2020.02.05 (Wed)   アフガン・緑の大地計画(中村哲著 ペシャワール会)
 
 2020年1月15日、眼科医で軽い手術をうけ帰宅、翌朝診察のため待合室の長椅子に座り、何気なく右横の棚を見た。書店の新刊書置場のように平になっており、表紙が目に飛びこんできたのが中村哲さんの近著「アフガン・緑の大地計画」(改訂版)。
片目は眼帯をしているせいか棚までの距離感があいまいになっていた。ページを繰ってもゝゝゝ豊富なカラー写真とカラー図版、印刷もきれいで文言は脇役、上質紙で製本されていた。
 
 これだけのものなら値も張るだろうと思って裏を見たら「1700円(税込)」と印字されていた。意外だった。稿料も利潤もゼロの完全な実費、紙屋も印刷屋も破格の料金で請け負ったのだろう。待合室で出来るだけ読まねばならない。そう思って貪り読もうとした。が、片目で読むのは結構むずかしい。
診察が終わっても読もうと思いつつ、受付の女性にたずねた。「貸し出しもだいじょうぶですよ。ゆっくりお読み下さい」と言ってくれた。「えっ?、こんな状態ですから読み終えるまで何日もかかると思いますが」。「ええ、何日でもどうぞ」と言う。
 
 自宅にもどってすぐ、在庫の有無と発注の確認をしようと福岡のペシャワール会に電話した。在庫はなく、1月末か2月上旬をめどに増刷が届く予定になっているということで早速注文した(1月16日)。2月5日時点では届いていない。眼科医で借りたものを、目が疲れやすく一気に読めないとして、とつおいつ読み進めた。
同書扉「改訂版刊行の辞」を要約すると、「石風社刊で出されたが、文章訂正だけでなく大幅に図と写真を加えた。現地でも日本でもより伝わるようにわかりやすく、「目で見る事業報告」を意図している。アフガン情勢は急迫し、先が見えない状態となり、ゆえに一縷の希望を伝えたい」。
 
 
 小生がアフガニスタンを旅したのは1972年10月。そのころは民主化路線、政党設立の自由をかかげる立憲君主国(国王ザヒール・シャーが元首)だった。20世紀、ヨーロッパ列強が支配するイスラム圏のなかで最も早く独立を達成したのは1919年アフガニスタンだ。1923年アフガン初の憲法に国王アマヌッラーの権能が定められている。
 
 アマヌッラー国王の側近にタルジという優れものがいて、従来の部族長中心の軍隊から近代的徴兵制に再編成し(現在のアフガンは部族長の軍閥が復活)、イスラム伝統の衣裳ブルカを廃止、強制労働の禁止、女子・遊牧民などへの教育の普及、密輸禁止、税率公平化、国立銀行設立、新貨幣導入に取り組む。
 
 しかし改革をいそぎすぎたのか、1929年、軍中枢の一部の部族長がカーブルで反乱をおこし、アマヌッラー国王は英国が用意した航空機でインドに脱出、イタリアへ亡命し、1960年チューリッヒで亡くなる。
反乱軍は数ヶ月の政権しか保てず、1929年王位についたのがナディール・シャー(ザヒール・シャーの父)である。ところが1933年ナディール・シャーは暗殺され(真相は不明)、息子ザヒールが19歳で即位。在位40年間の大部分30年間(1933−63)の政治を姻戚関係にある叔父と従兄に主導させたことが良い結果を招く。中立主義である。
 
 それまでの経緯からソ連と英国の関係を避け、第二次大戦後の復興著しいドイツの援助を重視、敗戦国イタリアや日本の援助、技術協力も仰ぐ。だが、米ソ冷戦下のブレジネフ率いるソ連はアフガン国境の利点を逆用して無理矢理ヒンズークシ山脈のサラン峠にトンネルを開通させる。それを境としてアフガンにソ連信奉の派閥が生まれる。
ザヒール・シャーがローマ滞在中の1973年8月クーデターが勃発、国王は廃位され故国に帰ることなく亡命。その後1978年ムジャヒディンがアフガン臨時政権に対して蜂起。好機到来とばかり1979年12月ソ連がアフガン侵攻。以下省略。
 
 現代史の概略はこれくらいにして、中村哲さんが考えだした緑化計画の骨子は次のとおり。
 @単純な機器で対処できること Aコストをあまりかけないこと Bすくない知識でも施行できること C手近な素材を使うこと 
D壊れても地域の人が修復できること E水のように正直であること。 本書は「作業の手引き書」なのだ。
 
 それにしても同書は多くの啓発に満ちている。農業、灌漑事業は経験科学に基づく点で医療に似ているとか、ありふれた医療機器や高価な薬を使えなくても、聴診・視診をしっかりやって、顕微鏡検査など最低限の機器を使い機転を利かせれば、圧倒的に多い感染症の診断・治療はできるし、かなりの救命は可能。
 
 単なる旅行者とちがい長年におよぶ生活者は、まして観察力、分析力に秀でた人ともなれば、風土も気候も大違いのアフガンと日本の河川に共通点を見いだす。@急流河川が多く、夏冬の水位差が著しいこと A山間部の山麓、小さな平野に田畑があり、狭い土地で集約的農法が営まれていること。
取水と灌漑方法に類似性があり、したがって古い日本の工法を参考にできるのである。
 
 温暖化にともなう雪線上昇もあって、1978年に標高3500メートル付近は積雪10メートルあったのが、2008年には4500メートルまで雪線が上がった。30年で500メートルの上昇である。氷河の後退、雪解け水の著しい減少もおきているが、場所によって氷河が河川をふさぎ大量の水があふれ、地滑りの原因となっている。
 
 高気温によって積乱雲が上空に高止まりし、他地域へと流れる。降雨面積がすくなくなり、夕立が減る。土地の乾燥は改善されず、しかし雨が降れば時に集中豪雨となり局地的被害をもたらす。異常気象は地球上いたるところでおこり日本でもおなじみなのであるが、アフガンでは先鋭化し、極端なかたちで発生する。
 
 総論部分の一部を紹介するだけで紙面を取られてしまうので、農業用水路の具体的な工事については割愛したい。日本の河川やダムにおける水門(可動堰を含む)の多くはスライド式で、ほとんどは油圧・電動式、コンピューター制御。
しかし、電気さえ通っていないアフガンの農村では電動式水門はまったく意味をなさず、交代で水門番をおき、人力で堰板の上げ下ろしをおこなう。土砂の流入防止も施さねばならないし、畑にスムーズに河川水を送らねばならない。それらのことを土木工学の知識がない人にも図を多用し、よくわかるように説明してくれる。
 
 中村さんが参考にしたのは、寛政2年(1790)に筑後川流域(福岡県朝倉市)で建設された山田堰である。なんと、山田堰はいまも現役なのだ。
 
 アフガンは食糧の大部分を国外から買い入れ、いまだに農業はもちろん、商工業も未開状態。1970年代初め小生が旅したころ、立憲君主国だったアフガンは農業立国であり、ほぼ100%農産物を自給し、国民の食糧をまかなっていた。
 
 アフガンは人口の4分の1、760万人が飢餓と向き合っている。河川からの水をひいて耕作地を増やすことが急務なのだが、悪辣な外道タリバンと強欲のかたまり軍閥がのさばって農村をおびやかし、妨害する。
それでも中村さんたちは農業用水路のための土木工事に着手し、すでにできあがった畑も入れて約60万人分の農作物を実らせる畑をつくろうとしている。そしてさらに耕作地を広げるために手を尽くしていた。
 
 水路は中村さんの魂の通り道だ。アフガン農民が共に歩いてきたのは、それが魂の通り道であることを識っていたからだ。まだ通っていない人々もいつか必ず通るだろう。かつてアフガニスタン国民に不撓不屈の精神がみなぎっていたように。中村さんの魂に気迫がみなぎり、緻密であったことを知る手がかりとなるのが「アフガン・緑の大地計画」なのである。
 
★「アフガン・緑の大地計画」は2月10日に配送され、予定より数日遅れただけなのに、ペシャワール会スタッフの丁寧なお便りが添えられていました★
 


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