2022.10.02 (Sun)   スコットランド紀行 エドウィン・ミュア著 岩波文庫
 
 1999年6月下旬、初めてスコットランドの地を踏んだとき感じたのは、時と風を見ることができる場所ということでした。時はとまっているかのようにゆっくり流れ、子どものころ風の流れを見たあの感動がよみがえったのです。
スコットランドには追憶をかきたてる懐かしい調べがありました。過剰なものが温かさを妨げる都会には見いだしえない何かがあり、見たものが深く心に刻まれ、思い出すと胸がいっぱいになります。
 
 スコットランドの首都エディンバラ旧市街の古色蒼然とした佇まいは独特で、観光客で賑わうエディンバラ城からホーリルード宮殿までの通称ロイヤルマイルは6月下旬なのに閑散として快適でした。旧市街の規模は小さく、人も少ないので散策に向いている。しかしほんとうにスコットランドらしいのはエディンバラのあるロウランドではなく北部のハイランドです。
 
 「スコットランド紀行」の著者エドウィン・ミュア(1887−1959)は1934年、知人から借りた古ぼけた車に乗ってスコットランド周遊の旅をする。エディンバラからロウランド、グラスゴー、そしてハイランド。
過去数十回も来たエディンバラについてクソミソに評しているのは、14歳で初めて訪れたとき故郷オークニー諸島から寄り道せず来たため、路面電車、工場。アパートなど文明の産物を見たことがなく、違和感をおぼえ、その印象が後々まで影を落としているからなのでしょう。
 
 エディンバラで見かけた人々はあくせくして親切心が薄く、使用人を粗略に扱い、賃金も安い‥と書いていると、これから読むかもしれない人の興味を削ぐかもしれません。時代や、旅先で出会う人によって印象は異なり、旅人が果実を得るのは簡単でも、紀行文を読む人に共感をもたらすのは容易ではないでしょう。
「喫茶店は中流〜中流上層階級の人々が自己表現する場所で(中略)、上等な店は巧みに静寂を演出する」や、「高級感、贅沢への憧れは普遍的であり云々」という一文、「住民はエディンバラと調和しておらず、長く滞在している訪問者のように見える」といった文章が目にとまる。よそよそしいのは現代の大都会だけではないようです。
 
 ラジオや映像などのメディアの登場が生活の多様性、独創性の軽視と崩壊を招くとミュアは指摘している。しかし映像は、みた人の思いをかきたて、創造力を呼びさます役目を担うだけでなく、生活の多様化をめざす人に刺激をもたらすのではないだろうか。
 
 スコットランド南部地方(ロウランド)の著者の体験でこれはと思ったのは、ホテルのレストランに入り込んだ若い男女8名のうちの女が傍目も気にせず部屋中響くように哄笑し、品のない冗談を言う。
そのときウェイトレスと著者の目が合い、純朴な彼女は、「スコットランド人として不躾な連中をたしなめてください」と合図を送る。しかし著者は弱々しく視線をそらし、それから彼の夕食は無言のうちに出された。
 
 ハイランドへ入ると印象は一変する。人のいない自然の風景は、「自然の生命が独立した存在として感じられ」、「道ですれ違うわずかな人たちの顔つきも私の見なれた人々とは違って見える。樺の木の香りや渓流のせせらぎが大気を満たしていた」。
 
 ランチのため入ったホテルのダイニング・ルームでは「きれいなハイランド娘のウェイトレスがテーブルからテーブルへと飛び回っていた」。荒涼とした風景のなかで「巨大な手のような雲がヒースや岩を押さえ、雲の濃さが静寂を生み出している」。いかにもハイランド。自然も人間も生き生きしています。
 
 ハイランド北辺の町サーソー近くの自動車修理工の親切心、あたたかさ。修理の終わった車を運転する著者を、「ふたたび車が故障するのを心配して半マイルほど距離を置いて後をつけてくれたようだった」。著者はサーソーの通りで修理工に出会い、お礼と別れの挨拶を交わし、「無数にあるハイランド人の親切の一例である」と記しています。
 
 そしてミュアの故郷オークニー諸島と続くけれど、オークニーの卓越した描写に興味ある方は「スコットランド紀行」を読んでください。小生は2007年7月に文庫の初版を購入してから時を惜しむように思い出しては読みました。
 
 
           オークニー諸島のメインランド島にあるリング・オブ・ブロッガー。新石器時代の環状列石(25体)の一部。


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