2016.10.31 (Mon)   売茶翁の生涯(1)(ノーマン・ワデル著 樋口章信訳 思文閣出版)
 
 あれは2001年だったか、NHKのテレビ番組「若冲」をみたのは。その番組はドラマなのだが、随所にドキュメンタリーも入っており、放送時間は約2時間。しかし最初からみたのではなく、15分ほど経過してみたと記憶している。関西出身の、ふだんから演技を感じさせない演じ方をするのだが、特別うまいというわけでも、印象に残るというわけでもない俳優が若冲をやっていた。
 
 しかし番組をみていて目を釘付けにされたのは若冲ではなく、若冲が10数枚も画像を描いたその人売茶翁である。とにかくうまかった。売茶翁の名を初めて知ったのに、あたかもそこに売茶翁がいるかのように生々しく、神々しかった。内藤武敏である。彼が演じていなければ売茶翁に惹かれることも、それから15年後、本書にめぐりあうこともなかったろう。
売茶翁に関する文献はあるのか、探そうとしたけれど途中でやめた。そして歳月の流れとともに売茶翁の名は記憶から遠ざかっていった。
 
 ところが2016年4月下旬、番組名をみたとき同じ番組かどうか定かではなかったので調べたら、まぎれもなく2001年の再放送であるとわかった。ストーリーも出演者もほとんど思い出せないのに、売茶翁の内藤武敏だけはおぼえていた。ときまさに若冲ブームの真っ只中である。
 
 再放送をみて、長きにわたり怠けていた文献探しを再開する。
2008年に「The Old Tea Seller:Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto」というタイトルの書が刊行されており、著者はノーマン・ワデル。原書講読のわずらわしさを知る者として腰が引けていた矢先の7月20日ごろ、恵みの雨さながらに本書が舞い降りてきた。特筆すべきはタイミングの良さである。ところが、好事魔多しのご多分に漏れず私事に追われて本読みどころではなかったものの、3ヶ月後ようやく入手し読みはじめた。
 
 売茶翁は1675年5月、肥前国の城下町蓮池(佐賀藩の支藩)で柴山家の三男として生まれ、幼名を菊泉といった。父柴山常名は佐賀蓮池の初代藩主鍋島直澄(1616−1669)の御典医として仕えたという。常名は漢文、詩歌のほかに茶の湯、香道、書道の素養があり、幼少の菊泉が父の影響を受けたことは明らかである。
「売茶翁伝」(著者は翁の友で相国寺の僧・大典禅師)には幼少時の売茶翁の秀でた才能についての記述もみられる。上記の番組で大典禅師役は山本学だった。大典禅師=大典顕常は若冲の支援者であり、相国寺の襖絵を若冲に描かせている。「売茶翁伝」は翁の生涯を記した資料。
 
 売茶翁に関する研究がはじまったのは昭和3年(1928年)、福山朝丸による「売茶翁年譜」の出版であり、1980年代に谷村為海が福山氏の年譜に新資料を加えた論文を発表、翁の研究に進展をもたらした。ノーマン・ワデルは彼らの業績なしに自著の出版は実現しなかっただろうと記している。
さて、17世紀半ばの肥前には後に日本に黄檗宗を広め、黄檗山萬福寺の宗祖となった隠元禅師(1592−1673)は鍋島藩初代藩主・鍋島勝茂(1580−1657)の支援のもと、徳川家綱の帰依により萬福寺建立の許可を得る。隠元に帰依したのは後水尾天皇、皇族、大名、商人など多岐にわたる インゲン豆は隠元が中国からもたらしたとされている。
 
 売茶翁11歳のとき(1685)、黄檗宗の末寺・龍津寺(りゅうしんじ=1683年建立)において得度、得度名は月海元昭。1686年秋、翁は龍津寺住職・化霖(けりん)に伴われ萬福寺へ旅立つ。化霖の還暦祝いの茶会に出席するためである。栴檀は双葉より芳し、萬福寺の修行僧にまじって生活するには若年すぎたが、経典読誦を許され、萬福寺住職・独湛は彼を方丈に招き偈頌(げじゅ=仏の教えや徳を韻文形式で讃える)をあたえている。
 
 月海は萬福寺滞在中、宇治と洛中を往復する。洛中洛外の寺院と名所見学が主たる目的であったが、特に惹かれたのが栂尾高山寺だと著者は推測する。周知のとおり高山寺の実質的開基は鎌倉期の明恵であり、栄西から茶の種をもらいうけ栂尾に植える。茶の木は成長し、茶葉が収穫され、それによって喫茶の風習がはじまる。
22歳になったおり、月海はふたたび高山寺を訪れ、29歳のときにも高山寺参詣をはたしている。その後の記録によると、1748年売茶翁が73歳になったころ高山寺の密弁に依頼され、茶史における高山寺の役割を説明する書物を記すこととなる。わずか7頁ほどであったが、それから7年後に高山寺から出版された。「梅山種茶譜略」である(梅山は栂尾のこと)。
 
 「梅山種茶譜略」の記述を一部紹介すると、「話、武夷山に及ぶ。山川秀麗にして茶樹繁茂すと。その説はなはだ詳らかなり。その言を追憶するに、栂尾は大小高低異なりといえども、すこぶる武夷の風致に髣髴たり」。
 
 売茶翁がその名のごとく茶を売って暮らすようになったのは数え年60歳のころ、鴨川近辺に茶店「通仙亭」を営んだのが最初である。その後、売茶翁は京都のいたるところで茶を売ったという。茶道具を背負い長距離を歩くのは、年齢的にかなりの労働とも思える。が、糺の森や相国寺周辺、吉田山、あるいは当時から名所として名高い嵐山へも茶を売りに出向いたことが知られている。
 
 ノーマン・ワデル著「売茶翁の生涯」を読むと、翁の洛中洛外での過ぎ来しかたはあたかも京都観光案内の手引きのごとしで、当時は有名であっても現存しない寺院のことまでつぶさにわかる。売茶翁はただ茶を売るだけではない。「ただのみも勝手、ただよりはまけもうさず」という商売ぬきの喫茶である。
この点について訳者の樋口章信氏は、売茶翁の喫茶は職業的営利活動にあらず、「自由に仏教のお話を聞いていきなさいという質をもっていて、それは非所有の精神に由来する」。そしてさらに、「売茶翁の生きざまと言葉は現代の人々の魂に瑞々しさと清々しさをあたえてくれる。この訳書を携え、売茶翁が意識していたことを想像しながら京都のあちこち散策してみたいものである」と記している。まさに。
  
  内藤武敏は売茶翁を演じるにあたり、翁の人生を綿密に調べたにちがいない。学者や僧侶の話を聞いたかもしれない。そして売茶翁を理解し、人物像をつかまえた。でなければ、どうしてあのように売茶翁を演じることができよう。 もはやそれは演技ではない、内藤武敏晩年に売茶翁と出会うといえばよいのだろうか、見事だった。   (未完)

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