2003.02.20 (Thu)   ホロヴィッツの夕べ(D・デュバル著 小藤隆志訳・青土社)その1
 
 ホロヴィッツ(1903〜1989)のピアノを生演奏で聴いた人、あるいはCDで聴いた人も、ある点で共通の感慨をもつ。音に様々な色彩がちりばめられていて、しかも音が立体的に飛びかうという感慨を。
 
 音楽家を書いたものは、音楽にたずさわる者でなければ理解しにくい本が多いように思うが、その点「ホロヴィッツの夕べ」は類似書と明らかに一線を画している。著者デヴィッド・デュバルは1983年来ジュリアード音楽院の教授をつとめている(専門はピアノ文献)が、ピアニストでもあり、かつてはWNCN(ニューヨークのクラシック音楽専門のFM局)のディレクターという経歴の持主である。
 
 私がこの本を大阪旭屋書店の音楽書コーナーで立ち読みしたとき、「車のワイパーはホフマンの発明で、彼はメトロノームの反復運動から閃きを得たのだという」、そういう箇所に目がいったことが購入の動機のようなものである。
たまたまその時期はホロヴィッツのCDを収集していた頃でもあったから、偶然といえば偶然であったのかもしれないが。それとホロヴィッツ夫人ワンダの存在もあった。ワンダは、あの大指揮者・トスカニーニの娘なのである。
 
 ロシア系ユダヤ人ホロヴィッツはキエフで生まれたとされているが、本人はキエフから80`離れたベルディチェフという工業開拓地であると主張している。当時の帝政ロシアは移住法によってユダヤ人を規制していた(大都市の定住を禁止)が、ホロヴィッツ誕生のころから幾分緩和されたと著者はいう。次第に裕福となっていたホロヴィッツ家では両親ともに音楽的素養が整っており、とりわけ姉レジーナのピアノ演奏に彼は薫陶をうけたようだ。
 
 ホロヴィッツは1925年ベルリンに移住する。第一次大戦後のヨーロッパ音楽の中心地はウィーンではなくベルリンだった。しかし、ベルリンには戦後の開放感を凌駕する退廃がみちみちており、官能が音楽的秩序より優位を占めていた。
私がかつてホロヴィッツの音楽と初めて出会ったとき‥それはスクリャービンのエチュードであったが‥鍵盤からたたき出される音のなまめかしさにしばし恍惚となったことがある。それとベルリン滞在との間にはなにがしかの因果関係があるのかもしれない。
 
 1926年1月2日のベルリン・デビューではさほど好評を博さなかったようだが、1月8日のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番で批評家の耳にとまった。そしてその後はトントン拍子、ハンブルクでのチャイコフスキーの協奏曲は大成功をおさめるのだが、そのとき会場は狂乱の嵐であったという。
 
 その余勢をかって彼はパリ、ローマで演奏会を開くが、評判は上々であった。ホロヴィッツはチャイコフスキーが同性愛者であったことには抵抗があったのだが、チャイコフスキーの音楽には抵抗しなかった。だが英国で運が尽きた、当時のロンドンには官能の嵐は不要であった。聴衆は性的官能より秩序を求めていたのだ。
 
 解釈とは、ホロヴィッツはいう、他の可能性を犠牲にする選択にすぎない、そのことを分かった上で解釈をしなければならないと。D・デュバルは『ホロヴィッツは人生を悲劇としてみた。彼は感情で考え、人生を暗闇にした。ルービンスタインは頭脳で考え、人生を明瞭で幸福にした』と述べている。ショパンを得意としたルービンスタインと、シューマンを弾いてはげしく人の心に訴え、揺さぶったホロヴィッツとの違いをいい当てている。
 
 シューマンのピアノ音楽は、『音の連なりが母体から分離するような印象が宙にただよった。あたかもシューマンの苦悩する魂がホロヴィッツの再創造の中に解放を見出したようだった』とデュバルは記している。
 
 私は、ホロヴィッツのピアノ演奏の中には様々な色彩が立体的に飛びかっていて、音そのものが妖艶で、しっとりしていると思う。だから音が豊かで華麗なのだ。
ホロヴィッツの演奏するシューマンの「トロイメライ」を聴いていると、子供の頃の限りなく懐かしい思い出に身体いっぱいひたることができる。それはあたかも年上の美しい女性の膝枕に甘え、なつかし色に染まっていく自分に陶然となってゆくがごとく。
 
                         (未完)

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