2003.03.22 (Sat)   ホロヴィッツの夕べ その2
 
 ホロヴィッツが悪名高いのは、「出演料が一回のコンサートにつき50万ドルあるいは売り上げ総額のほとんどであること」のほかに、「快適さを求める要求の多さである」とD・デュバルは記している。味のよくないレストラン、騒々しいホテル、慣れないベッドなどは論外。
面白いのは、「その土地の魚市場から舌平目を調達できる確認をあらかじめとっておかねばならない」というもので、「調達できない場合は、公演先の興行主が舌平目をよそから飛行機で取り寄せるまでホロヴィッツは演奏しない」のであった。
 
 これくらいでホロヴィッツをわがままとなじってはいけない、このほかにホロヴィッツが必要としたものを列挙する。コンサート予定地の興行主はいやがおうでも以下の条件をみたさねばならなかった。
浄水器、特殊な調理器具と包丁類、厚手の黒いカーテン、ある種の型の椅子、特別な衣紋かけ、適切なベッド、完璧な静寂、完全なプライバシー、機能の完備した風呂場などなど。応接間(ホテル室内の)には3bのスタインウェイを置ける広さがなくてはならない。また、どこに宿泊するにしても、コンサート会場にすぐ近いこと、そして毎日の散歩ができるように安全な!地域にあること。
 
 デュバルは一言も言及していないが、こういった諸条件は決してホロヴィッツひとりのためのものではなく、大指揮者トスカニーニの娘にしてホロヴィッツ夫人・ワンダの要望もしっかり入っていたものと思われる。なぜならワンダは常に夫と行動を共にしていたからである。
こうした贅沢というかこだわりは、ホロヴィッツ夫妻の長年にわたるニューヨーク流の生活によって培われたものであろうが、ワンダにはもともとそうした素質があったはずである。
 
 それでもホロヴィッツのコンサートを招聘しようとする興行主はあとを絶たなかった。思うに、ホロヴィッツの演奏が多くの聴衆を感動させるだけでなく、興行主や関係者のハートを射止める魔力のごときものがホロヴィッツの鍵盤からはじき出されたのであろう。
デュバルはそのあたりのことをこんな風に記す。
 
 「彼の弾くスクリャビンのエチュードには言い表しようのない郷愁が込められた。聴衆の多くは感動し涙ぐんだ。スクリャビンの演奏をよく聴いたことのある作家ボリス・パステルナークは、次のように書いている。
『彼の作品の調べが始まると同時に、聴く者の目に涙があふれる。その調べは涙とからまり、神経を通ってまっすぐ心臓へ到達する』」と。
 
 ホロヴィッツは1986年10月5日、ホワイト・ハウスでリサイタルを行った。当時の合衆国大統領はレーガンで、ワンダは案の定大統領のすぐ横に陣取った。演奏されたのはモーツァルトのソナタ、ショパンのマズルカ、ラフマニノフのプレリュード、スクリャビンのエチュードなどであったが、どうもその時の出来はパッとしなかったようだ。
パッとしたのは演奏ではなく、レーガン夫人ナンシーがステージから落ちて、デコレーションの花のなかに飛び込んだことであった。
 
 リサイタルの数日後、デュバルがホロヴィッツ夫妻に会ったとき、ワンダはホワイト・ハウスのリサイタルの件で期待通りのことを口にした。「ばかな人たち。ホロヴィッツについてはどうでもよかったのよ‥(中略)‥間抜けどものことなんかどうでもいいわ。」
そしてホロヴィッツはこう言った。「聴衆のほんの一握りの人のみが音楽の偉大なメッセージを受け取ることができるのです。感情的な興奮を覚える人はもっといます。しかし大部分の人は社交的な催し物としてコンサートに来るのです。」
 
 ホロヴィッツはモーツァルトについて語るのを好んだ、とデュバルはいう。デュバルもまたモーツァルトの話題になると、ホロヴィッツに負けず劣らず目を輝かせたに相違ない。ザルツブルク生まれの神童は、長じて25曲ものピアノ・コンチェルトをつくったが、それはただ家賃を支払うために作曲したのである。モーツァルトの逸話は無数にあるが、とりわけ面白い話をデュバルはホロヴィッツのために用意している。
 
 パリの晩餐会のこと、幼いモーツァルトはポンパドゥール夫人に頬を差し出したが、夫人はキスを拒んだ。彼は彼女をにらんで言う。『お前は何者か、マリア・テレジア女王陛下が抱擁とキスを浴びせるこのぼくに、キスを拒むとは。』
 
                          (未完)
 

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