2016.11.03 (Thu)   売茶翁の生涯(2)
 
 33歳になった月海(売茶翁)は1707年肥前蓮池にもどり龍津寺に入る。1696年、22歳で全国の禅寺を行脚、主に東北方面へ旅立って11年後のことである。売茶翁の父は東北出身であり、母の伯父は三春在住。あえて東北を選んだ理由は、当時も親類縁者は東北におり宿の心配をしなくてすむからと思われる。
1756年、江戸から仙台に旅だった冬、「深い雪と厳しい寒さを漢詩のなかで回想している」。売茶翁82歳、新幹線も航空機もない時代、そのような高齢で長旅を敢行した人はいたろうか。思えば気の遠くなる夢のような話ではないか。
 
 龍津寺住職・化霖は1720年に没した。それまでの13年間、月海は龍津寺の住持をつとめていたという。化霖没後、住職を継いだのはしかし月海ではなかった。藤原家孝の「落栗物語」をひもとくと、化霖の上足の弟子(売茶翁月海のこと)であるが、諸国行脚をし、師(化霖)が寺を譲るといっても断り、どこへともなく旅立ってしまった(資料によれば月海50歳)。
どうやら京都に住んでいるといい、僧侶とも俗人とも見えず、なぜですかと問うと、わたしは智徳共に不足し、法衣をまとってはいても人の施しは受けず、茶を売りながら暮らしています、ただ都のあたりは山のたたずまい、水の流れなどなつかしいところが多いので足がとまったのです、とこたえた。
                     
 当時、京都在住の芸術家におよぼした売茶翁の影響を鑑みれば、「宝暦〜天明年間の詩人や画家たちの精神風土は、売茶翁によって切り拓かれたと言っても過言ではない。もし売茶翁の自由がなかったならば、六如(りくにょ=天台宗の僧侶・慈周)の詩にしろ、池大雅や伊藤若冲の絵にしろ、それらの創造の部分が変質したのではないかと思われるほどである」(高橋博巳【京都藝苑のネットワーク】)や、
「売茶翁について深い関心を呼び起こしているもっとも根源的な理由としては、翁の徳性の高さと至誠なる宗教心を指摘することができる。既成仏教の僧侶たちへの評価が概して高くなかった時代に、売茶翁は自らの禅の目的と自己自身とを徹底的に一致させようとした」ということになる。市井の民は売茶翁のように旧習から脱皮した、実徳で謙遜心にとむ人間に共感し、敬意を払いはじめたのだ。
 
 ここで洛中洛外のロケーションのすばらしさにふれておこう。南北に鴨川が流れ、東に遠くは比叡山、近くは東山連峰がのぞめ、京都御所の北に糺の森、東に鹿ヶ谷、西に衣笠山など。そしてまた洛西に平安京の昔から風光明媚で名高い嵐山、嵯峨野の紅葉。南に下れば桂離宮、奥嵯峨に観月とハスの大沢池。いずれも一見に値するロケーションにめぐまれている。
 
 春は弁当持参の花見、夏は川べりや森の木陰で涼をとり、秋は月見ともみじ、冬はこたつでほっこりと(18世中村勘三郎はしっぽりとと言っていた)。18世紀半ば、京都の人口は約50万人。江戸は100万人。
21世紀のこんにち、京都は140万、東京は1千3百万。人口は10分の1でも国内外からの観光客数は10倍。京都の魅力の発露というほかない。とはいうものの、近年の観光客の激増、特に大陸からのチャイニーズの多さと傍若無人に閉口している。
 
 京都御所は京都御苑のなかにあって、ご近所の人々が朝夕の散策、犬の散歩など多岐にわたり憩いの場所として利用している。付近に住む冷泉家の人々も犬を連れて散歩するから、御苑内のどこかですれちがっているかもしれない。
 
 60歳になって茶を売りはじめた売茶翁月海は小さな庵を借り「通仙亭」と名づけるが、通仙亭は翁の号でもある。場所は、泉涌寺と東福寺のうしろにある東山山麓から西に向かう渓流が鴨川に合流する地点あたりという。そこに二ノ橋と呼ばれる石橋があり、伏見街道を通る人々が橋をわたる。
泉涌寺の末寺・今熊野観音寺と東寺とのあいだは巡礼の要衝だったことから、茶店としての需要があるとみたのだ。
 
 売茶翁の茶は中国ふうの炉で茶を沸かし、よそで飲めないような味わい深い煎茶だったという。茶店には翁自身の漢詩が額となって掛けられ、香り豊かな茶と同時に翁のステキな人柄も味わえるという評判が広まった。お茶代は「ただのみも勝手、ただよりはまけもうさず」、すなわち、「代金は客の自由に任せ、ただでもよい」とした。
「売茶翁の生涯」の表紙(下の図版)は道教の仙人がまとう衣装姿の売茶翁である。
 
 急須で淹れる煎茶は、現在の京都府綴喜郡宇治田原に住んでいた水谷宗円(1681−1778)が創案製造し、これを江戸にもたらして莫大な利益を得た。売茶翁は水谷宗円を訪ねている。宗円のあみだした革命的ともいえる煎茶は、茶葉の新芽と色あざやかな緑色をつかい、こまやかな風味の緑茶だ。時に1737年、売茶翁が茶店「通仙亭」を開いた3年後である。
1743年春、69歳になった売茶翁は双丘に小屋をつくり茶店を開く。双丘の西に妙心寺、北に仁和寺。双丘時代には生活が逼迫し、仁和寺まで行って茶を売ったらしい。とかく困窮は深い悟りへと人を導く。
 
 翌1744年、売茶翁は相国寺の一塔頭・林光院に移り住む。おそらく相国寺の大典顕常のはたらきかけもあったのだろう。大典顕常と売茶翁との年齢差は44歳、むろん売茶翁が年上である。だが深い親交は年齢差をものともしない。
売茶翁は東福寺、三十三間堂、方広寺、高台寺でも茶を出した。特に東福寺の通天橋は売茶翁のお気に入りであったようで、「売茶翁偈語」におさめられた百首ほどの歌のうち、十二首は紅葉の通天橋周辺で詠まれている。そして売茶翁逝去の1ヶ月後に出版された「売茶翁偈語」(1763)の書名に続く頁には若冲が描いた売茶翁の肖像版画が載っている。
 
 京都在住の文人らとの交流については、文人画家の彭城百川(さかきひゃくせん 1697−1752)、池大雅(1723−76)もしくは伊藤若冲(1716−1800)などがあげられるが、いずれも売茶翁の影響を受けた人々である。若冲は相国寺の大典顕常をつうじて知遇を得る。
2001年のテレビ番組でも言及されていたが、若冲と命名したのは大典である。若冲、すなわち、冲(むな)しきが若(ごと)くにしてというのは「老子」道徳経第四十五篇のことばで、禅の居士につける号。京都錦小路の青物問屋「枡屋」の主・伊藤源左衛門に与えたのだ。若冲とは空無の意。
 
 1760年師走、86歳をむかえた売茶翁は若冲の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」=三十幅の花鳥図で相国寺に奉納された」=に、「丹青活手妙通神」を献辞する。「若冲の見事な技は神に通じる」という一行がどれほど若冲の胸をあつくしただろうか。若冲の墓は相国寺墓地の足利義政と藤原定家の隣にならんでいる。
 
 相国寺の次ぎに庵をいとなんだのは聖護院村であった。平安期、とりわけ白河天皇の御代には法勝寺ほかいわゆる六勝寺として有名な地域だったが、すでに往時の活気は衰退していた。このころ売茶翁は80歳をすぎ、身体のそこかしこに不具合が起きていたと思われる。おそらく屋外の茶売りもままならず、しかし、聖護院村で茶店を開いていたかもしれず、修験道で名高い聖護院の隣に売茶翁の庵はあったという。聖護院の伽藍は1676年に再建されていた。
 
 「このあたりはとても住みやすい。私の友は松の木々の音、客は竹の影。暇なときは外出。寓居の額に独歩と書いた」云々。
その庵こそ現在の春日通り(黒谷と聖護院の間)を北に入った地点にあり、昭和45年に至るまで実在した家なのだ。
売茶翁の生涯に半生を捧げ、膨大な資料を読み解き、ついにまとめあげた著者ノーマン・ワデルの功績は途轍もなく大きく、著書の背後にある著者および登場人物の魂を訳した樋口章信氏の尽力に謝意を表したい。
 
 末尾に、かつて吉田山の西に建っていた新長谷寺で70代の売茶翁が詠んだ詩の一部を記す。十一面観音を本尊とした新長谷寺は参詣者も多く、開基は平安期の藤原山蔭(九条家の祖)であるというが、明治初期の廃仏毀釈の犠牲となって真如堂に移築された。
 
 「秋の風をうけ、さそわれて鴨川の東に来た。ひとりかついできた竹枠の炉で、紅葉した落葉を焼いて茶を煮る。嶺上から吹きおろす松風の音が炉のなかに入り、」
 
                      (了)
 
 
 
                    カバー図版の売茶翁像は伊藤若冲筆


Past Index Future