2003.02.15 (Sat)   孤島(J・グルニエ著 井上究一郎訳・筑摩書房)
 
 あれはだれが言ったのであろうか、「詩をつくるとは、素材の抵抗にうち克って素材を支配し、言葉と言葉との間に新たな連関をうち立てることにほかならない」と。このことばは青春期の一時期、私の脳裡にあらわれては消え、消えてはまたあらわれた。
最初の言葉を愛する女性と言い換え、後の言葉を自分と言い換えると‥概ね見当はおつきになると思うが、私は言葉と言葉との間に何の関連をもうち立てられず、自分をもてあましていた。
 
 私は書きたいと思う文章が書けず、愛したいと思うものを愛することができなかった。自分で決めた勝手な理屈では、実践することで言葉の価値と意味を証明してみせてやるという気概はあったが、なに、そんなことはただの願望に終わるのがおちである。そんな時だった、J・グルニエの「孤島」に出会ったのは。
 
 ジャン・グルニエ(1898〜1971)はアルベール・カミュ(1913〜1960)の師である。カミュが17歳のとき、アルジェの高校の教授であったグルニエはカミュを教えた。単に教鞭をとったのではない、カミュの才能をいち早く発見し、育て、世に送り出した生涯の師であった。カミュの作品の背後にはグルニエがいる、そう言っても決して言い過ぎではない、カミュが後にノーベル文学賞を受賞した背後に彼自身が師の存在を見ていたはずである。
 
 カミュの作品の背後には、ヨーロッパと北アフリカとの間に横たわり、両者を隔て、隔てるがゆえに互いを招き寄せようとする海がある。カミュに地中海文明とその果実がもたらす特異な思想‥それはある種の瞑想とでも称されるべき何かである‥を吹き込み、カミュの感性を著しく鋭敏にさせ、地中海で繰り広げられた異教徒の文化と歴史を探ることによって、言葉と言葉との間に新たな連関をうち立てるすべを授け、書きたいと思う文章を書く力をカミュに与えたのは、J・グルニエであったのだ。
 
 グルニエは「アルベール・カミュ回想」の中で、『ものを書くということ、それは自己の妄執に秩序を与えることである。』といっている。そしてまた、これは明らかにカミュのことを指していったことばと思うのだが、次のようにもいっている。『自分自身のなかにとじこもる人間は他人の指導にのりだすほどおせっかいではない。しかしある種の精神の開花には感動し、またそれを助けることはある。』と。(ある種の精神の開花=カミュのこと)
 
 グルニエとカミュとの親交は、1932年5月から1960年1月の28年間、カミュの事故死直前までつづけられた二人の往復書簡でも伺い知ることができる。最初アルジェではじまった往復書簡(グルニエはアルジェ南部の丘の上の住宅地に家族と共に住んでいたが、1934年、カミュもシモーヌ・イエと結婚後そこに一時居を構えていた)は、パリ、オラン、シストロンなどからも出され、グルニエの赴任先カイロから届けられたこともある。
 
 グルニエは前掲書(「アルベール・カミュ回想」)で、『高貴な魂は内心の苦労を他人とともにわかつことを好まないといわれてきたあの羞恥である。』といい、羞恥こそが自分には決定的な感情であると思われるようになったとも記している。
グルニエには高潔さへの郷愁があった。高潔さへの郷愁‥その存在ゆえに人は羞恥心を持つのかもしれない。しかしこの世には‘高貴な魂’の持ちあわせがなく、内なる煩悶を他人と分かつことを好む人もいる。そういう人はおそらく、絶え間のない自己省察とは無縁であろう。
 
 「孤島」の「幸福の島」で、旅についてグルニエはこう記している。
 
 『なぜ旅をするのか、とあなたがたは人からたずねられる。旅はつねにみなぎる十分な力の欠乏を感じる人々にとって、日常生活で眠ってしまった感情を呼びさますに必要な刺激になることがあるだろう。そんなとき、一ヶ月のうちに、一年のうちに、一ダースあまりのめずらしい感覚を体得するために、人は旅をする。私がここでいうめずらしい感覚とは、あなたがたのなかに、あの内的な歌…その歌がなければ感じられるもののすべてがつまらない…をかきたてることができるようなものをさすのである。』
 
 『モーリス・バレスのもの(komori注:バレスの名作「グレコ―トレドの秘密」)を読んだとき、人はトレドの町を悲劇的なすがたのもとに想像する。そして、その大聖堂やグレコの絵画をながめながら感動しようとつとめる。しかし、それよりもむしろ、あてもなく町をさまようか、噴水のふちに腰かけて、女たちや子供たちが通りすぎるのを見たほうがいい。(中略) 人は自己からのがれる…そんなことは不可能だ…ためにではなく、自己を見出すために旅をするのだといえよう。』
 
 『正午を告げる鐘がゆっくりと鳴り、サン・テルモ要塞の大砲がひびくとき、ある充実感が…それは幸福の感情ではなくて、真にして全き実在の感情、あたかも存在のわれ目がことごとくふさがれるかのような感情であった…私をとらえ、私のまわりにあったすべてのものをとらえた。そのとき、私の足と大地との、私の目と光との唯一の接合によって、私は自分を受け入れたのであった。』
 
 『人からもいわれ、私自身にもいいきかせることがある、こういう道をたどらなくては、こういう作品を創造しなくては、と。つまり一つの目的、ある目的をもとうとするのである。だが、そういった瞬間にかぎって、私のなかにある深いものにまで達することはない。』
 
 深い自己省察とはかくのごとし、32年前にもそう思ったし、いまもそう思う。名品を伝えるには名訳者の手が必要不可欠であり、井上究一郎訳の「孤島」で私は目をさまされたのだった。しかしグルニエを語るには、やはりカミュに語ってもらうのが最良の策なのだ。
1949年3月グルニエが「ボルチック賞」を受賞したあと、カミュがラジオ放送で語った言葉は以下の通りである。
 
 『グルニエの最初の偉大なる書物「孤島」が、私も含めて、多くの若者たちに対して、一様に密かに決定的な影響を与え、ついに長い間人知れず埋もれていたいくつもの作品を世に送り出す源になったことはあまり知られておりません。』
 
 『明日になれば皆さんは、虚飾のないこの小品の燦然たる輝きがもっと早く認められ、称賛を博さなかったことに驚かれることでしょう。(中略) また「孤島」は、いままで私が語ってきた何冊かの書物に比べれば、未来を揺るぎないものにしてくれるという点で優れております。つまり熟年になって読み返しても、いまだに自分という存在が根底から揺すぶられるような気がいたしますが、それがひとつの使命を決定し、その使命を人生のなかで確認させてくれるのです。』
 
 『彼(グルニエ)はある種の孤独を語らねばならないにしても、それを表に出すことを嫌ってきたのです。成功を掌中に収めることのできる演劇とか小説を選ばずに、人を説得できるエッセイを選んだのでした。効果的であるためには荒々しさとか猥雑さが必要であるとも考えませんでした。
しかし孤独そのものの言葉を、今日読むことのできる最も純粋で、最も韻律的で、最も温かい言葉の一つを語ったのです。これほど音楽的な言葉を求めるにはシャトーブリアンやパレスにまで遡らなければならないでしょう。言葉を粗末にする時代にあって、このことは尊敬に値する特異性であります。』(「カミュ=グルニエ往復書簡・補遺U」大久保敏彦訳)
 
 
※附記1:筆者が1971年に読んだ「孤島」は竹内書店から刊行されており、かつて翻訳本のオーソリティとして知られたその竹内書店も今はなく、時代の趨勢というか、昔日の思いしきりである。今回筑摩書房版として紹介した「孤島」は1991年2月、「孤島・改新訳版」として発刊されたものである。万が一ご購読のさいの便宜を考えれば、筑摩版をご紹介するほかなかった。また、竹内書店版では「幸福の島」と表記されているものが、筑摩版では「至福の島々」となっているなど、部分的に表記と日本語訳が異なっている箇所もある。筆者が列挙した「孤島」の引用文はすべて竹内書店版にのっとったことをお含みおきください。
 
※附記2:訳者の井上究一郎は、「忘れられたページ」(1971年筑摩書房刊)でも「孤島」にふれている。
 
 『何よりも現在の私がそれにはげまされて生きることができたし、東洋人としての違和を感じることなしに思想的にも感覚的にもそれに合体することができた作品、また私以外の若い人にも私ほどの年をとった者(訳者は1909年生まれ)にも‥冒険に生きる人にも郷愁に生きる者にも‥精神の糧となるにちがいない作品、それゆえにひまをかけてすみずみまで良心の行きとどいた日本語訳をこころみたいと、しきりに願った作品が一つあった、‥ジャン・グルニエの「孤島」(初版1933年)である。』

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