2004.06.14 (Mon)   心より心に伝ふる花(観世寿夫著 白水社)
 
 著者・観世寿夫(1925〜1978)は、観世三兄弟にあってだれよりも将来を嘱望された能楽師だった。七世観世銕之丞の長男として生まれ、祖父観世華雪に師事、早くから天分を認められ、戦後能楽界の旗手としてその存在を世にしろしめた。
 
 観世寿夫の能はつねに英気と気品にあふれ、粛然として明確、演出意図の透徹した能を演じ、古典の正統的継承と現代への再生を志した。あれほどのたかぶりを覚えた能楽師はほかにいない。
しかし、これから円熟の域に入ろうかという矢先、冥界から無情の迎えが観世寿夫を攫(さら)っていった。惜しんでもなお惜しみきれない突然の死というほかことばもなく、爾来十六年間、私は能楽堂から遠ざかった。
 
 ふたたび私が能にもどったのは平成六年八月二十七日、大槻能楽堂での「樒(しきみ)天狗」、「松山天狗」の復曲能がきっかけだった。「松山天狗」は、保元の乱後に讃岐国に配流となり、無念の生涯を閉じた崇徳上皇の霊の廟に詣でた西行と、崇徳上皇の御霊との出会いを描く。「よしや君 むかしの玉の床とても かからん後はなににかはせむ」の西行の歌は崇徳上皇の霊にむかって詠まれた。(詳細は「Short time」の「よしや君」をご覧下さい)
 
 観世寿夫亡き後の能楽界に関しては、あえて知ろうとはしなかったし、知ってどうなるものでもなかった。ただ、七世観世銕之丞の三男で弟の八世観世銕之丞(1931〜2000)、観世寿夫の高弟・山本順之、喜多流の友枝昭世などの台頭と活躍を仄聞するのみであった。
 
 能から遠ざかること十有余年、私の身辺にもさまざまな椿事、変化があった。とりわけ平成三年から六年までの間に私の半生を決定づけるかのような出来事が勃発した。極めつきは平成六年秋だったが、その頃と時を同じくするかのように私は能楽堂にかよった。
 
 観世寿夫著作集を読もうと思ったことも何度かあるが、読んで心の空白をうめられるはずもなく、かえって空しさをかこち、虚ろな気分を増幅する結果となることが歴然としている以上、足も目もそこに向かうことを拒絶した。能との関係がそんな時間の累積であったにもかかわらず、十六年ぶりの能はことさら新鮮だった。
 
 新鮮ではあったが、観世寿夫の能は、特に夢幻能は記憶の底に依然として棲んでいて、十六年の時間の経過があったにもかかわらず、私のなかでもはや消えることのない風景となっていたのである。やはり読まねばなるまい、私自身の未練と訣別するためにではなく、ふたたび観世寿夫を知るために。
 
 能を知らぬ人、または能初心者のために「夢幻能」の魅力を観世寿夫はこう記している。
 
 『なんといっても能の役者としてやりがいのあるのは夢幻能をおいてはないように思う。(中略)現在能というのは、能以外の演劇と共通した作られかたをしているとも言えるものである。これに対して夢幻能は、ワキ役である僧や旅人の前に、所の里人が来あわせて、その土地や風物にゆかりのある物語をするという設定でたいていは始まる。
その物語が進行するにしたがって舞台は次第に物語の世界に引き込まれ、語り終わった時点において里人―大方はシテの役―は物語の主人公と一体化してしまい、私はその霊であると主人公の名をほのめかして消え失せる。そこまでが前段で、なおも旅人が物語の主を想って待っていると、再びシテが、今度は物語の主人公の在りし日の姿で現れ、昔の有様を仕方ばなしに見せたり舞を舞ったりして、いつのまにかまた、闇の世界へと消えてゆく。』
 
 『この手法は、語り物の持つ呪術性―語るとは騙るに通ずるといわれるが―を巧みに利用することで、現実的な時間や空間を超越させ、曲の本意を的確に観る人々の脳裡に印象づけることを可能にする。
一昔前までは、夢幻能は非演劇的であるとする意見が多かったのだが、近年は劇性というものの考え方が変化して、表面的な葛藤より、いかに人間をえがくかということのほうが本質的に劇的であるという考え方が、能に限らず広く言われるようになってきたために、一部の曲を除けば、夢幻能のほうがより劇的だと考えられるようになっている。』
 
 そして能の基本である「構え」、「運び」、「サシ込ミ開キ」を舞う観世寿夫の身体は、前へと無限にひろがる力に引かれ、うしろへとまた無限にひろがる力に引かれている。その力のせめぎあう均衡のうちに身体は立っている。土屋恵一郎はそのあたりの身体のうごきを次のように述べている。=【土屋恵一郎「能】(岩波書店)より=
 
 「正面へとからだを切って返すために、脇正面にむけて運んできた足をぐっと踏みとどめた瞬間、その姿は見えない時間の障壁にからだを打ちつけて光のうちに砕けていくようであった。足の運びの確実さ、踏みとどまり身を切って返す時の、光の束を切って落とすように見える、力のはっきりした移行。完全であることが、これ程に率直に示される瞬間はなかった。」
 
 「序破急」や「離見の見」についての観世寿夫の考えは充分すぎるほどの説得力を持つが、それは割愛する。本稿は実は、観世寿夫がいかに不世出の能楽師であったかに視点を合わせるといった趣旨で書きはじめられたからで、それを云うには、拙文をくだくだしく書き連ねるより有効な方法をつかって、すなわち、観世寿夫の後半生をもっともよく知る人の文章を丸ごと列挙するにしくはない。
その文章を読むと私たちは、不世出が特殊なものではなく、ある種の普遍性を持つことに思い至るのである。
 
 『 執筆当時のことなど ─あとがきに代えて─   関 弘子
 
 彼は決して過去をふり返るたちではありませんでした。今日以前の自分を自分の中に温存するようなことは、およそ彼のとるところではありませんでした。只今現在の課題を見据え、駄目かな、駄目かな、と自問しながら、必ず駄目でない方向へ自分独りで歩く人でした。自分に課すべき命題のあるとき、だから彼は幸福でした。でもそれは本当に文字通り命を削る作業だったのです。
 
      (中略)
 
 「観世さんの意地っぱり」は看護婦さんたちの間でも既に評判でした。泣き言も文句も言わず、指定されたことはきちんと守るが、無理をするなと言っても断然無理をして、たいていのことは自分でしようとする。そういう患者でした。
能を舞うこと、それは寿夫の、生きている証でした。どんな思いで彼は自分の体を感じたのだったでしょうか。能がもう舞えない、と。日々の苦しさの積み重ねとともにだんだんそれを自分のなかに確かめてしまわなければならなかった寿夫─。
 
 かつて舞った「卒塔婆小町」のテープをかけて自分の声を聞きながら、寿夫の眼尻に一すじ、光るものが流れているのを見てしまったとき、それは十二月七日(筆者註:観世寿夫は1978年12月7日永眠した)のあの瞬間にも増して私には耐えられないことでした。
あの時の寿夫の胸中を思えば、毎日の病院通いの車の中で、ついあふれる涙を慌てて蔵(しま)いこむ努力をくり返さねばならなかった私の悲しみなど、なにほどのものでしょうか。無念、ということを言うなら、これこそが寿夫の無念だったでしょう。
 
 能一番を舞う前日、面や装束を選んでいる寿夫は、世にこんな幸福な顔があるかと思うほど楽しそうに真剣でした。練りに練って臨む明日の舞台の、そのイメージを最も華麗に描けるひとときだったのでしょうか。
 
 でも、十年ほど前はちがいました。前夜からキリキリと物も言わず、よく眠れもしないのです。古典の能なんかやっていてもしようがないとは思わないか、能をやるということは本当に現代に必要なことか、と、まるで私を問いつめるかのように言う日が続きました。苦渋に満ちて、答えを探して‥
マンション住まいの狭い我が家の床で、ふっと立ち上がってはカマエ、足を滑らし、そんな状態がどのくらい続いたでしょうか。模索と試行に身を切り刻み、血を噴いて、彼は新たな坂をまた一つ越したのでしょう。いつか、古典への疑いも、ハコビの不安も、口にしなくなっていました。
 
 何の能だったか彼の舞台で、ふと気がついた私が、何か、どこかが変わったんだなあ、と問いかけたとき、まるで喧嘩に勝った子供のような顔で寿夫は、ン、カマエを変えたんダ、と言ったのでした。
 
 十一月。もう、日に日に体が弱るのが、はたの目にもわかりました。(中略) 彼の気力と精神力は強靱でした。時にはあまりの苦痛に、自暴自棄めいたことも口走りますが、また時には、「自分では舞えなくても若い人の稽古は出来るよね」と呟き、見舞ってくださる方たちと元気に能の話をします。
あの頃の寿夫は、私たちの勇気づけの言葉をどこまで信じ、何と聞いていたのだったでしょうか。七十歳を過ぎて佐渡へ流され、能など決して舞えなくなってなお、烈々と能の道を説いた世阿弥のことを、ふと思い浮かべてもいたのでしょうか。
 
 五十三年と二十五日。世阿弥の八十歳にくらべれば、あまりに短い年月です。けれど、実はとてもしあわせな生涯だったかもしれません。一つ一つの仕事に、本当に命をかけられる天職を持ち、迷いも悩みも逃げることなく生きられた観世寿夫は。 』
 
 いうまでもなく関弘子は夫人・観世弘子であり、女優・関弘子である。このあとがきがいまもたえなる音楽を奏でているのは、関弘子が観世寿夫をもっとも深く知りうる立場にあったことと、彼女の文章が夢幻能のおもむきを持っているからではないだろうか。
彼女のシテである彼は在りし日のすがたであらわれ、いつの間にか闇へ消えてゆく。そしてまた夢幻能は時間と空間を超越し、表面的な葛藤より、いかに人間を描くかということのほうが本質的に劇的であるとすれば。

Past Index Future