2023.01.14 (Sat)   ダラエ・ヌールへの道 中村哲著 石風社

 
 パキスタンとアフガニスタンの国境カイバー峠は岩沙漠のかたまりで、アフガン領内に入っても岩沙漠の連続。首都カブールは上空から見ると、盆地のなかの岩沙漠にぽっかりあいた穴のようだ。
地球上には地勢的な空洞より精神的な空洞のほうが多いのではないか。ウクライナから攻撃され、守るために戦っているというロシアメディアの報道を鵜呑みにするロシア国民の多いことを思えば、ロシア自体が広大な穴ではないか、プーチンは洞穴の主ではないか。
 
 岸田首相がプーチンから「ウクライナの味方をすればタダではすまないぞ。それ相応の報復を受ける覚悟はあるのか」と言われた場合、岸田首相はバイデン氏に電話して、「どういう対応をとればよいのでしょうか」と尋ね、笑いものになるかもしれない。ロシアへの援護射撃的発言をした森元首相はモスクワへ飛び、プーチンを励ましてそのまま留まり帰国せずともよい。
 
 
 日本の知識人ばかりでなく多くの人々が議論を避けてきた、もしくは軽視してきた国家防衛論がウクライナ戦争を機に見過ごせなくなり、どういう視点から論じるか初心にかえって見直されつつある。飽き性のわんさかいる日本でそういう傾向がいつまで続くか疑わしいけれど。
 
 最近、報道番組の出演回数最多(2023年1月現在)の小泉悠氏が「ウクライナ戦争」(ちくま新書)、高橋杉雄氏が「現代戦略論」(並木書房)を立て続けに上梓。売れっ子という表現は適切ではないけれど、出版社が目をつけるのはそういうところ。
ロシアの安全保障と軍事の専門家(小泉氏)や国家安全保障と軍事戦略の専門家(高橋氏)の近著は読み応えがある。病院の待合室で読むには向いていないが。
 
 戦略・戦術の話になったとき顕著な熱意を感じるのは陸上自衛隊出身の渡部悦和(わたなべよしかず)氏。どのくらいの熱意かというと、作戦会議に参加できるならいまにもウクライナへ飛んでいきそうな熱意である。
現地の住民や日本人の録画をみて、残忍なロシアへの怒りに燃えるかのような高橋氏の目。ヘタな解説に対して皮肉な目をする兵頭慎治。高橋杉雄、鶴岡路人、東野篤子、兵頭慎治、渡部氏のような専門家が出るから報道番組はみる甲斐があるというものだ。淡々と状況を解説する専門家は新聞雑誌に寄稿するだけでよい。
 
 中村哲さんは長年ペシャワールやアフガンで住民を治療、さまざまなタイプの地元民と密に交流し、卓越した現場感覚と分析力、文章力の持ち主。
現場を体験していない高橋・小泉両氏は現場感覚に近い分析力で可能な限り現状を正しく伝えようとし、中村さんは日々の生活で体験したすべてをわかりやすく伝える。中村さんの文章が卓越しているのは読み手の共感を呼ぶからだ。
 
 ダラエ・ヌールというのは「アフガニスタン東部ケシュマンド山系の南面にある渓谷」(中村哲著「天、共に在り」)。「ケシュマンドは標高4000メートル以上、万年雪がとけだして山麓を潤してきた」(同著)山系で、東部アフガンの穀倉地帯なのだが、万年雪が年々減少し、さらに気温上昇が融雪を洪水化させる。しかし雪不足は旱魃を生む。
 
 1991年ダラエヌールのカライシャヒ近辺に診療所開設の準備を始める。ダラエ・ヌール渓谷はおおむねヌリスタン族が暮らし、対ソ戦争時代も自治体制が敷かれ、政治的な利害に巻き込まれず、ペシャワール(パキスタン)から四駆で10時間、徒歩3日、物資の輸送も困難を伴わない地域ということが診療所に適していた。
 
 ところが開設までの苦労は並大抵ではなく、小生の体調を鑑みれば、詳細を書き記すと数日かかるので割愛。
 
 「ダラエ・ヌールへの道」に、ソ連のアフガン侵攻に対する米国の対応は、ソ連の国力を消耗させる戦略にあったとし、中国から大量に買い付けられた武器が搬入され、ペシャワール郊外で訓練されたイスラム原理主義者、1987年には米国側の地対空ミサイル「スティンガー」を入手した彼らが戦地に送られる。結局、米国の選択が米国をドツボに追いこんでしまう。
 
 モスクワ五輪をボイコットした米国に関して政治にスポーツを持ち込むべきではないという議論があった。オリンピックは冷戦や政治と無関係とする理想主義をどうこういってもしかたない。
ウクライナ戦争を起こしたプーチンとロシアに対して欧米のスポーツ委員会、各種団体はロシアをボイコット。当然の対応である。インドのモディ首相はプーチンと会ったとき、「戦争の時代ではない」と言い、プーチンは返す言葉がなかった。親密な経済関係を維持しても言うべきことは言うインド。
 
 いまだからどうこう言えるけれど、アフガン侵攻当時の実状はほとんど報道されず、命知らずのルポライター、写真家の一部が現場の状況を把握し、日本では専門家と称する知識人と貧困救済面をした政治家が天下国家を論じるだけの場となる。
そしてどうなったかといえば、「アフガニスタン難民帰還、復興援助が国連主導でうちあげられ、世界は難民帰還が実現するような錯覚を抱いたままアフガニスタンは忘れ去られていった」。
 
 実状は、難民キャンプは名ばかりで、反政府ムジャヒディン(イスラム教徒で構成される自由の戦士)やゲリラの補給基地。男子成人のほとんどは戦闘員。援助物資はキャンプへ届かず、難民は自活していた。自分で日干しレンガと泥の家を建てた。
農作に従事していた彼らの収入源は、ペシャワールへの出稼ぎ、敵からの戦利品、横流し品をバザールで売ること。西欧諸国でいうところの「人道支援」とかけ離れた生活であり、国連などの業績報告は現実離れしていた。
 
 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)視察は、ランドクルーザーを連ねてやって来て、難民施設の数名と握手し、施設を撮影し引き上げていった。難民のあいだで「配給が増える」とか「まもなく診療所ができる」とささやかれたが何も起きなかった。難民救済基金の多くは組織運営経費とピンハネにあてがわれたのだ。
 
 中村さんは実状から自らの体験によって判断する。キーウでの電気も水もない生活は悲惨だ。しかし「アフガンの村の人々が電気も水もないから気の毒だという先進国インテリの話を真に受けてはならない。遠くまで水をくみに行くのはアフガンの山岳地帯で日常茶飯」。悲惨なのはインフラが整備されていないことより、「戦争に巻き込まれ農耕・牧畜ができないこと」である。
 
 「問題なのは、自分のものさしで他人の幸・不幸を裁断し、文化や生活意識の差異を優劣で論ずることにある。あげくは越えがたい溝をつくって相互不信をエスカレートさせる」と中村さんは記す。
1988年4月のジュネーブ和平協定によるソ連軍撤退開始に世界は沸きかえり、200以上の国々からNGOが押しかけ、山師的プロジェクトが頻発。復興支援は山のあなたに去ってしまう。
 
 ダラエ・ヌール渓谷に近いシェイワでは、幹線道路を囲むわずか5キロの林だけでソ連軍は3万の地雷を埋めていた。時限爆破付き、人間のみ感知するセンサー付き、不発弾を摸したものなど30種類。
手のひらほどの大きさで、チョウの形をした通称「バタフライ」は、破壊力が強くなく重傷を負わせるための地雷。すぐに爆発せず、子どもが持ち帰って遊んでいると爆発するという。多数の子どもが犠牲になった。ロシア(ソ連)の残虐性がわかる。
 
 頭脳優秀だけで片のつかないことは多く、論理的とは言いがたい情愛や温かさが魂の救済となる。情報化社会と誰もが言う。正しい情報より偽情報のほうが拡散スピードの速い時代。
情報を雲霞のごとく積み重ねて悦に入る人もいようが、ほんとうに必要なのは、各自がその時々の状況に応じて必要とする情報である。肝心なのは情報の多さではない、正誤を見分けようとする意志だ。
 
 多くのテレビ番組でディレクターが考えた質問を記者が投げかける。「支援、治療、交流のうち目的は何ですか?」。経験の少ない頭でっかちなメディア人間が好む3択。Aか、Bか、Cかではない、ABCぜんぶが目的であり、ほかの使命も果たす。
 
ほんとうの荒野にすくっと立ち、長年にわたり心をこめ、身体を張って現地の人々と体験を共有した中村さんだからこそ伝えることができた本書は読者の道しるべである。
 

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