2003.03.27 (Thu)   ホロヴィッツの夕べ その3
 
 18世紀後半の貴族階級は、まだモーツァルトが幼かったころは神童ともてはやしたが、十代半ばを過ぎたころにはもはや神童の名を冠するには値せず、ほんの数年前まで驚愕の目で見ていた者にとっても、かつての神童は一音楽家にすぎず、それは貴族階級からすれば召使いと同様の身分なのであった。
 
 モーツァルトは気取り屋であったと記す文献は多く、おまけに社交下手だったから、彼に輪をかけた気取り屋貴族の多いウィーンではもてはやされず、その点はハプスブルク家の宮廷音楽師サリエリのように外交に長けた男とも違っていたし、その尊大さと誇大妄想にもかかわらず、19世紀バイエルン王国・ヴィッテルスバッハ家の当主・ルートヴィヒ2世の庇護と寵愛を受けたワーグナーとも生き方を異にした。
 
 映画「アマデウス」はモーツァルトに対するサリエリの嫉妬と屈折した心境を描いていて面白い。しかしモーツァルトほど他者への嫉妬に無縁であった音楽家も少ないのではあるまいか。彼は羨望さえ抱かなかったかもしれない。努力ということばとも縁がなかったようにも思われる。羨望は人間を刺激し、ある種の目標を持たせることもあるのだが。
 
 社交下手ということなら、シューベルトはモーツァルト以上であったろう。それはもう不器用とか偏った性格とかでは説明のつきようのない、持って生まれた孤高の精神、あるいは孤独の人そのものとしか言いようのない何かを背負ってこの世に生まれたことに起因する。
 
 ただのひとりのパトロンさえ持たず、したがって資金面の援助はまったく期待できず、演奏家でもなかったシューベルトは食べるために薄給で学校の教師をした。しかし、彼が亡くなる日までの一年半の間に天与の才が花開いたのだ。「交響曲第八番(未完成)」も「冬の旅」も幾つかのピアノ・ソナタもその時に作曲された。
シューベルトは1828年31歳の若さで死ぬが、「最後の11日間、何も飲みも食べもしなかった」とデュバルは記している。赤貧洗うがごとし。さらに、「死んだとき彼の所有物は50ドルにも値せず、葬儀と最後の病にかかった費用を借金と合わせると千ドル近くになった」。
 
 さて、デュバルの記すところによると、ホロヴィッツの岳父トスカニーニはいわゆる硬派に属し、ラフマニノフのように音楽からなまめかしさがほとばしるタイプを嫌ったが、ホロヴィッツはむしろそうした妖艶さを好んだ。ホロヴィッツはラフマニノフの作曲中ではピアノ協奏曲第三番をもっとも愛したが、トスカニーニは頑なに協演を拒んだらしい。
 
 ホロヴィッツはラフマニノフを敬愛し、ニューヨークで彼とマーラーが協演したというデュバルの言に驚きの色を隠そうとせず叫んだ。「まさか。それは知らなかった。」デュバルはすかさずこうつないでいる。「舞台で共演した音楽の天才の、これ以上の組み合わせは知りません。」
 
 この書は「ホロヴィッツの夕べ」であり、私はその書評を書かねばならないのだが、結局のところ、ホロヴィッツを知るには彼の演奏を聴くにまさる方法はない。ホロヴィッツのピアノからは多彩な色が飛び交い、艶やかで豊潤なかおりが立ちこめる。鍵盤のどこをどう叩いたら、どんな音が出るかを彼は熟知していた。
そしてデュバルの記すところによれば、ホロヴィッツは「音楽は『投影』されなければならないことを理解していた。つまり音楽は、聴衆に手渡され聴衆の中で育たなければならず、彼は聴衆を、すべての音で呪術にかけ静めることができた」演奏家なのである。
 
 1989年11月5日、ホロヴィッツはニューヨークの自宅で心臓発作により死亡した。86歳だった。ホロヴィッツはミラノの記念墓地にあるトスカニーニ家の墓に埋葬されたが、これはワンダの意向が強くはたらいたものと思われる。
いま、ホロヴィッツの墓の隣で、愛妻ワンダも永遠の眠りについている。

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