挙されていて、なかには面白い内容のものもある。
「トリュフのエロチックな効用について」や「砂糖のいろいろな用途」などは読んでいて楽しいのだが、おおかたのものは文章が冗漫でいけない。私は決して訳者のせいとは思いたくない(「美味礼讃」はかの有名な関根秀雄氏とご令嬢・戸部松実さんの共訳)が、訳出しながら悪のりしているようなおもむきの感じられぬでもない。
 
 どこがそうなのか具体的に記すのは支障があろうし、私だけがそう感じているだけのことかもしれないので、これ以上の言及は避けたい。それに私は、サヴァランについてではなく「美食の文化史」について書かねばならないのだ。
美味礼讃は20世紀後半の日本でグルメの手引き書として容認された。故・辻静夫氏の熱心な紹介もあって、その道をこころざす者ばかりか、美食家を自認する人々の間でもてはやされたのである。
 
 しかし美味礼讃とは翻訳のアヤであり、だいたいこの書(「味覚の生理学」)は19世紀初頭に大ヒットした「生理学もの」のひとつなのだ。サヴァランの売り物は博学多識であってみれば、上梓するにあたっても、さあどうだといわんばかりの得意満面な彼本来の生理がチラチラみえてくる。美味礼讃という標題となったについては、出版社の売らんかな、買わんかなという営業用タイトルなのであった。「味覚の生理学」では読者も寄りつくまい。
 
 当時のパリでは、サヴァランの成功にあやかって様々な類似書が刊行された。結婚の生理学、おしゃれの生理学など。前者はバルザックの作品で、バルザックは調子に乗って、「社会生活の病理学」(邦訳「風俗のパトロジー」)という書も上梓したもののようである。
 
 19世紀もいまも、都会は人を何かに向かって駆り立てる。質を求め差異を追い、量を求め得を追う。こうした欲望には限度がない。19世紀のパリのような大都市で競争を煽(あお)るような書が流行したのも、人間の根元的とも思える欲望‥他者との差別化という欲望‥を出版社と作家は見抜いていたからにほかならない。
 
                         (未完)

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