2011.10.15 (Sat)   ガンとともに生きる(ゲール・E・メーヨー著 持田鋼一郎訳 作品社)
 
 
 いったん読了し終わった書をしばらく経って読み返して感慨にふけった作品は少なく、ゲール・E・メーヨーの「ガンとともに生きる」はそうした書のひとつである。前回(2009年1月)読んだときは重苦しさから脱けきれず、名訳に感嘆しつつも書評を書く気になれなかった。再読したのはあることがきっかけで、著者と訳者の幻影が出現したかのような気分になり、そして、この書が著者の闘病記というよりむしろ色彩ゆたかな詩の断片を縫い合わせたエッセイにみえたことにもよるだろう。
 
 
 メーヨーの父はオーストラリア人であって英国人でもあったが、ハーヴァード大生命科学研究所の名誉教授であり、しかも人後に落ちない旅行好きで、メーヨーの6歳上の姉をともない、奥方と総勢4人で旅をしている。当時(1930年代前半)、不況に見舞われていた欧米において子連れの旅行者は稀少であったろう。
学校が長い休みに入る夏の間だけ渡り鳥のように飛来した両親だが、半年間ヨーロッパで過ごしたときは留鳥になり、オーストリア山間部の村に滞在、時にメーヨー12歳。イングランド・デヴォン州北部・エクスムーアでのファームステイ経験もある。山あい、谷間に咲く花の生態に精通しているのは当然、とメーヨーの声が聞こえてきそうだ。
 
 子どものころイングランドはとんでもない国だった。それというのも8歳でイングランドの寄宿舎に入れられ、父母という名の渡り鳥2羽がヨーロッパ遠征するまで姉ともども不自由な生活を余儀なくされたからで、「イギリスの寄宿学校はむかつくほど嫌な食物に似ている」と記すほどのものであった。
そうした時代もありはしたのだけれど、旅行はほかの何にもかえがたい魅力に満ちていて、パリ留学を皮切りにフランス各地、その前後にイタリア、スペイン各地を旅回り一座のごとく旅する。メーヨーの場合、初めは家族旅で、いつかしら一人旅となる。19世紀末「女の一人旅は淫らな行為だと考えられていた」という。さもありなん。だがメーヨーの旅は精神のひとり旅だった。
 
 少女のころは思いも至らなかったろうが、後にメーヨーが気づいたのは、「私と姉に配られたカードは悪くなかった。しかし、とてつもなくかきまぜられていた。カードをうまく選り分けることができなかったのは、運命だった」。かきまぜる前に悪いカードをひいてしまい、運悪くカード交換できなかった者としてはなんとも云いようがないのであるが。
 
 メーヨーが青春を過ごしたころ、ヨーロッパ全土はかつてない激動の時代であり、だからこそ、ほかの時代には望むべくもない濃縮果樹を育成する時間を持ちえたし、大地はメーヨーの才能に豊かな恵みをもたらしたのだ。
争乱のさなかにあっても、男たちは「貧しくてもごく自然な威厳を備え」、「世界のどこでもお目にかかる利益追求の話はまったく話題にしなかった」。スペインの「広大無辺な大地は人間の欲求を小さくさせる」としても、メーヨーの生き方に魅せられるのは、得体の知れぬものに対して堂々としていたからである。苦悩の多くは寝台の下に隠した。
 
 初めてガンにかかったのは45歳。「ガンは面と向かって立ち向かうことのできる敵ではなく、背後からせまる卑劣漢だ」と記している。辛いからこそ楽しかったときへの感懐はひとしおである。悪魔に闖入された女性の戦うすがたは壮絶をきわめるだろう。が、メーヨーは淡雪ではない、顔の一部を切除せざるをえなくとも、かぐわしい匂いのする花であり、谷間をわたる風なのだ。
「勇気とは何か。勇気がとりたてて意味するものはない。人は起こることに面と向かわねばならない。それ以外に何ができよう」
 
 メーヨーの才智あふれる文章、訳者の巧みな翻訳は日本の女性エッセイストのいわば指標というべきもので、ものを書く人たちの精神的指針となっているのではなかろうか。現下の顔ぶれを鑑みると追いつくことすらかなわない。いかなる一文が指標になっているかというと、文章のほとんどすべてといっても差し支えない。メーヨーの文章は雲の絶え間から射す月明かりだ。寂寞たる荒れ野にすくむ旅人を照らす月の光のようになつかしい。
 
 「夢の終わり」にも登場する古城の主ヴィエンヴェニーダ伯爵との夫婦生活を記した、「(ジュラ地方にある城はパリから車で7時間。午前2時到着。)寝室には農夫のミッシェルが焚き付けた丸太が燃えている。けれども、何世紀もの間、厚い石の壁にたまった、大昔からの寒さが体の芯まで染み透って来る。」という箇所。寒々しさのなかに感懐が横たわっている。過剰なるものがあたたかさを妨げる都会には見いだしえない人間の香りが残っている。
 
 こうした体験は著者独自のものであり、さらに著者は大混乱ヨーロッパを経験していることもあって、本邦の女性エッセイストに文章の類似品は書けても経験の類似は至難、知性の母は経験であってみれば、経験は珠玉にまさるのだ。
「スペインのバスク地方の小さな漁村出身のこの男は、最大の婦人服デザイナーになった人物だが、私のデザインが気に入った」と記された男、バレンシアガである。「無一文で出発し、モディリアニと一緒に自分の絵を束にして売ったが、私が会ったときまでに金持になっていた。(中略) 偽善や不親切のどんな兆候にも見せる彼の激しい怒り」を示した男はキスリングだ。本人はうまくやれず自死したのに、「まず続けなさい」といったのはヘミングウェイ。
 
 歴史に出現する著名人を取り上げる書は少なくない。ただメーヨーの場合、彼らの特長、人品骨柄を数行で描ききる。カルティエ・ブレッソン、ロバート・キャパなど写真家についても同様。「50年代から60年代にかけてのパリが心をとかすような魅力があった」時代にブレッソンのゴーストライターを務めたこともあるという。その焼き直しが「こころの眼」(いちおうブレッソン著)でなければよいが。写真家の感性と文章力は必ずしも両立しない。
 
 縁あって英国になじんだ者には、「サセックスに戻ると、アジサイが雫をしたたらせ、草が九月の雨でびしょ濡れだった」の一文だけで情景が浮かんでくる。いや、英国になじまなくても浮かぶだろう。
メーヨーは果実として生きたのではない。幹も枝も葉も付き、収穫時には実のなる果樹として生きたのだ。心身ともにずたずたになってなお失わなかったのは誇りと熱情である。それなくしてどう生きられよう。訳者の想像力は訳出を超えて著者と一致する。「ガンとともに生きる」の訳者は著者と長い日々を共にしたことがあるかのようだ。それはあたかも著者と訳者の魂が響き合い、ふれ合ったかのごとし。
 
 「秋になると、セイヨウイチイの生垣にかかったクモの巣が、キラキラ光る雨の滴りを宿し、黄色くなった実の発する白くモヤのかかった小さな花の束が、生垣を包んだ。」
何気ない文章にも細やかな心情が調和のとれた旋律のごとく編み出されている。メーヨーの三部作(夢の終わり、ガンとともに生きる、生きてこそ輝く)は持田鋼一郎会心の訳書である。
 
 
この書の原題 Living with Beelzebub について訳者は「あとがき」に記している。私の拙い知識では、ベルゼバブがミルトン作「失楽園」に登場する堕落天使の一人(サターンに次ぐ能力を持つ)としか記憶されていなかったが、旧約聖書や新約聖書の言葉ほかを引用した訳者の解説によれば悪鬼というのが妥当で、ガンの隠喩というべきものである。ガンに罹った者が人知れず壮絶な戦いを余儀なくされる心身の状態を含めて、悪魔の総称がベルゼバブと解される


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