2003.03.30 (Sun)   カフェ・ヨーロッパ(スラヴェンカ・ドラクリッチ著 長場真砂子訳・恒文社)
 
 この本の著者は「ドイツに対するフラストレーション」の冒頭で次のように記している。
『ドイツ人をどう思うかと聞かれるたびに、小学校の歴史の教科書を思い出す。そこには、チトーのパルチザンを相手に戦うドイツ兵を描いたデッサンが載っていた。ドイツ兵は戦車と飛行機と機関銃を装備しているのに、パルチザンのほうは旧式なつくりのわずかばかりのピストルで武装しているだけだった。このデッサンは、「はるかに強力な敵に対する不公平な戦闘」を表していた。』
 
 スラヴェンカ・ドラクリッチは1949年クロアチアの港町リエカに生まれたジャーナリストで作家である。三十歳にして旧ユーゴ初のフェミニズムグループを創設し、旧東欧地域の女性運動ネットワークの指導者的存在となり、東欧のボーヴォワールと呼ばれた。
 
 彼女は小学校一年のとき、『ドイツ人は占領者で、町を襲撃し、村を焼き払い、ユーゴスラヴィア中で罪のない非戦闘員を殺したと習った。』
また、『独裁者あるいは共産主義下の社会が育てるのは群衆としての人間で、個人や市民ではない、市民は自分の権利を知っていて、そのために闘うことができるが、そういう市民は民主主義のなかにだけ存在する。』と述べている。
 
 共産主義や一党独裁、あるいは独裁者が長年はびこっていた国や地域では、いわゆる民主主義なるものが機能するまで気の遠くなるほどの時間を要するのだが、たとえ市場経済や民主選挙が導入されても、それだけで民主主義がうまくいくわけのものではあるまい。
その点に関してドラクリッチは面白いことをいっている。『そんなこと(民主選挙、市場経済)はごく基本的な条件にすぎず、民主主義を機能させねばならないのは、わたしたちひとりひとりなのだ。そのためにどうすればいいのか、経験者から学ぶ必要がある。ところが、わたしたちは学ぶのは好きではない!』と。
 
 私はつい最近この本を書棚から引っ張り出してきて、ちょうどコソボ紛争時に読んだ時に思ったことを再び思い出していた。日本では、戦後しばらくは学ぶことの好きな人間がおおぜいいたので、民主主義を十分理解したわけでなくてもどうにかなったが、昨今は学ぶことの好きな人間が激減しているから様相は一変する。肝心なのは学ぼうとする姿勢である。
 
 ところで、ドラクリッチは「わたしたちは学ぶのは好きではない」と記してはいるが、この部分の行間にひそむ微妙なニュアンスについてふれると、旧ユーゴに住む者は西欧の人間が経験しないような経験をしなければならず(後述します)、学ぶのは好きではない、だが経験せざるをえない、本当はもっと違う経験をしたいのに、と閉口するドラクリッチの顔が見えてくる。
 
 それにしても、独裁者というものは死んでも権力の座に居座ろうとする人種のようで、北朝鮮しかり、イラクなどの中東しかり、死後おのれのバカ息子どもにその座を譲渡することを天命のごとく考えている。
強欲といえばこれほどの強欲もおいそれとは見つかるまい。こんな連中に民主主義や自由主義を学べというのも無理な話で、そのイロハさえ修得不能である。彼ら独裁者にとって国民とは、奉仕するためにあるのではなく、支配するためにのみ存在するのであってみれば。
 
 昨今の時局が時局だけに、私としては時局に相応した話をしているのだが、なに、ドラクリッチ女史の真骨頂は上記のような話題だけではなく、『わたしたちの間の見えない壁』のなかでは以下のような事どもも記している。
 
 『一月にヒースロー空港で屈辱的な場面に遭遇した。年輩のクロアチア人夫妻が問いただされていた。ロンドンを経由してバルバドスへ休暇を過ごしに行くという。クロアチアからバルバドスに観光に行くなんて、そんなことは聞いたこともない。
夫妻は長々と説明していた。チケットやホテルの予約票、ビザ、たぶん現金も提示した。すべてがちゃんとそろっていた。彼らの声には、わたしがよく感じたのと同じ不安と苛立ちが現れていた。世界のその部分(旧ユーゴ)からやってきた人間は、潜在的移民に他ならないはずで、よって危険人物にちがいない。パスポートを審査する横柄な若い税関職員(これは誤訳で、出入管理局員の誤り)は、はじめからそう決めてかかったのだろう。』
 
 『係官は、まずパスポートを手にとって、偽造かもしれないとばかりに念入りに調べる。それから、わたしの名前が凶悪犯や指名手配者のリストにないかチェックする。(中略)‥さらに質問される場合には、こう聞かれるとわかっている。「現金はどれくらいお持ちですか。」
この質問がわたしを激怒させる。西欧の人間ならば、それだけで裕福だとみなされるのか。怒りを押し殺して、このためだけに持っているトラベラーズチェックを見せる。』
 
 われわれ日本国籍を持つ者がしなくてもいい苦労というか、人間としての誇りを逆撫でされるような経験を彼らはしなければならない。だが誤解をおそれずにもの言えば、だからこそ感性がいっそう研ぎ澄まされ、陰影に富む珠玉の文章が綴られるのではないだろうか。
この種の分野にかぎらず、恵まれた環境の下で暮らしてきた日本のモノ書きの文章は、なんと云うか、ふやけた肉まんである。大味で肉汁が出ないから食べた気がしない。
 
 『バルカンの王様』のなかでドラクリッチの記すところをこの小文の締めくくりとしたい。あまりにもその状況が普遍的、すなわち、だれにでもありそうなことだからである。
 『ルーマニア人もセルビア人も、お馴染みの解決を求めた。周知の政党、強力な指導者。社会や政治が劇的に変化する不安定な時期には、人々は自分たちが知っているものに頼りたがる。』
 
 ★「カフェ・ヨーロッパ」には上記に関することだけではなく、「お金を手に入れる方法」、「バーゲンの厄介」、「電気掃除機を買うこと」のような小粋で軽い内容の文章もある。軽いとはいっても、旧ユーゴの内戦に翻弄された市民の複雑な状況と、逼塞した政治的背景がついてまわるが。そうした所から生じる憤懣やるかたない心境をドラクリッチは、時折ユーモアをまじえながらわかりやすく綴っている★
     

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