ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が日本へ来たのは1890年(明治23年)4月だった。バンクーバーを発ち横浜まで約1ヶ月。
鉄道は東海道線〜山陽線を乗り継ぎ岡山まで。山陰線はごく一部しか開通していない。明治45年(1912)にやっと京都=出雲間が開通、下関まで線路が延びたのは昭和8年(1933)。
明治期、岡山からの伯備線は影も形もない。倉敷から伯耆大山まで伯備線が敷かれたのは昭和3年(1928)だ。
ハーンは岡山から米子まで徒歩と馬車、時には人力車を組み合わせて移動。中国山地は当然のことながら徒歩で越えた。
中国山地に宿屋はなかったはずゆえ、林業に携わる人の家に泊まったと思われる。ほかの場所でも農家に一夜の宿を願い出たのではないだろうか。
そう考えながら「日本の面影」(1894年出版)に掲載されている小泉セツの「思い出の記」を読み進める。
「伯耆から備後の山中で泊まった。(中略) 人家が七軒あって一軒は宿屋をする」。小さい田舎家で、気味の悪い宿。
そこからの描写は冴え、怪談めいてくる。語り部としてのセツの才能は瞠目に値する。
米子から船で中海(宍道湖)を通り松江の大橋の河岸についたのは八月の下旬と記されている。
「思い出の記」はハーンを知る上で欠かせない資料。彼の日本好きは明らかなのだが、同時に大の都会嫌いで、「辺鄙なところほど好き」(前掲書)。
「食事は日本料理、箸で食べ」、「日本に、こんなに美しい心あります、なぜ西洋の真似しますか」と文明開化が日本の美点を損なうかのように言う。
日本食は漬物、刺身など何でもござれ。最後にご飯を茶碗に一杯だけ食べ、食事中は多弁で、新聞は「読売」と「朝日」を読み、犬や猫が遊びに来るとおかずを分け与えた。
自分の子を粗略に扱う親に対してハーンの憤りはすさまじく、下宿先の主がそういう親だと、こんなところにいたくないと引き払い、主の子どもが病気にかかったとき、親の制止を諫め医者へ連れていったそうです。ハーン自身は医者も薬も嫌い、セツがクチを酸っぱくして勧め、重い腰を上げるというありさま。
ある日、数名の腕白坊主に水責めされていた猫を家に運び、「びっしょり濡れてぶるぶるふるえているのを、自分の懐に入れて暖め」るさまを見て、セツは「大層感心致しました」と記す。
またこうも記す。「幼少の時からいじめられて泣いて参りましたから、一国者で感情の鋭敏な事は驚く程でした」。
散歩に出かけると、ハーンが「おお、おお」と嘆く。スギの巨木3本が切り倒されているのを見て、なぜ、この樹を切ったのか。「このお寺少し貧乏。金欲しいのであろうと思います」。「なぜ私に申し出ません。金やる。むつかしくない。樹切るより如何喜ぶでした」。「あの坊さん、すこし嫌いとなりました。金ない、気の毒です。しかし、樹もかわいそうです」。
ハーンは明治35年(1902)、家を新築するさいにも万事日本ふうを好み、各部屋の障子も紙にして、西洋風はスト−ブのある部屋の障子をガラス。
自著「怪談」の短編でハーンが最も気に入っていたのは「耳なし芳一」だった。セツが博多人形(琵琶を弾じる法師)を買って帰り、机の上に置いたところ、「やあ、芳一」と呼んで喜び、庭の笹がさらさらと音を立てると、「平家が滅びていきます」と言ったり、風の音に「壇ノ浦の波です」と耳をすませたという。ほかにも興趣をそそられる話はあるが紙面の都合で割愛。
右上は「日本の面影」文庫版所載の「美保関の波止場」と題した画像(松江市)。家々は当時の船宿。近くに美保神社があります。
今回は「思い出の記」ばかりで、本編「日本の面影」は次回にいたします。ラフカディオ・ハーンの人間味、人情、言動についてセツの一文は貴重で、21世紀の風潮に鼻白んでいる方の必読書かもしれません。(未完)
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