2020.02.24 (Mon)   毘沙門天像の誕生(田辺勝美著 吉川弘文館)
 
 1970年代から1980年代の日本でガンダーラ仏専門家は本著の田辺勝美氏と京都大学の樋口隆康氏、小谷仲男氏だけだった。ほかにも西北インド古代美術史の学者はいたけれど、それは大学で学生に講義しているとか、それなりの論文を書いているだけで、ガンダーラ仏の真贋鑑定力を必要としておらず、そういう能力を学界や学者本人が求めているわけでもなかった。
 
 「日本歴史」昭和63年(1988)1月号「ガンダーラ菩薩像真贋騒動」で町田甲一(仏教彫刻・美術史家)が述べているように、「専門家の田辺(勝美)君が贋作の疑ありと警告しているのだから、謙虚に調査検討のプロセスを踏むべきだった」。
町田甲一はこうも言う。「刑事上の裁判ならば疑わしきは罰せずが建前だろうが、真贋の問題は、疑わしきものは本物と認定しないのが鉄則である。」
 
 昭和62年(1987)5月2日、毎日新聞夕刊に「菩薩展示品ガンダーラ仏の怪」という見出しで、「奈良国立博物館(西川杏太郎館長)が開いている特別展・菩薩に出品され、同展のポスターにもなっているガンダーラ仏が美術史家の話題を集めている。ガンダーラ美術の専門家田辺勝美・古代オリエント博物館研究部長が偽物と指摘」云々(原文)とある。
「話題を集めている」という表現がいかにも新聞記者。正しくは「火種となっている」とか、「論争の引き金になった」である。
 
 何もわかっていない朝日新聞奈良支局記者の書いた「お騒がせ ガンダーラ仏」はどうしようもなかった。
囲み記事「審判役の7氏ほぼ一致」は、奈良博館長らの言い分を守護するために書かれたとしか思えず、本物の証明などまったくしていない西川館長のコメント「偽物ではなく本物の証明十分」ほかガンダーラ仏の専門家でもない学者たちのコメントを紹介。記事に載っていないが、東京芸大名誉教授・西村公朝氏にいたっては、「近年つくられた第二、三層の金箔があるから、内部の彫刻は本物である」と言っている。唖然というほかない。
 
 ひとこと断っておくが、昔も今もガンガーラにおいて金箔つき仏像は一体も発見されていない。かろうじて樋口氏だけが、「幾多の疑問点はあるが、本物とも偽物とも言えない」と逃げたのは、京都が奈良をかばったということである。樋口氏は偽物とわかっていて曖昧な答弁をしたのだ。
 
 要はこういうことである。奈良博と奈良博普及室長の推薦のもとに亀廣記念医学会・理事長が某所から購入したガンダーラ菩薩像を奈良博・特別展の目玉にする。奈良博が贋作菩薩像を偽物と見抜けず、開催前にわざわざ菩薩の大ポスターをあちこちに貼りまくって宣伝し、館内に陳列した。
 
 田辺氏に指摘され贋作と気づいた学者がいたろうけれど、西川館長などの手前、公的な席(後述)でほんとうの話はできない。「偽物と断定する根拠にならない」(高田修)とみえすいたことを。本物とは決して言えない、偽物とはさらに言えない苦しまぎれのコメントだと思うが、ガンダーラ菩薩像の真贋のみきわめもできていない高田氏ゆえ本気だったかもしれない。
 
 誰だったか、「本物の可能性も否定できないわけではない」みたいなご託をならべた学者もいた。可能性ではなく実証性が問われているのだ。西川館長らのコメントは論外として、国側(奈良博)を擁護した学者の多くは赤っ恥、青っ恥じものである。こういうことを忖度というかどうかはともかく、忖度は飛沫感染するし、空気感染する。
 
 学者も見落としはあるだろう。見落としに気づいても、事実誤認を認めず落としどころを探したければ、井戸の底で暮らすにかぎる。伝統的に隠し味の好きな同胞は多いとして、いつのまにかネコもシャクシも落としどころが大好きになってしまった。美術史家に求められるべきは調整能力ではない、分析力であり、実証伝達力である。滑稽なリーダーシップはヘボ教授会で発揮すればよい。
 
 田辺勝美氏は「古代文化」昭和62年12月・第39巻第12号に、「パキスタン製弥勒菩薩立像の贋作方法に関する一考察」を発表。図像学的、形式学的分析、X線撮影分析から贋作であることを証明した。
また、強力接着剤によって巧妙に各部を接合していると指摘。各部分を別々に制作して、後からつなぎ合わせる日本の寄木造りをもじって「寄せ石造り」と呼んでいる。
 
 X線撮影については、9枚のフィルムを医師が精査し、耳飾り、頭髪、光背の接合部に接着剤使用が認められ、それら接着部に針を突き刺したところ、すべての部分に針が突き刺さったという。ほかにもガンガーラ仏にはありえない図像学的特徴や制作上の疑点が見つかる。
 
 1988年刊「文芸春秋」4月号は、田辺勝美「醜聞・ガンダーラ贋菩薩」と題して、鋭い感性と機知にあふれる読み応え満点の文章を掲載した。
1987年6月2日、亀廣医学会理事長の強い要請があって「関西記念病院」において世界史上初めての「ガンダーラ仏研究協議会」なる公開討論会が開かれた。なに、ガンダーラ仏の専門家は田辺氏と樋口氏のみ、ほかの11名は有象無象である。
 
 「この菩薩像の頭飾りは、観音菩薩と通称される菩薩のそれであるが、左手には弥勒菩薩が持つべき水瓶を持っていて、明らかに図像学的に矛盾している。(中略) この矛盾点を指摘して奈良博物館の説明を求めたが、説明など出来るわけがない。」
 
 「わが国にはまだ多数のガンダーラ仏の贋作がある。その中の10数点はこの贋作菩薩と同じく全身に金箔が押されている。(中略) 真贋鑑定は美術史の根本である。」
 
 「奈良国立博物館には、私の贋作説のお蔭で、史上3番目の入場者数を数えるという特別展の大成功が転がりこんできた。」
 
 
 「毘沙門天像の誕生」の一刷発行日は1999年12月1日。早速購入して読んでから20年以上たった。
田辺氏の研究論文をインターネットで一般公開している大学もあり、田辺氏が在職していた金沢大学(1993年「ガンダーラ美術の獅子像のイラン的要素」など)のほかにも、近年、創価大学シルクロード研究センターの「スルフ・コータル出土・カニシカ1世像の神格化について」(2017年7月)、あるいは2018年3月の論考も公開されており、誰でも閲覧できる。
 
 「南アジア研究第22号 第3回シンポジウム」(2010)には、「インド人仏教徒は何故、仏陀釈尊像を創らなかったのか?」という田辺氏の短編も掲載されている。
市販の一般書は簡単に入手できるし、市立図書館で閲覧可能なものもあるが、上記の論文は入手困難で、インターネットで読むことも印刷することもできる。「仏教藝術」2015年5月の「テラコッタ製鋳型に関する一考察ーガンダーラの所謂化粧皿の図像のモデルをめぐって」や、同書2017年1月のものなどは容易に入手可。
 
 一般的な概説書は1988年10月発行の「ガンダーラから正倉院へ」(田辺勝美著)。ガンダーラ仏に関心があり、基礎と同時に若干の専門的知識も得たいという方の入門書として適している。
 
 基礎をある程度習得した人が次のプロセスへ進むときの啓発書が本書であり、著者が同書・目次「なぜ毘沙門天なのか」に記している、「ガンダーラの仏教美術を生み出した文化交流は、インドとギリシャ・ローマ間だけでおこったものではない。」や、
「推進したのは中央アジアから南下したイラン系のクシャン族である。政治的安定によて富がガンダーラに集中した。おそらく先学たちは、中央アジア出身のイラン系遊牧民であったクシャン族は野蛮人であるから、文化的に貢献するようなものは持っていなかったと先験的に断定してしまったためであろう」に注目されたい。
 
 この部分で重要なのは、「クシャン族は野蛮人であるから、文化的に貢献するようなものは持っていなかったと先験的に断定して」である。先入観とか固定観念が見落としを生み、学究を阻んでいたのだ。この手の見落としや固定観念は学者族にかぎったことではない、メディア族(特に新聞記者)にもあてはまる。
 
 クシャン朝が繁栄したころのある時期、クシャン族の富裕層が従来の拝火教から仏教に改宗したことは拝火神殿跡や仏教寺院遺跡、仏像などの発見によって裏付けられていることとして、田辺氏は、「仏教がインド人の輪廻転生という妄想に執着し、涅槃という観念を弄んでいる間は異民族の帰依は容易ではなかったから、仏教が国際性を持ち、西域や中国以東に広まる可能性はほとんどなかった。」と述べ、
そのような「閉鎖性を打破したのが現世利益を追究し、涅槃にかえて極楽往生を目的とした新しい仏教」と述べ、「造形美術の面において、クシャン族のさまざまな貢献を度外視しては、仏教美術の本質は見えてこない」と書き記している。
 
 クシャン朝以前には一体々々独立した仏像さえも造られていない。100年以上におよぶガンダーラ地方での発掘調査、もしくは盗掘で発見された仏像について「クシャン族が決定的な役割をはたした」と田辺氏は「ガンダーラから正倉院へ」に記す。
 
 「ガンダーラから正倉院へ」の「第1章 ガンダーラ仏の起源 はじめに」の記述は、1972年10月、田辺さんが言っていたことに符号する。「ガンダーラに赴くことなく彫刻写真を見て研究室で考察したり、ガンダーラの地を踏み、民を目にしたとしても、そこに生まれ、死んでいった人々に対する一片の愛情も愛惜もないような学者が頭のなかで創作するだけでは、ガンダーラ美術の根本ともいえる仏像の起源は解明できないのではないか。」
 
 
 「毘沙門天像の誕生」には、「ガンダーラの仏教彫刻を再調査したところ、ガンダーラから出土した単独の礼拝像には、残念ながら毘沙門天とみなせるものは存在しないことがわかった」とも記している。
 
 さらに、ガンダーラで見つかった浮彫りのなかの武人像を毘沙門天と断定するには、経典などに論拠をもとめるのではなく、「彫刻の図像そのものに論拠を発見せねばならない。これが美術史学の鉄則」と述べ、同書別章で毘沙門天の図像的特色を5項目あげている。
@合弓を持っている A長袖の上着を着ている B原則として頭部に一対の鳥翼をつけている C小札鎧(こざねよろい=薄片の鎧)を着ている場合がある D小型マントを羽織っている場合がある
 
 毘沙門天が持つ弓矢には放光(光明)の意味がこめられており、それゆえにこそ「ガンダーラの彫刻家が多様な武器のなかから弓矢を選び、釈迦の道案内(闇夜を光明で引き裂く)の毘沙門天に持たせた」という。
弓から放たれた矢を、暗闇に一筋の光が走る現象に似せて、「光明をもたらすもの」とみなしたのだ。中国、日本の武将姿の毘沙門天は弓矢でなく戟(げき 鉾、槍)を持つ。
 
 毘沙門天の語源はヴァイシュラヴァナ。「ヤクシャの王クペーラはクシャン族王侯のすがたで描写され、クペーラの名がヴァイシュラヴァナへと変化した」(田辺勝美編集「世界美術大全集 中央アジア」)。
 
 巷間、毘沙門天と多聞天は同じと言われているけれど、それらはまったく異なるものであると田辺氏は見事に証明する。
毘沙門天とは仏陀のいうことを常に聞いていた=説法を多く聴聞した=から多聞、多聞天といわれるようになったという通説に対して、釈迦の伝記を始めから終わりまで読んでいけば、「多聞天にせよ毘沙門天にせよ、釈迦の説法を聴いたことは一度もなかったことがわかる」と反論。
 
 「釈迦の説法を誰よりも多く聴聞する機会があったのは、ガンダーラの仏伝浮彫り全体からみれば、釈迦のボディガード的な役割を演じている執金剛神である」。
 
 田辺氏をガンダーラ仏の専門家として世界が認知する以前、田辺氏は東京大学教養学部時代フランス分科に属し、経緯の詳細は省くが、大学院は美術史学専修課程。古代ペルシャ美術史の深井晋司(1924−1985)教授の師事を得る。
 
 その後、東西交渉史と切っても切れない貨幣(コイン)を、特にコインに彫られた図像を研究。1938年から6年間、カーブルの日本大使館付医師として勤務した渡邊弘氏が収集したコイン写真書が発刊されたのは1973年10月。田辺氏の考証と協力なくして世に出なかったであろう「西域の古代貨幣」(学習研究社)が手元にある。
 
 「ガンダーラをやらないか」という深井教授の勧めでペシャワール大学へ2年間留学。ガンダーラ地方・住民との交流が研究を深め、田辺氏の人間像をかたちづくったのかもしれない。
 
 留学を終えて帰国した田辺氏は1972年10月、「パキスタン・アフガニスタン28日の旅」の特別講師として私たち16名に同行。そのときの行程の一部、ラホール博物館行きについては「うすくち手帖」2020年2月8日の「ガンダーラと田辺さん」に書き記した。
書きたいことは山ほどある。当時30代初めの田辺氏は講師というより旅人の目から見ると、ガンダーラをふくむパキスタン・アフガン経験者として尊敬をあつめ、風が吹くたびに親近感をなびかせるスーパーガイドだった。
 
 「毘沙門天像の誕生」のおもしろさ、快刀乱麻といってもいいすぎではない闊達な文章は、その昔(1972)、「文章を書くのがヘタでしてね」とおっしゃっていた田辺氏と結びつかない。学術論文をいっぱい書いたり、月刊誌に寄稿したり、一般書を上梓しているうちに洗練され、伝達力に富む文を書くようになられたのか。
再読しても新たな発見があり、あのころを懐かしく思い出す。そして、使命感と勇気を失わない田辺さんに感嘆する。私たちにとって田辺さんはいまなおパキスタン・アフガン・ペルシャなどの古代美術を解説・伝達するスーパーガイドである。
 


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