2016.10.29 (Sat)   世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ(大槻文蔵監修 大阪大学出版会)
 
 世阿弥と能についての対談&講演集である本書は、2013年〜2015年にかけて「大槻能楽堂」でおこなわれた講演、対談を一冊にまとめている。1994年から12年間「大槻能楽堂・友の会」に所属し、月一回の自主公演能と不定期の特別講演に足繁く通った経験をもつ者として読まずにはいられない本である。自主公演能にもみるべきものは多かったが、おおむね月一回の「能の魅力を探る」シリーズも毎回多彩なゲストによる講演があって見逃せなかった。
 
 能には一度みて理解しやすいものとそうでないものとがある。どこか腑に落ちないと思ったものをそのままにし、同じ能を再度みてなんとなくわかるということもあるが、同じ曲がそうは度々演じられるはずもなく、そういうとき、専門家の解説があればと思うわれわれに対して「能の魅力を探る」シリーズが役に立った。
特にわかりやすかったのは表章、中西進、渡辺保、三宅晶子の諸氏で、なかでも渡辺保氏はどちらかというと歌舞伎のほうが上手なはずで、大槻能楽堂で氏の講演はそれが最初で最後(「友の会」所属期間中)だったが、あんなに楽しくわかりやすい話は初めてだった。
 
 12年間の能鑑賞で学ぶべきものは多く、平家物語を本格的に読む機会を得ることができたし、謡曲百番、梁塵秘抄にも触手を伸ばし、世阿弥についても図書館では飽き足らず、よせばいいのにしこたま買い込んで始末に困っている。予備知識のつもりが深みにはまったという感じだ。
それでも結局、能楽師(能役者)はというと学生時代に初めて接して背筋がふるえた観世寿夫(1925−1978)の能であり、その構え、足の運び、さし込み、そしてあの野太く幅の広い声は記憶にはっきり残っている。そのことはすでに2004年6月14日のBook Review「心より心に伝ふる花」に書き記したので繰りかえさない。
 
 本書では鈴木忠志(早稲田小劇場を旗揚げし、Scotと改称したあと富山県利賀村を本拠地に定める)が観世寿夫との出会いに関して語っている。観世寿夫の野太い声は「この世のものとは思えない」、「地面の下から響いてくる」といい、観世寿夫との出会いにより「能の人たちがあまりにヘンな身体や声をしているから興味を抱き」、「現代社会の生活から逸脱して存在する、このヘンな身体のすばらしさを、もっと知ってもらいたいと思うようになった」、
「能という演劇ほど他の舞台芸術にもまして動物性エネルギーを放出させ魅力ある空間を創り出している」、「シテ、ワキのみならず地謡の人たちは生身のエネルギーを使って動き、声を出しています」、「非動物性エネルギーの助けを借りて他人にメッセージを伝えてはいない」という。
 
 ここまで書けば自明の理というもので、21世紀のいま、どれほど多くの非動物性エネルギーの技術力によって無数の人々が世界中にメッセージを送っているだろう、スマートフォンほかの何かを媒介として、あるいはツイッター、SNSなどを通して、他者の存在をほとんど意識することなく自分本位に好き勝手に四六時中、他者と通信・交信するのである。
鈴木忠志はいう、「どんな社会にあっても、身体をもって生きる人間の存在の問題だけを純粋に問い続けてきた演劇、そういう力を所有していた演劇だったからこそ、能は今日まで生き延びてこられたのだとみなすことができる」と。
 
 世阿弥(1363?ー1443?)が30代後半から50代後半にかけて執筆加筆したとされる「風姿花伝」第一の「年来稽古條々・五十有餘」(50歳を越すの意)に、「亡父観阿弥は至徳元年(1384)の5月19日に52歳で亡くなった。同年同月の4日、駿河国・浅間神社での奉納能のすばらしさは格別はなやかで、見物の身分職業の別なく絶賛された。
亡父は一切のムリを避け、サラリと演じることを彩りとしたのだが、その自然体のなかにある花はいそう美しくみえたのだ。最晩年であっても、根と幹がしっかりしていれば、身中の花は存在し散りはしない」(現代語訳は筆者)と記している。
 
 対談のなかで大槻文蔵は「40年くらい前に寿夫先生(観世寿夫)に花筐の稽古をしていただいた」ときのことを、「帝からの筐の花籠を置きまして、文を広げて読み、それで籠を取る時に、『お前そんな手から先に出したらダメなんだ。気持ちが花籠へいった時に手が出て、すっと籠を持たないとダメなんだよ。
新劇でも、水飲みたい時にね、手から出したらダメなんだ。気持ちが水飲みたいと思ったら自然に手が出る』ということを話されました」と語る。観世寿夫の指導は正鵠を射て、歌舞伎のハラと符号するのも興味深い。演技と感じられてしまえば失敗なのだ。
 
 世阿弥の後継者についておもしろいのは、観世太夫を継ぐ者をめぐってのトラブル。足利義教が世阿弥の実子・元雅ではなく養子・三郎元重(音阿弥)を推し、世阿弥親子を弾圧したことにより世阿弥の晩年は想定外の事態となってゆく。室町時代におこったお家騒動はかたちを変え後の世にもおこり、能楽にたずさわる人々を巻き込む。
そのほか世阿弥についての伝聞、古文書の類も堂に入り、「世阿弥は東福寺の禅僧の弟子であったようで、世阿弥が歩く時、動作に節度があってきびきびしている」とか、「禅寂の一?(いっきゃく)に供す」、すなわち笑い(一?)を提供したり、場の空気を読むことに世阿弥は長けていたような記述が残っているという。
 
 お終いに梅原猛が講演のなかで語ったことを記しておく。「伊賀の旧家に伝わる『上嶋家文書』というものがあります。この文書のなかにある系図によると、世阿弥の父観阿弥は南朝の武将・楠木正成の甥とされています。私はこの文書の記載を信じるものですが、現在の能楽界では偽書とされています。
さらに世阿弥の出自は河原者、彼は差別を受けた人たちの一人ということになります。これはデリケートな問題であり、それゆえ上嶋家文書は無視されるのです。(中略) 足利義満は観阿弥が楠木正成の甥であることを知っていたのではないかと考えます。義満は南北朝統一を最大の政治目標にしていました。楠木正成の甥でなかったとしても南朝色の強い観阿弥を手許に置いておきたかった。そういう思惑もあり、義満は世阿弥と結びついたのでしょう。」
 
 老いてますます大胆な発想を展開する梅原猛の登場を歓迎すべきかどうか、講演を聴いた人たちはさぞ喜んだことと思われる。

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